天使憑き

意識が戻ってきた途端、激甚な痛みが襲ってくる。

胸からか。


なにがあったのか、少しずつ思い出していく。


胸を、剣で貫かれた。

なぜ、生きているのか。ルーアは、まずそれを考えた。


眠っている時とは、息遣いが違うのかもしれない。


すぐに胸に手が当てられ、癒しの魔力が流し込まれる。


(……すげえな)


かなりの実力者だと、それだけでわかる。


おそらく、ストラームやレジィナ、シーパルやユファレートにも遜色ない。


ただ、魔法が途切れ途切れになることがあった。


疲れきって、魔法の維持が困難になっているのだろう。


薄く眼を開いた。

右眼は、見える。

左眼は霞み、ほとんど見えない。

わずかでも見えることが、驚きだった。


左眼は、潰されたはずだ。

それを、見えるようにできるものなのか。


薄暗い。

建物の中か。いや、洞窟か。


ゆらゆら揺れる魔法の明かりが、洞窟の中を照らしている。


ルーアを治療してくれているのは、女だった。


大人の女性。金色の髪。

顔は陰となり見えにくいが、かなり整っているようだ。


少し窶れてみえる。

治療に疲れたからではなく、長年の心労が、身をも削っているのではないか。なぜか、そう思えた。


(……この人が、俺を?)


助けてくれたのか。

そう考えるのが、妥当だろう。


助けられるものなのか。

致命傷を負ったはずなのに。


(……誰だ?)


女の眼は、限りなく優しい。


死ぬはずだった。

だが、助かった。


同じことが、前にもあった。

ずっと南。ラグマ王国。


テラントは、死ぬはずだった。

それだけの負傷をした。


デリフィスから聞いた話を思い出す。

デリフィスとエスの会話。


また、気を失いそうになった。


(……あいつらは、どうなった?)


ティアは、ユファレートやシーパルは、ザイアムから逃げられたのだろうか。


なぜ、ザイアムのことを忘れていたのか。


記憶に細工をしてくれたのは、誰だ。


泣き声が、聞こえたような気がした。


ルーアは、身を起こそうとした。

女が、肩を掴みそれを制した。


「まだ……」


「あいつ、泣いてた……」


意識のない間、見たような気がする。

ティアが、泣いているところを。


聞いたような気がするのだ。

嘘つき、という呟きを。


例え、幻だとしても。


「だから、戻ってやらないと……」


「……ティア・オースターさん?」


女の声が、その名前が、鼓膜を震わせた。


ティアのことを、知っているのか。


「そうね……あなたと彼女は、力で繋がっている。もしかしたら、離れていても彼女を感じることができるかもしれないわね」


(繋がって……?)


なにを言っているのか、よくわからない。


そして、女は押さえる手をどかす気はないようだ。


「……取り引きを、しよう」


「……取り引き?」


この女に、どんな事情があるのかは知らない。


ただ、この女の正体が推測通りだとしたら。


周囲の人間を騙し、自分の存在を殺してきたことになる。


「行かせろよ……。テラントには、あんたのことを言わないでおいてやるからよ……」


「……!」


掌から、女の動揺が伝わる。


女を押し退け、ルーアは身を起こした。


震える手足で、数秒掛けて立ち上がる。


洞窟の外は、明るい。

光は眼に痛く、また、遠くに感じた。


光が、遮られた。

女が、立ち塞がる。


「……あなたは、どれだけ鋭いのかしらね。目覚めてすぐに、それだけ思考することができるなんて」


「……どけよ」


「……どかないわ。通したとしても、あなたはわたしのことを、あの人に話してしまうでしょうし」


「話すさ、そりゃ……」


息が切れる。

口を動かすことも辛い。


「なんで、戻ってやらねえんだよ……。あいつは、あんたのためになにもかも捨てるような奴だぞ……。あんたにどんな理由があろうとも、あいつなら受け入れる……」


「あなたに……!」


女の声に、初めて高ぶった感情が込められる。


「あなたには、関係ない!」


「あー、そうかよ……」


溜息が聞こえた。

次に聞こえたのは、冷静さを取り戻した声だった。


「……横になって」


「……嫌だね。俺は戻る」


戻る。


みんなの所へ戻っても、役に立てないかもしれない。


側にいても、なんの力にもなれないかもしれない。


それでも、無駄なことだとしても。


肩を掴まれる。


「どけよ……」


掴み返し、舌打ちしそうになった。


どかすどころか、女の腕に掴まって立っているような状態だった。


「そんな体で、なにができるの? あなたは、ザイアムに殺されたの。戻っても、また殺されるだけよ」


「ザイアム……」


呟いて、疑問を思い出す。


なぜ、ザイアムのことを忘れていた。

忘れられるはずがないのに。


誰かに、なんらかの細工でもされない限りは。


「……俺の記憶を弄ったのは、誰だ?」


「……わからないわ。何人か、そんなことまでできそうな人が思い浮かぶけど。あなたも、そうでしょう?」


「……」


「横になって」


「ザイアムが、来るんだ……。俺は、戻る……」


「……ザイアムは、ティア・オースターさんには手を出さないと思うわ。だから、あなたは……」


「……なんでだよ?」


関係ないはずだ。

ティア・オースターとザイアムには、なんの関係もない。


「……ティア・オースターは、何者だ?」


「……わからない?」


憐れむ眼。声。


ザイアムを思い出した。


『ティア』のことを言った時、ザイアムは一瞥したのだ。


ティア・オースターを。


「ふざけんな……」


そんな訳がない。

『ティア』は、死んだ。

その遺体を、この手で埋葬した。


はっきりと覚えている。

誰かに介入された形跡のある、この記憶で。


(そんな訳……)


感情の整理がつかない。


『ティア』がもし生きていたとしたら、もちろん嬉しいだろう。


だが、なにか違うような気もするのだ。


ティア・オースターが、『ティア』である必要はない。

似ている必要もない。


ユファレート・パーターが、テラント・エセンツが、デリフィス・デュラムが、シーパル・ヨゥロが、ルーアの中で大事な存在であるのと同じ程度には。


『ティア』に似ているからではなく、ティア・オースターはティア・オースターとして、とっくに大切な存在になっているのだから。


それに、ティア・オースターと『ティア』が同一人物だとしたら、非常に、非常にまずいような気がする。


なにか、とんでもなくまずいことを言ったことがあるような。


(なにを、言った……?)


出会いは、島国ヘリク。

その首都は、ヘリクハイト。


ヘリクハイトの街を出て、ランディの元へ向かう途中だったか。


ティアに、『ティア』のことを根掘り葉掘り聞かれた。


(そして、確か、あの時、俺は……)


『……まあ、そうだな。確かに俺は、『ティア』のことが……』


「ぐぼぁっ!」


自分の発言を思い出し、ルーアは奇声を上げた。


吐血したような気もする。

血の味はしないから、錯覚だろうが。


地面を転がる体力はなく、引っ掻いていた。


(……俺はなんてことを言ったんだぁぁぁ!?)


「だ、大丈夫!? 今、凄い勢いで倒れたわよ!」


女の言葉を聞かず、ルーアは頭を抱えていた。


(アホかぁぁぁ!? なんであんなことをぉぉぉ!?)


人生最大の失言だ。


なぜ、あんなことを口走ったのか。


まさか、大切な人を失った悲劇のヒーローのように、自分で自分に酔っていたとでもいうのか。


やはり、ティアと『ティア』は別人だ。


別人に決まっている。


「ほら、やっぱりまだ無理なのよ。今は、ゆっくり休んで。ね?」


「……」


女の言葉に逆らう気力も、立ち上がるための体力も、過去の失言に全て削り取られていた。


地面にへばり付くようにして、ルーアは羞恥心で熱くなった顔を隠した。


◇◆◇◆◇◆◇◆


サミーは、指示を出していった。


生き残っている者は、ガイケル、ドリ、シャルル、ランワゴ、アリノリ、ジャック、サムとダワンダの兄弟、兵士が七十七人。


オースター孤児院へ、総攻撃を仕掛ける。


表向きの目的は、オースター孤児院を潰し、ストラーム・レイルやドラウ・パーターに打撃を与えること。


クロイツの真の目的は、他にある。


それを達成できるように、サミーは動く。


ロウズの村の北に配置した兵士に、特に動きが悪くなっている者が二十二名いた。


元々、今回の作戦に参加させた兵士は、出来損ないばかりだ。


この寒さで、動きに支障が出る者もいるだろう。


それは、サムとダワンダの『天使憑き』二人に指揮させて南下させる。


あとの者は、ロウズの村中央に集合させてから、オースター孤児院へ奇襲を掛ける。


『地図』に表示されることなく、ロウズの村に侵入する方法が、一つだけあった。


古代兵器の端末でもある『地図』には、欠点がある。


ある標高よりも下にいる者は、表示されないのだ。


理由は明確ではないが、クロイツが立てた仮説は二通り。


空の向こうにある物体と地上との距離が、七百年の間に徐々に開いている。


そのため、距離計算に狂いが生じているのではないか。それが一つ。


もう一つは、元々開発した旧人類が、そう設定したのではないかという仮説。


この場合は、欠点ではなく特徴ということになるか。


『地図』を奪われ、使用法を解析されることを、開発者たちは警戒したのではないか。


登録を外されれば、範囲内にいる者は誰でも攻撃対象者となる。


だから、逃げ道を作った。


旧人類の時代、『シェルター』という名称の避難施設があったが、多くは地下深くで発見されている。


そこまで攻撃が届かないように、『地図』の機能を制限したのではないか。


真偽はわからない。

余りにも、時代が違い過ぎる。


確かなのは、利用できるということだった。


ロウズの村の周辺には、いくつかの川がある。


その支流の一本は、ロウズの村の真下、地下を通る。


『ヒロンの霊薬』製造工場へと通じていた。


工業用水の確保と、排水の処理のために、川の真上に工場が建てられたのである。


この季節、川には厚く氷が張り、人の体重を支えることが可能だった。


地下を通れば、『地図』に表示されることはない。


そして、工場には近隣の村や街から集まった、『地図』に赤い点で印される労働者たち。


工場から村へ侵入すれば、『地図』に表示されても彼らに紛れ、リンダ・オースターはすぐに気付けないだろう。


オースター孤児院に、奇襲を仕掛けられる。


少なくとも、万全の体勢で迎え撃つことはできないだろう。


部下の大半は、地下を移動中だった。


念のため、ランワゴとアリノリ、負傷したジャックには、地下への入り口を見張らせている。


地下での戦闘だけは、回避したい。


戦力の大半を生き埋めにでもされたら、事である。


一応は上司であるザイアムに作戦の概要を報告しようとしたが、すでに彼はどこかへと消えてしまった。


作戦は、上手くいく。

何度か、サミーは自分に言い聞かせた。


ザイアムに振り回されもしたが、良い展開にはなっている。


予想通り、リンダ・オースターは『地図』を兵器として利用できていない。


ドラウ・パーターは、援護に来れない。


ルーアは死んだ。

その仲間は、疲弊している。


確実に、勝利へと前進しているはずだ。


『地図』の対象から外れるための、谷間の道。


サミーは、上空を眺めた。

この地方のこの時季にしては、珍しく晴天である。


正午を、いくらか過ぎていた。


◇◆◇◆◇◆◇◆


変化に気付き、リンダは『地図』を凝視した。


『コミュニティ』の構成員を示しているであろう、村の北部の山中と西の街道にある赤い点が、次々と消失していく。


(……死んだ?)


戦闘が開始されたのだろうか。

だが旅人たち四人は、西の部隊と接触していない。


四十ほどの赤い点だったが、今はそれが八にまで減少している。


北部山中の部隊は、三十ほどだった。


それも二十五ほどまで減り、そして、南へと移動し始めた。


(攻めてくる……)


どうする。村へ侵入する前に、叩くべきか。


だが、消えた四十人ほどを無視していいのか。

どこへ行った。


余り、迷っている場合ではない。

まずは、見える敵だった。

このままだと、ロウズの村が戦場となる。


村の外で、迎撃する。


独りで、しかも見えない敵に警戒しながらである。

かなり困難な戦闘となるだろう。


地形を思い浮かべる。


このまま敵が進軍すれば、深い谷にぶつかる。

二十メートルほどの長い吊り橋が掛かっているはずだ。


そこが、迎え撃つに適した場所になる。


ぐずぐずしている場合ではなかった。


シュアに、討って出ることを告げた。


消えた四十人ほどに、孤児院がいきなり襲撃されないことを祈るばかりだった。


どのみち、北の二十五人を放置できない。


四十人と合流され一斉攻撃を仕掛けられたら、抗する術がない。


駆けた。


久しぶりの青い空に、外に出ている村人を多く見掛けた。


雪掻きをしている者もいれば、走り回っている子供もいる。


これが、日常だ。

この村に、オースター家の子供たちの生活と日常がある。


それが破壊されることが、リンダにとっての最悪の事態。


防ぐためならば、古代兵器の力にも頼る。


黒いボディスーツを着たリンダの姿に、訝しい顔をする村人もいたが、構っている暇はない。


村を出て、狭い林道を駆け、やがて見晴らしの良い場所に出た。


前方には崖、吊り橋、そして『コミュニティ』の構成員たち。

おそらく、二十四、五人


まだ、吊り橋を渡っていない。

間に合った。


吊り橋を渡り終えた先にいるリンダの姿に、兵士たちの進軍が止まる。


橋の幅は、それ程でもない。

人数で押し包むことはできないだろう。


これだけの距離があれば、対岸からの魔法も矢も怖くない。


簡単に対応できる。


橋の幅からして、同時に相手をしなければならないのは、二人。

これも、どうにでもなる。


飛行や瞬間移動の魔法でこちらへ渡ってくるとしても、二十メートルもの距離がある。

いくらか手間取るはずだ。


そして、それらの魔法は隙が大きい。


迂闊に使用してくれれば、敵の魔法使いを潰す好機にも成り得る。


迂回路があることを、敵は知っているだろうか。


それでも、回り込むには時間が掛かる。


その間に、敵の数はかなり減らせる。


勝てる。

油断せずに、自分の戦闘力を発揮することができれば。


「母さん!」


背後から呼び掛けられ、はっと振り向く。


息を切らしたティアがいた。


「……! バカ! なんであんた……」


「だって……」


眼が、真っ赤である。


「母さん……独りで……」


「……」


ティアの仲間は、独りでザイアムに戦闘を挑み、散った。


独りで孤児院を出たリンダに気付き、居ても立っても居られなくなったのだろう。


「……あんたは、下がってな」


「でも……」


「母さんだけで、充分だから」


「……うん」


考えようによっては、悪い状況ではない。


眼の届く範囲にいてくれた方が、守りやすく安心できる。


(……?)


不意に、なにかが大きく体内で動いた。


それが心臓の鼓動だと気付いた時、肩に重い荷物を預けられたような圧力を感じた。


「あ……! あ……!」


ティアが、息を呑む。


見つめる先。

いつ、こちら側の岸に来たのか。


ザイアムが腕組みをして、悠然とリンダたちを眺めていた。


◇◆◇◆◇◆◇◆


ユファレートたちがオースター孤児院を出発したのは、正午前だった。


ロウズの村を西に出て、街道を進む。


山峡の道だが、王都に通ずるだけあって、よく整備されていた。

道幅もある。


ここを使えれば、オースター孤児院で暮らす幼い子供たちも、村を脱出しやすいだろう。


他の道は、幼い子供には険し過ぎるのだ。

他の者の手を借りなければ歩けない、足の不自由な子供もいる。


ユファレートの隣には、シーパルがいた。

前を、テラントとデリフィスが歩いている。


魔法使いと剣士が二人ずつ。

前衛と後衛の役割がはっきりしていた。


テラントの指示で、立ち止まる。


なにやら、デリフィスと目配せしていた。


デリフィスが、顎で森を指す。


テラントを先頭に、森へと移動した。


疑問に思ったが、口にはしなかった。


テラントもデリフィスも、無言だったからである。


途中で、テラントが転んだ。

雪で足を滑らせたらしい。


ラグマ王国では、滅多に雪は積もらないだろう。


「……」


「……うるせえよ」


なにも言ってはいないが、冷たく見下ろすデリフィスにテラントが毒づく。


森に入った。


木々や積もった雪の陰で、シーパルが持っていた地図を拡げた。

魔法道具の『地図』ではなく、市販の地図である。


「……どうしたの?」


「なにかおかしいんですよ、ユファレート」


「俺たちは、真っ直ぐ西へ向かっていた。そろそろ、敵とぶつかるはずなんだ」


テラントが、太い指の先をぐりぐりと地図に押し付ける。


ロウズの村の西に、印が付けられていた。


『地図』に表示された、赤い点が集まっていた場所である。


「あれ? ちょっと待って」


ユファレートは、小首を傾げた。


「真っ直ぐ西にって……途中で進行方向変えたよね?」


「……君の方向感覚については置いといて、だ」


テラントは、衣服のあちこちを払っていた。


転んだ拍子に付いた雪が、気になるらしい。


「さて、奴らはどこに消えた? デリフィス、わかるか?」


デリフィスは、会話に参加せずに周囲に視線を送り、探っていた。

無言で、かぶりを振る。


「このまま進む? わたしたちの役割は、救援の手紙をお城に持っていくことなんだし……」


敵と遭遇せずにそれができるなら、こんな楽なことはない。


「……今、一番怖いのは、罠に嵌まることだからな」


消えた敵は、どこへ行ったか。

これから進む道に、罠を張っていないか。


テラントたちは、それを警戒しているのだろう。


「リンダさんと王の関係を、敵さんも知ってるかもしれんからな。俺たちの行動を見通している可能性がある……」


「……地の利がないのが痛いな」


ぼそりと、デリフィスが呟く。


「わたし、この辺何度か通ったことがあるから、結構詳しいよ」


「……地の利がないのが痛えな」


「……地の利がないのが痛いですねえ」


「……」


どういう意味だろう。


「ちょっと僕も探ってみますね」


シーパルが、眼を瞑りぶつぶつ呟き始めた。


ヨゥロ族の能力なのか、シーパルは気配を察知する能力に長けている。


なにか、鋭敏な感覚でも備わっているのかもしれない。


しばしして、眼と口を同時に開いた。


「……見付けました。八人だけですけど」


「……行ってみよう」


わずかな逡巡の後、テラントが言った。


今度はシーパルを先頭にして、できるだけ物音を立てないように移動した。


街道に戻り、少し進んだ。

橋があり、その下には川がある。


シーパルが、身を屈める。


ユファレートたちも、それに倣った。


川は、この辺りから地下を通るようだ。


河原に、たむろしている男たちがいる。


「……いましたね」


「うん。だけど……あれ?」


ユファレートは、また小首を傾げた。


『コミュニティ』の兵士が五人。


そして、似たような体つき、雰囲気の男が三人。


一人は、時折胸を押さえている。


負傷の影響だろうか。

だとしたら、ジャックということになる。


(……んー?)


ジャックと同じ顔をした、アルベルトとガンジャメは死んだはずだ。


では、今ジャックと共にいる二人は、何者なのか。


「……五つ子?」


「……なのですかねえ?」


シーパルも、アルベルトとガンジャメが死亡したところを見ている。

怪訝な顔をしていた。


「どうする?」


デリフィスが、短くテラントに聞く。


「目的は、手紙を届けることだ。無理に戦う必要はないよな。にしても、あと三十何人かはどこに行った?」


「……近くには、いないと思います。多分ですけど」


いくらか、シーパルは自信がないようだ。


まだ、山間部を抜けきっていない。


身を隠せる場所は、いくらでもある。


「さて……」


なにか言いかけて、テラントは口や鼻を押さえた。

くしゃみを、我慢したらしい。


「あー……寒ぃ」


転倒したせいだろう、テラントの衣服はあちこち湿っているようだ。


眼下の敵を睨んでいたデリフィスが、ふと顔を上げる。


「……手紙は、大丈夫か?」


「……あ」


手紙は、テラントが預かっていた。


声を漏らしながら懐から取り出した手紙も、湿っている。


「……なにをやっているんだ」


珍しいテラントの失態に、デリフィスは呆れているようだった。


テラントは、頭を掻いている。


「参ったな……おや?」


手紙を、青空へと翳した。


「どうしたの?」


「……いや。これって……」


いきなり、封を切る。


「ちょっと、テラント……」


「まあ待てって。……ほら」


抜き出した手紙には、なにも書かれていない。

つまり、白紙だった。


「……どういうことなの?」


「入れ間違えた、なんてドジじゃねえよな」


「……手紙というのは、嘘ということですか、テラント?」


「だろうよ。てことはだ……」


白紙を丸め、テラントが舌打ちした。


デリフィスが続ける。


「……俺たちを、村から遠ざけようとしている、か?」


「責任でも感じたのかも……」


リンダの疲れた表情を、ユファレートは思い出していた。


オースター孤児院の力となるために、この地に来た。

そして、ルーアが死んだ。


そのことについて、責任を感じているのではないか。


これ以上は巻き込めないと思ったのではないか。


「……どうする?」


また、短くデリフィスがテラントに聞く。


「……戻るさ。俺たちの目的は、ティアとティアの家族を助けることにあるんだからな」


「あいつらは?」


河原にいるジャックたちに、大きな動きはない。


「当然、敵は潰せる時に潰す。狙いは、オースター孤児院だろうし。ただ、他の三十人はどこに行った?」


「俺なら、四十人を一箇所に纏めない。適当な場所に埋伏する」


「だな」


テラントもデリフィスも、軍を率いた経験がある。


どこか、生き生きとしているようにも感じられた。


二人で、周囲を観察している。


山間部である。

伏兵を置く場所は、いくらでもあった。


「余り、のんびりはしていられないでしょう?」


シーパルの声に、微かに苛立ちが込められていた。


「……そうだが、ここは慎重になるとこだぞ」


「だけど、時間がありません。いつ、オースター孤児院が襲われるか、わからないんですよ」


いつもテラントの意見に合わせることの多いシーパルが、反論する。


「僕が、突っ込みます。二人は、伏兵に備えてくれませんか? あなたたちの方が、そういう駆け引きに慣れているでしょうから。ユファレートは、後方支援をお願いします」


「え……? あ……うん」


矢継ぎ早に注文を出すシーパルに、つい頷いてしまう。


止めかけたテラントの肩を、デリフィスが掴む。


シーパルは、河原へ駆け降りていった。


「野郎……」


「いや、テラント。一理ある。時間がないのは確かだ」


「……そうだけど、焦り過ぎなんだよ、あのボケ……」


(焦ってる、か……)


なんとなく、シーパルの気持ちがわかるような気がした。


一緒に見たのだ。

ルーアが殺されるところを。


そして、シーパルはラグマ王国で死んでいてもおかしくなかった。


自分が助かり、ルーアは死んだ。

それに、苛立っているのではないか。

自分の腑甲斐無さに。


「フォトン・ブレイザー!」


シーパルの声が響き、兵士二人が光に呑まれる。


ようやく、ジャックたちはシーパルの突進に気付いたようだ。


魔法が飛ぶが、シーパルは横に駆けかわしていた。


それでも、魔法使い三人が相手である。


いつまでもかわせるものではない。


ユファレートは、川沿いを走りながら戦況を確認していた。


かわしきれなくなったシーパルは、魔力障壁で攻撃を防いでいる。


ジャックたちの魔法使いとしての実力は、精々並といったところだろう。


それでも、一対三である。

いくら防御魔法が得意なシーパルでも、いつまでも受け止められはしない。


ジャックたちの注意は、シーパルに向いている。


というよりも、ユファレートたちに気付いてもいない。


ユファレートは、杖を向けた。


「ファイアー・ボール!」


最大威力で放った火球が、唸り破裂する。


爆発に、兵士三人とおそらくはジャックと思われる男が、断末魔の悲鳴を上げることもできずに消し飛んだ。


疲れが、まだまだ残っている。

魔法を一発放っただけで、目眩を感じた。


伏兵の存在がないと確信したか、テラントとデリフィスが橋の下へ飛び降りる。


残った敵の魔法使い二人の表情が、恐怖で歪んでいた。


◇◆◇◆◇◆◇◆


シーパルは、苛立っていた。


ズィニアの魔法道具に斬られ、全身に毒が回り、死ぬはずだった。


生きているのは、みんなが助けてくれたからだ。


多くの人々に、大きな借りができた。


恩返しをしなければ、と思っていた。

その矢先、ルーアが殺された。

シーパルたちを逃がすために、独りで戦い死んだ。


自分で自分が情けない。


他の選択はなかったのか。

ルーアが犠牲になる以外に、生き延びる道はなかったのか。


疲れていた。

ザイアムという大男の一撃を受け止めただけで、かなりの魔力を喪失していた。


魔力障壁を発生させただけで、意識が途切れかける。

敵の魔法が、何度も魔力障壁を叩く。


不思議と、充実感があった。


やるべきことが、はっきりと見えている。


敵は、全員倒す。

仲間とその家族を、死なせない。


火球が破裂し、炎が撒き散らされる。


兵士たちだけでなく、魔法使いの一人も消し飛んでいた。


敵の魔法使いには放てそうにない、高精度な魔法。

ユファレートだろう。


動揺したのか、敵の破壊の魔法は霧散していた。


残った魔法使い二人に、テラントとデリフィスが突撃している。


背中を見せて逃げ出す魔法使いの一人に、シーパルは指先を向けた。


「ライトニング・ボルト!」


電撃は、疲労のためか狙いにずれが生じていた。

魔法使いの左足をかすめる。


充分だった。

デリフィスと魔法使いの距離が、詰まっていく。


振り返った魔法使いの掌の先に、光が生まれた。


デリフィスの頭が、揺れてみえた。

足運びが、いつもと少し違う。

フェイントをかけたのだろう。


光線が、無駄に空間を灼いている。


デリフィスが、魔法使いの脇を走り抜けた。


魔法使いの体が、腹の辺りで二つに断ち割れる。


(あと一人は?)


逃げながら放たれる光弾をかわしつつ、テラントが急追していた。


と、足を滑らせテラントがバランスを崩す。


その間に、魔法使いは林の中に逃げ込んでいた。


「くっ!」


「追うな!」


シーパルが追い掛けようとしたところで、デリフィスが声を張り上げた。


敵三十人の居場所が不明である。

下手に追跡したら、大人数による罠に掛かるかもしれない。

理解できるから、踏み止まれた。


歯噛みしたくなる。


敵は、全員倒さなければならないのだ。


足下を蹴っているテラントに、デリフィスが近付いていく。


「テラント、お前、まだ体が……」


「……まあ、言い訳にはならねえけどな」


苦々しい顔のテラント。


(そうか……)


テラントは、ズィニア・スティマと決闘をした。


その際に、勝利はしたが全身を斬り刻まれたという。


その影響により、体が思うように動かないのだろう。


先程転倒したのも、今足を滑らせたのも、それが理由か。


「ともかく、あれだ。他の奴らがどこに行ったか、手掛かりになりそうなものを捜すぞ」


口調が、いつもより上滑りな感じがする。


忸怩たる想いがあるのは、テラントも同じなのかもしれない。


それを、口調で隠そうとしているのではないか。


考えている間に、テラントとデリフィスは周囲を調べ始めていた。


ルーアが死んで、みんながなにも感じない訳がない。


それなのに、独りで突っ込むような真似をした。


逆に自分だけが取り残されているような気分に、シーパルはなっていた。


「足跡だ」


やがて、デリフィスがそれを見付けた。


山にトンネルができており、そこを凍った川が通っている。


氷や川の端の地面に、多数の足跡を発見したのだ。


「……村の方向だな」


空とトンネルを見比べ、テラントが言った。


「追い掛けましょう!」


「待て、シーパル」


デリフィスは、身を低くして足跡を観察していた。


「数時間前のものだ。同じ道では、追い付かん」


トンネルは暗く、凍った足場である。


追跡は、容易なものではないだろう。


「先回りしたいとこだが、この川は村のどこに続くのか……。さっき逃げた奴を取っ捕まえて、聞き出す方が早いかもな」


森がある方を、テラントが睨む。


「それとも、取り敢えず村へ向かうか……一旦孤児院に戻るか……けどな……」


それだけでは、後手に回る。


村に『コミュニティ』が侵入する事態になるならば、村人の安全を確保するため、事を起こされる前に叩き潰したい。


そのためには、正確な居場所を知り、こちらから仕掛けなければならない。


「あ。なんかわたし、わかったかも」


考え込んでいた様子のユファレートが、声を上げる。


「地図では、ロウズの村を通る川は、なかったよね? この川、村の地下を通るんじゃない? 『ヒロンの霊薬』の製造工場の下を」


「……どうしてそう思う?」


問うテラントに、ユファレートは自信ありという表情を向けた。


「ティアが言ってたでしょ? 歩留まりは六割だって。不良品は村人に配られるらしいけど、それでも結構な量が残ると思うのよ。それは、どこに廃棄されるの?」


「……地下を通る川か……!」


「そういうこと」


得意気なユファレートの横で、デリフィスも頷いている。


「工場は、多数の人々が働く空間だ。その分、水が必要となる」


確かに、これまで訪れた街や村でも、工場は海や川の近くに建てられていた。


製造する物によっては、大量の水が必要とされるのだろう。


「それにしても、なんでわざわざこんな所を行くかね? 他にも、村に侵入する道はいくらでもあるだろうに」


「それも、なんかわかったかも」


テラントの疑問に、またユファレートが口を開く。


「昨日、デリフィスが谷に落ちたじゃない? その時って、『地図』に表示されなかったんだよね? わたしが思うに、多分、標高次第で『地図』の表示対象から外れるのよ。それが、『地図』の欠陥かどうかはわからないけど」


「『地図』所有者であるリンダさんに、見付からないよう村に侵入するために……」


得心した様子のテラント。


デリフィスも、唸るような声を漏らしている。


普段はぼんやりしていることも多いのに、なぜユファレートは魔法や魔法道具が絡むと、ここまで頭が回るようになるのだろう。


「ちなみにね、『ヒロンの霊薬』の由来だけどね、昔、ヒロン伯爵のお抱えの探検隊が実を……」


「いや、その辺りはどうでもいい、ユファレート……」


げんなりとした様子で、テラントが止める。


『ヒロンの霊薬』の調合には、魔法で生成された材料も用いられる。


それだけで、ユファレートの興味の対象になるのだろう。


「うん。ところで、『地図』の正式名称だけど、スペース・スクリーン……もがが」


慣れた感じで、デリフィスがユファレートの口を押さえる。


「ともかく、次の目的地が決まりましたね。急いで村の、工場に向かいましょう」


「シーパル」


テラントの大きな手に、頭を掴まれる。


「焦るなよ。気持ちはわからんでもないけどな。自分にムカついてんのは、俺たちも同じだ。あいつと、一緒に戦えなかったからな」


頭髪を、掻き回される。


「無茶する必要もあるかもしれんが、無茶し過ぎるなよ。お前にまで死なれたら、俺は泣いちまうぞ」


「……」


「……行くぞ」


デリフィスが、ユファレートを解放し短く言う。


いつもより声が低く、その分腹を震わせる。


ユファレートに、肩を叩かれた。

控え目な微笑みを浮かべている。


自分に腹が立つ、腑甲斐無い。

そう考えていたのは、シーパルだけではなかった。


テラントも、もしかしたらデリフィスやユファレートも。


「……行きましょう。前は、任せます」


肩越しに見えるデリフィスの横顔は、少し笑っているようだった。


誰よりも頼りになる剣士が、二人もいる。

隣には、ユファレートもいる。

独りで焦って前に出る必要はない。


全員が同じ方向を見ていると、シーパルは感じた。


◇◆◇◆◇◆◇◆


リンダが、橋の前で身構えている。


敵が橋を渡ったところを、叩こうというのだろう。


向こう岸には、多数の『コミュニティ』の構成員たち。


母の強さを、つい最近知った。

その構えに隙はなく、揺らぎがない。


橋の幅からして、一度に相手しなければならないのは、二人。


リンダならば、どうにでもなるのだろう。


敵も、たやすく橋を渡ろうとしない。


リンダが、場を支配していた。

背中から、自信が窺える。


だが。


腰の辺りまで伸ばした、長い黒髪。

太く長い手足。

広い肩幅。


あのザイアムという男が、ティアたちを見つめていた。

すでに、こちら側の岸にいる。


「くっ!」


リンダが呻き、橋の前から離れザイアムと対峙する。


「駄目っ……!」


ティアは、声を上げていた。


ザイアムという男と、戦ってはならない。


母の体が、二つに斬り裂かれるイメージしか湧かない。


不用意に突っ込むような真似は、リンダはしなかった。

低く構え、腰溜めに拳を固める。


向かい合っているザイアムは、微動だにしない。

剣を抜く気配もない。


「ティア……あんた、あいつら全員を相手にしな」


「……あたしが!?」


「他に誰がいる!」


『コミュニティ』の兵士たちが、何人か橋の途中まで来ていた。


「そうだけど……」


二十人以上はいる。

それなのに、一人で戦えと。


「言っとくけど、そいつら全員より、こいつ一人の方が強いからね……」


「わかってるけど……」


ザイアムは、動かない。

ティアたちのやり取りを、ただ静観している。


「ここであんたが止めないと……!」


「……!」


痛いほどにわかる。

家族も、村人たちも危険だった。

ロウズの村が、戦場になってしまう。


腰の小剣を抜いていた。

先程まで母が立っていた場所まで行き、小剣を両手に持ち構える。


やるしかない。


これまでにも、戦う機会は幾度もあった。


複数の敵と斬り結ぶこともあった。


ただ、多くても五人くらいが相手だった。


今回は、二十人以上いる。


(弱気にならないで!)


一度に橋を渡りきれるのは、二人。


二十人以上を同時に相手する訳ではない。

きっと、なんとかなる。


敵は、いきなり向かってはこなかった。


じりじりと、慎重に迫ってきている。


渡っている最中に橋を切り落とされ、遥か下の川へ大勢が転落する。


それが、最も敵が警戒している事態だろう。


もう、母の様子を見る余裕はない。


襲われる前に、橋を落としてしまおうか。

少なくとも、時間稼ぎにはなる。


だが、結局は別の道を使われるだけか。


村を守るためには、止めるだけでなく倒さなければならないのだ。


汗が吹き出る。


敵の先頭は、橋の中央からなかなか前に出てこようとしない。


向こう岸の兵士のうち二人が、駆け出す。


迂回路がある。

それを使おうとしていないか。

回り込まれて、挟み撃ちにされて、堪えられるのか。


気が焦る。


先頭の二人が、動いた。

長柄の槍で、突き掛かってくる。


武器の長さが違い過ぎる。

一度防ぐかかわすかしないと、攻撃はできない。


後退しながら、槍を払いのける。


槍が引き戻される瞬間。

視えたような気がする。


踏み出し、二人の首筋を裂いていた。


(……いける、かも!)


兵士の動きに鋭さがない。


余り考えることなく、更に橋を渡った兵士たちの元へ向かっていた。


投げ付けられる短剣を弾き、振り上げられる剣を避け、兵士の胴体を斬り裂き胸に小剣を突き立てる。


返り血が、ティアの防寒着を汚した。


後続の兵士たちの足が止まる。


(あたし、戦えてる……)


大勢を前にしても、反射的に体が動いてくれる。


きっと、訓練の成果が出ているのだ。


毎日のように、テラントやデリフィスに剣を教わってきた。


ルーアが戦っているところも、何度も見ている。


そして、毎日見ていた。

浮かぶ情景。


(あれ?)


庭で巨大な剣を振る、大男。

ぼんやりとした記憶。


(……誰?)


橋板を蹴る音に、意識が引き戻された。


剣を持った、大柄な兵士。

体格のためか、二人ではなく一人で突っ込んでくる。


ティアも、橋へと踏み入った。

不安定な足場で戦うのは気掛かりでもあるが、迎え撃つだけでは、手こずった時に次々と後続が橋を渡ることになる。


そうなれば、囲まれてしまい一巻の終わりだった。


剣を受け止める。

重い。


兵士が、更に力を込めようとする。


その瞬間を見計らって、ティアは小剣を引いた。


兵士が、体勢を崩す。

おまけに、吊り橋という足場である。


すぐに立て直せるものではない。


逆にティアの方が押していた。

よろけたところで、脇腹に小剣を打ち込む。


(戦える……!)


血臭に、吐きそうになる。

剣を受け止めた衝撃に、手が痺れ肘や肩の関節が痛む。


だけど、戦える。


兵士たちの動きは、緩慢だった。

体の骨が、どこか足りていないのではないかというような鈍さである。


ただ、人数が多い。


襲い掛かってくる。

殺意が、鍛えられた鉄の塊が。


払い、避け、受け流す。

ティアは、小剣を振り続けた。


何人斬り、何人殺しただろう。

途方もない時間、戦い続けたような気もする。


小剣の切れ味が、悪くなってきた。

刃毀れが酷い。


名剣とまでは言わないが、かなり良い品のはずだ。


テラントとデリフィスが選んでくれた物だから、間違いはないだろう。

手入れの仕方も教わった。


愛着のある小剣だが、戦いが終わったら、買い替えなければならないかもしれない。


そんなことを考えることができたのは、敵が向かってこなくなったからだ。


いつの間にか、五人にまで減っている。


「あと少し……」


息は、とっくに切れている。

揺れる吊り橋の上で、ティアは正眼に構えた。


吊り橋に、兵士が三人。


向こう岸に、二人。

多分、兵士ではない。

どこか、雰囲気が違う。


目深に被ったフード。

その二人の背中が、いきなり盛り上がった。


「……なっ!?」


衣服を突き破り、巨大な翼が生える。


白い、だが純白ではない、濁った色の翼。


「『悪魔憑き』!?」


冗談じゃない。


魔法も脅威だが、なによりもその生命力が厄介だった。


頭を叩き割られても、死なない者がいた。


腹を貫かれても、平然としている者もいた。


倒すためには、何度斬らなければならないことか。


一人だけでも危険な相手だった。

それが、二人いる。


そして、ティアは疲労困憊の状態だった。


羽ばたき始めた。


(飛ぶ?)


寝台くらいはありそうな、巨大な翼だった。


不格好でバランスが悪いが、人が飛翔するにはそれくらいの大きさは必要なのかもしれない。


鳥は、空を飛ぶために軽い骨格をしており、筋肉量が多いと聞く。


それに比べると、人の体が飛翔に向く造りになっているとは思えない。


兵士が一人、踏み出してきた。


受け流し、その肩に小剣を叩き込む。


「ちょっ!?」


兵士の手からすっぽ抜けた剣が、吊り橋を支える縄を一本切っていた。

立っていられないほど揺れる。


耳元を、矢が掠めた。

背後。迂回路を使ったのか、兵士が二人。


『悪魔憑き』が動きを見せたのは、このためか。


挟み撃ちにする態勢が整ったという訳だ。


(やばっ!)


背後に意識が向いたところで、正面の兵士が斬り掛かってきた。


なんとか受け流そうとするが、柄と柄が引っ掛かり、よろけてしまう。


兵士が、剣を振り上げる。


「っ!?」


頭部に衝撃。


ティアは、膝を付いた。

額から流れ出た血が、橋板に落ちる。


(斬られた……?)


状況が掴めない。


足が見えた。


今度は、腹部に衝撃。

蹴り飛ばされたらしい。


転がりながらも、小剣は手放さなかった。


落下する時や地面を転がる時は、剣を捨てても良い、デリフィスからはそう教えられた。


自分の体を傷付ける恐れがあると言うのだ。


それでも、小剣の柄を握り締めた。

失ったら、戦えなくなる。


体に触れるものが、固い橋板から冷たい地面に変わる。

随分と蹴飛ばされてしまった。


膝を震わせながらも、立ち上がる。


顔を伝うものがある。

血の匂いがする。


多分、刃では斬られていない。

間合いが近すぎたためだろう。

柄で殴られたようだ。


背後から足音。

手斧の刃が、陽光を弾いている。


振り返ると、足が縺れた。


それは、兵士も同様だった。


怪我でもしているのか、疲労しているのか。


手斧をかい潜り、体を伸び上がらせるような斬撃で、喉元を裂く。


矢が、飛んできた。

兵士の死体を盾にして、やり過ごす。


いつもは太股に巻き付けたホルダーに差し込んである短剣は、厚着をしているため、今は防寒着の内ポケットにある。

左手で抜き取った。


右手に持ち替える暇がない時もあるだろう。

左手でも扱えるようになれ。

それは、テラントに言われた。


彼は、利き手ではない左で自在に剣を振るう。


左手で投擲した短剣が、矢を番えた兵士の胸に突き立った。


橋板を蹴る音。

先程殴り付けてくれた兵士が、剣の切っ先を向けて突っ込んできた。


小剣と剣が擦れ、火花が散る。


交錯。手応え。


兵士の脇腹を、裂いていた。


橋を渡る兵士。

あと一人。


いや。


(『悪魔憑き』は……?)


朦朧とした意識で捜す。


羽音。風。影。

振り仰いだ。


二人の『悪魔憑き』が、上空で手を翳している。


放たれた炎が、地面に突き立った。

衝撃波が、体を掠める。


「はっ!?」


息が詰まる。

体が、おかしな曲がり方をしているような気がする。


地面と雪の上を、転がっていた。

小剣は、離さない。


肘を立て、身を起こす。


「『悪魔憑き』……」


「違うな」


否定は、どちらが言ったのか。

翼の生えた男たちが、着地する。

長く飛んでいられないのだろう。


そう簡単に、自由に空を飛ばれては困る。


地べたを離れられないただの人間には、どうしようもないではないか。


ユファレートのような凄い魔法使いだって、飛行の魔法の持続には苦労している。


「俺たちは、『天使憑き』だ」


(『天使』……?)


『天使』と『悪魔』の違いが、いまいちわからない。


共に、人とは少し違う姿をしているではないか。

異形の翼。


(戦わないと……)


二十人以上いた。

それが、三人まで減った。

あと少しなのだから。


戦わないと、家族が殺されてしまう。


人は、嫌になるほど簡単に死んでしまう。

死ぬはずがないと思えるような強い人でも、死ぬ時は本当にあっさり死んでしまう。

それを、知ってしまった。


(戦わないと……あたしが……ルーアの分も……)


ダメージで、体が思うように動かない。

周囲が、歪んで見えた。


◇◆◇◆◇◆◇◆


ザイアム。血縁上は、リンダの甥に当たる男だった。


腕組みをしたまま、動こうとしない。


棒立ちになっているようでもあった。


リンダもまた、動けなかった。


仕掛けたら、殺される。

いや、ザイアムがその気になった瞬間に、殺されてしまう。


殺気も敵意もない。

それでも、リンダは全身の痺れを感じていた。


(ほんと、昔のストラームとそっくりだね……)


おかしな気分だった。

かつて共に旅をした仲間と同じ顔をした男が甥であり、敵として立っているのだ。


ザイアムに、余り表情はない。

感情は見える。

面倒臭そうに、だが少しだけ興味を持った眼を、リンダの背後に向けている。


金属音が響いていた。

これが聞こえる間は、ティアは生きている。


動けないまま、時間だけが経過した。


爆音が轟く。

背後からの閃光に、影が揺らめく。


ティアの悲鳴が聞こえて、ついリンダはそちらへと意識と視線を向けてしまった。


額から血を流し、倒れているティア。


重い音が、地面を少なからず揺るがす。


はっとした時には、ザイアムに近接されていた。


響いたのは、ザイアムが踏み出した音か。


「くっ!」


体を回転させる。

ザイアムの側頭部に拳が到達する前に、衝撃を感じた。


掌底というよりも平手が、リンダの脇腹に減り込んでいる。


内臓がひっくり返ったのではないかという衝撃。


足が浮いた。

次いで、今度は背中に打撃を感じた。


なにをされたのか、よくわからない。


殴られたのか、踵でも落とされたのか。


地面に叩き付けられていた。


体を貫いた衝撃に、身動きできない。

呼吸もまともにできない。


背中に、重み。

ザイアムに、踏み付けられているのか。


圧倒的だった。


剣ではなく、近接格闘の間合いだった。


つまり、リンダの得意とする距離である。


ザイアムは自らそこまで踏み込み、リンダを捩じ伏せた。


呼吸困難になりながらも、顔の向きだけを変えた。


ティアも、身動きが取れないようだ。

意識があるのかどうか。


翼の生えた『悪魔憑き』らしき二人と、兵士一人が、ゆっくりとした足取りでティアに向かっている。


「くぅ……あぐっ!?」


起き上がろうともがいたところで、ザイアムの足に力が篭る。

骨が軋む音がした。


(誰か……!)


このままでは、殺されてしまう。ティアが。娘が。


誰でもいい。


(助けて……あたしじゃ守りきれないんだ……ストラーム……ドラウ……)


「まったく……私は忠告したはずだぞ」


場に似つかわしくない、涼し気な声。


誰よりも優秀で、だが、一切の腕力を持たない者が、突如戦場に現れた。


ティアと『悪魔憑き』たちの間に、白い姿。

雪の白さとは少し違う白。エス。


(……なにを……?)


これまで姿を見せなかったくせに、今更なにをしに来たのか。


戸惑っているのは、『悪魔憑き』たちも同じであるようだった。


リンダを踏み付けにしている足からは、動揺を感じない。


ザイアムは、察していたのではないか。

エスが、現れることを。


「最悪の状況だな。『天使憑き』のサムとダワンダか。『地図』も、この場にある」


(……『天使憑き』?)


腹が立つくらい、エスは冷静な声だった。


『悪魔憑き』と、なにが違うのか。


「……リーザイの亡霊が、なにをしに……?」


呻いたのは、翼が生えた二人のうち、どちらだったか。


サムとダワンダ、とエスは言っていた。


エスは、二人を一瞥もしない。

ぴくりともしなくなったティアを、見下ろしている。


「なによりも、ザイアムか。それに対し、リンダ・オースター、ティア・オースター、共に行動不可。助けを呼ぶにも、戦闘が可能な者の到着は、二時間十八分後となる」


(そうだ……だから、あたしが……)


身を起こそうとしても、ザイアムはびくともしない。


「だから、自分でなんとかしなければな。そうだろう、ティア・オースター?」


エスが、ティアの傍らに膝を付く。


(まさか……)


「やめ、ろ……」


余計なことは、しなくていい。

ティアは、ティアのままでいい。


「君しか、この状況を打破できる者はいない」


「……やめろ、エス!」


エスが、つとリンダへ眼をやる。

冷笑を浮かべていた。

そして、視線を上げる。


「……止めようとしないな、ザイアムよ。そして、『天使憑き』たちよ」


「……」


ザイアムは無言。

ただ、息が抜かれる音が聞こえた。


溜息を付いたのか、鼻で嗤ったのか。


「やはり、君やクロイツの目的の一つは、これか」


ティアの体が、一度跳ねた。

脳を、エスに弄られている。


「君に寄生した一粒は、完全に君の肉体と同化している。そして、『ヴァトムの塔』の力さえも喰らい取り入れた」


「ティア……!」


「ザイアムという男が『ダインスレイフ』を振るうところを、君はずっと見てきた。君は、力がなにか理解しているはずだ。そして、君は見たはずだ。同種の力が、奮われるところを。……ああ、あの『天使憑き』たちの存在も、良い刺激になったのではないかね?」


呻きのようなものが、ティアの口から漏れた。


「このままでは、君の母親は殺されてしまうよ。さあ、独自に進化した君の力を見せておくれ」


「ティア! 聞くな!」


喉を破るほど叫んでも、声はティアに届かないような気がした。


エスなんかよりも、ずっと近い存在なのに。

母親なのに。


「人間から離れてみようか、『天使憑き』ティア・オースターよ」


◇◆◇◆◇◆◇◆


虚ろな表情のティアが、立ち上がる。


溢れ出した力が、渦巻き身体を包み込んでいる。


仄かに輝き、それは幻想的に見えた。


まるで、オーロラを身に巻き付けているようでもある。


身体的な変化は、今のところない。


死んだボスやルーアも、人の姿から変わることはなかった。


『天使憑き』とエスは言ったが、便宜上の呼称に過ぎないだろう。


『天使憑き』や『悪魔憑き』とは、繋がり方が違う。


(さて、どの程度の力があるか……)


いきなり、『ダインスレイフ』で試すのは危険だろう。


ザイアムは、名前を覚えていない『天使憑き』の二人に目配せをした。


エスが、ティアから離れるように数歩退いた。


ティアの力を測るような眼をしている。


クロイツと、同じような眼つきだった。


『天使憑き』二人が、掌をティアに向ける。


魔法か『天使』の力かザイアムにはわからないが、光が二条撃ち出された。


ティアの体に届く前に、渦巻く光に阻まれ消失する。


(防いだ。が……)


驚くほどのことではない。


それくらい、ある程度の能力のある魔法使いならば容易くやってのける。


いや、普段のティアも、かわすことができただろう。


防ぐとかわすの違いはあるが、それはそこまで重要ではない。


重要なのは、危機に生き残ることができるのかどうか。


ティアが、『天使憑き』二人に眼をやった。


敵と認識したか。


剣の間合いではないが、ティアが小剣を振り上げる。


(そうだな。お前は、見てきた)


ザイアムが、『ダインスレイフ』を振るう姿を。


意識の底に、刷り込まれているはずだ。


ただの小剣が、光に包まれる。

振り下ろされた。


輝く剣圧が、『天使憑き』たちに突き進む。


魔力障壁を発生させたが、『天使憑き』たちは弾き飛ばされていた。

手傷を負った様子はない。


ティアが、小剣の先を二人に向ける。


その背後のエスの眼に、失望の色が浮かぶところを、ザイアムは見逃さなかった。


『天使憑き』二人の攻撃を、簡単に防いだ。

そして、押している。


人としては、大きな力だろう。

だが、絶対的な力には程遠い。


システムの歪みを修正する力にはなりえない。


クロイツは、どう判断するか。


ザイアムは、空を仰いだ。


この地は、古代の技術に観測されている。


ティアの変化も、この戦闘も、『地図』を通じて具に記録されているはずだ。


システムを破壊する力には、なりえない。


クロイツは、そう考えるのだろうか。


(力の大小よりも、重要なことがあるだろう……)


攻撃された。だから、反撃する。

それは、獣でもできる。


ザイアムは、リンダを踏み付けている足に体重を掛けた。


か細い呻きが、苦悶の声に変わる。


ティアが、弾かれたようにこちらを見た。


(そうか……)


向かってくる。光を纏ったまま。


(ちゃんと、聞き取れているのか……)


ならば、人としての意識が、ティア・オースターとしての意識が、残っているということだ。


光に包まれた、ティアの体。小剣。


(素手で触れるのは、危険……か?)


ザイアムは、『ダインスレイフ』を抜き払った。


ティアの突進を、小剣を受け止める。


衝撃に、リンダを踏み付けている足がわずかに浮く。


(これは……)


『ダインスレイフ』を傾け、力を受け流した。


ティアが、横を走り抜ける。


『ダインスレイフ』の力場に守られているザイアムには、熱は届かない。


だが、空気が焦げているのはわかる。


「……」


受け流した際に、後退させられていた。

これも、驚くことではない。

腰を入れて構えていなかった。


(わかっているのか?)


振り返るティアを、ザイアムは見つめた。


ティアの力には治癒効果があるのか、額の傷はほぼ塞がっているようだ。


自身の力に、自身を傷付けてもいない。


つまり、最低限の制御はできている。


だが。


(もし私がその場で受け止め続けていたら、下手をしたらお前の母は、死んでいたぞ)


ティアの力に巻き込まれて。


守りたいものがあり、力を奮い、守りたいものまで傷付ける。


それは、真に制御できているとはいえない。


ティアが、小剣を翳す。


「……馬鹿が」


ザイアムに向かって放たれる剣圧。

近くには、リンダもいる。


『ダインスレイフ』の柄から伸びた管が、ザイアムの腕に突き立つ。

剣身が、赤く染まった。


力場が、ティアが放った剣圧を吹き散らす。


(お前は、わかっていない……)


力というものを。

それを、奮うということを。


『ダインスレイフ』を、地面に叩き付けるように振った。


ティアも、小剣を振り切っている。


剣圧と剣圧がぶつかる。


『ダインスレイフ』に抗えるほどの力がある訳ではない。


かなり加減をしたが、それでも『ダインスレイフ』の剣圧は、ティアの力を押していた。


眼に映るものが、崩壊していく。

ティアが纏う光が、剥がれていく。

負荷に耐え切れず、小剣が砕ける。


ティアが、駆け出した。

破壊の渦を避けるように移動している。

ザイアムの視界の外へ、消えた。


身体能力が上がっている。

常人の域のものではないだろう。


姿は見えない。

死角に回り込まれた。


だが、見えないからといって、見失った訳ではない。


体を捩る。


ザイアムに飛び掛かろうとする、ティアの姿。


掌に、再発生した光が集っている。

空気が弾ける音がした。


「砕けるなよ」


先程よりも意思を込めて。

ザイアムは、『ダインスレイフ』を一閃させた。


剣圧が、ティアの体を撃つ。

光が、完全に剥ぎ取られた。


ゴム毬のように、ティアの体が地面で跳ね転がっていく。


「ほぅ……」


ザイアムは、眼を細めた。


まだ動けたのか。

ティアを受け止めたのは、リンダだった。


◇◆◇◆◇◆◇◆


抱きしめたティアが、リンダの腕から逃れようともがいている。


意思は、ザイアムに向かっている。


また光が漏れ出し、身を包もうとしていた。


「……いいんだ、ティア」


リンダは、囁いた。


ティアの体が、熱い。

まともな熱さではなかった。


ボディスーツを通り、肌が痛くなるのをリンダは感じた。


こんな力を、ティアが扱いきれるとは思えない。


体が無事なのは、今のうちだけではないのか。


ティア・オースターという小さな器が、いつ壊れてしまうことか。


ただの人間なのだ。

力を扱うために生まれた、ハウザードやマリアベルやストラームの弟子とは違う。


「そんな力に、頼らなくていいから……」


ティアの体が、脱力していく。


限界だろう。


疲れきっていたはずだ。

仲間を失った。

殺し合いをし、負傷した。

分不相応の力を用い、ザイアムに立ち向かった。

『ダインスレイフ』の力を浴びた。

とっくに、限界を超えている。


ぐったりと動かなくなったティアを、リンダは地面に寝かせた。


ザイアムを、睨みつける。


「……母さん……」


「……大丈夫、あんたはあたしが守ってやるから」


ティアの呟きに、答える。


「……シュア姉ちゃん……」


「……」


意識がないのか、家族の名前を次々と譫言のように呟いていく。


「……安心しな。みんな、守るから」


ザイアムがいる。

『天使憑き』が二人。

兵士が一人。


懐から、『地図』を取り出した。


古代兵器を、起動させる。


情けないが、それしか道がない。


『ヒロンの霊薬』の製造工場に、いくつもの赤い点。


あちこちの村や街から集まった労働者たち。


孤児院には、パナがいる。


ティアの仲間たちは、まだ街道にいるようだ。

『地図』の表示範囲だった。


彼らに、犠牲になってもらう。


引き換えに、ザイアム以外の敵は殲滅できる。


いや、ザイアムも倒せるかもしれない。


『ダインスレイフ』も空の向こうの物体も、古代兵器であり魔法道具である。


空の向こうからの一撃は、『ダインスレイフ』の防御をも貫くかもしれない。


虐殺と引き換えに、家族は守れる。


ティアは、家族の名前を呟いている。


そして。


「……ユファ……」


「……!」


友人の、名前。


仲間たちの名前を、呟いていく。


(そうか……)


ティアが最後に呟いたのは、死んだ仲間の名前だった。


(大事、なんだね……)


家族と同じように。

仲間のことも。


『地図』の力を使えば、全員倒せるかもしれない。


(だけど……)


一人死んだだけでも、あれだけ悲しんだのだ。


もし仲間みんなに死なれたら、ティアはどうなってしまうのだろう。

一生泣き続けるのではないのか。


娘の心に傷を付けてまで得る勝利に、価値はあるのか。


懐に『地図』を仕舞い、リンダは立ち上がった。


ザイアムは、『ダインスレイフ』を鞘に収めている。


「ザイアム。あんたは、敵……なんだよね?」


「当然でしょう、叔母上。私は、『コミュニティ』なのですから」


「……目的は?」


「ティアは、『コミュニティ』で預かります。『地図』も。あなたとオースター孤児院の者には、死んでもらいます。それが、クロイツの望みです」


「……クロイツの?」


リンダは、眉をひそめた。


「信じられないね。あんたが、クロイツの命で動くなんて」


「おかしいですか? 私も、『コミュニティ』の一員ですよ。そしてクロイツは、『コミュニティ』の頭脳であり、実質支配者です」


「……あっそ」


リンダは、腰を落として構えた。


ザイアムだ。

ザイアムの存在は大きい。


ザイアムさえ倒せば、『天使憑き』たちも退却するだろう。


『コミュニティ』という組織を、根本から崩すことにもなるかもしれない。


ボスが死亡した今、ザイアムの存在はそれくらい大きかった。


拳は、腰の位置。

乱れた呼吸を整えるのは、諦めた。


「……ティアを、あんたらの手に渡す訳にはいかない。子供たちを死なせる訳にもいかない。『地図』も、譲る気はない」


「……私に、抵抗しますか。それが無駄なことだと、あなたは知っているはず。二年前……三年前でしたかね? あの時も、あなたはなにもできなかった。ましてや、今のあなたはぼろぼろではないですか」


ザイアムは、構えていない。

ただ、突っ立っているだけだった。


「……無駄、ね」


(ああ、そうかもねえ)


指一本触れることも叶わない。

それくらいの力の差はある。

だからといって、諦める訳にはいかない。


ザイアムを倒し、この場を切り抜ける。

子供たちを、全員守る。


あの子たちに、親よりも早く死ぬなどといった、親不孝をさせる訳にはいかない。


リンダも、死ねない。


ザイアムだけを見据えた。

『天使憑き』たちも、兵士も、静観しているエスも、眼中にない。


いつかは、死ぬ時がくる。

リンダにも、子供たちにも。

それは、仕方のないことだった。


だが、死ぬ時は今ではない。

もっと、ずっと先の話でなければならない。


「あの子たちから! 二度も母親を奪わせてたまるか!」


自分の体をも砕くつもりで、リンダは地を蹴り付けた。


体重が、全身の力が、勢いが、足の裏から全て前へ進む力に変換される。


理想的な踏み出し。

理想的な前進。


ザイアムが、眼を見開く。


棒立ち。殺意もない。

ザイアムは、油断を丸出しにしていた。


そしてリンダは、この一瞬だけは、ストラームもザイアムも超えていた。


一瞬での接近。


踏み込ませた足に、体重を掛けることはしない。


それは、勢いを減速させることになる。


足は地面を滑らせるように、勢いは、拳に乗せて。


固めた右拳が、ザイアムの鋼鉄のような腹筋に突き立つ。

手首に、痛みが走った。


ザイアムが、数歩後退する。

体が、折れかけている。


あと一撃。

固めた左拳。

これで、顎を砕く。


「!?」


ザイアムの、眼の色が変わった。


関係ない。

あと一撃で、終わらせられる。


だが、ザイアムの顎に触れる直前、衝撃を感じた。


体が安定しない。

地を踏む感触がなくなっていた。

足が浮いているのか。


理解した直後に、地面を転がっていた。


「かっ……!?」


(打たれた……?)


『ダインスレイフ』を抜いてはいなかった。


打撃を喰らった。


喰らった瞬間も箇所もわからないほど、予備動作のない一撃。


呼吸ができない。

痛みが競り上がってくる。


腹か。

先程打たれた場所を、寸分の狂いもなく打ち抜かれていた。


理想的な動きをしても、ちょっと本気を出されただけで、この結果か。


うずくまった状態から、動くことができない。


「見事です、叔母上」


ザイアムが、ゆっくりと歩を刻む。


「あなたの拳は、確かに私に届きました。もしあなたが万全の体調だったならば、もしあなたが刃物を手にしていたのならば、勝っていたのはあなたでした。そしてあなたは、ティアとは違い実に力の扱いを心得ている。感服しましたよ」


(……はっ!)


内心で、リンダは嗤っていた。


この甥は、なんて下手な慰めを口にするのだろう。


『ダインスレイフ』の力が発動していたら、近付くこともできなかった。


ザイアムがその気になっていたら、両断されていた。


例え全力で殴られても、死ぬことはない。


その確信があったから、ザイアムは棒立ちだったのだろう。


戦意の全く感じられない甥っ子に、一撃を入れただけのことだった。


動けないリンダを、ザイアムは足で仰向けに転がした。


遠慮なく、懐に手を入れられる。

『地図』を、奪われた。


『天使憑き』たちに顔を向け、迷うように唇を動かしてから、ザイアムは言葉を発した。


「……お前たち」


多分、名前がわからないのだ。

名前を覚えることさえも、面倒臭がる男だ。


「クロイツが求めているのだろう? 持っていけ」


『地図』を放る。

風に流される『地図』を、駆け付けていた『天使憑き』の一人が慌てて掴む。


もう一人は、ティアへと向かっていた。


(くそっ……!)


守れないのか、娘を。


『やれやれ……』


声が聞こえた。頭に、直接響く。


(……エス?)


無表情でぼんやりと立っている白い男に、視線を向ける。


『助けてあげられなくもない。君が、私の助力を拒まなければだが』


(願っても……ないね……)


腹の痛みに、思考さえも途切れ途切れになる。


『ならば、まず自覚し、背伸びをしないことだ。君は、リンダ・オースター。ストラーム・レイルではない。家族全員を守る力は、ない』


(……)


『ティア・オースターと、自身を守ることだけを考えたまえ』


(……他の子を、諦めろなんて言うんじゃないだろうね?)


『ロンロ・オースターが、良くやってくれている』


(……ロンロが?)


いつもだらし無い息子の顔が、思い浮かんだ。


『さて、あと一度くらいクロイツの眼を逸らしてくれるかな』


(どういう……?)


『説明している暇はない。どうかね? ティア・オースターを守る力が残っているかね?』


そんなこと、言われなくとも。


ザイアムは、また力を抜いて棒立ちになっている。


唇を、噛み破った。

血の匂いが、頭を鮮明にする。

体が覚醒する。


手足で、地面を叩き跳ね起きていた。


『地図』を持つ『天使憑き』を払いのけ、ティアに手を伸ばしていた『天使憑き』を背後から蹴り飛ばし、リンダは娘を引っ掴んだ。

林へと、飛び込む。


ティアを、預かると言っていた。

できれば、殺したくないと考えているのではないか。


その気がないのか、ザイアムは追ってこない。


『ダインスレイフ』も使いづらいはずだ。


勢い余ってティアを殺しかねない。


同じ理由で、『天使憑き』たちも、あまり派手な攻撃魔法を使えないはずだ。


使わずとも、追い付けると考えるかもしれない。


こちらはすでにぼろぼろで、ティアも抱えているのだ。


こんな状態でも、土地勘だけは勝る。


ザイアムが面倒臭がってくれれば、追跡者は三人。


リンダもティアも、『地図』には表示されない。


逃げ切る可能性はある。

力尽きてしまいさえしなければ。


エスには、なにか策があるかのような口ぶりだった。


いけ好かない奴だが、今は信じるしかない。


(みんな助かったら、キスでもハグでもしてやるよ!)


『いや、いい……』


こちらの思考を覗いていたのか、生真面目なエスの声が聞こえてきた。


◇◆◇◆◇◆◇◆


掛け去るリンダ・オースターに、面倒そうにザイアムが眼をくれている。


『天使憑き』のサムとダワンダ、そして兵士が、追跡を開始する。


ザイアムは、その場に佇んだままだった。


歩み寄る。

『ダインスレイフ』といえども、エスを斬ることはできない。


「油断したな」


「そうだな」


あっさり認めて、ザイアムは腹を摩った。

口惜しいという感情は見えない。


本当に、油断したのだろうか。

ふと、エスは思った。


ザイアムの思考は読めない。

細かい計画を立てている節はある。

それを、他人に語らない。

そして、流動的に変化させている。


だから、周囲の者は理解に苦しみ、支離滅裂な指示を出しているように感じてしまうのだ。


リンダ・オースターに打たれたことさえも、計画の一つなのかもしれない。


「君の目的はなんだ、ザイアム?」


「お前の目的は、ティアの力か、エス?」


「そうだ」


隠すことに意味はないだろう。

エスの存在意義を知る者にとって、簡単な解であるはずだ。


「私は、ティア・オースターの力を測り、そして……」


「失望した、か?」


「……そうだな」


見抜かれている。

落胆が表に出てしまったのかもしれない。


「『ルインクロードの天使』といえども、一粒ではあんなものか。『ヴァトムの塔』の力も取り入れ、あるいはと思わせたがな」


ザイアムは、少し顔を背けた。


エスは、構わず続けた。


「力の総量だけなら、ストラーム・レイルにもソフィアにも勝る。だが如何せん、ティア・オースターという存在が小さすぎる。彼女では、扱いきれるようにはなるまい」


システムの歪みを正すだけの力があるかもしれない。


だが、その大量の力を放出することが、ティア・オースターにはできないだろう。


「枯渇した広大な農地があり、近くに大河が流れ、だが手元には小さな桶しかない、というところか」


微妙な例えを、ザイアムがぼそぼそと口にする。

少し笑っているようだ。


「そして、桶がこれ以上大きくなることはあるまい」


「だからお前は、クロイツに敵わないのだ、エス」


「……どういうことかね? 桶を、大きくする方法でもあると?」


「そうではない」


「確かに私は、クロイツに及ばない」


微かな苛立ちを、エスは感じた。


「彼の力は巨大で、私は……」


「そういうことではない。エス、お前は、早くからユファレート・パーターに期待していたな。クロイツは、嗤っていたぞ」


「彼女は、優秀な魔法使いだ」


「だが、思い出してみろ。今でこそ重要な戦力だろうが、ルーアと出会ったばかりの頃はどうだった? 戦闘で足を引っ張っただけではなかったか?」


「……」


「力の大きさや量を、重要でないとは言わん。ただ、それ以上に重要なものがある」


「……君の目的はなんだ、ザイアム?」


「お前には、わからないだろうな」


「……」


ザイアムの行動には、不可解なものが多い。

結果を見て、初めて合点がいく。


「また、複雑なことを考えているのかね?」


「そうでもないな。実に単純なことだ。単純過ぎて、人間をやめたお前にだけはわからないのさ」


会話に飽きたのか、手を払うように振り、ザイアムは林へと歩き出した。


「私に、不備があることは認める。だが……」


「もういいだろう?」


会話が面倒になったのだ、この男は。


元々、口を開くことさえ面倒臭がるような性格だ。


それを考えると、今日は随分と多弁だった。


「私は、クロイツに及ばない……」


リンダ・オースターを追う方向に去っていったザイアムに、エスは呟いた。


「それでも、出し抜けることがある」


クロイツの敗因は、当人が現場にいなかったことになるだろう。

それは、口にしなかった。


決着がつく前に、勝利を宣言する。


それは愚かしい行為だと、エスは思っていた。

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