間章・第1話 はみだし -Outer's Ruler-

・1・


「うっし。これでよしっと。ガイ、そっちはどうだ?」

「問題ない。完璧だ」


 海に囲まれた人工の孤島・イースト・フロート。その中で開発が止まっている区画。通称「はみだし」。

 煌びやかな科学の街の中で唯一の未開発地域。意図してかしてないのか、海上都市の負の部分はこの場所に収束する。そしてそこにいる人間の性質もまた同様だ。


 そんな場所のど真ん中に立つのは皆城かいじょうタカオとガイ。二人は満足げに目の前のあるものを眺めている。普段は静かなこの場所で、二人の存在はかなり目立つ。

 二人の目の前にあるのは二階建ての住居だ。

「名前は何にすっかな?」

「タカオが決めていい。こういうのは苦手だ」


 決めるのは店の名前だ。


 雨の日にガイと出会っておよそ一ヶ月が経過した。がきっかけで学園から存在を抹消され、寮にさえ戻れないタカオは初めのうちはその場しのぎで都内のカプセルホテルなどで過ごしていた。しかし何故だか一銭も持っていないガイを放っておくこともできず、思い切って貯金を使って格安物件を購入したのだ。

(学園生徒全員に定期的に支給される奨学金。まだ生きててほんと良かった……)

 ろくに使いもせずに貯めていた過去の自分に最大級の感謝をするタカオ。

 ちなみにその格安物件というのが、


「まさかまたここの戻ってくることになるとは……いや確かにいわくつき物件並にすっげぇ安かったけど」


 ガイと初めて出会った場所、はみだし。その一角にある古びた住居だった。

「大丈夫なのか?」

「大丈夫だって。死人は出てないらしいぜここ。なら悪霊とかはないだろ」

「いや、そういう意味では……まぁいい」

 ガイは諦めたようにそう言った。

 明るく振舞っているタカオだが、ガイはその表情にどこか陰りを感じていた。その行動もどこか投げやりな部分を感じる。いくら自分も住むとはいえ、普通は見ず知らずの男のためにここまでしようとは思わない。ガイ自身、何も差し出すことはできないのにだ。

 タカオの考えがわからない。まるで自分の進むべき方向性を見失っているような。そんな気さえした。

(まぁ、俺がわかるわけないか……)


 この街で学生が働くためにはどこかの学園に所属していなければならない。そうしなければ雇ってもらえないのだ。タカオは元とはいえ海上都市最高峰の学園の生徒だ。どこか適当な学園の編入試験をパスすることくらい造作もない。

 それをすぐにしなかったのはガイのためだ。

 見た目は大学生くらいのガイだが、何故か学生として登録されていなかった。ただここはみだしにいる人間ならそれは珍しくもない。現に今、一時的とはいえタカオも同じ境遇にいるのだから。

 いくら赤の他人でも、タカオはなんとなく彼を放ってはおけなかったのだ。


 そうなると目下最大の問題は住居だ。


 いつまでもカプセルホテルで寝泊まりするわけにもいかない。それではただただ金を浪費していくだけだ。

 そこで一大決心で購入したのが、広さにして十坪のこの土地だ。普通ならありえないが、なんと学生でも手が届く驚き値段だったのだ。

 学園に所属していなければ雇ってもらえない。しかし逆に言えば雇ってもらう必要のない職業であれば学園に所属する必要がないということだ。

 つまりは自営業だ。

 都内と同じく学生をターゲットに置いた商品ゆえか、最低限の生活用品は備え付けられている。

「とりあえず夜をメインに店を出す。ここ意外と人いるしな、夜は特に」

 狭くはなるが二階を生活スペースにすれば、一階を店に使えるはずだ。

「コーヒーを出すのか?」

「コーヒーしか出せないな」

 だが少なくとも今は、だ。

 だからこれからのことに備えて準備もしていく必要がある。

「お前にはこれから料理やら何やらを一通り覚えてもらう」

 料理に関してはネットから情報を集め精査すればある程度の域には達することはできる。

 タカオの口から出るあれこれをガイは無言でメモを取り出して頷く。あまりに真面目に頷くものだから、タカオは思わず吹き出してしまう。

「……何がおかしい?」

「いや、クク……ちょっと知り合いに似てたから……悪い」

「……気持ち悪いぞ?」

「んだとコラァ!!」


 平均的な大衆食堂やカフェに比べれば少々小さいかもしれないが、兎にも角にも資金を調達することが最優先だ。

 幸いここは学生都市。

 学生が商売をすることに関しては基本寛容だ。それにこんな場所ではライバル店だっていない。人もいる。

「これは意外に上手くいくのではなかろうか……」

 経営が軌道に乗ったら、タカオはどこか適当なところの編入試験を受けるつもりでいた。

 編入試験は四カ月ごとに各学園が実施する。外から来る者を対象とするのはもちろん、都市内での学生の転入も珍しくはないからだ。

 次の編入試験の時期まであと約一カ月。

「んじゃ、しばらくはここで頑張りますか」

 ここから新たな生活が始まる。


・2・


 とりあえずカフェとして店を始めて一週間が経った。

 当初の予想通り、営業許可書はトントン拍子で獲得できた。何故こんな場所で? と首を傾げられたが、それはお役所仕事。最低限の要件を満たせば問題ないのである。


 だが——


「……正直ナメてたわ」


 人っ子一人来ない。


 実際に店を出す経験こそないものの、経営学を始めとしたリスクヘッジとマネジメントは頭にたたきこんだつもりだ。それこそ下手な飲食店よりも完璧にシュミレーションができていた。

 だが、タカオは肝心なことを忘れていた。

 それはこの場所がはみだしだということ。

 夜になっていくら人が見え始めても、ここにいる人間の瞳には全く生気を感じない。治安も悪い。他区画から人が来ることもない。この場所だけが完全に閉じた世界だった。

 目に見えるもの全てが敵。そういったヒリヒリとした雰囲気がひしひしと伝わってくる。

「やっぱ現実はそんなに甘くないってことかねぇ……そういえば初めてここに来た時も、誰も家に入れてくれなかったっけ……タスケアイ、トテモダイジ……」

 早くもカフェ作戦失敗の予感を感じたタカオだった。


 そんな頭を悩ませながらコーヒー豆の買い出しに行っていたタカオは目の前が騒がしいことに気づいた。

「なんだ……」

 何やら人だかりができている。


「おいおいリク君よぉ。今月の支払いまだ済んでねぇぞ?」

「す、すみません久我山さん! でも——」

「でももクソもねぇ! 出すんだよ! 他の奴らはちゃんと払ってるのにお前だけ特別扱いできるわけねぇだろう? それとも契約不履行ってことでいいのか? あぁ!!」

「ヒ……ッ!」

 人の輪の中心で大男が、リクという少年を怒鳴りつけていた。

 大学生くらいだろうか? アメフトでもやっていそうなガッシリとした体型。指輪やネックレスなど自分を誇示するような派手なアクセサリ。一目で金を持っていそうだとわかる風貌だが、それだけにこんな場所にいる理由がわからない。

 


「……あいつは」

 

 だがすぐに人波で見えなくなってしまった。

(……まぁ、見ちまった以上は放ってはおけないよなぁ)


 タカオが一歩足を踏み出すと、背後から誰かが肩を掴んだ。


「ん?」

 振り返るとそこにいたのはタカオと同い年くらいのコートを着た少女だった。

「……アンタ、悪いことは言わないからやめときな?」

 無造作に伸びた前髪で顔が隠れてしまっているが、その合間から彼女のギラギラとした瞳がタカオを見ていた。

 タカオは動じることなく答えた。

「何で?」

「あれは自業自得。ここでのルールを守れなかったアイツが悪い」

 少女はそう言い切った。

「ルール?」


 と、そこで向こうで何か進展があったようだ。

「よし、なら決定だ。契約不履行。罰の時間だ」

「そんな……」

 久我山という男はまるでそれが楽しみだとでもいうような邪悪な笑みを浮かべている。

「待ってください! 私のせいなんです。だから罰なら私が……」

 いきなり近くにいた少女がリクの前に現れた。少女は嘆願する。

「アヤノ、いいんだ!」

 リクはアヤノを庇うように前に出た。

「なんだ? テメェのその貧相な体じゃあ一銭にもなんねぇよ!」

 久我山はリクを押しのけて、アヤノの胸ぐらを掴んだ。

「うっ……」

「アヤノ!!」


「あぁーあ……知らないふりしとけばよかったのに……って、あれッ!?」

 タカオを引き止めた少女は目の前にいたタカオの姿がどこにもないことに気がついた。



「ちょっとごめんよッ!」



「うわっ!?」

「キャッ!」

 ドンっと久我山とアヤノの間を割って入るようにタカオが通った。タカオはアヤノを見事にキャッチする。

「テメェ……なんのつもりだ?」

 アヤノを手放した久我山がタカオをギロッと睨む。

「あぁ? 俺はただ道を開けてもらおうと思っただけだけど? 悪い悪い、買い物しすぎちゃってさ~、バランス崩しちまった」

 タカオは両手一杯の買い物袋を久我山に見せる。

「おい……それだけじゃねぇだろ? 言えよ。何か文句があるんだろ? 特別に聞いてやる」

 獲物を見定めるような目。

 久我山のドスのきいた言葉にタカオは怯むことなく答える。


「……まぁ、何ていうか。女の子の胸ぐら掴んで怒鳴り散らすなんて、ちょっとかっこ悪いんじゃないですか? 


 そう、この男には見覚えがある。

 久我山灰司くがやまはいじ。確かタカオのいた玉選館学園の大学部の生徒だ。学園全体でもその名はかなり通っていた。しかも悪い意味でだ。

 久我山は生徒ではあるもののかなりの問題児で、学園にもほとんど顔を出さない。何やら独自のネットワークを用いてイースト・フロート内外問わず幅広い商売をしているとタカオは噂で聞いたことがあった。

 一部では都市の開発機密の横流しをしているのではないかという黒い噂さえある。それでも捕まらないのは、見た目からは想像がつかない証拠を一切残さない緻密な根回しと、都市の深い部分に繋がっているからだとか。


「テメェ玉選の学生か? 何でこんなところに? ……まぁいい。なかなかいい度胸じゃねぇか小僧」

「そりゃどうも」

 タカオは一切物怖じしない。実質的な腕っぷしの強さよりも、こういう場合はここで少しでも怯んだ方が不利となる。

(さぁ、どう出てくるか……)

 それでも喧嘩に自信がないわけではない。それなりの心得はあるつもりだ。ただ、一番望む展開はここでこのまましらけてくれることだ。問題を大きくすれば、せっかく始めた店への影響も出るかもしれない。


「あぁ、しらけちまった。ここは勇気ある後輩に免じて許してやるよ。リク。一週間だけ時間をやる。それまでに金を用意しておけ」

 よし、上手くいった。とタカオは安心する。


「あぁあと、その女はな?」

「えっ……」


「……隷属の首輪スレイヴ・サイン


 久我山が低い声で呟く。その瞬間、タカオは信じられないものを見た。

 久我山の左目が赤く光り、手のひらから錆色の鎖のようなものが飛び出したのだ。

「ッ!?」

 弾丸のように飛び出したその鎖はタカオの横を横切り、アヤノの首に巻きついた。

「がっ……!?」

 アヤノが苦しそうに首元に手を持っていく。

「おい!」

「喚くな。死にはしねぇよ」

 久我山の言う通り、鎖は徐々に姿が見えなくなった。それに伴いアヤノの表情から苦しみが消えていく。だがアヤノの首には赤い痣が残っていた。

「なんだ、今の……」

 説明できない超常の現象。それにタカオは覚えがあった。

 タカオから日常を奪った力。

 同じだ。


「おい、今の——」

「一週間だ。それじゃあな」

 そう言い残して、久我山はその場から去っていった。



「……あの馬鹿」

 先ほどタカオを引き留めた少女は、額に手を当てていた。

 この場所には珍しい、明るい雰囲気の少年。まるで真っ白な布の上にペンキを一滴落としたかのように悪目立ちしていた。

 何かの間違いで迷い込んだのだろうと思ってせっかく善意で止めてやったのに、無視して突っ走ってしまった。

「まぁこれ以上は関わることもないか……」

 そもそもこれ以上助ける義理もない。それに——

(何で私……)

 少女はその場から去ろうとしたが、


「おい!」


「えっ?」

 背後から声をかけられ振り返ると、ものすごい勢いで両肩を掴まれた。常に近づくなオーラを醸し出している少女は、誰にも話しかけられないものだと思っていたので口から心臓が飛び出しそうな勢いで驚いた。

「!?」

 案の定肩を掴んだのはタカオだった。ジッとこっちを見ていた。

「……な、何?」

「教えてくれ」

「何を……?」

 あまりに真剣な表情に、さすがに少女は戸惑った。


「全部だ。この場所のこと、さっきの変な力も。全部」


・3・


「というわけで客を連れてきた」

「すまないタカオ。全く理解できない」

 ガイが首を傾げた。ようやく帰ってきたと思えば、タカオは女の子を連れて帰ってきたのだ。

「ちょ……ちょっと、私は客なんかじゃ——」

「喜べ。お前がウチのお客様第一号だ」

 やりとげたといわんばかりの笑顔でそう言うタカオを見て、少女はもう諦めた。

「はぁ……わかった。メニュー見せて」

 ガイは紙に書いたメニューを少女の目の前に差し出した。少女はそのお品書きを見て固まった。

「ん? どうした?」

 タカオは背後から覗きこむように聞いた。

「……アンタ、ナメてんの?」

 あまりの呆れように声の抑揚さえ消えていた。

「え?」

 少女はメニューを指差す。そこには


 ・コーヒー:1000円


 の一行だけ。

「何でコーヒーしかないのよ! しかも一杯千円って、ぼったくりもいいところじゃない!」

「仕方ねぇだろ今はそれしかないんだよ! これからバンバンメニューも増やしてくから楽しみにしてやがれお願いします!」

「二度と来るか! だいたいそれが客に対する態度かバーカ!」


 コン。


 二人が言い争いをしている中、カップの音が鳴った。その音で二人の口も止まる。

「コーヒー、できたぞ?」

「「……」」

 最近コーヒーの淹れ方を覚えたガイが満足そうにそう言った。二人はその言葉にすっかり毒気を抜かれてしまった。



 店内をコーヒーのいい匂いが充満する。少女はせっかく自分のために出されたコーヒーを無下にすることもできず、両手でカップを持ってゆっくりと飲み始めた。

「……ふぅ。普通に美味しい」

「まぁ普通の豆を使ってるからな」

 ギロッと少女がタカオを睨む。一方タカオはそれに気づいていない様子。

「ところでまだ自己紹介してなかったな。俺は皆城タカオ。こいつはガイだ」

 タカオは何の気なしに自己紹介を始めた。紹介されたガイも静かにお辞儀する。

「……外国人?」

 ガイを見て少女が尋ねる。背が高く、顔の上半分は髪で隠れていて見えないが鼻や顎がくっきりとしている。全体的に見て純粋な日本人には見えない。

 タカオは答えた。

「迷子だ」

「?」

 言っている意味がよくわからない。だがそんなことよりも、

「……(ニコニコ)」

「……な、何?」

 タカオのニコニコとした表情に思わず引き気味の少女に、ガイは付け加えた。

「君の、名前は?」

「あ、ああ……」

 合点がいったように少女は息を漏らした。


「私は……賽鐘さいがね、ミズキ」


 少女・ミズキは少し恥ずかしそうにそう名乗った。

「いい名前だ」

 ガイは口元に笑みを浮かべて頷いた。


「賽鐘、教えてくれ。あの力は何なんだ?」

 タカオの言うあの力とは、久我山が出したあの奇妙な鎖のことだろう。

「……知ってどうするの?」

「俺はあの力の正体を知らないといけない……気がするんだ」

「……」

 ミズキはジッとタカオを見る。

(……、か)

 あまりに真剣な眼差しに。いや、見ようによっては捨てられた子犬のように見えなくもないその目に、ミズキはため息を漏らす。そして自分の左腕にある銀色の腕輪を二人に見せた。


「これはルーンの腕輪。これがあの鎖の正体」


「腕輪だろこれ? 俺が見たのはもっと――」

「この腕輪を付けている人間はが使えるようになるのよ」

「魔法?」

 タカオは「冗談だろ?」とでも言うように首を傾げる。

「さっき久我山が出したあの鎖。あれがアイツの魔法。隷属の首輪スレイヴ・サイン。あれに繋がれた人間はアイツから逃げられなくなる。アイツらしいいやらしい魔法よ」

 ミズキは忌々しそうに説明した。

「魔法、か……」

 確かにそうでもないと説明できない現象ではあった。鎖を飛ばす程度なら手品の類で何とかなりそうだが、その鎖が目の前で実体を失うように消えていく様は説明のしようがない。あの鎖の痣も同様だ。

「まぁ実際見ちまったし、信じるほかないよな」

 にわかに信じがたいが、タカオには信じるしかない要素が他にもある。

(それこそも魔法としか言えないしな)


「でもそもそも何でその久我山って人はわざわざここに? そんな腕輪持って」

 ガイはミズキに聞いた。

「久我山は腕輪のブローカーよ。何も持たないここの人間には腕輪の力は喉が出るほど欲しいものなのよ。その力で自分にも何かができるかもしれないって……。久我山はその心を利用してる。アイツはここで法外な値段で腕輪を売ってるの。ここは警察の目も届きにくい実質無法地帯」

 それに加えて久我山の証拠隠滅に対する手腕の良さもあるのだろう。

「……そして腕輪の購入者はすべて久我山の魔法の影響下にある。誰も、あいつには逆らえない」

「ということは賽鐘もその腕輪を久我山から買ったのか?」

 タカオはミズキに質問した。

「ううん。私は別口で偶然手にいれたよ」

 ミズキは腕輪を服の袖にしまった。

(つまり腕輪ははみだしに限定したものではなく、何らかのルートでこの街全体に出回ってるってことか……)

 それならが持っていても不思議じゃない。


 魔法を発現させる腕輪。

 そんなものが本当にあるのだとしたら――

(……ダメだ。いまいちパッとこねぇ)

 情報が少なすぎる。それに魔法なんていう漫画の世界のような話、そう簡単に受け入れられるわけもない。


 そう、それこそもっとよく見なければ。


「……ところで、? お前も腕輪を持ってるってことは――」


「ッ!?」

 ミズキの表情が固まった。

「?」

 さっきまでの雰囲気はどこかへと消え、カップにかかる彼女の指が小刻みに震えている。

「私は……ッ!!」

 ミズキは苦しそうに急に席を立ち、店から飛び出してしまった。


「なぁ……ガイ。俺もしかして地雷踏んだ?」

「……千円」


 初めての客に食い逃げされたガイはドンヨリと落ち込んでそれどころではなかった。


・4・


「はぁ……はぁ……」

 息が切れるほど全速で走った。

 どこを走っているのか自分でもわからない。走っている間息ができなかった。たまたま目に入った路地を曲がり、太陽の光が届かない暗がりの壁にミズキは背中を預けてそこでようやく深々と息を吸った。

(……何なんのよ、アイツら)

 そのままズルズルと座り込み、体育座りで顔を埋める。

「……眩しい」

 もちろん陽の光のことではない。


 ミズキの魔法は他人の心を読む力。

 いや、より正確に言うならば――、だ。


 望もうが望むまいが他人の心が頭に流れ込んでくる。そしてその力は今まで一度でさえ、決してミズキにとって良い方向には働かなかった。

 この力のせいでミズキはすべてを失った。

 信頼していた友達も、居場所も、自分さえ。

 知りたくもないことを知りすぎた。こんな力を得てしまったがためにになってしまった。

 笑うことを忘れてしまった。


 なのに——


?」


 笑ったのは本当に久しぶりだ。あんなに流暢に言葉を交わしたのも。

 まるで砂漠で水を得たように、錆び付いていた心が潤っていく感覚。とても心地いい。

 そう。あのとき確かに自分は楽しんでいた。あんなどうでもいい会話をだ。そんな感情、もうとっくに失くしたと思っていたのに。


 すべてを失ったあの日以来、ミズキは今まで誰とも関わろうとしなかった。理由は単純だ。気分が悪くなるのだ。

 例えどんなに些細な感情であっても、流れ込んでくる情報こころはミズキの精神を摩耗させる。延々と続く自分自身さえも気付かないような悪意の声。その声が直接脳内に入り込みミズキの心を黒く染めようとする。次第に自分がわからなくなる。それは彼女の精神を徐々に蝕んでいった。

 だからミズキは耳を塞ぐ。無駄だとわかっていても、そうするしかなかった。


 なのにあの少年を見たとき、不思議とあたたかな感情が湧いた。他の黒い感情全てを塗りつぶすほどの圧倒的な安心感。

 気づけば勝手に体が動いていた。


 いつも通りの感情共鳴。だがただのそれではない。

 憎悪すら払いのけるまっすぐな心。

 自分の居場所さえわからない暗闇の中で光を見つけて反応しない人間はいない。

 あのとき間違いなくミズキはタカオに引き寄せられたのだ。

 人の心を読む力を持つミズキだからこそ、そんな馬鹿みたいな人間は絶対にいないと思っていた。もちろんその奥底には暗い部分も見えた気がしたが。

 しかしそれでも、


 あのまっすぐとした瞳。見ず知らずの少年と少女を助けようとしたこと。


 あの行動にはまったく嘘偽りはなかった。

 まるでテレビの中だけに出てくるヒーローのように輝いていた。

「……フフ」

 自然と笑みが溢れてくる。楽しい。



「へぇ。テメェもそんな顔するんだな。ククク」



「ッ!?」

 暗闇の奥から声が聞こえてきた。その声の主はゆっくりとミズキに向かって近づいてくる。


「……久我山」


「よぉミズキ。最近見ねえと思ったらこんなところにいたのか」

 嘘だ。魔法を使わなくてもすぐにわかる。この男にミズキの居場所がわからないわけがない。なぜなら——

「ッ! ……アッ……!?」

 急にミズキが苦しみもがき始めた。

(あ、つい……)

 首が熱い。焼けるようだ。


 ミズキは自分の首にあるが反応しているのを感じた。


「あ〜らよっと!」

 久我山が鎖を思いっきり引くと、ミズキの体が壁に叩きつけられた。

「がは……ッ!!」

 そして大きな手がミズキの首を掴んで壁に貼り付ける。

「何笑ってんだよ? お前はそういうキャラじゃねぇだろう? なぁ?」

 久我山が楽しそうに笑う。この男が何を考えているのか。何を笑っているのか。望んでいないのに勝手に思考が流れ込んでくる。気持ち悪い。


「あいつらと何を話していた?」

「……ッ、アン、タには……関係ない、でしょ……」

 久我山はその言葉に思わず吹き出した。

「プッ……ハハハハハッ!! お前、それであのガキを守ってるつもりか? お前が? 誰かを守るぅ? 冗談でもやめてくれ。ハハハハ!」

 久我山がミズキを離した。ミズキは地べたに這いつくばっている。

「いやはや面白いぜ。お前の本当の力を知れば、あいつらどんな顔するかなぁ?」

「ッ!?」

 心臓に突き刺さっていた絶望が一気に再び広がる。

 それは自分は彼らと一緒に歩むことはできないという現実。

 あまりにささやかな幸せに酔いすぎて、こんな当たり前のことも忘れていた。


 


 それが急に怖くなった。自分が化け物なのだと思い知らされる。

「……っ……」

 ミズキは奥歯を噛みしめた。涙が出るのを必死に堪える。なまじ光を見つけてしまったがために、絶望が重くのしかかる。

「まぁまぁ泣くなって。お前のために、俺があいつらをここから追い出してやるよ」

「ッ!? それってどういう……何をする気!?」


 久我山がミズキにある計画を呟く。


「ッ!? そんなこと……」

 ミズキは久我山の提案めいれいを拒否する。

「別に構わねぇだろ? いつもやってることじゃねぇか? それがだろ?」

「クッ……」

 ミズキは押し黙る。この首輪がある限り、ミズキは久我山には逆らえない。

「じゃ、いい報告待ってるぜ」

 久我山はそう言い残し、その場を去った。


 首の熱が徐々に引いていく。久我山が離れていくからだろう。

 安堵なんて来ない。頰に伝わる地面の感触が気持ち悪い。

 ミズキはゆっくりと息を吐いて、そして呟く。


「……そういえば……代金、まだ払ってない」


 少女はヨロヨロとまるでゾンビのように立ち上がる。

 やっと見つけた温かい場所。自分が自分で居られるかもしれない場所。


 それを自ら壊すために。

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