第9話 さようなら、富野くん


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 七月がやってきた。

 織部伊織は、入院先のベッドに身を起こし、四方のカメラ内蔵式同時投影内壁(ビジュアル・クラッド)に映る気温三十度の屋外を眺めている。

機密を保つために窓を排したオベリスク状のビルが立ち並ぶ中央青鷲区の景色にリゾート気分を感じるのは難しい。唯一の利点は、地上二十六階に入院した自分を狙うメディアのドローンが飛んでいないことを、眼で見て知れることくらいか。

《孤島》での決戦から、早くも三日が経過していた。

 《オペラ座の怪人事件》はセンセーショナルに報道され、本土でも《島》でも多くのメディアへの需要を生んでいる。科研費不足に喘ぐ民科捜たちが、織部を狙う理由は充分だった。

 まったく。すぐにでも病室を抜け、会わなくてはいけない人がいるのに――

 思いきりついた溜め息すら、おせっかいなスタッフが焚いたココナッツの香を鼻孔に残すだけだ。

「処置、終わりました」

「ああ、ありがとう」

 左腕のギプスを調整してくれていた小麦色の肌の看護師に、織部は礼を言う。薄いピンクの制服を着た彼女が病室を出て行くのを目で確かめるやいなや、織部は枕を抱きしめると、深くため息をついた。

「君は今、どこで何をしているんだ、富野くん……」


「残念。私なら、今ここでお見舞いに来てるんですけどねぇ」

「……っ!?」

 不覚にも肩を跳ねさせてしまった。

 枕を放り出し、ぎくしゃくとした動作で入口を見る。スーツ姿の同僚が、半笑を浮かべて立っていた。

「いやぁ、はは。ズタボロじゃないですか織部警部補。お若いからって無理は駄目ですよ? 貴女は将来、有望なんですから」

 相田忠義警部は、包帯でぐるぐる巻きにされた織部の両脚と、固定された左腕をニコニコと指差しながら、軽快に歩み寄ってきた。

 見舞い客の接近を察知した《椅子》が柔軟なスマートスキン製の床からせり上がってくる。腰かけた相田忠義は手にしたビニール袋から、がさごそと緑色の菓子パンを取り出した。

「お昼のついでに寄らせていただいたもので、ご飯だけ失礼しますよ。あ、織部さんも食べます? ヤクヨ製のミドリムシパンなんですけれど、今後絶対に流行してお店から消えるので、試食するなら今のうちで――」

「お前は、どこまで知っているんだ」

 パンに齧りつこうとしていた相田に織部は問うた。狐目の同僚は、きょとんと静止する。

 数秒も見つめ合った後、相田忠義は静かにパンを下ろすと、真剣な面持ちになり、まっすぐに織部を見つめ、言った。

「――鞭毛運動をする動物でありつつ、光合成もできる植物であり、古くはユーグレムシと呼ばれていたこともある……程度までなら余裕ですが」

「ミドリムシについてじゃない。蒼井依知華ちゃんについて、お前は一体何を知っているんだと訊いているんだ」

 三日前のことだ。《怪人事件》の最終局面に現れたのは、なんと、この男だった。

 悲鳴をあげる《怪人》に覆いかぶさり、狂ったように喰らいついていた蒼井依知華ちゃんは、突如飛来した網によって吹き飛ばされた。

目で追うと、目の細かいネットに捕縛された蒼井ちゃんが床に転がり唸り声をあげている。網が飛んできた研究室の入口を振り向けば、なんと相田忠義が、犯人逮捕用のネットショットの大筒を携えた飄々と笑んでいた。

「……ふう。何回やっても手が震えますねぇ、これ」

 なぜお前が――?

そう思う余裕は、織部にはなかった。

 蒼井ちゃんの生き返りに衝撃を受け過ぎていて、目の前の景色が、それこそ自分以外の全員が仕掛け人のドッキリ劇のように思えていたのだ。富野くんの安堵の声が耳元で聞こえて、やっと我に返った。

『遅いですって、相田さん……』

 ヘルメットのせいで表情は見えなかったが、富野くんと相田忠義の間で、意味のある視線の交感が行われていたのを、織部は感じた。


「お前と、トミノ民科捜、どういう繋がりがあるんだ?」

 織部は、相田忠義を睨みつけて詰問する。

「《孤島》に行くことをお前に伝えたのは他でもない、パワード・スーツの借用をお前に求めた私だ。だから、あの瞬間にお前が現れたこと自体に疑問は無い。……だが、どうしてお前は蒼井依知華ちゃんに冷静な対処ができた? ネットショットを持っていたのが偶然だとは言わせないぞ。拳銃の利かない相手がいると分かっていたから、スタンガンでもパワードスーツでもなく、お前は大筒を持参したんだ」

 蒼い光と共に蘇る人間。

 拳銃を無力化して、敵へと喰らいついた少女。

「答えろ。蒼井ちゃんは……あれは、いったい、何なんだ?」

 自分でも情けないくらいに、切実な声で、織部は訊ねていた。

 相田忠義は、ふっと口元をほころばせると。

「あはっ……。未確認技術(ブラックスワン)ってご存知です?」

 と、内緒話を楽しむような笑顔で、身を乗り出した。

「沖ノ鳥島のスラングの一種なんですけれどね。未だ実現していない技術や、『映画でやってろ』っていうくらい有り得ない現実に対してたまに使われます。蒼井さんはね、まさに未確認(ブラックスワン)級の存在なんですよ。富野くんの努力虚しく、正体不明です。赤肚小咲さんをはじめとする強大な協力者がいるにも関わらず、なぜ彼女が不死なのか、まったく分かっていない」

「そんな特異な存在が、なぜ一人の少年に託されているのだ」

 いや、そもそも、そんな存在がいること自体に再度驚愕すべきなのだろう。

だが、百聞は一見にしかずというのは真実で、《孤島》で見た蒼井ちゃんの圧倒的な現実は、不老不死などという荒唐無稽な単語に決定的なリアリティを与えてしまっていた。

「とても管理しきれるものではない。いい子ではあるが、富野くんはまだ少年だぞ。中央四区のテクノクラート達が黙っていないだろうに」

「そのテクノクラート、五賢人の一角から、富野くんは蒼井さんを奪ってきたんですよ。直談判でね」

 織部は、虚を突かれた気分になる。「え……」

「蒼井さんの《暴走》、見ましたよね?」

相田忠義が、大量の微生物が詰まったパンに食らいついた。「紀乃階音を喰い殺しかけたあの状態は、ヨシキリザメやヤナセフクロウにみられる《狂乱索餌》に似ていまふ。命の危機に晒されたり、大量の血を嗅いだりした動物が、集団で敵を食い散らす現象のことです。傷を癒す養分を求めての行動とも、自衛のための攻撃とも解釈されるのですが……蒼井さんもどうやら、体を著しく損傷した場合に狂乱索餌に陥ってしまうらしい。……で、」

と相田は二口目を齧りとって。

「蒼井さんの狂乱索餌の最初の現場に居合わせたのが、五賢人の一人だったんですよ。赤肚揺堂。赤肚小咲さんのお父さんです。赤肚医師は、蒼井さんを自らの研究対象として確保したのですが……富野くんはどんな手を使ったのか、彼から蒼井さんをかっさらってきたんですよ。いやぁ、はは。若さの為せる業ですかねっ」

「なぜだ……どうして富野くんに、そんな権利がある」

 織部は、眉を顰めた。

「《大哲学者》の息子だからか? 不老不死の人間を、なぜ赤肚医師は、知識も経験もない素人に渡したのだ……」

「知識と経験はありませんでしたが、理由はあったんですよ」

 相田忠義が、いつの間にか手にタブレット端末を持っている。

「それは?」

「理由ですよ。富野ユタカくんの」

 にこりと、相田がタブレットを差し出してきた。「よろしければ、覗き見ます?」

 差しだされた端末を、織部伊織は受け取った。

 画面に映っているのは、いくつかのテキストデータの束だ。

 トップに表示されている資料に、織部は、息を呑んだ。

「…………っ」

 ――馬鹿な……この、顔は……――

 一枚の写真に写っていたのは、女の子だった。

 こちらをまっすぐに向き、派手さのない清楚な笑顔をうかべている。卵型の血色のいい顔に、ぱっちりと大きな両目が愛くるしい。肩まで伸ばされた癖のない髪は艶やかな黒で、飾り気はなかったが、純朴な魅力があった。

 資料にある名前に、織部は思わず、口を手で押える。

 《蒼井依知華》。

 そこに記載された少女は、髪や肌の色こそ違えど、紛れもなくトミノ民科捜の一員だった。

「これは……何だ」

「リストですよ。二年前のMF往復便墜落事故の、死亡者名簿です」

 織部伊織は心を落ち着かせようと深呼吸をした。ココナッツのミルキーな香りが鼻を満たす。

「……そういうことか」

 織部の脳裏に、富野ユタカの立ち姿が蘇ってきた。

 怪人との決戦の地に向かいながら、潮風に髪を靡かせ、海の彼方を見据えて少年は言った。

――僕は、あの時の無力を克服したい。

 墜落事故の現場で、何も出来なかった父と自分を呪って。

――今度こそ僕が救いたい。だから僕はこの島で、蒼井の病の研究をしています。

 そんな彼に、織部は問うた。死んだ少女の面影を蒼井ちゃんに見ているのかと。富野くんは眉を下げ、いつもの照れくさそうな苦笑を浮かべて肯定した。まあ、そんなところです。

 違ったのだ。

 彼は、幼馴染の面影を蒼井ちゃんに見ていたわけではない。

 蒼井依知華ちゃんこそが、富野くんが好きな女の子だったのだ。

「墜落事故の現場で、蒼井依知華さんは確かに死体として収容されました」

 相田忠義が続ける。「ですが、蒼井さんは、目を覚ましたんです。人間離れした姿をした不死の存在としてね。そして、彼女は復活を遂げたその瞬間から、死を望んだ。蒼井さんに宿っていた意識は、生前の蒼井さんとは全くの別物でした」

 立ち上がった相田忠義が、コキコキと手首を揉みながら、壁際へと歩み寄っていく。

「蒼井依知華さんはまるで、元々意識というものを持たなかった何かのように振る舞った。目でものを見たり、肌で熱を感じたり、そういう《感覚》の一切を疎んでいました。曰く、無に還りたい、静寂に戻りたいと、嘆き悲しんでいましたよ。自殺の真似を繰り返し、そしてその度に、生き返りました」

「では、富野くんの研究の目的は……」

「ええ。蒼井依知華を殺すこと、です」

 織部の胸の奥を、形容しがたい痛みが貫いていった。

 ぎゅっと胸元を握りしめる。

 相田忠義が、くすりと息をもらして微笑んだ。

「いやぁ、はは。ロマンチックじゃないですか。幼馴染を死なせてしまい、今度こそ救うと誓った少年に、少女が求めたのは皮肉にも、自らの殺害だったんです。富野くんは自らの無力を贖うために、愛する少女を再び殺さなくてはいけない。こんな刺激的な物語が、本土にありますか?」

 身震いすらしそうな勢いで声を弾ませる同僚に、織部はやはり嫌悪感を抱かずにはいられない。だが、喉を這いずった虫唾は、以前ほど強烈ではなかった。

 この《島》には、猫を殺す不謹慎な好奇心が満ちている。

だが、その原動力は、研究者たちが世界に抱えている、耐え難い改善の願いなのだ。

 富野ユタカが、蒼井依知華の死を叶えたがっているように。

 赤肚小咲が、誰かと心を通わせられる共通言語を求めているように。

 織部の父が、互いの幸せを求めて、祖父を機械の腕に預けたように。

 沖ノ鳥メガ・フロートは、犠牲を払ってでも世界を変えたい人々の願いで駆動している。科学の負い目だけを掲げ、彼らを糾弾することは、必ずしも正義ではない。かもしれない。

「彼らの事情は分かった」

 織部は静かに頷き、「なら、貴様は何者なんだ?」

「は?」

「彼らの事情にそこまで精通している貴様は、何者なんだと訊いている」

「何者って……」

 ぽかんと呟いた相田忠義が、みるみる目を見開き、口に最上の笑顔を浮かべていった。

「はは……すごいですね……! そんな格好いい質問をリアルで誰かにされる時が来るなんて。いやぁ、はは! 夢にまで見ていましたよぅ!」

 芝居がかった動きで胸に手をあて、警部は名乗った。

「相田忠義。蒼井依知華を狙う秘密組織のエージェントです」

「ふざけるな」

「嘘でした」

相田忠義がパンの残りを口に放り込んで笑う。「そういうのに憧れているただの警察官ですよ……。墜落事故の後、蒼井さん達が収容された病院で起きた《ちょっとした事件》を、たまたま担当していて、幸運にも物語に巻き込んでもらえただけの……それだけの人です」

「本当だろうな?」

「それ以外に何があるっていうんです?」

「それは分からん」

 織部はベッドの柵にもたれ、壁面から青空を見上げた。

「……分からないことばかりだ」

「大丈夫ですよ。分からないことなんて今に何もなくなります。沖ノ鳥メガ・フロートは、そのための《島》ですから」

 ビニール袋からキャスケット帽を取りだし、目深に被ると、相田は言った。

「さて、改めまして……本件ではお疲れ様でした。ニュースでは辛く騒がれていますが、《怪人事件》の収束は目前です。中央四区の《イメージ戦略》は、既に起動していますのでね」

 本土から遠く離れた沖ノ鳥メガ・フロートの価値は、実体ではなく、イメージで決まる。

 オーシャン事件の血みどろの裁判を、日本の科学の復興の烽火にしたてあげた広報戦略。Uフェイト事件での悪評を、世界の危機を救った科学者の物語にしてしまった情報統制。見せ方と印象のコントロールで国は納得し、世界は操作されてきた。

 運命の車輪は止まらない。

パソコンが進化を続けているように。

原子力発電所が世界の夜を照らし続けているように。

万人を抹殺できるハッキングが可能であろうと、人類の生活圏を半永久的に封鎖してしまうリスクがあろうと。

 世界にはそれでも、進化が必要だ。

 世界は、耐え難いほどに不便で、

 マイナスに満ちているのだから。

「ところで、今日はこの後、トミノ民科捜の方々と一緒に《孤島》の検証に行くんですけれどね。何か、伝言はありますか?」

「……元気で、と伝えてくれ」

 寂しさはあるが哀しくはない。

「私はもう二度と君達の邪魔はしない。会うこともしない。だが、陰ながら応援していると、彼らに伝えてくれ」

「切ないですねぇ」

 相田は肩を竦めると、「かしこまりました」と目を細めた。「確かにお伝えしますよ、織部警部補」

 さようなら、富野くん。

 織部伊織は、青く澄んだ空を見上げた。

 君がいつか、父上の呪いから解放されることを願うよ。

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