闇へ
ハウザードの名前を聞いた瞬間だ。
頭の中がぐちゃぐちゃになって、なにがなんだかわからなくなった。
気が付いた時には、逃走するアルベルトと兵士を追い掛けていた。
ハウザードは、オースター孤児院へ超遠距離からの魔法狙撃を行おうとしているらしい。
(させない……!)
嫌でも思い出してしまう光景がある。
アスハレムの整然とした街並の中で、ハウザードはその強大な力を奮ったのだ。
融解する建物。路面。
炎に包まれ、踊り狂うかのように悶えて息絶えていく人の影。
光に呑まれ、跡形もなく消し飛ばされる人々。
大地に刻まれた顎に転落していく、警官たちの恐怖に歪んだ表情。
(させない……あんなこと、もう二度と……!)
絶対に、止めてみせる。
ハウザードが、自分よりも強力な魔法使いだとはわかっている。
おまけに、ユファレートは疲労していた。
それでも、暴挙は止めなければならない。
妹だと思ったことなどない、と言われた。
その言葉を思い出すたび、胸が裂けそうになる。
心が軋む。
だけど、ユファレートは知っているのだ。
仲間の誰もが、信じないかもしれない。
だけど、ユファレートと祖父であるドラウだけは知っている。
ハウザードが、優しかったことを。
虚構の家族だったのかもしれない。
それでもユファレートにとっては、兄だった。
あの優しさだけは、きっと偽りではない。
(わたしが、止めるから……)
アルベルトと兵士は、逃げ続ける。
飛行の魔法で距離を詰めても、すぐに姿を隠される。
だが、完全に見失うことはなかった。
骨折した左腕の痛みが堪え難いのか、アルベルトは魔法で治療を試みる。
その魔力の波動で、居場所を知ることができるのだ。
追跡を続けた。
いつしか朝になっていた。
風が止まり、雪も降り止み、木々の隙間から青空が覗くようになっていた。
おかしい。
そう感じるようになった。
澄んだ空気が、冷静さを取り戻させたのかもしれない。
本当に、ハウザードがいるのだろうか。
ハウザードなら、正面から相手を叩き潰せばいい。
デリフィスとシーパルを同時に相手にしても、歯牙にもかけなかったのだ。
オースター孤児院を正面から破壊できるだけの力が、ハウザードにはある。
なぜわざわざ、アルベルトはハウザードがいることを告げたのか。
遠距離狙撃を企んでいるとして、ばらす利点はないだろう。
真実だったらならば。
(……嘘?)
なんのために、嘘を。
(わたしを、誘い出すため……?)
テラントもデリフィスも、背後にはいなかった。
橋を落とされ、分断されたのだ。
その上、ユファレートは飛行の魔法を駆使して移動していた。
ついて来ることなど、できないだろう。
追跡を始めてから、相当な時間が過ぎた。
引き返しても、合流は難しい。
残念ながら、道もよくわからない。
長距離転移の魔法を使えば、オースター孤児院へは戻れる。
だがあの魔法は、切り札だった。
疲労した今の状況で使えば、ほぼ全ての魔力を使い切ってしまうだろう。
戦力にならなくなってしまう。
シーパルは、眠り続けたままなのだ。
純粋な魔法使いは、ユファレートだけなのである。
まだ敵は大勢いるのに、魔力を使い切る訳にはいかない。
考えているうちに、足が止まっていた。
草木が擦れる音がした。
前方、兵士の姿。
ユファレートが動きを止めると、現れた。
やはり、誘いだったのか。
物音と同時に、魔力の波動を感じた。
背後からである。
回り込まれていた。
地の利は、向こうにある。
「フォトン・ブレイザー!」
「ルーン・シールド!」
光線を受け止めるとすぐに、ユファレートは駆け出した。
挟み撃ちにされている。
この位置はまずい。
走る途中で飛行の魔法を発動させた。
森を抜けた。
雪原が拡がっている。
雪原の先は、崖になっているようだ。
(やった!)
これだけ見通しが良ければ、敵を見失うことはない。
敵を視認できるなら、惑わされることもない。
全力で、叩くことができる。
雪原の中央に、飛行の魔法を解除して降り立つ。
振り返ると、森から出てくるアルベルトと兵士の姿。
ユファレートは、杖を向けた。
魔力の波動を感じたのは、その時だ。
「ガン・ウェイブ!」
「ファイアー・ボール!」
声が二つ。
咄嗟にユファレートが張り巡らせた魔力障壁を、爆炎や衝撃波が打つ。
(……っ!? どこから!?)
左右の斜め後ろ、魔法使いがいた。
アルベルト。いや、違う。
アルベルトと同じ顔をした者が、二人。
地面に穴を掘り、身を潜めていたのだろう。
前方からは、アルベルトと兵士。
囲まれている。
「まんまと罠に掛かってくれたな、ユファレート・パーター」
アルベルトではない、魔法使いの一人が言う。
「……くっ!」
そちらへ眼を向けた瞬間、視野の隅で兵士が雪を蹴るのが見えた。
「フォトン・ブレイザー!」
放った光線が、兵士を弾き飛ばす。
魔力を感じた。
明確な破壊の意志が込められた、殺意ある魔力。
「フォトン・ブレイザー!」
「ル・ク・ウィスプ!」
「ガン・ウェイブ!」
三者三様の魔法が、魔力障壁を揺るがす。
衝撃に、ユファレートは膝をついた。
(まずい……!)
兵士に構わず、包囲を脱することを考えるべきだった。
一度受け身に回ると、この状況からはそう抜け出せない。
何度も何度も、細かい魔法が放たれる。
反撃する暇がない。
雪煙が立ち込める。
疲労と衝撃で、呼吸が苦しい。
このままでは、集中が途切れた瞬間に死ぬ。
それよりも、魔力が尽きるのが早いか。
(どうすれば……?)
辺りを見回しても、アルベルトたちの姿は見えない。
雪煙で遮られているのだ。
それでも、魔力の波動で位置はわかる。
また、炎に包まれた。
正確な攻撃。
魔力の波動で、アルベルトたちはユファレートの位置を正確に知れるのだから。
ふっと、閃くものがあった。
かなり危険な賭けになるが、このままだとどうせ、嬲り殺しになるだけだ。
アルベルトたちの、魔力の癖を読んだ。
同じ外見のためか、同じリズムで魔法を放っている。
三人の魔法で、魔力障壁が揺れる。
次の魔法が発動されるまでの、わずかな猶予。
一か八か。
ユファレートは、魔力障壁の魔法を解除した。
同時に横に転がる。
アルベルトたちは、魔力を頼りにユファレートの位置を捉えていただろう。
これで、ユファレートを見失ったはずだ。
光線が、無駄に空間を貫き焦がす。
ユファレートは立ち上がると、すぐに魔力を引き出していった。
アルベルトたちに感知される前に、アルベルトたちよりも早く。
「フウグ・ガン・ウェイブ!」
ユファレートを中心に、全包囲への衝撃波が雪煙を吹き散らし地面を削り上げていく。
大魔法の反動に、腕が千切れたかのような錯覚を覚える。
アルベルトたちがどうなったかを確認することもなく、ユファレートは駆け出した。
意識が眩むのを感じながらも、飛行の魔法を発動させて包囲を脱出する。
光弾が右肩を掠め、ローブが破れる。
火傷に、血が滲む。
痛みと魔力の枯渇に、飛行の魔法を維持できなくなった。
雪の上に倒れ込む。
前方は、崖。
後方からは、アルベルトたち。
包囲からは抜け出せたが、倒せてはいない。
三人とも、無傷なようだ。
疲労と魔法の乱発のために偏頭痛を感じながら、ユファレートは立ち上がった。
次の魔法で決める。
決めなければ、もう戦えない。
右肩の痛みを忘れて、ユファレートは心気を統一させた。
実戦で使用するのは、初めてのことになる。
誰かに教わった魔法ではない。
ただ、そういう魔法があることを、ルーアから聞いた。
想像の中で構成を組み立て、その魔法を自分なりに扱えるようになった。
喰いしばった歯の隙間から、白い吐息が漏れる。
ユファレートの翳した手の先に、一抱えほどの光球が生まれた。
アルベルトたちが、魔力障壁を前方に張る。
強力な魔法だとしても、三人掛かりならば受け止められる。
そう考えただろう。
だが。
「フォトン・スコールド!」
それは、かつてラシィ・マコルという男が使用したという魔法。
光球の、転送。
障害物があると、転送は失敗する。
制御が難しく、細かい位置指定はできない。
転送先は限られる。
例えば、広大な敵の頭上。
転送された光球は、アルベルトたちの頭上を通り過ぎ、背後の中空に現出した。
転送の負荷に耐え切れず、光球は無数に分裂して弾け飛んだ。
それが、まるで雨のようにアルベルトたちに降り注ぐ。
一発一発には、たいした威力はない。
生身の人間を傷付けるのに、威力は必要ない。
死角からの、広範囲に及ぶ攻撃。
アルベルトたちには、初見だろう。
かわせるはずがない。
かわせるとしたら、余程魔力の流れを読むことに長けた者か、異常な身体能力の持ち主、ルーアのような戦闘マニアくらいなものだろう。
悲鳴が響いた。
三人が倒れ伏す。
アルベルトの後頭部や背中は、穿たれ変形していた。
だが、運がない。
ユファレートは、雪に座り込んだ。
アルベルトが、偶然盾になったのだろう。
一人は、脇腹を掠めただけのようである。
血が溢れてはいるが、致命傷ではない。
もう一人に至っては、無傷だった。
(ほんと、運がないわね……)
完全に、虚を衝いた。
ただ、運に見放された。
「ざ、残念だったな……」
額の汗を拭い、吃りながらも魔法使いたちが言う。
掌を向けてくる。
「ユファぁっ!」
声がした。まだ、運が残っていた。
飛行の魔法を発動させているルーアと、抱えられたティアの姿。
放り捨てるように、ルーアがティアを手放す。
雪上を転がりながら、器用にティアは懐から短剣を抜いた。
片膝をついた状態で、魔法使いたちに投げ付ける。
一人は、地面を転がり回避した。
もう一人、脇腹を負傷した方の魔法使いが、力場を発生させて短剣を弾く。
「ジャック、逃げろ!」
力場を維持したまま、仲間の名前を叫び警告する。
腕を振り上げた、ルーア。
「ライトニング・ボール!」
飛行の魔法を解除した直後だ。
それほどの威力は出せないのだろう。
だが、光球は的確に身を起こしたばかりの魔法使い、ジャックの胸に着弾した。
もんどり打つジャック。
「ジャック!」
もう一人の魔法使いが、駆け寄ろうとする。
魔力の波動を、さらに感じた。
ルーアたちよりも向こう、鮮烈な魔力の波動。
緑色の頭髪。青白い肌。
「ヴァイン・レイ!」
遠く離れていても、その声ははっきりと鼓膜を震わせた。
光の奔流が、まるで地団駄しているかのように大地を揺るがし、荒れ狂い、突き進む。
ジャックに駆け寄ろうとしていた魔法使いを、呑み込み消し飛ばした。
「シーパル……?」
「ユファ、大丈夫!?」
ユファレートの側で膝をついたティアが、右肩の負傷の具合を確かめている。
「……大丈夫、平気……」
ぼんやりと呟きながら、ユファレートはその男を見ていた。
穏やかな表情で、向かってきている。
「シーパル……?」
「うん。眼を覚ましたの……」
ティアの声は、心なしか震えていた。
「シーパル……」
声が、届く距離。
「ご覧の通りです」
にこやかに微笑み、シーパルは腕を拡げてみせた。
「御心配をおかけしました、ユファレート」
眼を覚ました。
シーパルを目覚めさせるためだけに、ロデンゼラーからここまで来たのだ。
傷口に、シーパルが掌を翳す。
「キュア」
温かい魔力が、流れ込んでくる。
泣き出しそうになっていることに、ユファレートは気付いた。
シーパルは、ユファレートを庇って凶刃に倒れたのだ。
戦闘の緊張感がなければ、泣き出していただろう。
シーパルも、ユファレートの治療を続けながら、眼は敵の魔法使いジャックに向けていた。
ルーアが、徐々に詰め寄っている。
「アルベルトだけではなく、ガンジャメまで……」
ジャックが、焼け爛れた胸を押さえながら呻く。
「ほほう。ガンジャメというのか。まあ、どうでもいいけど」
ルーアは、剣を抜いていた。
切っ先は、しっかりとジャックに向いている。
圧倒的に優位な状況だが、油断はしていない。
軽率に飛び掛かったりもしない。
丁寧に、距離を詰めている。
ジャックとしては、どうしようもないだろう。
「あと一人、いたよな? そいつは、どこにいる?」
確かにルーアの言う通り、アルベルトを助けにきた魔法使いは、三人だった。
ジャックに、死んだガンジャメとアルベルト。
他に、もう一人いるはず。
「もう一人、か……」
ジャックが、苦痛に脂汗を浮かべながらも、嗤う。
「……なんだよ?」
「連絡した」
意思の疎通ができる、とアルベルトは言っていた。
ジャックにも、同じ能力があるのだろう。
「来るのは、もう一人ではないがな」
眼球を動かす。
「そら、来たぞ」
視線の先、窪地に茂った林の入り口。
赤く染まった大剣を掲げた、大男の姿があった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
アルベルトが死んだ。ガンジャメも死んだ。
連絡を入れてきたジャックも、負傷したようだ。
だが、ザイアムが指定した場所にルーアが来た。
ユファレート・パーターを、まず誘導させたのだ。
釣られるように、ルーアも現れた。
ザイアムに声をかけようとした時、すでに彼はサミーの隣に立っていた。
「……申し訳ありません。ルーア以外にも、三人……。ですが……」
「よくやった」
労いの言葉に、余り感情は込められていない。
その鋭い眼差しは、崖の方向だけを見ている。
「四年ぶり、か……」
呟くと、ザイアムは『ダインスレイフ』を抜き払った。
柄から伸びた管が、太い腕に突き立つ。
剣身が、赤く輝いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「ストラーム……?」
遠くに見えるその大男の姿に、ルーアは呟いた。
逞しい身体。
太く、だがしなやかな手足。
ストラーム・レイルだった。
だが、ストラームではない。
あの老雄にしては、若々し過ぎる。
そして、不必要なまでに伸ばした黒い頭髪。
巨大な剣を、大男が振り下ろす。
「う……」
発生した剣圧が、轟音と共に、雪も地面も空気も払いのけながら向かってくる。
「うおわあっ!?」
悲鳴を上げながら、ルーアは逃げていた。
受けようとしたら、防御ごと押し潰され、圧殺される。
完全に回避できた。
掠りもしていない。
だが、衝撃にルーアは地面を転がっていた。
(この技は……!)
恐怖が、込み上げてくる。
大男が、また大剣を振り上げる。
「……!」
衝動的に、ルーアは腕を上げた。
「ヴァイン・レイ!」
光が膨張し、大男へと突き進む。
その巨躯が、光の中に消えて見えた。
シーパルも、掌を向けていた。
「ヴァイン・レイ!」
同じく光の奔流が、大男のいた辺りで破壊を引き起こす。
相手が只者ではないかと感じ取ったか、さらにユファレートも光の奔流を被せるように撃った。
大男がいた位置で巨大な光の柱が立ち、空は焦げ、大地が飴のように溶ける。
真夏のような灼熱の空気に、汗が滲んだ。
(まさか……まさか……)
勝利を確信した、シーパルとユファレートの表情。
ルーアだけが、体を震わせていた。
(あいつなのか!? なんであいつが……!?)
慌てて逃げ去っているジャックとやらなど、どうだっていい。
喰い入るように、ルーアは渦巻く光を見つめた。
(ザイアム、なのか……!?)
なぜ、あのトイレも風呂も面倒臭がる怠惰な男が、オースター孤児院の攻囲に加わっているのだ。
激震の余韻が過ぎ去り、光が晴れる。
全身の肌が、泡立った。
向かってくる。ザイアムが。
何事もなかったかのように。
「なっ!?」
絶句しながらも、シーパルやユファレートが掌を向ける。
「やめろ!」
ルーアは、叫んでいた。
「戦うな!」
その台詞に、特にユファレートが非難の眼差しを向けてくる。
真っ先に反撃をしたのは、ルーアだったからだろう。
恐怖に駆られての行動だった。
だが、無駄な行為なのだ。
通用しないのだ、ザイアムには。
なにもかもが。
魔力の浪費にしかならない。
(どうする……どうする!?)
ザイアムは、ゆっくりとした足取りで迫りつつある。
見られているというのを、強く感じる。
どうすれば、この状況から抜け出せるのか。
逃げるしかない。
飛行か瞬間移動の魔法で。
だがそれは、ザイアムを刺激することにならないか。
魔法を発動させる直前に、あの技が来るのではないか。
魔法を発動させられたとして、ティアはどうする。
魔法を使えないティアでは、自力では逃げられない。
他人ごと、瞬間移動の魔法で転移はできない。
抱えていては、飛行の魔法の移動速度は極端に落ちる。
戦うという選択は、論外だった。
絶対に戦ってはならない相手がいる。
ストラームがそうだし、ソフィアもそうだろう。
極め付きが、このザイアムだった。
ソフィアが、一対一で絶対に誰にも負けない存在ならば、ザイアムは相手が誰だろうと何人だろうと、必ず勝ってしまう存在だった。
(ザイアムだぞ……どうする……?)
そして、疑問。
(なんで俺は、ザイアムのことを忘れていた……?)
なぜか、ここ何年か思い出すことがなかった。
思い出しかけたことはあった。
いつだったか、ユファレートとの会話。
『ティア』について、聞かれたのだ。
ルーアは、答えた。
『ティア』は、昔、世話になった人の娘だと。
世話になった人というのが、ザイアムだった。
だがなぜか、その名前も姿も思い出すことはなかった。
そのことを、疑問にも思わなかった。
ダンテ・タクトロスの『影』に捕われた時、幻視の中のその姿に、名前を呼び掛けた。
だがそのことも、忘れていた。
ストラームに、置き換えていた。
「ルーア、どうするの!?」
ティアに呼び掛けられて、ルーアは我に返った。
束の間だろうが、疑問に没頭していた。
今はとにかく、事態を打破しなければ。
逃げるしかない。
だが、ティアもいるのに、どうやってザイアムから。
背後は、崖である。
(オースター孤児院まで、なんとか逃げて……)
だから、どうやって。
オースター孤児院。ティアの部屋。いくつも置かれた、ぬいぐるみ。床の、魔法陣。
長距離転移。
「……ユファレート……長距離転移の魔法、使えるだけの余力はあるか?」
長距離転移の魔法で、オースター孤児院に帰還する。
発動までの時間は、シーパルと稼ぐ。
二人掛かりなら、ザイアムの技を一度か二度は受け止められるかもしれない。
「長距離、転移……? うん、まだなんとか、使えると思うけど、でも……」
「……なんだよ?」
話しているだけでも、息が切れる。
その圧力に、ザイアムから眼が離せない。
「四人の転移だと、発動までに、十分以上掛かる……」
「十分……」
ザイアムの攻撃を、そんな途方もない間、受け止められる訳がない。
他に手はないのか。
手詰まりなのか。
ザイアムが、見ている。
ルーアを、見ている。
(そうか……)
ルーアは、気付いた。
(狙いは、俺なんだな……)
狙われたのがルーアだったから、誰も死なずに済んだ。
ザイアムの技を、ルーアは知っていたのだから。
狙われたのがティアだったならば、疲弊したユファレートだったならば、久しぶりの戦闘で勘が鈍っているであろうシーパルだったならば。
ザイアムを知らない他の三人が狙われていたら、犠牲が出ていた。
(ザイアムがまず狙っているのは、俺……)
そこで、ルーアはようやくザイアムから眼を離すことができた。
視線を移した先、ティアが、ユファレートが、シーパルがいる。
(……こいつらに、価値があるか?)
自分の命と引き換えにしても、助けるだけの価値が。
疑問が浮かんだ直後だっただろう。
苦笑していた。
(今更、だよな……)
独りの旅だったはずだ。
独りで、ランディを追うはずだった。
そして、独りでなんでも解決できると粋がり、死んでいただろう。
この三人、そしてテラントとデリフィスがいた。
六人だったから、いくつものとてつもない危機を乗り越えてこれた。
誰か一人が欠けていただけで、旅は終わっていただろう。
(今更だよな……)
「ユファレート」
「……なに?」
緊張した、ユファレートの横顔。
「三人だ」
「……え?」
「三人でいい。三人を長距離転移させるのに、何分が必要だ?」
「三人、なら……七、八分かな?」
「五分で頼む」
「待って、待ってよ、ルーア! まさか……」
ティアが、興奮気味に叫ぶ。
掴み掛かってきそうなティアを、ルーアは手で制した。
「あいつの狙いは、俺だ。五分は、俺が稼ぐ」
「ルーア……?」
「シーパル、二人を頼む。あいつの攻撃を防ぐことができるのは、お前だけだ」
「ルーア、待ってよ、まさか……」
尚も喰い下がってくるティアの肩を、ルーアは押した。
「お前は、シーパルから絶対に離れるな。くっついてろ」
顎に垂れた汗を、拭う。
「心配すんな。お前らが逃げた後、ちゃんと俺も逃げるからよ」
嘘をついているつもりはない。
ザイアムは、魔法が使えないのだ。
上手く飛行や瞬間移動の魔法を発動させられれば、逃げられる。
ルーアが嘘をついたら、ティアはわかるという。
それ以上は、言ってこなかった。
嘘をついているつもりはない。
ただ、自信はない。
「……頼むぞ、シーパル」
もう一度言って、ルーアは必要以上に剣の柄を握り締めた。
そうしないと、手が震えて剣を落としてしまいそうだった。
「さぁて……」
わざと口に出して、ルーアはティアたちから離れて斜めに歩き出した。
ザイアムが立ち止まり、眼球だけを動かす。
ルーアを見ていた。
体の向きも変え、また歩き出す。
ルーアの方向に。
やはり、ルーアのことを第一に狙っている。
吐きそうなほどの圧力に、顔が強張る。
「ルーン・エンチャント……!」
込められた魔力に、剣が淡く輝く。
こんな物で、ザイアムの剣を一度でも受けられるのだろうか。
(本当に、ザイアムなんだな……畜生……)
様々な記憶と感情が、去来する。
押し殺して、ルーアはザイアムに集中した。
ある程度ティアたちと距離が開いたところで、斜めではなく後方に下がった。
ザイアムとの間合いは、充分にある。
剣の間合いではない。
ならば注意すべきは、『ダインスレイフ』の能力である、飛ぶ斬撃。
ザイアムが、顔の向きを変えた。
ティアたちへと。
「……!」
まずい。三人を攻撃させる訳には。
後退する足を止めた。
一瞬だけ、ザイアムへの意識が途切れたのだと思う。
はっとした時、近くでザイアムは『ダインスレイフ』を無造作に振り上げていた。
雪溜まり、魔法で焼け崩れた地面。
全てを無視して、生身の肉体で、一瞬で距離を零にしていた。
やはり無造作に、ザイアムが『ダインスレイフ』を振り下ろす。
「……!」
後方に跳び退いてかわし、さらに後転して、ルーアは間合いを取った。
また、汗が吹き出る。
剣の間合いの外だったはずだ。
(くそっ……!)
速いだけなら、鋭いだけなら、他にもいる。
どんな達人と比べても、なにかザイアムの斬撃は違う。
剣ではなく、別の物を振っているのではないか。
迫力に、体が縮み込む。
心が、潰れそうになる。
(くそっ! 今ので、死んでんじゃねえかよ、俺は!)
ザイアムが本気になっていたら、『ダインスレイフ』の力を使っていたら、追撃をしていたら、その気になっていたら、今のでルーアは殺されていた。
「……随分、反応速度が上がったな」
ザイアムの声。
嫌になるくらい、昔のままだ。
喋るのも面倒臭いとでもいうような、気怠そうな声。
「……四年、経ったからな。ちっとは成長するさ……」
「……そうか。私のことを、覚えていたか。いや、思い出したか?」
「……」
ザイアムは、動かない。
ルーアは、ゆっくりと後退した。
ザイアムが、口を開く。
「……なぜ、私に立ち向かう?」
視線を、またティアたちに向けた。
「彼らのためか?」
『ダインスレイフ』の切っ先も、三人に向ける。
まずい。
「ル・ク……!」
腕を上げたところで、ザイアムの姿を見失った。
気付いた時には、懐に潜り込まれていた。
突き出したルーアの腕を、異様な握力で握り締めている。
視界が、上下反転した。
次の瞬間には、雪の上を転がっていた。
「自分の価値を自覚しろ、と私は言ったはずだ」
声。
間合いを取らなければ。
もっと距離を。
「全てを犠牲にしてでも、お前は生き延びろと言ったはずだ」
「くそっ!」
転がりながら、瞬間移動の魔法を発動させた。
無理矢理な発動である。
正確な転移先は、自分でもよくわからない。
ただ、ザイアムからは離れるように転移したはずだ。
転移先は、陰っていた。
なにかが、太陽光を遮っている。
なにが。
ザイアムの大きな掌。
顔を掴まれる。
(ありえねえだろっ!?)
魔力を感知できないはずなのに、ルーア自身も正確に定めていなかった転移先を読み、瞬間移動よりも早く先回りをしていた。
物理的に有り得ない。
魔法発動前に、動いていたのか。
それは勘か、洞察力か。
「かっ!?」
地面に叩き付けるように、投げ飛ばされていた。
体がばらばらになったのではないか、というような衝撃。
「勝ち目がない相手とは戦うな、と言ったはずだ」
「うる……せえよ……」
追撃は、ない。
雪に剣を立て、ルーアは立ち上がった。
「なぜ、私に立ち向かう? お前だけなら、逃げられたはずだ」
「うるせえって言ってんだ、ザイアム……」
わかっている。
この男に挑むことがどれだけ愚かなことか、誰よりもルーアがわかっている。
昔のままだった。
その理不尽なまでの絶対的な力で、敵を蹂躙し、なにもかもを破壊する。
逆に、その力で全てを守ることもできるはずだった。
「なんでだよ!?」
堪らない気持ちになり、ルーアは唾を飛ばしていた。
「なんであんたは、あの日に限って、いなかったんだ!?」
「……」
ザイアムの表情は静かで、感情は見えない。
「あんたなら、『ティア』を守ることができた!」
「……そうだな」
「あんたがいたら、『ティア』は死なずに済んだ!」
「……ああ、そうだな」
「あんたがいたら、『ティア』は、今でも……!」
「……今でも?」
ザイアムが、一瞥した。
ティアの方を。
その仕草に、心がざらつく。
「ふざっ……!」
「……その可能性を、全く考えなかったか?」
「ざけんなっ!」
叫びと同時に、ルーアは飛行の魔法を発動させていた。
後方へと飛ぶ。
ザイアムは、追ってこない。
充分な間合いが開いたところで、飛行の魔法を解除して着地した。
剣の先で、簡易的な魔法陣を描いていく。
「やってやる……!」
ユファレートとシーパルと協力しても、届かなかった。
それでも、やってやる。
まだ、未完成の魔法。
制御力上昇の魔法陣の上でも、三回に一回くらいしか、標的に向かわない。
描く魔法陣は、威力強化の魔法陣。
それでも、必ず真っ直ぐザイアムへと行く。
『ダインスレイフ』の防御を貫く。
全力で、魔力を引き出していく。
後のことなど、知ったことではない。
全力を、ぶつけてやる。
生まれた光が、膨れ上がっていく。
制御不能なまでの力が、暴発寸前なまでに荒々しく暴れている。
空間が軋み、悲鳴を上げている。
ルーアの、限界以上の力。
見据えるのは、ザイアムだけだ。
「ティルト・ヴ・レイド!」
光芒が、全てを蒸発させ突き進む。
発動させてしまえば、防ぎようがない絶対的な力。
快感にも近いものが、背筋を貫く。
束の間、彼は力に酔いしれていた。
光の向こう、見えないはずのザイアムの姿が見えたような気がした。
体を捩り、『ダインスレイフ』を構えている。
渾身の斬撃。
大地が割れる。
大気が裂ける。
光芒が、弾き返される。
(ンな馬鹿な……!)
余波に、ルーアはたたらを踏んだ。
直撃はしていないはずだ。
直撃していたら、ルーアの体はなくなっている。
衝撃で脳震盪を起こしかけたか、視野がぼやける。
足下が、定まらない。
足下が、暗い。
影だ。
ザイアムの影。
『ダインスレイフ』を振り上げている。
反射的に、魔力を込めた剣を向けた。
ザイアムが、『ダインスレイフ』を振り下ろす。
剣は、一瞬も持たずに砕けた。
それが、妙にゆっくりに見えた。
破片が飛び散るのも、ゆっくりに見える。
向かってきているような気がした。
音がした。鈍い。
頭の中から、聞こえた。
視界の左が、赤い。
顔に、眼球に、剣の破片が刺さったのか。
悲鳴を上げたのかもしれない。
半分になった視界で、ザイアムを見ていた。
頑強な肉体。
太い腕。
『ダインスレイフ』。
『ダインスレイフ』の切っ先。
なにかが、体に潜り込んでくる。
『ダインスレイフ』の切っ先を、見失っていた。
赤い剣身は見える。
ルーアの胸から生えているようだった。
節くれだったザイアムの指。太い腕。
そうか。切っ先は、背中の方か。
血が、口から溢れ出てくる。
『ダインスレイフ』に、胸を貫かれたのか。
ザイアム。表情は、変わらない。
(ザイアム、だもんなぁ……)
勝てるはずなど、なかった。
わかっていたことだ。
(ああ、やべえ……。馬鹿なこと、言ったな……)
ティアも、ティアの家族も守る。
俺たちの誰も、死なない。
あんな恥ずかしい台詞、なんで言ってしまったのか。
折れた剣を、捨てた。
腕を上げて、ザイアムの顔に向ける。
致命傷だろう。
もう、余計なことは考えるな。
残された、あと何秒かの時間。
それは全て、この男の足止めのために使え。
それが、ティアたちの助かる可能性を少しでも上げることになる。
暗くなった。
朝だったはずだ。
いつの間に、夜になったのか。
腕を上げていられなくなった。
闇の中に、彼はいた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
赤い大剣が、ルーアの胸を貫いているようにティアには見えた。
だが実際は、脇の下を掠めただけに決まっている。
この大男が、エスが言っていたザイアムなのだろう。
エスが警戒するだけあって、確かにとてつもない威圧感のある男である。
それでも、ルーアならなんとかしてくれる。
これまでも、誰が相手でもそうだった。
だから、胸を大剣で貫かれたりしているはずがない。
ルーアが腕を、おそらくはザイアムと思われる大男に向ける。
これまで苦戦していたようだが、反撃が始まろうとしている。
ルーアの腕が、力無く垂れ下がる。
大男はルーアから眼を離すと、ティアたちの方へと顔を向けた。
大剣を、振る。
刃に付着した血を、切るように。
すっぽ抜けるかのようにルーアの体が飛び、ティアたちの近くの地面に転がった。
「……ルー……」
ごろりと転がったルーアの左眼の辺りに、折れた剣の破片が突き刺さっている。
口の端からは血が垂れ流れ、胸からは、血が溢れ出ていた。
土と雪が、赤く汚れていく。
「……嘘でしょ……」
ルーアは、動かない。
本当に、ぴくりとも動かない。
「や……」
息苦しい。
肩の辺りに変に力が入っていて、痛い。
ルーアが強烈な魔法を放った時からだろうか、地面にへたり込んでいた。
ルーアの体。
上手く立ち上がれない。
這うように、ルーアに近付こうとした。
肩や足を掴まれる。
ユファレートと、シーパルだった。
「放……してよ……。早く治療しないと……ルーアが……」
ユファレートの額は、汗でびっしょりだった。
口からは、呻きともしゃっくりとも取れる音が漏れている。
「早く……本当に……本当にルーアが……」
痛みがあった。
シーパルに掴まれた、肩からだ。
厚い防寒着を爪で突き破るつもりではないかというくらいに、強い握力で掴まれている。
噛み締めた唇から、血が滲んでいた。
シーパルの眼は、ルーアのこともティアのことも見ていない。
ザイアムの方を、凝視している。
ザイアムが、大剣を上げた。
赤い剣身。
それを伝う、赤い血。
赤い大剣が、振り下ろされる。
発生した衝撃波が、大地を砕く。
鼓膜が破られるような轟音と共に、突き進んでくる。
シーパルが、両手を複雑に組み合わせ突き出した。
「ザイン・アーラー!」
シーパルの前が、なにかにより歪んで見えた。
魔力による、不可視の盾か鎧だろうか。
それが、幾重にも重なっている。
衝撃波が、シーパルの防御魔法とぶつかった。
大地が揺れる。
衝撃が、衝撃で飛ばされた土塊が、防御魔法を叩く。
巻き込まれたルーアの体が、浮かび上がる。
(あ……)
手を伸ばすが、全く届かない。
眼の高さを、ルーアの体が通っていった。
崖の方へと向かい、転落していく。
「嫌……」
崖。深く、暗く、底が見えない。
ルーアが、吸い込まれていく。
「ユファレート! 早く……!」
シーパルの、切羽詰まった苦悶の声。
防御壁の方から、堅固な物がすり潰されている音が響く。
「早く……長距離転移を……!」
「わかっているわよっ!」
珍しく声を荒げるユファレート。
その足下から積層型の魔法陣が拡がり、ティアやシーパルまで包み込む。
改良したという、長距離転移の魔法陣なのだろう。
上空へ放り投げられたような感覚があった。
それも、体から意識だけ引き剥がされ、強引に投げ飛ばされたかのような。
視界と意識が一瞬途切れ、叩き付けられたかのような負荷が体と意識に掛かる。
次の瞬間には、周囲の光景が変わっていた。
譲ってもらったり買ったりして、こつこつと集めたぬいぐるみたち。
最も見慣れた部屋。
ティアの部屋だった。
部屋の中央、座り込む床に描かれていた魔法陣が、淡く輝いている。
部屋には、パナがいた。
椅子から、転げ落ちかけている。
「……あんたら!? いきなり……ああ、魔法かい……。心臓に悪い……」
物音を聞き付けたのか、部屋の扉が開く。
「ティアちゃあ!?」
隣の部屋の、ミンミだった。
ミンミの頭の上から、帰っていたのか、テラントの顔も見える。
デリフィスもいた。
やっぱり無事だった。
シーパルも目覚めてくれた。
これでルーアが無事ならば、やっといつも通りだ。
「ルーア……を……」
腰が抜けている。
這って進もうとした。
シーパルに、また肩を掴まれる。
強力な魔法を使った影響か、シーパルもユファレートも激しく息を切らせていた。
「シーパル……放して……」
「ティア……」
「早く、助けに行かなきゃ……。ルーア、あんな高さから……」
「駄目です、ティア……」
「放してよ! 急がないと、本当にルーアが……」
「ティア!」
怒鳴られて、ティアは身を竦ませた。
「駄目です……。なんでルーアが独りで戦ったか、考えてください……」
「……」
よくわからないが、ティアは口を押さえていた。
体の震えが止まらない。
歯の根も、合わない。
急に、目眩を感じた。
意識が傾く。
床が迫ってきた。
倒れたのだと、ティアは気付いた。
(あたし……)
エスに、止められた。
それでも、ロウズの村に、孤児院に向かった。
だって、自分の家族が、危機なのだから。
みんなも来てくれると、どこかで期待していたのかもしれない。
そしてやっぱり、みんな付いてきてくれた。
(あたしの、せいだ……)
みんなを巻き込んで、そして。
(あたし……の、せいで……ルーア……)
呼び掛けられている。
ユファレートか、パナか、ミンミか。
シュアの声にも聞こえる。
意識が遠退くのを、ティアは感じた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ザイアムは、足場を選びながら崖の縁へと向かった。
後ろから、駆けてくる者がいる。
サミーだろう。それは、振り返らずともわかった。
『ダインスレイフ』とルーアたちの魔法により、足下はすっかり脆くなっている。
ザイアムは、慎重に眼下の崖を覗き見た。
視力はかなり良い方だが、底は見えない。
地図によると、確か川が流れているはずだ。
その川は、ロウズの村の地下を通る。
(ルーア……)
大きくなった。対峙した時は、まずそう思った。
四年前と比べると、随分身長が伸びていた。
拗ねたような顔付きは、幼い頃のままだった。
戦闘技能は、眼を瞠るほどに上がっていた。
元々、センスがあるのはわかっていたが、なによりも師が良かったのだろう。
ランディ・ウェルズは優れた剣士だったというが、それ以上に、指導者として優秀だったのだろう。
これで、ストラーム・レイルなどが師でなかったならば、ルーアは驚異的な存在になっていたのかもしれない。
「ザイアム……」
背後から、怖ず怖ずといった感じで、サミーが声を掛けてくる。
ザイアムは、振り返らなかった。
「ルーアを、殺したのですか……?」
「……見ていなかったのか?」
「……あの男は、クロイツの計画において重要な存在にも成り得る者であり……」
「元々、死んでしまったら死んでしまったで構わない、という話だっただろう?」
「それは……そうですが……」
「それに」
ザイアムが肩越しにサミーを一瞥すると、彼は一歩後退した。
「クロイツの計画はいつも、いくつもの備えがあり幅がある。個人の死など、たいした影響はあるまい」
「……」
サミーは微かな疑念を抱いていると、ザイアムは気付いた。
ザイアムとルーアがどういう関係にあったか、知っているのだろう。
ルーアに危害を加えることはない、とでも思っていたのだろうか。
「サミー」
「……はい」
「あとは、お前に任せる」
「……は?」
「お前の判断で、好きなように指揮を執って構わん」
「ですが、それは……」
余り、自信がないのかもしれない。
サミーは研究員であり、戦闘員ではないのだ。
「私が、構わんと言っている」
「……わかりました。それでは、私の判断でやらせていただきます」
サミーは、クロイツの意向に添うようにするだろう。
それは、自分の判断といえるのだろうか。
そう思ったが、ザイアムは鷹揚に頷くだけにした。
サミーが去っても、ザイアムは崖下を見つめ続けた。
(綱渡りだな)
果たして、綱を渡りきるだけの力があるのかどうか。
(そこに、いるのだろう?)
あの女は、図抜けて聡い。
だからこそ、長年に渡りクロイツの眼から逃れ、ズィニアを出し抜くことができた。
リンダ・オースターが所持する『地図』についても、真の用途を調査済みだろう。
その欠点についても、把握しているはずだ。
(欠点というよりは、設定か……)
そして、ザイアムとルーアのことが、気になって仕方ないはずだ。
ならば今は、必ずこの崖の底にいる。
思惑通りのことをやってくれるだろうか。
ともあれ、一つの目的は達成した。
「あとは、クロイツの計画に、私が便乗できるかどうか、か……」
そのクロイツにも、聞かれてはいない。
それを確認してから、ザイアムは呟いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
彼女がいる場所は、暗かった。
眼の前には、岩壁がそそり立っている。
背後は、半分以上が凍った川だった。
頭上の崖には、ザイアムとルーアがいるはずだ。
リンダ・オースターが持つ、『地図』を警戒していた。
あれが、ある高性能な古代兵器の一部分だと知る者は少ない。
そして、その古代兵器の使用方法を理解しているのは、解析したドラウ・パーターと、彼に教えを受けたリンダ・オースターだけだろう。
ドラウ・パーターは、さすがに老練だった。
記憶にプロテクトを掛け、クロイツにもエスにも探られないようにしている。
まさか、リンダ・オースターがあの兵器を使用するとも思えないが、用心するにしくはない。
だから彼女は、こういった崖下にいることが多かった。
この標高ならば、『地図』に彼女の存在が表示されることはない。
頭上では、戦闘が行われているようだ。
雪や土が、降り落ちてくる。
崖の途中まで差し込む陽光に照らされ、雪はなにか別の物にも見えた。
彼女は、見上げ続けた。
見落とす訳にはいかない。
雪でも土でもなく、もっと重たいものが落下してくる。
重力を中和させ、彼女はそれの落下速度を調整した。
途中で解除し、力場を発生させる。
力場を柔らかく拡げ、それを受け止める。
それは、長い赤毛の少年の遺体だった。
(……久しぶりね、レヴィスト君。もっとも、あなたはわたしのこと、覚えてはいなかったでしょうけど)
少年の顔の左半面には、折れた剣の破片が突き刺さっていた。
そして、胸を貫き通る傷。
どう考えても、致命傷だった。
魔法使いとしての腕には、自信がある。
魔法医として、各地を放浪していたこともある。
だが、死人を生き返らせることなどできない。
(ザイアムに、勝てる訳なんてないのに……)
それでも、挑んだというのか。
この少年こそがもしかしたら、彼女を『コミュニティ』の呪縛から、解き放つ存在だったかもしれないのに。
希望は、途絶えてしまった。
(でも、そうね……)
場所を変えたかった。
ここは、落ち着かない。
(せめてもの、役に立ってもらいましょうか)
少年の遺体を運ぶには、彼女は非力過ぎた。
少年の遺体を地面に下ろし、力場を解除する。
彼女は、岩壁の際へと移動した。
物質消失の魔法を用い、岩壁に穴を穿っていく。
人が一人暮らせるほどの空間を作り上げると、力場の魔法を駆使して、少年の遺体を運び込んだ。
地面に転がし、その横に座る。
(レヴィスト・ヴィール……今は、ルーアだったわね)
『ルインクロードの器』の、候補だった少年。
だが、彼女の存在により、候補からは外された。
彼女が、ハウザードの存在により、候補を外されたように。
そして少年は、別の形で『ルインクロード』となった。
『ルインクロード』と相対した。
「見させてもらうわよ。あなたの、記憶……」
少年の記憶を見れば、あるいは『ルインクロード』がなんなのか、正確に知ることができるかもしれない。
クロイツは、少年に少なからず執着を見せていた。
クロイツの計画を、挫けるかもしれないのだ。
意識を、少年の遺体に残る、残留思念と接続させる。
危険な行為だった。
死者と一体になる、ということである。
自分が生者だということを忘れてしまえば、そのまま死に取り込まれ、戻ることはできなくなる。
それを避けるには、自分が何者なのか、強く意識し続けることだ。
「わたしはマリアベル……マリィ・エセンツ……」
呟いて、彼女は意識を、少年の残留思念へと潜り込ませた。
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