第8話 別れと再会


   8


 そんなわけで。

 僕はそろそろ《あの事件》のことを語るべきなのだと思う。


 僕と彼女の別れの話。

 そして、僕と蒼井依知華の、再会の話だ。


   ※


 全ては父の無力のせいだったと甘えることが許されるだろうか。

 あるいは、誰だって何もできなかったさ、と納得してしまうことが?


 そんな自問自答を僕は、あの墜落事故の現場からヘリコプターで搬送される道すがら考えていた。

 家族と好きな女の子をいっぺんに喪った僕は、心身ともに極限までやつれていたし、自分自身のことよりも優先して考えることができるような他者や世の中との繋がりというものを一切無くしてしまっていた。救助隊員達の処置が続くなか、僕が考えていたのは、僕個人の、これからの僕自身に対する処遇だけだった。


 僕は、僕の無力を、許してもいいのか否か。


 いや……赦せるはずがない。彼女の生存に気がつけなかったのは、他でもない僕なのだから。

 僕は応急処置の心得も、怪我人の扱いも、何も知らなかった。そういう技術を身に付けたいだなんて唯の一度も思わぬままに日々を過ごしてきてしまっていた。彼女を死なせてしまった理由の一端は、僕のそういう、僕自身の責任や価値への無関心と怠慢にあった。

 もちろん、僕に能力がないことが、客観的にみてほとんど仕方のない事だということは分かっていた。一人の中学生が、航空機の墜落事故現場でだれかの命を救える可能性なんて、一般的にほとんど0といっていいだろうから。

 僕はこれからも、世間的にはただの可哀想な被害者で、あまりに多くのものが喪われた現実を、空虚に歩いていくことしかできない。

 僕は、彼女の死に、なんの責任を持つこともできなかった。

 僕が、無力だったせいで。

 これからも、永遠に。

「…………っ……」

 ヘリコプターの揺れを感じながら僕は、情けなく涙を流していた。

 仕方がないだなんて割り切れるはずがなかった。

 僕は、だって、無力であることについて何度も考えてきたつもりだったのだから。

 そして僕はほんの数分前に、真夏の夜の湿度のなかで、感染症を発症し、少しずつ黒ずんでいった父に、他でもない《無力であること》を糾弾してしまったのだから。

「……気がついていたのか?」

 泥のなかに沈み込み、それでも薄らと瞼をあけた父に、僕は憤怒に染まった視線を降らせた。

「気がついていたのに……父さんは何もせずに……彼女を見殺しにしたのか……?」

 《大哲学者》と呼ばれ、世間から持て囃されていた父に、僕はずっと不安を覚えていた。

 世界中の人々の幸せを願い、各所を行脚していた父はたしかに、出会った病める人々を言葉の力で元気づけていたかもしれない。しかし、父の行動の何か一つでも、彼らの問題の解決に貢献しただろうか。

 答えは否だと感じられてならなかった。

なぜなら、僕がずっと見続けてきた父の自宅での姿は、ただのぐうたらで、決断力に乏しくて、家にいる僕に構いたがりの、平凡すぎる人間だったからだ。

 だが、否であると確信してしまうことはどうしてもできなかった。世界中にこれだけ持て囃され、金品をも貢がれ、苦笑いでそれを享受してきた父がもし、世界の改善に対してその実なんの努力もしていなかったのだとすれば――それは、僕の父が詐欺師だという事と何も違わない気がしたからだ。

 僕は、その致命的な不安から目をそらし続けてきた。心のどこかで父を誇りたくて――そしてそれ以上に僕自身が恥をかくことを恐れて、僕は、父は《大哲学者》なのだと、思考を先に進めずにいた。

 そして、僕らは堕ちた。

 全てが木っ端微塵になった地獄の底で、父はひたすらに何もできないまま、腹部に裂傷をうけた彼女が弱り果てて死んでいくのを眺めているだけだった。

 父には、医療の心得がなかった。

 父には、衛生管理の技術がなかった。

 父には、瀕死の彼女を介抱する程度の気遣いもなかった。

 泥のなかに沈み込み、それでも薄らと瞼をあけた父は、消えゆく意識のなかで笑って、動かぬ唇を動かした。

「お前に生きて欲しかったんだ」

 僕は慟哭した。

 どうでもいい。

 どうでもいいと僕は思った。

 お前が僕にどうなって欲しかったかなんて、どうでもいいんだと首を振った。

 僕の中で、僕の不安が、確信に変わってしまった。

 父は、役立たずだ。僕は、詐欺師の息子だ。父には世界を救う能力がない。そのための努力もしてこなかった。貧困に喘ぐ人々を、不衛生に溺れる人々を、あれだけ見続けてきたくせに、彼らを助けるための力を何一つ、その手に持とうとしなかった。父の嘘が、いま、ここで、彼女を殺したのだ。

「父さんじゃなく……あの子のお父さんが生きていたらよかったんだ」

 そして僕も同じだ。

 父の無力に心のどこかで気がついていたのに、僕自身も何の努力もしてこなかった。

 決定的な局面で「何もできない」ということが、あんなにも悪いことなのだと僕は初めて気づいた。自分に能力のないことが、こんなにも大切な人の不利益になってしまうだなんて僕は知らなかった。

 僕に力があれば彼女は死ななかった。

 もちろん、後悔してもすべては手遅れだった。

 彼女は死んでしまった。

 それが僕の無力の、二度と贖えぬ罰だった。

 

   ※


 その、はずだった。


   ※


「お、お、おはよぅう〜〜」

 白ボケした天井をバックに、艶のない長い黒髪をぼさぼさに振り乱した白衣の少女が、引き攣った笑顔で手を振っていた。

 ヘリコプターのなかの、どの時点で気をうしなったのか分からない。自分がどうやら遠い距離を運ばれて、長い時間が経って眼を覚ましたらしいという感覚を、ぼんやりと感じた。

 涙に潤む視界をこじあけ、僕は、働かない脳を無理やりに動かして、僕の顔をものすごい至近距離で覗き込んでくるその痩せこけた少女に言った。

「……ここは…………」

「あはっ、もう声が出るのねええ。ここは中央病院よぉ。沖ノ鳥MFの、私の専用手術室ぅううう」

「……ぼくは…………」

「えっ、なになにっ、『僕は生き残ったのか』? そうよぉおお、私っ、私のおかげ! 私があなたの体の管という管から悪いものを絞りだして新鮮な液を詰替えてあげたから――あ、あっ、それとも『僕は誰だ?』って言いたかったのかしらっ! えーっとね、あなたは富野ユタカくんね! 墜落事故の、唯一の生存者! おめでとぉうう!」

「……ゆい、いつ…………」

 その言葉に、僕は痺れていた脳が、じくじくと覚醒していくのを感じた。

 唯一の、生存者。

 それはつまり、僕以外、みんな――。

 ……うそ、だ…………。

「えっ、ちょ、ちょっと」

 歯を軋らせて点滴台を握りしめ、力のはいらない体を起こそうとした僕を、白衣の少女が制そうとした。

「無理無理無理無理っ、無理よぅ! きみの筋肉はいま、所々チーズになりかけちゃってるのよ? 私がどれだけ愉し……苦労して循環系をリセットしたと思って――」

 キンキンと耳に声を響かせる少女を押しのけて、僕は寝台から立ち上がった。体重を支えた脚が、内側から気泡をあげて蕩け崩れてしまいそうな不快な激痛を訴えてきたが、構うものかと思った。

 僕は、この期に及んでも絶望しきれていなかったのだと思う。

 痛みに耐えて歩き、彼女を一目見ることが、僕が彼女のためにできる唯一の努力な気がしていた。もはや彼女は致命傷を負っていて、実際には僕の苦痛だなんて何を贖うこともできないにも関わらず、だ。

 鉛のように重い病室のドアをスライドさせ、異星のような重力を感じさせる途方もない白い廊下を僕は彷徨い歩いた。

「もぉおおおうっ! こっち、こっちよぅ!」

 見るに見かねたのか、白衣の少女ががくがくと奇怪な動きで廊下の一角を指差した。

僕は点滴台を杖のようにしながら、肺が破裂してしまいそうなほど息を乱して、一歩、一歩と、少女が指さす扉に近づいた。残された全ての力を込めて、僕はその白いドアをスライドさせた。

 処置室のなかに、寝台があった。

 搬送用のベッドに、誰かが寝かせられていた。体だけでなく、顔にも布がかけられていた。

 赤く染まった包帯や、ガーゼに包まれた医療器具が金属質の台に置かれているのも関わらず、室内にはただの一人も医者がいなかった。まるで、此処には医者の仕事はもう無い、とでもいうみたいに。

 ベッドから、寝かされている誰かの手が零れていた。

 僕は息を呑んだ。

 ――僕はその手を知っていた。僕がどれほどその誰かを見てきただろう。華奢で白い手のかたちはもちろん、どんな風に笑うのか、どんな風に拗ねるのか、嬉しい時どんなしぐさをするか、どんな風に歩くか、いくらでも思い出せた。

 僕は、顔にかかっている布を、震える手でめくった。

 彼女だった。

 死んでいた。顔は血の気のない真っ白だったし、およそ人の温もりというものも存在しなかった。閉ざされた瞳はぴくりとも動くことはなかった。

 それでも、綺麗だった。当然のようにまた目を開いて動くんじゃないかというくらい。

「う……ああぁぁああああああああああああああああああ」

 僕はその場で泣き崩れた。

 悔恨の念が僕の心を塗りつぶした。

 生き残ったのが僕や父でなくて彼女の父だったら、彼女は生きていたかもしれなかった。父と僕の無力が彼女を殺してしまったのだ。

 頭の中がぐちゃぐちゃになって、死んだ彼女にすがりつくように崩れ落ちた。もう彼女に会えないと思うと、生きる意味だって感じられなかった。

 そんな時だった。

 異常は起こった。

 視界の隅にちらつくものがあって、僕は顔を上げた。

 はっとした。

 青い燐光が、立ち上っていた。

 彼女の体から――いや、彼女の体を中心にして、僕と彼女を取り囲むように、仄かな、幻想のように美しい蛍火が渦を巻くように踊っていた。僕は、その荒唐無稽な物語に出てくる魔法のように美しい光景に眼を奪われた。

 そして、奇跡は起こった。

 彼女が、僕を見ていた。

 死んだはずの彼女の目が、ぱっちりと開かれ、僕を捉えていた。

 美しい黒だったはずの彼女の瞳は、何故か、長い睫毛にふちどられた鮮やかな蒼に染まっていた。生気を吹き返したミルク色の肌とも相まって人形のように美しかったが、どこか非人間的な希薄な現実感も同時に湛えていた。

 むっくりと、彼女が上体を起き上がらせた。

 現世を懐かしむかのように、彼女はその白く華奢な両手を見つめていた。

 奇跡が起こったのだ、と僕はぼんやりと感じた。

 神様が、慈悲をくれたのだとしか思えなかった。

「蒼、井……」

 僕は彼女の名を呼んだ。がりがりに痩せた手をさらに震わせて、彼女へと伸ばした。

 彼女の顔が、その複雑で神秘的な輝きを宿したブルーの瞳が僕を見つめた。二度と会えぬと思った彼女の視線に、僕の心が激しく揺れ、思わず口の端がほころびかけるのを感じた。

 僕の指先が、彼女の頬に触れかけた、その時だ。

「え、あぁ」

 彼女の口から出たのは、意味のない言葉だった。

 焦点の合わない目を彼女はぐるりと回した。首を曲げ、およそ人間のそれとは思えない動きをした。

「……っ?」

 声にならぬ声をだした僕を、彼女の両目が睨んだ。彼女は、社会のことを何も理解していない赤ん坊がするような、生理的な不快を露わにする苦々しい表情をしていた。

 彼女は、僕が差し出していた手を掴んだ。そして、なんの躊躇いもなく――噛みついた。

 僕は一瞬、何が起こったのか分からなかった。

 彼女の歯が僕の手の甲と平に埋め沈められているのを見て、肉と血管が分断されて骨に圧力がかかっているのを覚えて――赤い液体がぼたりと寝台のシーツを汚したのを見届けてやっと、僕は状況を理解した。

「ぐ……あぁあああああっ!」

 僕は悲鳴を上げた。

 起こったことは理解できても、起こした彼女が理解できなかった。

激痛にほとんど我を失って、僕は蒼井の顔を左手で引き剥がそうとした。ますますめり込む蒼井の歯に、脳が焼き切れそうだった。涙が視界に滲んだ。痛みのせいだけではなかった。

「どうしてだよ……っ」

 神様は、彼女を、生き返らせてくれたんじゃなかったのか。

 神様は、いったい彼女を、どうしたんだ。

 僕は痛みに耐えかねて、咆哮と共に力ずくで彼女を引き剥がした。

 よく、『チーズになりかけている』らしい僕の筋肉が、彼女を引き剥がせるだけの力を出せたものだと思う。火事場の馬鹿力、というやつだろう。そしてそれが、彼女に喜ばしい結果をもたらすというわけでもなかった。

 突き飛ばされた彼女は、ベッド上でバランスを崩し、金属の器具にぶつかって派手な音を立て、そのまま床に倒れ込んだ。

 そして、動かなくなった。

 彼女が倒れ伏した床に、少しずつ、血だまりが広がっていった。

 急激に、僕の心臓が冷えていった。

 運が悪かったとしか言いようがない。僕が彼女を突き飛ばした先には、例の医療器具を乗せた金属質の台があった。その鋭利で重厚な角に、彼女は剥き出しのうなじをしたたかに打ちつけ、そのまま肉を削り飛ばされるように床へと墜落した。

「……っ、そんな……!」

 僕はまたしても半狂乱で叫んで、寝台を避けるのももどかしく彼女の下へと屈みこんだ。

 金属の台には光沢のある彼女の血がべったりとついていた。蝋のように滑らかな彼女のうなじは、新鮮な赤の断面が覗いていて、明らかに致命と分かる量の血がとめどなく溢れていた。

 僕は泣きながら、後悔した。嫌な手応えを、心の中で拭った。

 致命傷だ。

 僕は、また彼女を殺してしまった。せっかく、神様が生き返らせてくれたのに、僕は、この手で……。

「だ、誰か……彼女を助けて……」

 目眩のする世界で、僕は、部屋の入口にいるはずの白衣の少女に声を張った。痩せこけた白衣の少女は、そのぎょろりとした目をいっぱいに見開いて僕の腕の中の彼女を凝視していた。


その時だった。

 青い燐光が見えた。

 幾度目か分からない衝撃に僕は眼を剥いた。

 時間が巻き戻るように。あるいは、裂かれた傷口を紡ぐように。サファイア色の光の胞子が芽吹くかのように光が彼女から再び立ち昇っていた。

 ふつり。

 ふつふつふつふつ。

 ふちゅちゅちゅちゅり。

 凛とした色調の光が収束するころには、彼女の首に空いた真っ赤な裂傷は、皺ひとつ残さず消えていた。

 そして、黒く綺麗だった彼女の髪は、気付けば、透き通るような、鮮やかな蒼色になっていた。

 まるで映画や漫画に出てくるキャラクターみたいな、蒼くてキラキラした女の子が、そこにへたり込んでいた。

「う、あ、くる、しい」

 鉱石から削り出されたように煌く少女は自らの頭を抱いて呻きだした。

「いたい、まぶ、しい、なんだこれは、うるさい、いたい」

 言葉を覚えたての幼子のように、彼女は虚ろな瞳でそう繰り返していた。


   ※


 それが、僕と、生き返った僕の幼馴染『蒼井依知華』との最初の出会いだった。

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