剥き出しの本心
ここは、どこなのだろう。
外? 集落の外?
いつ、外に出たっけ?
思い出せない。
脳が、ちゃんと働いていない。
なんでだろう。
体もあちこち痛い。
独りだった。
リィルがいない。
戻ってあげないと。
独りにすると、すぐ落ち込んで、泣き出して。
いつまでも姉離れしてくれない、困った妹。
仕方ないから、あたしが一緒にいてあげないと。
そうすれば、あの子はきっと泣き止んでくれる。
◇◆◇◆◇◆◇◆
唐突だった。
ゴーンの魔力が満ちた灰色の空間を、侵食していく別の魔力。
ルーアが知っている魔力だった。
「シーパル……?」
灰色の空を見上げた。
皹が入っている。
それが、拡がっていく。
空間に、大地に亀裂が走り、ガラスを引っ掻くような音を立てて、全てが崩壊していった。
視界が暗くなる。
高所から落ちているような、安定しない感覚。
じめじめした空気を、肌で感じる。
視界が、少し明るくなった。
「ここは……」
道の真ん中だった。
先に、集落が見える。
ジュノの集落だろうか。
だとしたら、ゴーンに転移させられる前、元いた場所へ戻ったことになる。
(脱出できた……?)
いや、シーパルが灰色の空間を破壊してくれたのだろうか。
少し、明るくなっていた。
夜明けが近い。
随分と時間が経過していた。
灰色の空間の中と外では、時間の流れる早さが違うのかもしれない。
「出れた……?」
ユファレートがぽつりと呟く。
手を繋ぎ合っているティアとリィルもいる。
「ルーア! あれ!」
ティアが空いた手で指した先、黒い霧が拡がっていた。
それに触れた何人かの兵士の体が、崩れていく。
黒い霧の向こうに、なんとかシーナの姿を確認できた。
伸ばした栗色の髪が、揺れている。
(……集落に、向かっている?)
もしかしたら、正気を失っているのかもしれない。
夢遊病にかかっているのではないかと思わせる足取り。
左肩から矢を生やしたデリフィスと、遅れてきたシーパルもいた。
デリフィスが駆け出す。
向かう先。
倒れ伏すテラントがいた。
よく見えないが、血塗れになっているようだ。
そして、テラントを踏み付ける人影。
心拍数が上がった。
直接会ったことはなかったが、その身体的特徴は聞いている。
小柄な体、長い両腕。
ズィニア・スティマ。
デリフィスが斬り掛かる。
小剣で受け止めたズィニアの体が、跳ね上がる。
いや、距離を取るために、自分から跳んだのか。
信じられないような跳躍力だった。
デリフィスが、追撃に移る。
「デリフィス、どけえっ!」
叫びながら、ルーアはズィニアに手を向けていた。
こいつが。
こいつがいなければ。
シーナは、リィルは。
「てめえは……!」
ランディに、口にすることを禁じられた。
だが無理だ。
抑えてられるか。
「死ねっ!」
呪いの言葉と共に、ズィニアの着地点を狙って光線を撃ち出す。
普通ならかわせないタイミングなはずだ。
回避できたとしても、体勢は崩れる。
それを見逃すデリフィスではないだろう。
ズィニアが、右手の小剣で光線を斬りつけた。
「なにっ!?」
光が消失していく。
小剣は、魔法道具か。
それが、ルーアの魔法の効果を消している。
ユファレートが杖を向けた。
「ヴァイン・レイ!」
生まれた光が膨張し、濁流の如く突き進む。
ルーアが放った光線と相俟って巨大な光球となり、ズィニアの小柄な体を包み込んだ。
(……やったか……?)
だが、望みを砕くように光球からズィニアが飛び出した。
「危ね、危ね。まさか、これで消し切らんとはね」
軽口を叩くその姿。
衣服は多少焦げているようだが、おそらくほぼ無傷。
「さすがに、多勢に無勢か? てことで、戦略的撤退」
あっさりと背を向けて場を離れだした。
デリフィスが、それを追い駆ける。
「追うな!」
明らかに誘いだった。
こちらの戦力を分断するのが狙いだろう。
それは、灰色の空間に、ばらばらに閉じ込められたことでもわかる。
デリフィスは聞かなかった。
テラントがやられた姿を見ているのだ。
その胸中は、考えるまでもない。
シーパルが、テラントに駆け寄っていた。
すでに、治療を始めている。
ルーアたちも合流した。
ティアとリィルが息を呑む。
ユファレートが、治療に加わる。
テラントは、全身を斬り裂かれていた。
特に、両腕が酷い。
額を割られようとランディと互角の勝負をし、腹に穴が空こうと敵を斬り倒してきた男が。
ズィニア・スティマは、それほどの使い手なのか。
(まずい……!)
デリフィスは、ズィニアを追っていった。
テラントとデリフィスは、ほぼ同等の実力と考えていいだろう。
デリフィス一人では勝てない。
負傷もしていた。
焦りを見透かすかのように、ゴーンが現れた。
「……そろそろ……決着……つけようかぁ……」
兵士たちが転移される。
その数、十人。
「……これで、打ち止め。……けどまあ……すぐにシーナが……材料調達……してくれる……」
「材料だと……」
シーナは、集落へと向かっている。
彼女が誰かを死なせて、どれだけ苦しんでいると思っているのだ。
手に馴染んでいない剣を振り回したためか、掌が痛い。
挑発だ。
乗るな。
冷静に、どうするべきか考えろ。
(……どうする?)
誰かがここに残り、ゴーンと兵士の相手をしなくてはならない。
誰かがリィルを守らなくてはならない。
誰かがデリフィスに助太刀し、ズィニアと戦わなくてはならない。
誰かが、シーナを。
「ユファレート」
デリフィスたちが去っていく方を指した。
「追ってくれ。デリフィスを、絶対に一人で戦わせるな」
消去方で考えていくと、ユファレートしかいない。
「わかったわ」
頷き、飛行の魔法を発動させる。
デリフィスは、一対一の勝負に手を出されると、きっと腹を立てる。
だがまさか、女であるユファレートに当たり散らかしたりはしないだろう。
誰が相手でもキレてしまうルーアとは、その辺りが違う。
ユファレートとなら、共闘してくれる。
なにより、ユファレートの魔法はズィニアに届く。
「オースター、リィル。お前らはくっつきあってろよ」
ティアは性格からして、誰かを守る時に、最も力を発揮するような気がする。
これまで通り、リィルを守ってもらう。
「シーパル。ゴーンを頼む」
「はい」
灰色の空間を破壊したのは、シーパルだろう。
ゴーンに対抗するためには、絶対に必要だ。
「……俺は、シーナを……なんとかしてくる」
踏み出す。
それを、兵士が遮った。
「……そうは……いかない……」
ゴーンが笑う。
「おい、指揮官様よぉ……」
声がした。
背後、下の方からだ。
「俺への指示がねえぞ……」
テラントが、身を起こしている。
傷だらけの体を、ルーアは一瞥した。
「そんな状態でなにができるんだ。大人しく寝てろ、アホ」
「そりゃ聞けない指示だ……」
立ち上がる。
「まだ足が動く。右腕も動く……」
だからなんだと言うのだ。
今のテラントよりは、そこらの子供に刃物を持たした方が、まだ戦力になるだろう。
言ったところで、聞きはしないだろうが。
「……死なん程度に、なんかしてろよ」
「……了解」
襲い掛かってくる兵士たち。
先頭の一人を、ルーアは剣で斬り倒した。
「ライトニング・ボール!」
シーパルが放った光球が、兵士の体に着弾し炸裂した。
ティアたちへと向かう兵士。
そして、テラントへと向かう兵士。
テラントの魔法道具から、光が伸びる。
ほとんど同時に、二人を斬り飛ばしていた。
(……おい)
全身を負傷した人間の動きではない。
「……血糊か、それ?」
「かもな」
微かに笑っている。
シーパルの光球が、また一人弾き飛ばした。
「シーパル!」
背後に、ゴーンが転移していた。
剣を振りかぶって。
「!?」
地面を転がりかわすシーパル。
その背後に、またゴーンは転移した。
なんとか短槍で斬撃を弾くシーパル。
接近戦を得意としていないシーパルを狙っている。
ルーアは、ゴーンを狙い掌を向けた。
その間に、テラントが立つ。
「!?」
咄嗟に、魔法を背後に放った。
兵士が二人、炎に呑まれる。
「なにして……!?」
「ここは、俺たちに任せろよ」
魔法がくると予測していたのか、シーパルから離れた位置にゴーンは転移していた。
そして、兵士があと三人。
こうしている間にも、シーナは集落へと向かっている。
「……マジで任せるぞ?」
「マジで任せろよ」
「……よし」
テラントに背を向け、シーナを見据え、ルーアは飛行の魔法を発動させた。
「これ以上、苦しませてやるな……」
飛び立つ寸前、テラントの言葉が耳に滑り込んできた。
「……っ!」
風が体を打つ。
風景が、後ろに飛んでいった。
なかなか、魔法を安定させられない。
(制御が難しい魔法使う時に、余計なこと言ってんじゃねえよ!)
まだだ。
まだきっと、可能性はある。
シーナもリィルも救われる、これ以上誰も犠牲にならない結末を迎えられる可能性が。
霧を避けて進み、シーナの前に回り込む。
「シーナ!」
飛行の魔法を解除して、ルーアは地面に降り立った。
叫ぶように呼び掛ける。
「こっちじゃねえ! シーナ、止まれ!」
シーナの歩みは、変わらない。
シーナが進む分だけ、黒い霧も集落へと近付く。
長距離を飛行した後のため、消耗で動悸が激しい。
(声が、届いていない? 俺の姿が見えていないのか?)
昨日会った時は、火傷のような傷は右手だけにあった。
それが、首筋や左腕にまで拡がっている。
痛みでもう、意識がまともにないのか?
正気を失っているのか?
苦しませるな、そう言われた。
足掻いても、苦しませるだけなのだろうか。
楽にしてやることが、救いなのか。
昨日、殺してと頼まれた。
殺せなかった。
それが、今のシーナの苦しみに繋がっているのか。
「シーナ!」
一陣の突風。
風向きが変わった。
こっちは、風下だ。
「しまっ……」
黒い霧に包まれる。
「ルーン・シールド!」
後退しながら、魔力障壁を展開させた。
ほとんどの霧を遮るが、わずかに首筋に触れるものがある。
「ぎっ……!?」
灼けつく痛み。
それが、染み拡がる。
指先に収集させた魔力で、霧に侵された肌を灼き切った。
「バルムス・ウィンド!」
発動させた暴風が、周囲の霧を吹き散らす。
ルーアは、膝をついた。
地面に爪を立てる。
「この程度の痛みで……!」
シーナの痛みは、苦しみは、辛さは。
傷付いた姉を見るリィルの悲しみは。
こんなものではないだろう。
「シーナ!」
声は届かない。
それでも、ルーアは叫んだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆
テラントが、兵士を叩き斬る。
ズィニアには負けたと考えていいだろう。
重傷を負っている。
それでも、テラントはテラントだった。
「ライトニング・ボルト!」
接近してきた兵士に、シーパルは電撃を放った。
魔力の波動。
魔法の撃ち終わりを狙っていたのだろう。
ゴーンが瞬間移動の魔法を発動させた。
背後から殺気。
なんとか防ぐが、短槍を叩き折られた。
ゴーンが消える。
また背後。
体を捩り、左手に残った短槍の柄を投げ付ける。
それも、瞬間移動でかわされた。
魔力を探知して、転移先を読み取る。
シーパルは、右手にあった短槍の穂先に、魔力を込めて投げ付けた。
甲高い金属音。
「なっ……!?」
短槍の穂先を弾いたのは、剣だった。
ただし、ゴーンの姿はない。
物質転送の魔法。
ゴーンの魔法発動速度のあまりの早さに、魔力を読み間違えたか。
振り返る。
ゴーンの手には、鍬があった。
死んだ兵士から、物質転送で取り上げた物だろう。
頭部を、鍬で殴られる。
同時に、ゴーンの顔が苦痛に歪んだ。
瞬間移動で逃げる。
シーパルは、追えなかった。
血が、額から流れ落ちる。
「……ようやく、捉えましたよ。相打ちですけどね」
「なにを……?」
呻きながら、背中に刺さった短槍の穂先を捨てるゴーン。
「さすがに、攻撃と防御を同時に行うのは、難しいようですね。しかも、あれだけ瞬間移動と物質転送を立て続けに使ったりしていたから、僕の魔法を読めなかったようで」
「……だから……なにを……」
「物質転送の魔法を、槍の穂先にかけてたんですよ。鍬を振り下ろす瞬間を狙って、時間差で発動させてもらいました。あなたの背後にね」
触れてもいない運動中の物質を、時間差で転移させるのは骨が折れる。
それも、運動エネルギーを残したままである。
賭けの要素が大きかったが、なんとか成功した。
シーパルが武器を失ったように見えて、ゴーンは油断したはず。
それも、賭けに勝つことができた要因だろう。
ゴーンが回避に専念していたら、今のもかわしたかもしれない。
「この……!」
「さすが『悪魔憑き』。まだまだ戦えそうですね。でもその傷、浅くないですよ。今までのように、空間系統の魔法を高速で発動させられますか? あなたは、回復魔法を使えますか?」
「このぉ……」
ゴーンが、鍬を構える。
頭が痛い。
痩せ我慢しきれないくらいに。
血が止まらない。
けど、倒れてたまるか。
逃がしてたまるか。
シーパルは、魔力を引き出し高めていった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
最後の一人を斬り倒し、テラントは天を仰いだ。
血を流しすぎたかもしれない。
束の間だが、魔法の治療を受けた。
それがなかったら、兵士を倒すことはできなかっただろう。
立っているのが辛い。
呼吸することすら苦しい。
痛みを感じた。
左足だ。
倒したつもりだったのだが、浅かったのだろう。
倒れていた兵士が、テラントの足の甲に鎌を突き立てている。
まるで、地面に縫い付けるように。
テラントは、右足を上げた。
容赦なく、兵士の顎骨を踵で踏み砕く。
一度痙攣して、兵士は絶命した。
左足を振って、鎌を捨てた。
体中が痛む。
そのためか、新たな痛みに鈍くなっている。
少し怯えた表情のティアとリィル。
一瞥してから、シーパルとゴーンに眼をやった。
互いに負傷している。
シーパルは頭部を、ゴーンは背中を。
そして、互いに出方を窺っていた。
決着には時間がかかるだろう。
負傷の具合によって決まるかもしれない。
「シーパル、代われ」
シーパルが、血と汗で汚れた顔を引き攣らせた。
「なに言ってるんですか、テラント」
「ルーアの手伝い、行ってやれ。こいつの相手は、俺がする」
「……今のテラントで、勝てるわけないでしょう」
「勝つつもりはねえよ」
左足に体重をかけてみる。
絶叫したくなるほど痛む。
左足も使い物にならなくなった。
「時間稼ぎをするだけだ。お前たちがシーナを止めるまでな」
「……」
「このままだと、ルーアは死ぬぞ」
「……なぜです?」
「勘だよ」
多分、シーナを止める方法は、もう一つしかない。
そして、最もしくじる可能性が高いのが、ルーアだった。
それは、一番多くシーナとリィルの姉妹に関わってきたから。
「お前も、気付いてんだろ?」
「まさか、テラント、死ぬ気じゃないでしょうね」
「アホ。ンなわけあるか」
「……じゃあ、行きますけどね」
ゴーンが表情を変える。
それを、テラントは見逃さなかった。
「ティアとリィルも連れてけ。俺に、子守する余裕ないからな」
「……僕の役割、多過ぎじゃないですか?」
「信頼されて、光栄だろ?」
テラントは、口の端を上げた。
「これからお前、大変だぞー。リィル守りながらシーナ止めて、その後ゴーン倒さなきゃならん。みんなの治療もしないといけないしな」
「はは……」
シーパルの口から、乾いた笑いが漏れる。
少し、息を切らしているようだ。
「じゃあ、行きましょうか、ティア、リィル」
「……うん。でも……」
ティアからの視線を感じる。
「本人が余裕だと言っているので、任せましょう」
そこまでは言っていない。
まだなにかティアがもごもご口にしているが、強引にシーパルは連れていった。
「さて……」
ゴーンと二人になった。
笑っているその顔に、剣を向ける。
その仕種をするだけで、テラントはよろけた。
「なにがおかしい?」
「……だってさあ……ズィニアにそんな……ぼろぼろにされた体で……俺の相手……できると思うの? それがおかしくてさあぁ……」
「ふん……。俺はてっきり、安堵したからだと思ったけどな」
シーパルがこの場を離れると聞いた時、ゴーンはあからさまに、ほっとした顔をしていた。
「……安堵……?」
「怪我をさせられるなんて、思ってなかったんじゃねえの? お前、シーパルにびびってんだよ」
「……違う……」
「なら、あいつら追いかけてみろよ。俺の今の足じゃ、絶対追いつかねえからよ。お前に、黒い霧に近付く度胸があるならな」
「……」
「良かったな。俺が相手してやるお蔭で、寿命延びたぞ」
「……お前、ムカつく……」
ゴーンの手から、鍬が消える。
入れ替わりに、剣が現れた。
「……やっぱ、金髪嫌いだ……」
「……なあ。なんで金髪の奴嫌いなんだ?」
「……昔、虐められた……」
「……あっそ」
テラントは、光の剣を構え直した。
「言っとくがな、ムカついてるってことに関しては、こっちの方がずっと前からなんだ」
実戦では、初めて味わった敗北。
思ったよりも苦々しい。
「かまってやるから、かかってこいよ」
◇◆◇◆◇◆◇◆
最悪の状況と言えた。
戦況を分析したエスが出した結論が、それである。
ルーア、テラント・エセンツ、デリフィス・デュラム、シーパル・ヨゥロが負傷している。
果たして、デリフィス・デュラムとユファレート・パーターは、どれだけの時間ズィニア・スティマを押さえていられるのか。
二人が敗れれば、全て終わりだった。
ズィニア・スティマに各個撃破されていくことだろう。
(……ズィニア・スティマ)
出会わせるのが、早過ぎた。
「ズィニアが、実験と肉体改造を経て、今、生きている。それは、奇跡だと思わないかね?」
カップから口を離し、クロイツが言った。
横目で見ながら、エスも言葉を返す。
「あなたの口から、奇跡などと言う単語が出ると、不思議な気分になるな」
「ほう。なぜだい?」
「ものを考える際は、三百万分の一以下の可能性は、起こりえないこととして切り捨てろ。奇跡など当てにするな。……私にそう教えたのは、あなただ」
「……懐かしい話だ」
クロイツは微苦笑した。
「長く生きれば、考え方も変わる。それは、成長とも進化とも捉えられる。君には、縁のない話だろうが」
「私だって、変わるさ」
「君の変化は、せいぜいデータの更新程度だろう? 悲しいなエスよ」
「……」
微かな苛立ちを、エスは感じていた。
クロイツの滑らかな口は止まらない。
「私に対抗するために、肉体を捨て不老不死に近い存在となり、同志を取り込み力を二十五倍に高めた。だが、それでも私に届かない。そして、君の成長も進化も止まった」
「進化するということは、退化する可能性もあるということだ。あなたが私の高さまで落ちることもあろう」
「他人の凋落を当てにするのかね?」
「あなたは、不老でも不死でもない。いずれ、滅びる存在だ」
「確かにな。だが、リーザイの地下百三十階」
「!」
エスは、体が硬直するのを感じていた。
心臓を鷲掴みにされている気分になっている。
「そこに、君の本体はある。……なんだい、その表情は? まさか、私が気付いていないとでも思っていたかい?」
クロイツが、笑みを深くする。
「そのつもりになれば、君を消滅させることができる。だが、リーザイにはストラームがいる。今はまだ、あの男と全面的に争いたくはない。『コミュニティ』の戦力の半分以上を失うことになるだろうからね」
ストラーム・レイル。
ライア・ネクタスを守護する存在。
それに協力しているつもりだった。
(だが、私も守護されていると?)
「ストラームこそ、まさに奇跡的な存在だな。ただの人間なはずなのに、人間を遥かに超越している。そうは思わないか、エスよ」
「また、奇跡か」
「奇跡など、いくらでも転がっている。ただ、有り触れた出来事の陰に隠れているだけだ。私は、それに気付いた。いや、認める気になった」
「くだらないな」
「では、ストラームを、ズィニアを、ハウザードの存在を、どう説明する? ルーアやティア・オースターが、今、生きている。それは、三百万分の一以下の可能性だろう」
エスは、息をついた。
無言になり、白い部屋を歩き回ってみる。
映像も消した。
白い世界に、静寂が訪れた。
束の間だったが。
「どうしたのかね、エス?」
「久しぶりにあったあなたは、随分と多弁になった。そして、あなたと会話をすると、私は心を乱してしまう」
わかっている。
それは、クロイツが上の存在だから。
劣等感が、心を掻き乱す。
「長居しすぎた、クロイツよ。もう、去れ」
ここは、エスの世界。
外界に干渉することを妨害されていようと、この世界は、エスの思うがままだった。
「私の世界にまで侵入するのは、迂闊だったな」
世界に、白い雲が発生する。
降り落ちる大量の白い雨。
「ああ……」
雨に打たれるクロイツは、急に歳老いて見えた。
「あなたが、雨を嫌っているのは知っている。無理もない。あなたは、娘からのプレゼントも、家族も、世界も、希望も、全て雨の日に失ったのだからな」
雨に打たれたクロイツは、塩をかけられた蛞蝓のようなものだった。
エスは笑った。
気持ちが満たされている。
クロイツを出し抜けたのだ。
恨めし気な眼を向けてきたあと、クロイツは姿を消した。
「……あなたの言う通り、私は欠点ばかりだ」
エスは、独りごちた。
封じられていた能力が復活している。
「私には、肉体がない」
それは、長所であり短所でもあるだろう。
傷付くことがない。
だが、傷付けることができない。
それでも、言葉をかけるくらいはできる。
「私は、奇跡を起こりえないこととしている」
それは、短所であり長所でもあるだろう。
奇跡を起こすことはできない。
だが、奇跡を当てにするなと忠告できる。
エスは、力を外界に接続させた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
シーナの歩みが止まらない。
ゆっくりとだが確実に、集落へと向かっている。
(……どうする?)
ルーアは、奥歯を噛み締めた。
拡がった黒い霧。
薄いところを走り抜けてくる人影があった。
魔法の光に包まれ守られている。
流血で顔を赤くしているシーパル。
それに続くティアとリィル。
「お前ら……」
シーパルは口を押さえている。
吐き気を催しているようだ。
頭部を負傷しているのに、走ったからだろう。
「ゴーンの相手は、テラントが……」
シーパルの背中を摩りながら、ティアが言った。
「どんだけだ……」
あれだけ傷付いているのに、まだ戦えるのか。
霧に遮られて、その様子は窺えない。
「僕らで、こっちはなんとかしないと」
シーパルが、口元を拭う。
「わかってる」
シーパルが来てくれたのはありがたい。
ただ、リィルは置いてきて欲しかった。
辛いものを見せてしまうかもしれない。
誰かを庇いながら戦う余裕は、テラントにはないだろうから、仕方ないのだが。
「……とりあえず、シーナの足を止めてくる。……シーパル」
「はい」
細かい説明をしなくても、意図を察してくれる。
「ラウラ・バリア!」
光の膜が、衣のようにルーアの全身を包む。
「どれだけもつか、わかりませんよ」
「ああ」
ルーアは、腕を上げた。
「バルムス・ウィンド!」
霧を散らして、駆け出す。
あまり時間がない。
シーナの体からは、黒い霧が発生し続けている。
特に、彼女のすぐ周囲の霧は濃く厚い。
光の膜が、削り取られていく。
それでも、ルーアは接近した。
「ごめん!」
剣の腹で、シーナの右膝を殴った。
骨を折られたシーナが、短い悲鳴を上げて転ぶ。
霧に光の膜を剥がされながら、ルーアは下がった。
シーパルたちの所へと戻る。
足を折ってきた。
これで、前進は止められたはずだ。
足場を崩す手もあったが、前進を遅らせるだけで、止めることにはならない。
他の方法もあるかもしれないが、切羽詰まっている状況では、乱暴な手段しか思いつかなかった。
それに、痛みを与えれば集中は乱れる。
シーナは、能力を制御する訓練など受けていないはず。
魔法使いで言えば、見習い以下。
集中を乱せば、簡単に魔法を失敗する段階。
「ルーア……」
震える声で、ティアが呟く。
ルーアも、唾を呑み込んだ。
灼けた喉が痛む。
「なんで……」
シーナは立ち上がり、折れた足で歩き始めた。
これまでと、あまり変わらない速度で。
ふっと、白い人影が眼前に現れた。
こちらには、背中を向けている。
「シーナには、全身の激痛のため、もうまともな自我が残っていない。今では、痛覚もきちんと働いていないのだろう。折れた足でも歩けるさ」
「エス!?」
「能力の素質が、細胞一つ一つの遺伝情報に刻み込まれている。そして、今のシーナは、能力を脳で制御していない。暴走状態だ。痛みで止まりはしない」
「エス! お前……」
淡々と語るエスの背中に、ルーアは歯を剥いた。
「今までどこほっつき歩いてやがった!?」
「私にも、私なりの事情というものがある」
振り返ったエスの眼は、いつもよりも厳しいものとなっていた。
「君が聞きたいことは、概ねわかっている」
「シーナの力を、封印することはできないのか?」
「彼女の体にある魔法陣は、正常に発動している」
背中にある魔法陣には、能力を封じる力が、腹にある魔法陣には、抵抗を上げる力が、それぞれにあるはずだ。
「魔法陣が正常なら、なんで!?」
「ズィニアの魔法道具に、封印の力を弱められ、シーナは幾度か能力を発動させてしまっている。その刺激が、彼女の素質を、加速度的に開花させた」
「もう……抑えることはできないっていうことかよ……!」
「リィル!?」
ティアが声を上げた。
リィルは、気を抜かれたような表情で座り込んでいる。
ルーアは、胸の痛みを感じていた。
内臓を締め付けられているような感覚。
「なにか、ないのか!? シーナを助ける方法……」
「理論的にはある。だが、実践することはほぼ不可能だ」
「理論的には、あるのかよ……!」
ルーアは、エスに詰め寄っていた。
「なんだ? なにをすればいい? 教えてくれ!」
「……聞いたところで無駄だ。言ったはずだ。実践することは……」
「できないかどうかは、俺が決める! いいから言えぇっ!」
癇癪を起こして、ルーアは足下を蹴った。
エスが、溜息をつく。
「彼女の肉体を、細胞単位にまで分解させる」
「……え?」
「そして、細胞一つ一つの遺伝情報を、能力がない状態へと書き換える」
「……」
「その後、また細胞を結合させる。一連の作業を、死んだことを知覚できないほど一瞬で行えば、理論的には彼女を救える可能性がある。九千七百兆分の一ほどの可能性がな」
ルーアは、息を吐いた。
肺が震えるのがわかる。
「……わかった」
「今のシーナを救うことは、誰にもできんよ。ストラームにもな。恥じることはない」
「……わかった」
「……どう、わかったのだね」
質問に答える前に、ルーアはリィルに眼を向けた。
「……リィル……ごめん」
「はい……はい……!」
少女の瞳からは、大粒の涙がぼろぼろと零れている。
「シーナを……止めてくる」
「……それでいい」
呟くように、エスが言った。
「起こりえない奇跡に縋り付き、自身を危機に陥れ、犠牲を出す。それは、愚か者のすることだ。君は、正しい選択をした」
「……あんた、目茶苦茶頭良いのに、時々馬鹿だよな」
シーパルの防御魔法が、優しくルーアの全身を包み込んだ。
「正しい選択なんか、最初からなかった。全部、間違った選択だ」
「そうかも、しれんな……」
エスの横を通り過ぎる。
「これから君が戦うのは、剥き出しとなったシーナの心だ」
「どういうことだ?」
「聞かない方がいい。聞けば、君は戦意を喪失する」
「じゃあ、聞かねえよ」
「理解する前に、終わらせることを勧める」
エスの言葉を背中で聞いて、ルーアはシーナと近付いていった。
シーナは変わらず、夢遊病にかかっているかのような足取りで、集落へと向かっていた。
「シーナ……」
声は届かない。
わかっている。
「今、楽にしてやるからな……」
右腕を振り上げた。
「バルムス・ウィンド!」
暴風を起こす。
だが、今までよりも効果が薄い。
まだ、黒い霧がかなり残っている。
(霧が、重く厚くなっている?)
加速度的に素質を開花させていっている。
エスは、そう言った。
「フォトン・ブレイザー!」
光線が、霧と相殺し合い、シーナへと道ができていく。
そこを、ルーアは駆け出した。
絶え間なく発生する霧に阻まれ、遠距離からの魔法は届かない。
接近するしかない。
シーナは、戦闘については素人だった。
いや、それ以前か。
まともな意識すら残っていないのだ。
一時的にでも霧を除去できれば、簡単に近付ける。
迫るシーナの姿。
ルーアは剣を握り締めた。
シーナの唇が、微かに震える。
「……助けて……」
「…………!」
足が止まる。剣が止まる。
再発生した黒い霧が、光の膜を削っていった。
「くっ!」
シーナの背後へと抜ける。
なんとか、霧から逃れられた。
「……助けて……助けて……助けて」
風上なのに、その呟きは聞こえてしまう。
「くっそ……!」
剣を振り上げた。
「ちくしょう!」
足下に、刃を叩きつける。
「なにが、殺してくれだ! なにが、死にたいだ!」
助けて、助けて、助けて、生きたい。
「それが! 本心だろうがよ!」
腕を振って、シーナへと言葉を飛ばす。
「諦めろよ!」
叫んだ喉が痛い。
傷のせいだけではない。
「あんたは、もう助からねえんだ! だから……!」
「……助けて……」
「……!」
聞きたくない。
耳を塞ぎたい。
いっそ、鼓膜を破いてしまおうか。
だが、そんな逃げ方は許されないだろう。
彼女の言葉を、一言一句聞き逃すな。
その姿を、眼に焼き付けろ。
その上で、殺せ。
ルーアは、シーナへと駆け出した。
黒い霧は、さらに濃厚になっている。
全身を包む防御の魔法と反発する力で、なかなか近付けない。
「……助けて……」
シーナの歩みは、止まらない。
「……助けて……」
間もなく、黒い霧は集落へと達する。
「……お願い……」
今はまだ、シーパルが魔力障壁を展開させてなんとか遮れているようだ。
ティアが、庇うようにリィルを背中に隠していた。
もう、時間がない。
「……助けて、あげて……」
呟きが、はっきり聞き取れる距離。
「……お願い……リィルを……助けてあげて……」
それを聞いて、ルーアは力が抜けていくのを感じていた。
膝をつく。
シーナは、自分の命乞いをしているのではなかった。
「……なんだよ……あんた、そんな状態になっても、妹のことばっか考えてんのかよ……」
まともな意識が残っていないのに。
体中が痛いくせに。
光の膜が、消されていく。
あと僅かな時間で、その効果は失われる。
「お姉ちゃん!」
リィルの叫び。
ティアが突き飛ばされる。
リィルが走り出した。
不意を突かれ、シーパルも対応できない。
その横を通り過ぎた。
シーナへと走り寄る。
風下だ。
大量の黒い霧に、リィルを包む光の膜は消失していった。
リィルは、無傷。
彼女には、完全な耐性がある。
シーナの腰にしがみついた。
胸に、顔を埋める。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。わたしは、大丈夫だから……」
シーナの歩みが、止まった。
黒い霧が、少しだけ薄くなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます