第7話-3 蒼色の未知


「世界が既知になっていく快感に満たされたことはあるか」

 《怪人》の声をどこか遠くに聞きながら、僕は、凍りついている。

「思うに、好奇心ってのはこっから始まったんじゃねえかな。脳内報酬系が最初に探求に味をしめたのは、未知を、既知に変える安堵、優越感だった。それがいつしか、好奇心としてパッケージ化されたんじゃねえかな」

 白壁くんが、脇腹を抑えて、それでも猶、立ち上がろうとしている。片膝をつき、肩を上下させながら、ぐぐぐと顔を持ち上げている。

「分かるか?」

 布に包まれた白壁くんの頭を迎えたのは、ニヤニヤと笑う《怪人》が構える鉛の銃口だ。

「寂しいことに、悲しいことに、オレにとっちゃ人間は、もう一次元下の存在なんだよ」

 白壁くんが、ふっと一息を吸いこむと共に、巨大な手の平で怪人に掴みかかった。

 その瞬間、《怪人》が構えていた銃が、白壁くんの右肩を撃ち抜く。赤い橋が宙にかかった。背後に倒れ込んだ白壁くんの、身体を支えた左腕を、《怪人》はさらに嗤いながら撃ち抜いた。

 巨木がへし折れるように白壁くんが倒れる。

「科学の暴走、それがオレだ。巻き込まれて死にやがれ!」

 爆笑しながら、《怪人》は、仰向けに倒れた白壁くんの胴の中央に、銃口の狙いを定めた。

「俺は今ここに! 人間の完全解明を宣言するぜ!」

 よせ――。

 僕の叫びが、口から発される、直前だった。


「完全解明?」


 聞きなれた、澄んだ夏の風のような声が、聞こえた。


 怪人が、部屋に入ってきたらしい彼女を見つめて、面倒臭そうに首をかしげる。

 僕は、自由にならぬ視界のせいで彼女を見ることができない。でも、状況は、手に取るように分かった。

 蒼井が来た。

 僕らの敗北を見て、この現状を、なんとかするために。

 たった一人で。

「孤島に上陸した、最後の一人か」

《怪人》が呟く。「どうしたお嬢ちゃん。こんな所まで、オレの言い分に異議を唱えにきたのかい?」

「そうではないが、異論は唱える余地がある」

 少女の声が言う。

「お前の理論は破綻していると言わざるを得ない。脳地図を完全に把握することが、どうして人の全てを理解することになるというのだ」

「……オイオイ、お嬢ちゃんには難しかったか? ヒト・コネクトームには、人間のあらゆる感情や行動の回路が刻まれてるんだぜ? 人間のコントロール・パネルそのものだ。ご丁寧に記憶まで書かれてやがる。これを知ることを、人間を知ることと言わずして、どうするって感じだろ?」

「そうだろうか?」

 蒼井の声は、あくまで冷淡だ。

 興奮ぎみだった怪人の、口元がぴくりと止まる。

「たとえば紀乃階音。お前は、ヒト・コネクトームから、人間の感情を読み取れるのか?」

「……あ?」

「コネクトームから人間の感情を知ることができるか、と問うたのである」

 ぺた、ぺた、という気の抜けたビーチサンダルの足音が、僕達へと近づいてくる。

 唐突な問題提起に硬直していた《怪人》だったが、すぐに口元に笑みを取り戻すと、やれやれといった風に首を振った。

「なんだ? 脳の器質的な解析を終えたオレに対して、肉じゃなくて感情の問題で咬みつく気か? 残念ながら、コネクトームから感情は読み取れるぜ。空を美しいと思う時には必ず、それ用の回路が活性化するんだからな。美に対応した回路の電位さえ読み取れば、脳が――その持ち主が――空の青さに打ち震えていることなんて、バッチリ分かっちまうのさ」

「だが、その感動を、お前は体感できない」

「なに?」

 今度こそ笑みを消した怪人に、蒼井は論理的な口調で語った。

「空の青さに、その人間が感じた美しさを、お前が本当に知ることはできないだろう。他人の注射痕を見ても、注射の痛みを想像できこそすれ追体験が不可能であるように。人間の、その個人だけが感じた喜びや想いを、お前はコネクトームから読み取れない。果たしてお前は、その人間を完全に理解したといえるだろうか?」

「……んだよその屁理屈は。流行のクオリアか? 観測不可能な想いこそが真に大切だとでも言いてぇのか? それとも、心があるから人間は合計三〇〇〇円ちょっとの構成物質じゃないとかいうモラルの話がしてえのか?」

「そうではない。お前のいう《人間の完全解明》からは、人間の内的な動きへの視線が抜け落ちているという単純な指摘である」

「くだらねえ! 心の機微がなんだっつうんだよ。んなものに、価値があるとは思えねえな」

「果たしてそうだろうか」

 しつこい蒼井の追求に、《怪人》が、小さく舌打ちをする。

「たとえば、紀乃階音が《脳》にこだわるのはなぜだ? 紀乃階音は、ここ数十日間、人間の脳にこだわり抜いて劇場型犯罪を行ったが、そこに心的要因は関係がないだろうか?」

「……さぁ、どうだろうな? オレはあくまで生化学者だからな。思い出だ過去だと青臭く省みることなんかしてねえよ」

「ならば」

と蒼井は言った。

「解説を試みよう」

「……‥…あ?」

 《怪人》が、ぽつりと漏らした。眉もきっと、顰めていただろう。「解説? 何を解説するだって?」

「私はいまから、紀乃階音にとって重大だった人生経験を遡って、全て述懐する」

 蒼井が当然のことのように語っていることは、もちろん、常識的に考えて不可能なことだ。

「私が今から語る紀乃階音の思い出が、お前のコネクトームに刻まれているか否か、確認してほしい」

「オイオイ。なんでお嬢ちゃんがオレのプライベートを知ってるコトになってんだよ! お前はオレのおふくろか? 幼馴染か? 兄弟か? 違ぇじゃねえか! だいたいお前ら、オレを犯人だと知ったのだって、ついさっきなのに――」

「紀乃階音が最初に《ヒトの完全解明》に興味を抱いたのは、信じていた両親に唆されて学校の兎をばらばらにした時だ」

 その瞬間。《怪人》が浮かべた驚愕の表情を、僕は忘れない。

 ベネチアンマスクの奥で眼が見開かれた。

 嘲りの消えた口が、窒息したかのように、音を漏らした。

「紀乃階音は幼い頃から、感情の起伏の激しい人間だった」

ぺた、ぺた、と。

静寂に包まれた部屋を、蒼井の足音が、近づいてくる。

「感受性が豊かで、些細な事で悲しみ、笑い、まわりに怒りを振りまく子どもだった。幼児によくある激昂が紀乃階音にはあまりに多過ぎた。原因は何だったろうか。二歳十一ヶ月まで言葉の遅れがあったせいかもしれない。預けられた幼稚園で、身体の大きなイジメっ子に拳で抗った際、偶然にも勝利できてしまった成功経験のせいかもしれないな」

 すっと、蒼井が息を吸う。

 世界から、叡智を呼吸するかのように。

「割れた食器、破壊された家電で家はいっぱいだった。小学校四年生の時、両親の親友の結婚式で、お前は雑談を両親に無視されたというだけの理由でテーブルの料理を全て床にぶちまけた。小学校六年生の家族旅行では、突然両親に構ってほしくなって、旅行先のホテルのエントランスで高価な美術品を砕いてしまった。些細な事で怒り、自分をコントロールできず、暴走してしまうことが多過ぎた。友人にも、教師にも、お前はまるで言葉の通じないエイリアンか猿のように倦厭されていた」

「か……」

 《怪人》が、やっと、音を漏らした。「おいおい待てよ嬢ちゃん。そんなマニアックなエピソードを、どこで――」

「だが、お前の両親は、お前を優しく許してくれていた」

 指を裂く紙のように冷ややかな蒼井の声。

 《怪人》が、喉を絞められたかのように息を呑む。

「お前にとって両親は、世界で唯一の心を許せる存在だった。優しかったからではない。両親が、お前がそう思うようにお前を誘導したからである。コミュニケーションが苦手で、人の言葉に耐性のなかったお前が、そう錯覚するように、両親はたくみにコントロールしていた」

 だから、と蒼井は言う。

「だからお前は両親に言われるまま、クラスメートと教師たちの目の前で、勉強と称して兎を解体したのだ」

 怪人の瞳が、ひときわ強く揺れた。

 歪んだ笑みが、薄れていく。

「実際のところ、両親は、お前を家庭から追い出す機会を狙っていた。お前の長所であった勉強の成績を褒めるふりをして、お前を自由に操れる文脈を――つまり、『お勉強のためよ』という殺し文句を、探していたのである。イムラン・ハバスキの『有用性獲得インデクス』を引用すれば、紀乃階音はまさしく《被称賛行動に対するアクションの優先順位を他者によって向上させられていた》状態にあったと見るべきだろう。紀乃色名という、同等の成績と、圧倒的に優るコミュニケーション能力をもつ兄弟が身近にいたことも、ブースターになった筈である」

「オイオイ待て……そのへんに……」

「紀乃階音は、コミュニケーション能力の不足を博学の代償とした。勉強に没頭している間のお前は、教室の喧騒を忘れていられただろうからである。そして、トップクラスの成績に喜ぶ両親の顔だけを想像していられる時間は、幸福だったはずだ。待ちに待った授業参観の日、ランドセルから取り出した飼育係の兎を教卓に置き、生きたままのそれに包丁を入れた後、お前を迎えたのは、期待していたクラスメートと教師の称賛ではなかった。絶叫と嫌悪。涙と恐怖の眼差しだ。お前は顔色を失ったな。『どうして』と呟いた。教室の最奥にいた両親に視線をやっても、両親は絶叫をあげる演技をしていただけだった。お前は困惑しきっていた。訪れた警察に、両親は、お前の普段の暴れ癖をいかにも被害者面で説明した。紀乃階音は異議を唱えるでもなく、言葉を失っていたな」

 怪人の両手が、顔を覆う。

 どうして、と唇が動く。

「信頼し切り、理解しあっていたはずの人間を、その日、幼いお前は全く理解できなくなったのだ。そしてその瞬間、視線を落とした紀乃階音の眼に映ったのは、カプセルを捻るように開いた兎の頭蓋と、脳だった」

 結局、と蒼井は続ける。

「紀乃階音は、両親の思惑通りに、十歳から十二歳までを少年院にて過ごすことになった。同い年の非行少年との共同生活は、お前をさらに孤独にしたと思われる。高度な孤独が、能力とサイコパス的性質――すなわち他者への共感能力の欠如を養うことはジェイムズ・ファロンにより定説化されている。《怪人》が発揮した、他者を軽んずる性質は、幼い頃からのコミュニケーション経験の欠乏に起因していると思われる。また、心よりも肉体の動きや機能にこだわる価値観は、他でもない両親による裏切りのトラウマに原因をみることができるだろう」

 ぺた、と。

 僕の耳元でビーチサンダルの音がした。

「幼少期から一度も思い通りにならなかった世界を、指先で操れて、どうだ、楽しかったか? 紀乃階音」

 視界の隅で、純白のサマードレスのスカートが揺れる。

 無機質な電灯の明かりのなかで、蒼い髪がさらさらと流れる。

 額を抑え、憤りを浮かべる怪人を、サラスヴァティーの碧の文字列の奥から、蒼井が見据え返す。

「満たされなかった。そうだろう?」

「……違ぇ」

「いや、違わない。なぜなら紀乃階音は、今も織部伊織や富野ユタカを打倒しようとしているからである」

 蒼井が粛々と続ける。

「《バートラントの同等補填仮説》の典型である。紀乃階音の内的欠如は、リアルなコミュニケーション経験の不足に起因している。であるならば、欠如を修復する癒しとなりえるのは、リアルなコミュニケーション以外にありえないのである。紀乃階音は、幼少期の親とのコミュニケーションの欠乏を、脳の生化学的解明によって補完しようとした。だが、結局のところお前が数値でいくら脳という臓器を解明しようと、それは《人間のコミュニケーション》ではないのである。脳は物質でしかない。人間のコミュニケーションや自己表現は、表情や声のトーンや身振り手振りから複雑かつ総合的にコードされるものだからである」

「やめろ……」

「紀乃階音。お前は先ほど、脳の解明を、人間の理解だと豪語した。しかし、脳が返す生化学的反応を、リアルな人間的コミュニケーションとして受領できなかったのは、皮肉にもお前自身だったわけである」

「黙れ……」

「オペラ座の怪人事件において、紀乃階音があくまでも劇場型犯罪に拘ったのは、幼少期からの孤独のせいで徹底的に人の関心に餓えていたからである。怪人が本当に求めていたのは、人の支配ではなく、それを見た大衆のリアクション、人との触れ合いだったわけ――」

「黙れっつってんだろうが!」

 怪人が、初めて、激昂した。

「ふざけんじゃねえぞ! 知った口を聞くんじゃねえ! お前に…………お前に俺のッ……何が分かるってんだよッ!」

「その通りである」

 蒼井が、強く、肯定した。

持ち上げた手を怪人へと突きだす。世界を、叡智の水を、掌(てのひら)に掬うかのように。

「私は知っている。お前が今まで目にした全ての景色を。私は知っている。お前が耳にした全ての言葉を。私は知っている。お前が口にした全ての食物を。触れた全ての物を。お前が努めた道を。私は知っているのである」

蒼井が自らの白く細い手をそっと、眺める。

君の生涯はこの手のひらにある、とでも言うように。

「だが、それだけなのだ。お前がその色に、音に、味に、感触に、何を感じ、何を想ったのかは、私には分からない。お前の過去についての述懐でも、心情部分は、あくまで想像である」

 蒼天の瞳を静かに開く。

《怪人》の人生という海から、上次元の検索者が意識を浮上させるみたいだった。

 きらめく粒子のなかで、ふぅ、と息を吐いて。

「お前の脳に刻まれているであろうコネクトーム……その理由となったはずの出来事を私は全て知っている。しかし、私にお前は分からない」

 研ぎ澄まされた叡智が清廉な刃となって、紀乃階音に向いているのを僕は感じた。

 白熱灯の光に照らされた空間の真ん中で、蒼井依知華がまっすぐに《怪人》へと言った。

「さて……最初の質問に戻ろうか。脳の全てを腑分けたとして、お前はいったい、人間の何を知ったことになるというのだ?」


乾いた音が鳴った。


蒼井が一歩、後ずさる。

わずかに浮いた青い髪が、余韻を残して肩に流れた。

蒼井の唇がかすかに開いている。

僕は眼を剥く。

織部さんが息を飲んだのが分かる。

「はっ……」怪人が笑う。

 白。

赤。

白いサマードレスの左胸に赤が滲んでいく。

『あ……』

 織部さんが、震える声で、叫んだ。

『蒼井……ちゃんっ!』

「ははァははははははははははははははははははははははッ!」

怪人の哄笑が轟く。胸に開いた銃創を、蒼井依知華はしずかに見下ろしている。どく、どく、どく、と開いた穴から溢れるドス黒い液体が、純白のサマードレスに、ねばっこく張りついていく。

再度の発砲。

嘲笑うように向けられた銃口が再度銃声を響かせると、今度は蒼井の喉の丘に穴が開いた。

『やめろ――――ッ!』

 悲痛な、織部さんの絶叫が、耳元で鳴った。

「こりゃあ、一本取られたぜ」

 ひっぱたかれたように仰け反った蒼井が、ぽかん、とした表情でバランスをとった。ごぽりと蒼井の喉から血が漏れる。血は、指のあいだから溢れてぼたぼたと散っていく。蒼井依知華は、床に膝をつく。

「たしかに《光遺伝学》は完璧じゃあなかった。人間の完全解明? 奢りも良いところだ。謝ろう、オーディエンス!」

 止まらない出血に、喉を抑えた蒼井が、無表情のまま、《怪人》を見上げた。

「だが、それとこれとは話は別だ」

ニューナンブが火を噴くのと同時、頭をこづかれた人形のように蒼井が大きく仰向けに倒れた。

あっけない、と僕は思う。

少女のかたちをした物体がリノリウムの床に崩れただけだ。

眉間の穴と、髪に隠れた両眼。たくたくと池をつくっていく液体と、そこに散る蒼井の髪の色が鮮やかだ。

「怪人が《島》を脅かしていることは、そう、事実だろ? 理論上大したことがなかったとしても、現実がこのザマなんだよ」

 両腕を広げ、《怪人》が真剣な表情で、体を震わせ叫んだ。

「オレにはオレの使命がある。それは完遂させてもらう。そう、オーディエンス! オレは広報して、啓蒙して、警告しなきゃアならねぇんだよ! 大人気なくも、知ったかぶりな美少女を殺めたこのユーズナブルな殺傷兵器を! 進捗した文明の象徴を! ひいては科学そのものをッ! 未来世界の怪人は糾弾しなくちゃあならねえのさ!」

『何が…………何が、使命だ!』

 織部さんが慟哭を上げている。勇ましい声が、涙色に潤んでいる。『お前は今……女の子を殺したんだぞ! 一人の少年が、救うために必死の努力を続けていた少女を……その、目の前で……っ! この外道を許して……成すべき使命など、あって堪るか!』

「なんとでも言うが良いぜ! そう、悲劇が……オレがしてきた全てのテーマだ! 泣いても、悲しんでも、それでもやるべきことなのさッ!」

怪人が銃を僕らに向ける。

死屍累々の研究室、その中央に立つ《怪人》が、告げた。

「雨が降る! さあ、アディオス、偉大な役者達(ネーム・アクターズ)よ!」

 《怪人》の叫びが研究室に反響する。

 その時だった。耐え難くなって、僕は思わず唇を開いた。

 くす……。

織部さんが、僕を見た。

ヘルメット越しに僕の笑いが聞こえてしまったのだろうか。

それだけじゃない。眼をあげると《怪人》も、僕を凝視している。

「何が、おかしい?」と案の定、怪人が問うてくる。

ふつり

小さな音が、耳に届いた。

僕はヘルメットの口の部分を思わず押えてから言う。

「いえ……? 全くもって、何もおかしくはないんですけれど……一つ、聞かせてください。科学って、貴方がそんなに必死になって進展を阻止しなくてはいけないほど……すごいものなのでしょうか?」

ふちゅり、ふつ、ふちゅり、音は続く。

視界の隅で、ほのかな光が、柔く立ち昇るのが見えた。

「おいおいおいおい少年。二〇一三年の震災で、日本の領土の一部をむこう一〇〇年立入不可能にしちまったのは原子力発電所だぜ?」

「だから……何なんですか。それは確かに制御しきれなかった技術の最悪の末路かもしれません。けれど、そのケースが示しているのは何というか……、むしろ原子力を御しきれなかった科学の限界なんじゃないですか? 自然を制御しきれない程度の《科学の進歩》を、ここで止めてしまっていいものでしょうか?」

「はっ! その限界ある技術で、お前はこれから殺されるわけだがな!」

怪人が拳銃を揺らして笑った。「ステレオタイプだぜ、研究生! 危険な思想だ。限界は……通過点さ! オレたちがその先をイメージできないだけでな。自然も、あらゆる未知も、科学は全てを呑み込むぜ。そうやって大衆が甘やかすから、科学はいつか、誰もが予想もしていないうちに全てを強姦しちまう怪物になっちまうのさ!」

「そうだといいんですけどね」

僕は心からの苦笑をした。

怪人の隣で立ち昇る光から、僕は、紀乃階音さんの意識を逸らそうと思う。

「僕にはそうは思えません。科学技術が、それを生みだした人間の想像すら越えてシンギュラリィを迎えるなんて、そんな都合の良い事がそうそう起こるはずがない。科学技術はいつだって、成立するかしないかの瀬戸際で生まれる……努力の結晶なんですから」

 場違いなのは百も承知だったが、紀乃階音という最先端(フォアフロント)級の科学者に、共感を求めたかった。

これは《島》の人間なら――いや、およそ努力というものをしたことのある人間なら、誰もが感じたことのある感情じゃないだろうか?

努力が、自分の予想を超えて報われることなどない。

むしろ、血反吐を伴うような研鑽すら、結実しないことの方が多い。

こんなに頑張っているのに、どうして正解が見えないのか。どうして完成のビジョンが見えないのか。どうして誰も救えないのか。そう思い続ける方がスタンダードだ。

「時間稼ぎのお喋りか。気の毒だが、そろそろ時間だ」

トリガーを引きかけた怪人が、ふと、傍に視線を向けた。

「……あ?」

 怪人が、《それ》を見た。


 ふつり

 ふちゅり

 ふつふつふつふつ


 怪人の全身が粟立ったのが、遠目にも分かる。

 ほらね、と僕は嘆息せざるをえない。結局、トップ・オブ・トップの科学者ですら、《これ》を見たらそんな顔をするしかないんじゃないか。

「もし、科学に限界がないというのなら、どうですか」

と僕は問うてみる。「あなたが代りに、《それ》を、何とかしてみてくれませんか?」

あきらかな恐怖を湛えた怪人の両眼が《それ》を見つめていた。

胸から。

喉から。

額から。

床の血だまりから。

尾を引く蒼い蛍のように鮮やかな光が立ち昇っていた。

これの形容にはいつも言葉を喪う。早送りで芽吹く草花のように、斃れた《それ》から、千の蛍が舞うがごとく蒼い光の糸が立ち昇っているのだ。粒子の煌めきのなかで、再生の象徴のように、白と青の《それ》が、むくりと頭部を擡げた。

虚ろに物欲しげな瞳が怪人を見る。

小さな口に、小さな歯を覗かせて。

ぽたり、と涎が滴った。

「な……なんだ……? こりゃ……」

「だから、何度も言っているじゃないですか」

 僕は、自分の無力を呪いながら、苦い気分で笑う。

「科学は万能じゃない。これが、科学の限界ですよ」

 無数の蒼の光をつれて起き上がった《蒼井依知華》を眺めて、怪人が唖然とした表情を浮かべる。

 ああ、懐かしいなと僕は思う。

二年前の僕も、きっと同じ顔をしていた。

 そして今でも僕は、《蒼井依知華》を救えずにいる。

「紀乃階音さん。こういう未知を目にすると、知ったかぶった後ほど、科学の無力さを痛感しちゃいませんか」

 だから僕は、無力な衒学が大嫌いだ。

 たった一人の少女すら救えない科学風情に、知ったかぶりなんて、されて堪るものか。

「っ……! お、おい、来るんじゃねえ……!」

床を四つ足で蹴った《それ》に、怪人が拳銃を向けた。まるで獣のように駆けてくる蒼井依知華は、まったく怯まない。

「くそっ! なんだよ、こりゃあ……! 流石に見たこと無さすぎて笑えるぜ!」

吠えた怪人が発砲した。

おそらく最後の一発。

空を穿つ殺傷の軌跡は、しかし、踊る《蒼》の霧に虚ろな孔をあけただけだ。閃く蒼い光から伸びた蒼井の両腕が、がしりと暴力的に怪人の肩を掴んだ。

「力、強ぇえなオイ! って、嬢ちゃん何やってんだ?」

 蒼井は唇を、静かに、糸をひかせて開いた。

ぼんやりと虚ろな両目は、じっと《怪人》の首筋に視線を注いでいる。まるで、空腹を解放するかのようだ。

「待て待て待て待てッ! 一部のマニアたちには堪らなそうな熱いシチュエーションだがオレは食人愛好(カニバリズム)だ丸呑性愛(ボラレ)だ食うか食われるか嗜好(ボレアフィリア)とは無縁だ! 意外とノーマルだ! せめてキスに、いや、オイオイオイオイ無理だっつうの!」

 蒼井に力ずくで押し倒され、怪人が絶叫する。「じょ、冗談じゃねえ……! やめろ、ふざけ、な、ん、ぐ、ぎゃぁああああああああああああああああああああああああああああ!」

科学の暴走を《未知》が諌めていくのを眺めながら、ふと僕は傍に目をやった。

隣で家具に埋まっている織部さん。球状のヘルメットに表情を隠されているものの、その凍りつき具合があまりにも分かりやすく困惑を示していた。

すみません。

驚かせてしまって。

どうしようもない現実に、僕はやはり苦笑するしかない。

「あとでちゃんと説明しますので……」

限界はある。だから、分かる範囲で、だ。

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