第25話 夢の終わり - The end of the Day-to-Day -

・1・


「やった、出口よ!」

 先を走っていたミズキは嬉々として叫んだ。タカオはガイを担いで走っている。

 すでに電気が通っていない建物内は非常に暗く、二人は外に出た瞬間外の溢れんばかりの光に思わず目を瞑った。

 息の詰まるような建物内から出て、ミズキは日の光を浴びながら思いっきり深呼吸をする。

「はぁ……やっと出られた」

 安心したのかミズキはどっとその場で脱力し尻餅をついた。

「とりあえずこれで——タカオ? どうし——」


「……何やってんだよ」


「……え?」

 タカオはミズキとは違う方向を向いていた。

 ミズキも釣られて彼の向く方に顔を向けて、そして息を飲んだ。


 


 病院内の庭に植えてある木ではない。

 もっと大きい。

 それは人が歩くための歩道のど真ん中。地面を割いて天を穿っていた。

「何……これ……ッ!」

 普通であれば人は自然を目の当たりにすると口を揃えて「美しい」という感想を漏らす。だが時に自然はこれ以上ないほどに人に恐怖を与えることもある。

 例えば樹海。外の光を遮断し封鎖された空間を作り出すそれは、人間に本能的な恐怖を与える。

 目の前の大樹はまさにそれだ。

 雄々しくそびえ立つ大樹は美しさよりも圧倒的な不気味さを感じた。

 だがどうやらタカオはそれを見ているわけではなさそうだ。


「テメェ……何やってるのかって聞いてるんだ!!」


 タカオは突然走り始めた。

「タカ——」

 ミズキはタカオを呼び止めようとしたが、そこで何かが頰に垂れ落ちてきたのを感じた。

(雨?)

 上を見上げると、

「……ヒッ!?」

 ミズキは叫びだしそうになるのを口を押さえて必死で堪えた。


 そこでミズキが見たものは、シャングリラのメンバーである少年・リクが全身血だらけで吊るされている姿だった。


(……酷い)


 壊れた人形のように四肢が歪に折れ曲がっている。


 血をこれでもかと吸った服はすでに飽和しきり、一滴一滴下へとこぼれ落ちている。


 まるで死刑台の罪人のように、人の尊厳さえも踏みにじられている。


 一体どうして人間にここまでの仕打ちができるのか。ここまで酷い——

「うっ……!!」

 吐き気が襲った。

 少年の体には未だ幾つもの樹木が蛇のように絡みついている。まるで血の一滴まで絞り出すように、四肢を締め付けている。

「う……あ……」

「リク!」

(よかったまだ生きてる!)

 ミズキは弾かれたように立ち上がった。一刻も早く仲間をあの地獄から解放するために。



 シンジは片腕でアヤノの首を掴んで持ち上げていた。

「さぁもっと綺麗に鳴いてみてよ。うまくできたら助けてあげてもいいよ?」

 そんなことできるわけない。すでにアヤノは額から血を流して気を失っており、体から一切の力が抜けている。

「何だ、もう終わり? つまんないな。ん?」

 タカオを視認して指にかける力を弱めるシンジ。しかしアヤノの体は地面に落ちることはなく、近くで地面を割って突き出た樹木に体を絡め取られ、宙に縛られた。

「あれ? まだいたの?」

「アヤノを離せ」

 タカオは静かに言った。その目はシンジをまっすぐ見据えている。一目で怒りで溢れているのがわかる瞳。決壊寸前のダムをギリギリのところで理性が引き止めている。

 シンジはタカオを見て思い出したように相槌を打った。

「君は……あぁ、確かナントカっていう魔法使いのグループのリーダー……だったかな? 資料で読んだよ。でも今は君に用はないんだ」

 まるでわざとタカオを怒らせるように軽くあしらうシンジ。

「……離せ」

「あぁ、邪魔はしてもいいよ? どうせ目撃者はみんな始末するしね。この子が済んだら次は——」


「いいから離せって言ってんだろうが!」


 理性のダムが壊れた。

 タカオは声を荒げて金剛の右腕デクス・ダイアモンドを展開する。

 地を蹴った時に治りかけの体がわずかに悲鳴をあげるが、今はそんなこと問題ではない。冷静さをかなぐり捨て、体の中を流れる血液がグツグツと煮え滾る。

 ルーンの腕輪が発光する。

 左の瞳はまるで憎悪の炎のようなギラついた赤い光を放っていた。

 怒りに任せた鉄槌がシンジに迫る。


 だが、その拳がシンジに届くことはなかった。


「なっ……!?」

 何故なら両者の間に突然複数の木柱が重なるように飛び出したからだ。

 それはまるでシンジを守る盾。一つ一つは拳で突き破れない強度ではない。だが柱を突き破るごとにタカオの拳は勢いを確実に失っていく。そして木柱は破壊しても破壊しても地面からいくらでも生えてくる。その終わりの見えない増殖速度にタカオは一瞬恐怖さえ感じた。

 そしてついにはその拳は完全に力を殺された。

「無駄だよ。君程度じゃ僕には勝てない」

「そんなのやってみないとわかんねぇだろ!」

 腕に纏わり付く樹木が万力のように腕を締め付けてくるが、タカオは構わず左腕に魔力を集中させる。

 破龍のシニス・左腕ディアボロス。それは強靭かつ鋭い爪を持つ魔獣の左腕。タカオはリー戦で発現した新たな力を振るい周りの樹木を一掃した。

「!?」

 これはさすがのシンジも予想していなかったようで、びっくりしたように目を大きく見開く。


 


「へぇ……すごいすごい。これは君の脅威判定を少し修正しないといけないね」

 シンジは涼しい顔でパチパチと手を叩いてそう言った。

 タカオは再びシンジに突っ込む。だが今度のタカオは冷静だ。もう無策で突っ走りはしない。

 この爪ならいける。

 今のでそう確信できたからこその追撃だ。

「あ、でもここで消えるならその必要もないか」

 シンジは場違いな笑顔を見せる。

「黙ってろ!」

 シンジがまるでオーケストラの指揮者のように指を動かすと、彼の周りから六本の樹木が槍のようにタカオに向かって発射される。

 タカオはその全てを左腕で粉砕していった。

(植物を操る魔法か? だけどこんなもんいくら飛ばしてきたってッ!!)

 鉄や鋼ほどの硬度もなければ、炎や雷、精神系統のような触れられない魔法でもない。

(捕まらなければ……いける!!)


「ハハ! ちょうどいい。君ならこのネビロスリングの力、フルで試してもよさそうだ」


 シンジは左の袖をまくる。

「ッ!」

(なんだ、あれ?)

 腕輪だ。だがタカオのそれとは違う。職人芸のように緻密な装飾がなされたルーンの腕輪ではない。リーや神座兄妹が使用していた赤の腕輪・タラニスリングでもない。

 もっと機械的で現代的なデザイン。

 まるで人の手のみで作られた叡智の結晶とでも言うような。


『Ready』


 シンジは腕輪に鍵となる棒状のキーを差し込んだ。


『Vinea Open』


 直後、シンジの頭上にオブジェが出現する。

 鎖で縛られた悪魔。とでも表現すればいいだろうか? 戒めを解かれたそれは頭上で弾けてバラバラに散らばり、シンジの体を包み込むように再び収束する。


「……戦術武装アームド・フォース


 それは鎧だ。レオン・イェーガーの扱うハンニバルの鎧にも似た、科学の鎧。

 しかし漂う魔力は視覚できるほどに色濃く、タカオの肌にヒリヒリとした痛みが走った。

「少し違うけど、まぁそういう認識でもいいのかな? 僕は詳しくは知らないけど」


 魔力が生物以外のものにも宿ること、またその性質を変化させることはワイズマンズ・レポートの被験体であり、機械の体を持つロシャードによって証明されている。


 戦術武装という外殻に魔力を宿らせた、いわばこれは「降霊武装アームド・ネビロス」。


 科学と魔法の融合。


 それが神凪夜白が新たに考案したネビロスリングの力だった。


「だから何だってんだ!」

 タカオは左腕を突き出す。

 本来、戦術武装に生身で挑むこと自体無謀というものだ。機動力もパワーも人のそれとは違いすぎる。だが腕輪の力で半魔獣化したリーさえも貫いたタカオの一撃も伊達ではない。


 そのはずだった。


「……なっ!?」

 硬い魔竜の鱗すら切り裂いた爪はいとも簡単に弾かれた。鎧には傷一つない。切り裂けない。

「ハハハ。こんな状況でも僕の心臓を狙わないんだね。腕の一本、両足をへし折ればそれでいいと考えてる。甘いなぁ。まぁその程度じゃこの鎧には傷一つ付けれないみたいだけどさ」

「くっ……!」

「君は僕の能力がただ植物を操る力だと思ってるみたいだけど——」

 それは射程内に獲物を捕らえた猛獣——いや捕食植物が醸し出す圧力。


「この世で植物ほど恐ろしい存在はないんだよ」


 鎧姿のシンジが手を一振りした瞬間、千の樹木が蛇のようにうねり始めた。


・2・


 ——数分前。


「本当に俺たちの敵なのか?」


 ユウトは仮面の魔法使いにそう問うた。

「……」

 相手は依然として沈黙を保っている。

「だってあ——」


「ユウトから離れなさい!!」


「えっ……ッ!」

 突然廊下に響き渡った御巫刹那の声と同時に、青白い雷撃が二人の間に落ちた。

「うわっ!! 刹那!?」

 ユウトの背後から現れた刹那は、自身の雷で生成した雷のクナイを仮面の魔法使いに向かって投げつけた。

 仮面の魔法使いは霧の大鎌の能力を使い、周囲に霧を発生させる。するとクナイは仮面の魔法使いの胴体をスルリとすり抜けていった。

(確かあれは任意の物質を霧と同化させるもの)

 特定の形を持たない霧を攻撃することはできない。

 初めて戦ったときはあの能力のせいで全く歯が立たなかった。

 だが。

「もうその手は通じないわ!」

 その魔法の攻略法をすでに刹那は持っている。

 さっきのクナイはまだ形を保って壁や床に刺さっている状態だ。それらを起点に刹那は分界で戦ったときと同じように磁場の結界を形成を試みる。ここは通路。狭い場所だ。あのときよりさらに確実に霧化した相手を縛り上げることができる。


「これで——」

「ちょっと待てって」

「ひゃあう!!??」


 刹那を止めようとユウトが手を伸ばすと、手のひらが彼女の背中に触れた。

 すると刹那は体に電気が走ったかのように飛びあがって変な声を上げた。

「あ……ごめん」

 籠手を展開したままだったのをすっかり失念していた。触れた部分が発光し、ユウトは刹那の背中からメモリーを抽出してしまっていた。


 理想写しに使うメモリーを作り出す際に、ユウトは他者の魔力を少しだけ吸い出す。その行為は人によってはむず痒く感じたり、麻痺したような感覚だったり、または快感を覚える者もいるのだ。


「ちょっと! 何すんのよいきなり! ……その、そういうのは……いきなりされると困るのよ……私にも心の準備が……」

 刹那の声はどんどんか細くなっていく。

「……ハハハ」

 しかし刹那はすぐに我に帰る。

「って今はそんなこと言ってる場合じゃない! いいユウト! すぐにここから逃げて。外にアヤノたちがいるはずよ。ここだけじゃないの。ここには他にもヤバ——」

「いや、ここは俺に任せてくれ」

「……え?」

 刹那は戸惑った。

「何言ってるの? あんた体だってまだ……」

「問題ない。御影のおかげでなんとか、な」

 ユウトは右手を動かしてみせる。もう握力は完全に戻っていた。痺れもない。

「こいつにはどうしても聞いておきたいことがある」

 刹那はユウトの瞳を見て、そしてため息をついた。

「……ユウト、絶対昔より頑固になってるわ」

「そうか?」

 ユウトは首を傾げた。

「そうよ。あんたのことは私が一番わかってる」

 頑固だ。自分の中で決めたことは絶対に折らないところが。

 その一点において、やはりユウトは変わってないと思う。

 でもそれは孤児院にいたあの頃の殻に閉じこもるような閉鎖的な頑固さではない。

 瞳に強い意思を宿した頑固さだ。やるべきことをちゃんと見据えている。

 この地獄のような状況下で、みんなを助ける方法を本気で考えている目だ。


 ユウトは仮面の魔法使いに向き直り、もう一度話を続けた。

「初めて会った時、あんたは本当は俺たちを分界から遠ざけたかったんだろ? あそこは危ないから」

 そう。いつだって目の前のこの魔法使いは殺気がない。当然今も。

 ユウトと同じ能力……いや、それ以上の力を有し皆をあれほどまでに圧倒しておきながら、一人たりとも大怪我をした者はいない。

「あっ……」

 刹那は仮面の魔法使いと分界での激戦の果てに、瓦礫に埋もれそうになった時のことを思い出した。衝撃で吹き飛ばされて偶然助かったのだと思い込んでいた。

(助け、られた?)

 それこそあの大鎌を使えば人一人を安全に移動させるなんて造作もないことだ。

「神座たちがシャングリラを襲撃した時だって、お前は俺たちを助けてくれた」

(……私は巻き添え食らったけどね)

 それは心のうちにしまっておこうと刹那は思った。自ら恥を晒すようなことはしたくない。


「それに——」

 ユウトは決定的な事実を口にする。


「俺と同じ魔法ってことは、ってことだろ?」


 他の魔法の成り立ちなんて知らない。

 だがこと理想写しに関してだけ言えば、メモリーはただの使い捨ての道具なんかではない。その一本一本が人の思いそのものだ。

 それを使うユウトには断言できる。


 使


 伊紗那に冬馬。タカオやミズキにガイ。刹那。アリサも。

 決して一人の力なんかじゃない。

 今ここにこうして立っているのは、多くの仲間に支えられているからだ。自分が全てを救おうと思っているのに、逆に支えられているユウトはそれがよくわかっていた。


「なぁ、お前は本当は俺たちをずっと助けてくれてたんじゃないのか?」


 ユウトの額に一筋の汗が流れる。

 大口を叩いたが、もし違えばこのまま戦闘続行。向こうにはメモリーの圧倒的アドバンテージがある。刹那と二人がかりでも勝つ望みは薄いかもしれない。

 しかし口にしたその言葉には確信のような強いものも確かにあった。


 理想写しの力は信頼そのものだから。


 魔法は人を写す鏡。生き方そのものだ。

 同じ魔法を使う者同士、きっと通じ合えると。そう思った。


 ユウトの言葉に仮面の魔法使いは——


                 ***


「主様——」

「アンタは後!」

「えっ!?」

 伊弉諾は待ちに待った待ち人が放った思わぬ第一声に、思わず心ここに在らずな顔を見せる。

「いろいろ言いたいことはあるけど、まずはあれをなんとかしないと」

 刹那は目の前のロウガから目を離さずにそう言った。


「……」


「伊弉諾、あなたとは後できっちり話をつけるわ。もし私に資格がないって言うなら私はもう止めない」

 刹那はきっぱりと言い切った。

「今の私には守りたい仲間がいるのよ。あなたを手放すのは掟破りになってしまうけど、それでも私は構わない。今ここであなたを追いかけて周りが見えなくなったら、私はきっと後悔すると思うから」


「……ふ……」


「元々あなたの力を最大限引き出せなかった私が悪い——」


「ふざけるなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


「「「えっ!?」」」

 突然大声を上げた伊弉諾。これには刹那やユウトだけでなく相対するロウガも呆気にとられる。

 伊弉諾は頭を掻き毟る。そうとうイライラしているのが伝わってくる。


「いいか小娘よく聞け! およそ千年だぞ? わかるか? その間、お前ほど余を使えた人間はいない。余はずっと待っておったのだぞ? 余と心を通わせることができる人間を! それが何だ? 一度の負けたくらいでクヨクヨしよってみっともない!! だから少し鍛えてやろうと思ったのに、何を血迷ったのか余を手放すだと!? 冗談も大概にしろ! 余無くしてお前があの犬畜生に勝てるわけなかろう!! 身の程を知れ!! この自己中がッ!!」


 プチッ、とユウトは聞こえてはいけない音が聞こえた気がした。

(……いったいどういう状況なんだ)


「はぁ!? 黙って聞いてれば……そんなのわかるわけないでしょう!? だいたいあんたが勝手にいなくなったんでしょう? それならそうとハッキリ言いなさいよ! 何カッコつけてんのよ! 自己中はあんたの方でしょ!!」

 対抗して今までの不満をぶつける刹那。

「貴様、言うに事欠いて神を愚弄するか!?」

 少女と少年が戦場のど真ん中でおでこを突き合わせて火花を散らして睨み合っている。

「おい……今は……」

「私はもう決めたの。みんなのために今私にできることをするって。これでも考えて考えて考えて、それでようやくそう決めたのよ? たとえそれが御巫の掟を破ることにな私は——」


「むっ、人間。呼んだか?」

「うっさい黙ってろ!!」「うるさい黙れ!!」


 二人同時に放った雷撃が絡み合い、周囲を巻き込みながらロウガへと走る。

 ロウガは天井に拳を突き込み、重力を無視した立体的な回避でこれを避ける。

「むぅ……」

 神をも恐れぬ魔獣ロウガでさえ、これには思わず押し黙ってしまった。何と返せばいいかわからないといった様子だ。

(人の言葉を話す魔獣……それにあの動き、聞いた通り今までの魔獣とは違うみたいだ)

 ここに来る途中で刹那からロウガの存在を聞いてはいたが、改めてユウトはそう思った。自然と全身の筋肉に力が入っていく。きっと今までのようにはいかないだろう。


「とにかく! 協力するの? しないの? これだけはハッキリさせて」

「だからするに決まっておろうが! ハッ……!」

 伊弉諾は思わず本音を口走ってしまい顔を赤くする。

「じゃあ、はい」

 刹那は手を差し出す。

「……」

 伊弉諾はその手をじっと見つめる。


「仲間を助けるために……あなたの力が必要なの。お願い、私に力を貸して」


 まっすぐな瞳で、御巫刹那はそう神に願った。


・3・


「急ぐぞ。出口はこっちだ」

 青子の言葉に御影と伊紗那は頷いた。

 彼女たちはタカオたちとは逆方向、病院の裏口を目指している。薬品などの物資を搬入する入り口だ。距離を考えるとこちらの方が近い。これはこの病院に度々用事で訪れていた御影の提案だ。彼女からすればむしろこっちの方が入り口なのだ。

 幸いあれ以降魔獣と鉢合わせてはいない。目的の場所までたどり着くのにそう時間はかからなかった。どうやらここに残っているのはあの奇妙な魔獣だけのようだ。

 そして三人は頑丈そうな扉の前に着いた。右側に電子ロックの制御盤が取り付けられている。


「……この扉です。今開けま——」


 御影がポケットからIDカードを取り出したが、その手が急に止まった。

「……こ、れは……」

「なんだ……この感じ」

 急に体を襲う倦怠感。青子も同じ感覚を味わっているようで、二人は糸が切れたようにその場に倒れた。

「え、二人とも大丈夫ですか!?」

 伊紗那は慌てて二人に駆け寄る。


 カツッ、と背後で足音がした。


 伊紗那は勢いよく振り返る。

 黒いフードに仮面をつけた怪しい人物。ユウトたちと何度も鉾を交えた仮面の魔法使いがそこに立っていた。


「あなた、は……うっ……!?」


 急に殴られたような頭痛が襲った。

 まるで目の前の存在を拒絶するかのように。今にも頭が破裂するかと思うほどの激痛が走る。

(な、に……)

 仮面の魔法使いはゆっくりと伊紗那に近づく。

「……だ、れ……」

 伊紗那の細々とした問いに仮面の魔法使いは一言、こう告げた。



「……限界だ。夢を終わらせよう」



 その声に、その言葉に。伊紗那は深い恐怖を感じた。


「あ……」


 心が一気に凍りつくような。

 積み上げたものが砂のように跡形もなく崩れ去るような。

 そんな理性が耐えられる限度を完全に振り切った底なしの恐怖。


「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 普段の彼女からは想像さえできない絶叫が壁を反射し辺りに響き渡る。

 喉が擦り切れても止まらない。

 一歩、また仮面の魔法使いは歩み寄った。


「来ないでっ!!」


 伊紗那は涙を滲ませて叫んだ。

 足が震えて立てないのか、手とお尻を使って少しでも距離を取ろうと後ずさる。

 たとえ醜態を晒しても、硬いコンクリートで爪が割れても、伊紗那は下がり続ける。

「……」

「知らない……あなたなんか知らない! 私は何も知らないの!!」

 しかしついに背中が壁に触れた。もうこれ以上逃げられない。

 怯えるように両手で頭に触れ、体を縮こまらせる。

 だがそれでも仮面の魔法使いは容赦なく近づいてくる。

 ゆっくりと、ゆっくりと。

「いや……」

 彼女の記憶の中にそもそも仮面の魔法使いは存在しない。だから敵か味方かはもちろん、ユウトたちの間で何があったのかも知らない。

 つまり、ここまでの恐怖を感じる理由がないのだ。

 なのに恐怖は内から壊れた蛇口のように勝手に湧き出てくる。

 胸の内にあるのはたった一つの強い確信。


 触れられたら、きっと終わってしまう。


 あの暖かい日々も。

 淡い幸せも。

 全て。

 まるで夢から醒めてしまうように。

 簡単に。無情に。


 理由なんてない。わからない。知りたくもない。


 けど、


 それが心底怖い。


「……ユウ……冬馬」


 仮面の魔法使いの手が少女に触れようとしたその時——


「ドーーン!!」


「ッ!!」

 コンクリートの壁を突き破り、飛角が姿を現した。

「私、復活」

「少しは隠せ」

 ビシッと決めているが、ロシャードに突っ込まれた通り、彼女のナース服は度重なる戦闘と、窓から落とされた際に木の枝やら何やらにひっかかってもうボロボロでほとんど下着姿のような感じだ。

「ひ、飛角さん!?」

 飛角は周囲を見回す。青子と御影が倒れている。そして目の前には先ほど自分を病院から突き飛ばした仮面の魔法使い。

「ん〜、どういう状況?」

 とは言ってみるものの、この状況を誰が生み出したのか、おおよその見当はつく。飛角は仮面の魔法使いから決して目を離さなかった。

(なんか良くないものが漂ってるなぁ……)


 飛角はその良くないものを、


 それが魔法であるならば、彼女に壊せないものはない。

「……」

 仮面の魔法使いは伸ばしていた手を戻し、懐からメモリーを取り出した。


『Invisible』


 電子音の後、その姿は跡形もなく消えてしまった。

「……ありゃ?」

「どうした飛角?」

 桐島秋斗がやってみせた転移魔法ではない。それならば飛角の魔法の射程に引っかかるはずだ。

 となると不可視の魔法。だがその場合その場にいれば気配は残る。足音、空気の移動、吐息。その他人間が発する全ての変化。鬼化した状態の彼女の感覚は限界まで研ぎ澄まされている。姿が見えなくなった程度で飛角から逃げることはできない。

 その彼女がこうも簡単に相手を見失ってしまった。


「まぁ無駄な戦闘しなくていいのはいつでもウェルカムだけどさ……っておいおい……」


 気づくと伊紗那も気を失ってその場に倒れていた。

 そう、今この場に意識のあるものは飛角とロシャード(ステッキ)だけだ。


「……えー、これ私が運ぶ流れ?」

「お前しかいないだろ」

「私もうブラの紐とか千切れそうなんだけど……花も恥じらう乙女にはちょっち荷が重くない?」

「意外だな。お前がそんなことを気にするとは知らなかったぞ」

「ハハ、またまた冗談を。私だって純情可憐なピチピチ乙女よ? それよりロシャードはどうなのよ? なんか、こうさ。魔法的な何かで変形とかできないの? ガッシャーン! って感じで男の子が好きそうな無駄に豪華な変形するやつ?」

 飛角は擬音語を駆使して淡い期待を押し付けてみる。

「お前は私をなんだと思ってるんだ?」

 それに純情可憐な乙女はそんなこと言わない、と心の中で呟くロシャードだった。

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