第7話-2 ベネチアン・マスクの裏側


 あの時。

 エンタメ文学的殺人犯達が、《孤島》 で降雨実験を行ったタイミングだ。

悦田さん達の中に《真犯人》がいるのかどうかは知らない。だが、意図的にせよ、そうでないにせよ、悦田さん達の誰かが《雨》の中に化学物質を混ぜてしまったことは、間違いない。

だって、それ以外に、島の全土に化学物質を届ける方法は無いのだ。降雨実験の時に島にいなかった茂上さんと織部さんとその他三名が無事で、島にいた全員が感染していた理由は、他に無いではないか。

「神原気象化学研究室は、他のいくつかの研究室の傘下です。他の研究室の人間に真犯人がいたとすれば、そいつが神原の雨に薬品を忍ばせた可能性があります」

僕は室内をうろつきながら言う。「《怪人》は今、自らを科学の擬人化として、暴走してみせています。愉快犯なのかもしれないし、何か思惑があるのかもしれません。一つ確かなことは、このまま《怪人》を放っておけば、この《島》の科学の安全性は失墜するってことです。そうなれば、最悪、《島》は閉鎖……僕らの研究もストップしてしまいます」

僕は青髪の少女を見据えて言った。

「蒼井、君を救うことが、できなくなります」

ぽかん、と。蒼井依知華は唇を半開きにしていた。僕をまん丸な目で見つめ、やがて首を振る。

「それは困る」

切実な声だった。「ユタ、いますぐに《怪人》を止める必要があると思われる」

「ええ、思われますね」

「ユタには《怪人》の居場所が分かっているのだろう?」

「ええ」

「ならばすぐに警察に通報するべきだ」

僕は頷いた。そうだ。居場所は分かっている。

《怪人》は、島に最後の一ヶ月を贈ると言った。一ヶ月。それはつまり、人に吸収された化学物質が効果を発揮できる期限だ。

怪人は、《島》にもう一度、雨を降らせるつもりなのだ。

沖ノ鳥メガ・フロートの降雨実験棟は、あの《孤島》にしかない。怪人の居場所もそこだろう。

電話をかける。耳にあてたスマートフォンで、コールが続く。どうしたんだ? MF市警への110番が繋がらない。

僕は慌てて、今度は相田忠義警部補に直接の電話をかけた。普段からイマイチ連絡の通じない相田さんだが、今日はぜんぜん繋がらない。

「なんだ、どうなってるんだ……?」

「ユタ、ストリーミングだ」

僕に気を使ったのか、罪悪感があるのか、蒼井は僕にサラスヴァティーを差し出してきた。ブラウザ機能がオンになっている。グラスの内側に映っているのは、報道系ネット・ストリーミング番組ニュース・ヴィスタだった。

僕は目を疑う。

映されているのは、目眩く惨劇の中継だった。

ニュースによれば、《島》中で、暴動が起きているらしかった。《光》に近づくな、外出を控えろ、映される暴徒たちの虚ろな様子は高柳さんと酷似している。それを3人組で取り押さえる警察官の鬼の形相が痛々しい。

地獄だった。

いったいどれだけの範囲に、《怪人》はレーザーを仕掛けていたのだろう? 《島》中で《光遺伝学》が発動されている。警察は手一杯なのだ。

僕は髪を掻き毟り、不安の大声を上げる。

「警察は頼れない……僕らが行くしかありません! あー、でもっ! 僕らだって感染しちゃってるんでしたねっ!?」

「ユタ、まずは、おちつけ」

「ああ、もう! どうすればいいんですかっ!」

「方法は二つある」

すっかり萎縮してしまった蒼井依知華が、人差し指を立てた。尊厳を取り戻そうとするかのように、偉そうな口調で教授してくれる。

「第一の方法。可能な限り大量の遮光性のカーテンを持参し、顔面と頭部を覆って立ち向かうのだ。そうすることで《光遺伝学》を完全に無力化することが可能である。週間少年ジャンプの漫画作品群によれば、真に能力のある人間であれば、音と気配だけである程度の戦闘能力を発揮できることが示唆されている。白壁大典の筋力をもってすれば《怪人》ごとき――ひう」

「ああもうっ、却下で! 真面目に考えてくださいよ蒼井っ!」

思わず床を踏み鳴らしてしまった。

「って、白壁くんもカーテンをもぎとろうとしなくていいです! 無理ですよ! 絶対にやらないでくださいね!」

本気で盲目のまま《怪人》を殴り飛ばそうと考えたのだろうか、筋骨隆々の白壁大典くんが、カーテンのレールに手を伸ばしたまま、不満げに僕を振り向いた。

「第二の方法」

ビーズ・ソファの陰から、蒼井依知華が2本目の指を立てる。

「入院中の織部伊織にかけあって、強化骨格部隊の遮光マスクを入手する」

「そっちで!」

僕は電光石火でスマートフォンを手に取った。だが、すぐに躊躇いを覚えてしまう。

織部伊織さん。

傷だらけの彼女に協力を要請することに罪悪感を覚えたわけじゃない。もしも僕が織部さんに電話をかけたら、彼女は僕にどんな言葉をかけるだろう?

僕は、織部さんが尊敬して止まない《大思想家》を、科学の生贄にしたのだ。そして織部さんは、今まさに、彼女が危惧した通りの科学の暴走によって重傷を負っている。

父さんなら、《怪人》の暴走を食い止められたのだろうか。

あの航空事故の後、僕は、僕の命を救ってくれた赤肚親子に言われるままに、父を彼らの素材として提供してしまった。断ることもできたし、父があんな姿にされてからも、何度でも破棄を申請する機会はあった。

でも、しなかった。

僕の瞼の奥には、今も、灼けた鉄の墓標の中心で無様に無力を晒す父の姿が焼きついている。父に感じた無力感が、今の僕の全てだ。

無力の代償。

無能の末路。

僕は父を、一つの記念碑にしている。僕はもう二度と、あんな惨めな思いはしたくない。悩んでいる暇はないじゃないか。僕にも。この島にも。

僕は電話をかけた。


   ※


その頃。

織部伊織の瞳に写っていたのは、どこまでも爽快な夏の太陽と、その下で巻き起こる殺戮だった。

MF中央病院12Fの病室からは、市内の景色がよく見えた。窓は無いが、織部のいる病室の壁が、入院患者に社会生活への復帰意識を忘れさせないためにスマートスキンで屋外の映像を表示していた。

スマートフォンが明滅する。

燦々たる日射しを眺めていた織部は、ゆっくりとそれを手に取った。画面を見る。《富野ユタカ》からだ。きゅっと口を結び、織部は端末を耳にあてた。

「今、《島》中で暴動が起きています」

三日ぶりに聞いた声は、ひどく遠い異邦人のようだ。

「《怪人》を止めます。協力してくれませんか」

映像を眺める。

狂ったように喚きながらバッグを振り回す女性。警察官に殴りかかる少年研究生。動かない男に馬乗りになって何度も拳を振り下ろす青年。それを囲む、肥大しきった建物達。

「犯人の正体が分かったのか?」

「ええ」

「止める算段はあるんだな」

「協力さえいただければ」

織部は窓から視線を離し、さらに下を見た。

織部の目の前には、一人の男が横たわっている。

新田新雅。 皮膚と頭蓋骨を喪った頭部は、今は包帯で覆われている。脳髄の隅々まで絡んだ金属と薬物から、誰も彼を解放してやれない。

新田の四肢と胴をベッドに括り付けるエナメル質のロープには、刻一刻と上下する数値と警告文が表示されている。DN/medication(薬物治療)。DN:Surgery(外科的施術)。DN:pour(光による) light(刺激)。DN:Give(経口) the(摂) meal(食)。DN:エトセトラ。エトセトラ。エトセトラ。

最新の科学が新田を自動的に診察し、合理的に諦めている。そこには絶望も悲しみも介在しない。科学に弄ばれた哀れな男は、今もたった一人で最先端の孤独な医療に囲まれて人生を終えつつある。

打ち倒してしまった被害者に面会するべく織部がこの隔離病室を訪れてから3時間。家族も友人も誰一人としてこの病室を訪れなかった。

「……どうするのが正解なのだろうな」

織部は思わず呟いている。「この《島》は一度、滅んだらいいと思う。正直に言うと、私はもう、怪人の思い通りになっていいような気がしているよ。この島に必要なのは科学で全ての不合理に勝つことではなく、負けを認めてもっと身の丈にあった道を模索することではないかな」

「織部さん」

「分かってる。もちろん《怪人》の手で誰かが傷ついていいと思ってるわけじゃないんだ。被害は食い止めなくてはいけなくて……法の違反者は取り締まらなくてはいけない。ただ……そうじゃなくて、私は……」

襲ってきた栗本巡査の両目を思い出す。

虚ろな瞳。あの日、祖父を見殺した機械の両目と同じ眼だ。

ぽっかりと空いた二つの黒い孔だった。

「私は……怖いんだ」

口から溢れたのは、どうしようもない個人的な想いだった。

「人が、人が御しきれない何かになるのが怖い……私は、これ以上、人が人間以上の何かになるのが嫌なんだ」

真犯人が《怪人》になってしまったように、私達は、人は、あまりに大きな力を持ちすぎた。

「私達はもう、歩みを止めていいんじゃないか?」

無力が辛くても。助け合いが大変でも。

私はあの日、祖父を引き留めるべきだったのだ。

「科学になど頼らずとも、私達は、十分に幸せだったはずだ」

静寂。声は返ってこない。織部は口を噤んだ。スマートフォンを耳から離す。通話を終えようとした。

その時だった。

「織部さん」少年は言った。「僕らは、歩みを止めたら駄目です」

唇を噛み締めた。スマートフォンを耳にあてる。

「もう十分だと思えるのは、織部さんが恵まれているからですよ」

少年の声に、苛々が募る。

「世界にはまだ、不治の病で血を吐いている人がいます。水を飲めずに渇ききっていく人がいます。そういう人達は、一分一秒でも早い技術の発展を待っていますよ」

「不治の病がなんだ……」

思わず声を荒げてしまう。「手の届かない理想に手を伸ばすから、人は不幸になるんだ」視界が潤んだ。「介護施設を見ろ。人生の終わりに楽さと清潔さを求めた結果があの孤独か。お父上を見たまえ。狂った女の夢の礎になった末路があれだ。私の同僚を殺したのはこの島の技術じゃないか」

「お前が」と、織部は《大哲学者》の息子をお前呼ばわりした。

「お前がしっかりしていれば……この島はこれほど狂ってはいなかった……」

八つ当たりなのは分かっている。恐怖のせいで誰かに責任転嫁したいだけだと分かっていても、言葉は止まらなかった。

「富野氏の代わりが必要なんだ……頼むから、君は科学の大義の味方をしないでくれ……」

受話器の向こうで少年が息を吐いた。嘆息ではない。苦笑するような吐息に、織部は困惑する。

「大義の話をしてるんじゃない」

富野ユタカの声は、悲しいほどに澄んでいた。

「未知の技術でしか救えない人がいると言いました。僕にとっては、蒼井依知華がそうなんです」

織部は、はっとした。

「この島が終わったら、僕は彼女の病を治せません」

富野ユタカが救いたいのは島や世界や科学じゃない。あの少女だけなのか。

織部は動揺する。私は今の今まで、目の前の少年に、仲間の少女を見捨てろと語りかけていたのだ。

「研究は、過剰な幸せを求める欲張りなんかじゃない。マイナスに振り切った現実を克服するための、泥まみれの足掻きなんです」

少年の声が言う。

「織部さん、この世界はまだ完成していません。沖ノ鳥メガ・フロートには、未来世界でしか生きられない誰かのために、必死になって生きている人が大勢います」

彼にとっては、手の届く範囲だった。この島でなら。

富野ユタカはずっと、人を見ていたのか。

「僕は、《怪人》なんかのせいでこの《島》を潰されたくない」

強い声に、織部伊織は言葉を喪った。

「科学を玩具にして天狗になってる真犯人を捕まえたいです。だから織部さん、力を貸してください」

父はどうだったろう、と織部は思った。

老いて介護が必要になった祖父を、施設に入れること。それは、収入の少なかった父に出来た、唯一つの健気な恩返しだったのではないか。

介護に付ききりで母や私を養えなくなるよりも、よほど前を向いた決断だったのではないか。

出来ることをしろ。理想ばかり語り、手を伸ばさず、何もしなかったのは私の方かもしれない。

「20分で行く」

織部はそう言っていた。通話を切り、織部は病室を抜け出した。


   ※


「そういえば、前回電話をおかけしたのも、実は偶然じゃなかったんです」

自動操縦で《孤島》へ向かうシー・グルの甲板。潮風に前髪を靡かせながら、僕は、受話器の向こうの石黒さんに苦笑した。

「僕の仲間が《調査》してたんですよ。石黒さんが、遠慮知らずで、好奇心にあふれた子どもが好きなこと。石黒さんは2ヶ月くらい前に研究生向けのストリーミングでそう語っていたんですね。偶然を装ってお願いしてしまってすみませんでした」

織部さんの車で港まで連れてきてもらった僕らは、石黒さんからシー・グルを借りていた。自動操縦のセット方法を電話越しに教わったのだ。

「そろそろ切ります。研究所の外へ絶対に出ないでくださいね」

『お前、面白いやつだな』

通話先で石黒さんが白い歯を見せたのが分かった。

『頑張れよ。俺は、お前らみたいな子どもが大好きだぜ』

通話を終える。

顔を撫でていく風を食み、僕は前を見た。

「もうすぐ到着ですね。やっぱり、織部さんは船に残ってくれませんか?」

「馬鹿を言うな」

ガチリ、とニューナンブに装填。織部伊織さんが僕を睨む。

「君達だけで行って何になる。容疑者の確保は警察の仕事だ」

「無理をするべきではない。左腕の骨に罅、両脚の太ももの筋肉に至っては疲労で断裂寸前である。過半数の人間は動けなくなる症状であると思われる」

言ったのは蒼井だ。 デッキの隅で、真っ白なベンチに腰掛けている。さきほどまで眠りについていて、織部さんを呆れさせていたが、いつの間に起きたのか。

背広の裾に拳銃を隠した織部さんが、怪訝そうな瞳を蒼井に向けた。

「……妙な話し方をするな?」

「妙だろうか? 一般的な論文文体だと思われるが」

「一般的な人間は、論文文体などで喋らない」

「ふむ」蒼井は首を傾げ。「そうだろうか」

「すみません。蒼井はなんというか……後天的に言葉を学んだ生き物なので勘弁してください」

「先天的に言語を修めている人間なんていないだろう」

下らない冗談に呆れた眼で織部さんが僕を見てくる。

「先ほどはすまなかったな」

「何がですか?」

「君にとってのこの島の意味を、勘違いしていた」

織部さんの黒く長い髪が、海の風に舞っている。

「君に、仲間の少女を見捨てろと語りかけてしまった。この島の科学者達は、各々が助けたい誰かのために研究をしているのだな。そんな当たり前のことを忘れていた。人を見れていなかったのは私の方だ」

織部伊織さんが僕をまっすぐに向いて、頭を下げた。

「すまなかった」

「や、やめてくださいよ」

僕は苦笑してしまう。顔を上げた織部さんは、僕をまっすぐに見つめて言う。「この事件が終わったら私はもう君の前には現れない。だから最後に教えてくれないか。君がこの島で成し遂げたいことが何なのか」

「僕が成し遂げたいこと?」

「君は」と織部さんが言う。「何のためにこの島にいるんだ。お父上の意思を継ぐためではないようだな」

「僕なんかの経歴を聞いてどうするんですか」

「けじめをつけたいんだ。君と出会い話した時間に、結論をつけたい。私が次の時間に進むために」

結論か。

ロマンチックすぎる話にも思えたが、嫌いじゃなかった。

人生に節や章を設けること。なんでもない人生に意味をつけていく営みが、僕らには必要なんじゃないだろうか。科学は人を数値と成分にしてしまうから。感情を化学反応にしてしまうから。魂や人生を、物質の動きに還元してしまうから。自分の歩んできた道が、ただの粒子の移動にすぎないだなんて、虚しすぎるじゃないか。だから僕らには、物語が要る。

「大した話じゃないですよ」

僕は首を振り、語り出す。「アフリカからの帰りでした」

「帰り?」

「墜落事故の時です。僕と父は、科学者仲間の博士とその娘と一緒に、研究のためにアフリカに行っていたんです。博士はお医者さん兼分子生物学者でした。珍しい試料を受けとるための出張に、僕と父は同行したんです」

「君達はその帰り道に……」

「ええ。墜ちました」

おちました。言うだけなら五文字の短い体験。受験のおちましたよりも、現実に短い出来事ではあったといえる。

「博士は死んで、その娘さんは死にかけて、僕と父は生きていました。ただ、父は僕を騙したんです。父は、彼女が既に死んだと僕に教えた。限られた食料を僕に与えるためだったし、見込みの薄い希望を捨てさせるためでもあったんでしょう。結果として、僕らは死にかけている彼女の隣でご飯を食べ続けて、彼女を見殺しにした」

織部さんが唇を横に結ぶ。瞳が綺麗に潤んでいることに、つまりは僕の悲しみに共感を覚えてくれていることに、救いを感じるわけにはいかなかった。

「僕は、彼女が実は生きていたことに気づきました。残念ながら、彼女が完全に死んだ後でしたけどね。僕は幼馴染の彼女のことが……まぁ、好きだったんです。だから、僕は、感染症で死にかけていた父を責めてしまった。お前じゃなくて、医者の博士の方が生きていればよかったのに、って」

潮風が僕らを通り越していく。白壁くんや蒼井が、話を聞いているのが分かった。

「僕は、あの時の無力を克服したい」

舟先を見据える。孤島が近づいている。

「今度こそ僕が救いたい。だから僕はこの島で、蒼井の病の研究をしています」

「死んだ少女の面影を、蒼井ちゃんに見ているのか」

「……。まあ、そんなところです」

織部伊織さんが両眼を潤ませて黙っている。僕は苦笑して、皆に言った。

「孤島に着きます。決着をつけましょう」


   ※


《孤島》の様子はあの日と全く同じだった。

青い海。白い雲。

緑の芝生。赤い屋根。

洋館風の宿舎があり、その奥に、白雲を摘む箸のように屹立する純白の細長い建造物がある。降雨装置だ。雨の種となる氷塊を、極限までストレス無く成層圏まで送り届けられる電磁力式射出機構である。

船着場には、僕らのシー・グルの他にもう一隻のボートがあった。《島》の全ての船舶には、《島》の機密保持の観点からその所有者の情報が登録されている。僕らは、僕らよりも先に辿り着いていた唯一の船にスマートフォンをかざし、ARアノテーションから所有者の名を知った。

 予想していたとおりの名前ではあった。

「懐かしいですね、白壁くん」

素足の上から穿いたパワードスーツのブーツの吸い付くような感触を確かめつつ、僕は隣に立つ白壁くんに言った。

「まさか、この孤島にもう一度来ることになるとは思いませんでした。白壁くん、もしも僕らに何かあったら、君が《島》に通報して、なんとか事態を収束させてください」

白壁くんは、いつもの無言で頷く。彼はパワード・スーツを着ていない。織部さんが調達できたスーツは二着だけで、しかもサイズが一般的な人間のものしかなかった。『一般的』と比べると冗談にしかならない体格の白壁くんは、本当に残念ながら、船で待機してもらうことになった。

『行くぞ……』

「待ってください」

洋館の扉の前に立った織部さんを、僕は呼び止める。丸い遮光ヘルメットに覆われた織部さんの頭が僕を見た。

「どんな罠があるか分かりません。警戒しましょう」

僕は、船の持ち主たちの名を思う。

僕らより先に孤島を訪れたのは7人だ。そのうち一人を除いて、新田と同時期に行方不明になった技師たちだった。

大量の操り人形が、傀儡師と共にこの先にいるのだ。意味するところは明らかだろう。

『警戒しようにも』と織部さんの不満げな声が僕のヘルメットの内側に響く。『せめて扉を開けなくては調査すらできないだろう』

「《調査》はできます」僕は背後を振り向いた。「蒼井」

織部さんが息を飲む音が、耳音で聞こえる。

夏の粒子に反射する陽光のなかを、青い髪の少女が歩いてくる。

純白のサマードレスに、白いビニールサンダル。僕や織部さんと違い、パワードスーツも遮光マスクも着ていない姿で、蒼井依知華が僕らの方へと歩いてきていた。

『な……何をしているのだ! 君は船で待っていろと言っただろう!』

「大丈夫だ」 翡翠色のグラスの奥で、蒼井の双眸が僕を見つめる。「この周辺は安全である」

『何を根拠に……』

「蒼井。館内の調査をお願いします」

『っ、富野くんまで何を!』

立ち止まった蒼井が、浅く息を吸った。まるで大気から情報を吸い込んだかのように、サラスヴァティーに無数の言葉が明滅する。

「館の玄関にスプレー缶を改造したブービートラップが二つある。扉を越えて四メートル七〇センチ前方に一脚のテーブルが置かれ、その上に噴霧器が玄関にむけて設置されている。噴霧器から天井に紐が一本伸びている。手作りの手榴弾が一つ降ってくるしくみである。爆風によるダメージが予測される範囲は半径八メートル。壁を貫通する威力は無い。館周辺に罠は無い。強いて警告するなら、織部伊織のホルスターのホックが一つ外れている」

『な……』織部さんが、太ももに手をやる。たしかにホルスターが緩んでいた。

「ブービートラップに注意してテーブルの噴霧器さえ潰せば楽勝ですね。織部さん、対処できますか?」

『話が呑み込めない。今のはいったい……』

「だから」僕は織部さんの傍を通り過ぎ、苦笑して、

「こういうことですよ」

織部さんの真正面の扉を開け放った。

『うそ』

織部さんの足元で、キンッ――と金属質の栓が抜けた音が小さく鳴った。

慎ましやかながらも良いリアクションをしてくれた織部さんの目の前で、破裂音を立てて床のスプレー缶が炸裂した。球状の墨汁が衝撃波をともなって僕らを襲う。

が、咄嗟に後ろに跳んだ僕はもちろん無事だった。織部さんも、流石の反射神経で背後に地を蹴り、黒のインクを躱した。

『う、わっ……』

「ほら、次です」

破裂の残響にまぎれて、ウィーンという駆動音が聞こえてくる。何かを悟ったらしい織部さんは、はっとしたようにヘルメットを室内に向け、足元の小石を拾い上げると、館内へと投擲した。

 エントランスの内部では、洒脱な一脚テーブルに安置された噴霧器が、固定砲台にも似た動きで、こちらに首を擡げたところだった。投擲の瞬間、もりもりと盛り上がった腕と肩と太腿の人造筋肉にアシストされた織部さんのストレートが大気を切り、エントランス中央の噴霧器の口へと飛び込む。それなりの耐久性を持つはずのマシンは、繊細な陶器のように全身に罅を入れ、のけぞって吹き飛んだ。

がしゃん、と噴霧器が床に落ちると同時、カンッ、と館内から何かがこちらに跳ねてくる。

『え』

僕は織部さんを玄関口から引き剥がすと、彼女を床へと押し倒した。

神様が全人類にビンタをくらわせたかのような、渇いた爆発音が鳴った。

スプレー缶に火薬と鉄片を詰め込んだ簡易爆弾が炸裂したのだ。飛沫にも似た爽やかさすら伴う勢いで、殺傷能力を有した鉄のカケラが、エントランスから玄関までを円形に刺し貫く。まるで透明なウニに襲われたかのように穴ボコだらけになった扉から、ぱらぱらと落ちてくる木材を背に感じつつ、僕は、僕の下に倒れた織部さんに微笑みかけた。

「大丈夫ですか?」

『だ、だっ、大丈夫だがっ……』

スーツやヘルメットの上からでも、心臓をバクバクさせた織部さんが目を白黒させているのが分かる。『なぜ分かった? 館内の罠の配置を……』

「蒼井には分かってしまうんですよ」

『わ、分かって、しまうだって……?』

僕は苦笑する。せめて声色で、伝わるように。

「どう言えばいいのか、蒼井はちょっと……不思議な病気なんです。周囲のいろいろな事が、なんとなく、感覚できてしまう。物の配置とか人の動きとかが、ですね。……信じてもらえますか?」

『からかわないでくれ……。彼女のような少女が、なぜそんな超能力のような――』

 はっと、織部さんが声を止めた。素早い動きで身を起こし、蒼井へと駆け寄る。

何事かと眼をやれば、蒼井が脇腹を抑え、屈んでいた。

蒼井の手の下で白いサマードレスの裂けた箇所が、めくれている。長めの前髪のせいで表情が窺いにくいが、ぐっと何かに堪えているような印象は受ける。

 傍から見ても、さきほどの簡易爆弾の鉄片の一つが、腹を裂いたのだと分かった。

『蒼井ちゃん……っ! 大丈夫か?』

 織部さんが、蒼井の前に屈み、緊迫した声で言った。

「ああ」と蒼井が頷いた。「大丈夫である」

『そんな筈はない……私のミスだ、すまない』

織部さんが、ぐっと噛み締めるような声で言い、蒼井の手をとった。『傷口を見せてくれ。すぐに処置をしよう』

 僕は溜め息をつく。

 織部さんの手が、蒼井の手を持ち上げた。えっ、と声が漏れる。白い肌。めくれた薄絹の下には、傷一つない。

「よかった」

 僕は言う。「爆弾の欠片は、服をかすめただけだったみたいですね」

『馬鹿な……。服は、明らかに、腹の前から後ろにかけて裂けているぞ。なのに、どうして……』

「とにかく、今はどんどん進みましょう。蒼井に任せておけば、全ての罠は無力です」

 蒼井も頷き、立ち上がる。屈んだ織部さんだけが、どこか茫然とした気配のまま、呟いた。

『君達はいったい、何者なんだ……?』

狐につままれたようになっている織部さんには申し訳無いが、僕らは説明もせず、先に進んだ。


   ※


 織部伊織は、『ラプラスの悪魔』という言葉を思い出さずにはいられない。

全てを知る存在などいない。なのに蒼井依知華という少女は、向かう先々の様子を完璧に当ててみせる。

思えば、蒼井依知華について、織部は知らないことが多過ぎる。富野ユタカは、蒼井依知華の何を研究しているのだ? 周囲の様子を言い当ててしまう蒼髪の少女の、正体は何だ?

洋館を突っ切り、いかにもここから研究所と言わんばかりの密閉扉の前に辿り着いた。グレーと銀とオフホワイトの扉が、密着を解いて空気を吐き出した瞬間だ。

「む」

「どうした?」

「この廊下の最奥の研究室に複数の人間がいる」

目をあげるとリノリウムの長い通路が続いている。左右にいくつかのドアがあり、無精な科学者が雑多に書類と器具を詰め込んだらしい本棚があり、隅にはゴミも見える。ごくありふれた、誰かの勤務地としての研究施設だ。

一番奥には手術室を思わせる両開きの扉が見えた。

「全部で七人。武装している。その内、1人だけが活発に動いている」と蒼井ちゃんが言う。

ティザーガンを握る手に力が篭る。岡元、須川、江戸村、栗本。男達と血の記憶に背を押される思いだった。

「君達はここで待て」と織部は富野を振り向いた。

『僕もですか?』

「蒼井ちゃんは無防備だ。富野くんは私の保険になってほしい。入口で待機し、私にもしものことがあれば島からの応援を待ってくれ」

蒼井ちゃんと富野くんは互いの顔を見あった。数秒の後。

『分かりました』

富野くんのヘルメットが頷いた。

安心とともに首肯を返す。織部は手袋に包まれた指で、両開きの扉を押し上げた。

広い部屋だ。リノリウムの床を、グリップの利いた足裏で踏みしめる。六人掛け程度の実験机が六つ碁盤の目状に並んでいた。左右には棚と試験箱。大規模なチームが共同研究を行う場所らしい。

奥を見ると、大きな棚が倒され、瓦礫じみた山を作っている。

秩序だった家具が乱れている姿は、奴の犯罪のテーマをシンプルに象徴しているようにも思えた。

部屋の左右に、六人の男が立っている。

作業服姿だ。直立不動の姿勢で、まるで王の間を飾る銅像のように動かない。

そして。

織部に背をむけて。

棚の山の前に、タキシードの男が、立っている。

「ようこそ」

 無音の室内に男の声が響き渡る。

 石膏で固められたような仮面が、こちらを振り返った。

 にっと皺をためて吊り上がった口角は、織部伊織の憎しみに自覚的だ。

 純白のシャツに艶やかなネクタイを締めた《怪人》は、意外なことに、まだ少年だった。ポマードで撫でつけられた金髪は、幼稚でちぐはぐな印象を与えてくる。眼と鼻を覆うベネチアンマスクも、どこか不釣り合いだった。

「熱い展開だなァ?」

 声変わりしたばかりにも思える少年の声が嘲笑った。「一度敗れた女刑事が、果敢にもまた、立ち向かってくるなんてなあ」

『オペラ座の怪人』風の仮面をつけた《怪人》。ふざけた仮装に怒りを覚えた。一歩ずつ、歩を進めながら、織部は口を開く。

「貴様の目的は何だ」

「目的の話題から入るのか。この滾るシチュエーションで」

「答えろ」

「実践さ」

織部は視線を左右に走らせた。六人の傀儡が動く気配は無い。怪人を見やる。両手を覆う手袋は警戒すべきだが、それ以外に奴は丸腰だ。

「実践?」と、また一歩を詰めつつ問いかける。

「主義は実践されなくてはならない。理論は活用されなくてはならない。体験だけが、真理に迫る」《怪人》が指を振って嗤う。「パースは読まないか? 織部伊織警部」

「科学のネガティブさを大衆に体験させることが貴様の目的だというのか?」

「敏いじゃねえか。目的というよりか、結果だけどな。大義は無い。俺はただこうしたかっただけだ」

「ひとつ訊く」

「あん?」

「雨を降らせる準備は整ったのか?」

「整ったさ。《降雨装置》の充填は終わった。後はスイッチを押すだけだ」

織部伊織が《怪人》にティザーガンの射出口を向ける。

「つまり今、お前を倒せば誰もスイッチを押せない訳だな」

「いいや。スイッチは押されるさ」

双眸が光る。《怪人》が指先を織部に向けて笑った。


「織部伊織に《怪人》は倒せないからな!」


織部が引き金を引く。

飛来した二本の針が《怪人》の胴を捉える。

「かははははッ」

電流が《怪人》の胴に流れるが、《怪人》は事も無げに針を引き抜いた。抜けた穴からドロリと緑のジェルが溢れ出る。「絶縁ゼリーさ! オレが対策して無ぇ訳があ」

織部伊織は電子銃を投げ捨てる。《怪人》が言い終わるよりも前に、ホルスターからリボルバーを引き抜き、銃口を《怪人》に向けた。

「は?」

躊躇いは無い。

銃声が轟く。

銃弾が 《怪人》の太ももを掠め、スーツの塵と赤い雫を後方に飛ばした。

「ば、危ッ、こいつマジで撃ちやがった!」

《怪人》は跳び上がって棚の山の陰に転がり込んだ。織部は舌打ちをする。脚を撃ち抜き戦闘不能にさせるつもりだったのに。

《怪人》に追撃を加えるために、織部は床を蹴る。

『織部さん、後ろです!』

耳の側で富野くんの声が叫んだ。離れた廊下にいるにも関わらずアドバイスを出せるのは、蒼井依知華ちゃんというパートナーがいるからなのだろう。

振り向けば、先ほどまで石像同然だった男達のうち二人が、鉄仮面もかくやの無表情のままこちらに疾駆してきていた。天井から伸びた赤い傀儡の光が二人の頭を吊っている。

「ちぃ――っ!」

 左右から振り下ろされた二人の筋骨隆々の腕による打撃を、しかしパワード・スーツの両腕が全自動で受け止める。モスグリーンの作業着をまとった傀儡達の身体は逞しいが、パワードスーツを前に体格差など無意味だ。

「邪魔だ!」

精神はあくまで《怪人》に向けたまま、パワードスーツの自動撃退機能に対処を任せようとした。

『駄目です! その人たちは危ない!』

はっとする。

脚を踏み出しながら、瞳だけを動かして男達を見た。スーツの自動撃退機能で投げ飛ばされかけ、なかば宙に浮いている彼らの片腕には、鉛色の筒が握られていた。

エントランスで天井から降ってきたものと同じ。

簡易爆弾だ。


炸裂。


両肘にあてられた爆弾から、ピンポイントでトラックが突っ込んできたかのような衝撃が織部の腕を襲った。

「ぐぁ……ッ!」撥ねた泥水のように、ドス黒い血がヘルメットに複雑な模様を貼りつける。

堪らずその場に膝をつく。激痛に歯を食いしばり、痺れた両腕に力を入れてみる。右の指先がかすかに動くが、スーツと肌のあいだに厭な隙間を感じた。どうもスーツが破損したらしい。

「……ッ」激痛。

左腕は、完全に、折れていた。

ヘルメットの防弾アクリルを隔ててなお、鼓膜を劈いた爆音の耳鳴りに吐き気を覚えつつ織部は振り返る。

片腕を失くした二人の男が血塗れになって倒れているのが見え、織部はずきりと胸に鈍痛を感じた。私のパワード・スーツへの過信が原因で、罪も無い二人の男性の腕を、永遠に奪ってしまった。

《島》を救わねばならぬ時に、なんという無様か。

「はははは! ンだよ、やられてやーんの!」

怪人が、棚の陰からベネチアンマスクを覗かせて笑う。「甘ぇな甘ぇな甘ぇよ織部! スーツを、道具をッ、過信しすぎなんだよ! ヒトは本気になりゃア何でもできんだッ! 人間を粗末に考えるんじゃねえ!」

どの口が言うのだ、と憤るよりも、ひたすらに自分が情けない。

ひときわ重い足音を響かせて、一人の傀儡が織部の前に立った。坊主頭の眉間に赤い光が灯っている。筋骨隆々の男は上半身裸の格好に、両手持ちの大型ハンマーを抱えていた。

「あ…………」

広範囲への慣性的な衝撃をもたらす形状のこのハンマーなら、防弾アクリルのヘルメットをも易々と粉砕するだろう。その脅威度を脳では理解しつつも、痛みと驚きで萎えてしまった両脚に力が入らなかった。

処刑人の剣(エクスキューショナーズ・ソード)を思わせる厳かな速度で、真紅のアンマーヘッドがゆっくりと首をもたげた。

「アディオス、織部伊織警部」

無慈悲なる赤い重量が眼前に降りおろされて――


『うわ、わ……わあッ!』

奇妙な声と、どすどすと質量感のある足音。

それが接近したと感じた次の瞬間、織部の眼前で、赤いハンマーがひしゃげた。

何だ……? と脳内で疑問を発火させる暇すらない。

折れたハンマーヘッドがごとんと音を立てて落下すると同時に、焦点の合わない目をした大男が、体幹をぐにゃりと曲げて吹き飛ばされた。

『うわ、す、すいません!』

宇宙服とライダースーツを足して2で割ったようなネイビーブラックの人工筋肉が、あたふたと両手を突き出し、壁に激突した大男を気遣う。やがて仕方ないと諦めたように、うなだれて首を振った彼は、メットの上からでも分かるほどに声で苦笑した。『ぱ、パワードスーツ、思ったより勝手に動きますね……。 大丈夫ですか、織部さん?』

「富野くん」

思考が痺れているのだろうか。なぜ来たのだ、と怒る気は全く起きない。

「誰だ?」

 積み上がった家具の向こうから、こそこそとベネチアンマスクが、こちらの様子を伺ってきた。


   ※


「トミノ民間科学捜査研究所の、富野ユタカです」

 僕は彼に名乗る。瓦礫じみた棚の山。陰からこちらを覗き見る、タキシード姿の少年に。

「あなたの名は……もはや、訊くまでもないですね」

 僕は、正装の《怪人》に視線をとめた。

「……ずっと、変だな、とは感じていたんですよ。新田新雅が犯人だと思われていた頃も、それが違うと分かった後も。《怪人》はいったいいつ、未確認技術(ブラックスワン)を手にしたのだろうって」

科学技術は、ある日いきなり目覚めるような超能力ではない。

手品やスポーツと同じ。開発し、身につけるには、階段を一歩ずつ昇る努力が必要だ。

ただの電気屋にすぎない新田新雅が、誰の注目も集めないまま、光遺伝学(オプト・ジェネティクス)を会得することは絶対に不可能だ。

この《島》で成果を得るには、どうやっても名誉と注目を積むしかない。だとするなら、《怪人》の正体は、現代の化学の最先端にいる、ほんの数人のなかにいることになる。

 そしてそれがたまたま、今回は、僕らが名前だけは知っている人物だったというだけの話だ。

「妹さんが悲しみますよ」

僕は肩をすくめて、《怪人》を睨む。

「紀乃階音さん」

世界は狭い。

 事件の捜査の第一線で、自身の発明を未確認技術(ブラックスワン)と言い放った少年は、ベネチアン・マスクを傾げて口角を釣り上げた。

「名探偵ごっこか、民科捜」

 両腕を広げて朗々と語る。

「分かりきったことを自慢気に語る癖を、人間が身につけたのはいつなんだろうな? お前の脳の皺の貧相さを、この眼で確かめたいもんだぜ全くよ」

「知ったかぶりでいえば、手に入れた技術を劇場型犯罪で見せびらかすあなたの振る舞いも、これ以上ない知ったかぶりだと思いますが」

「的を射ている。まさに。そうさ。これが騒がずにいられるか!」

 初対面の僕の前であっても、《怪人》の芝居じみた言動は変わらないようだ。

「俺は、人類で初めて、人間のしくみを、完全に理解したんだぜ! 昂らずにいられるかよ! えぇ!?」

「コネクトームの把握を、人間の理解と言ってしまいますか」

 僕は、目線をヘルメットが隠してくれることを良いことに、視線を床に巡らせ、織部さんの拳銃を探した。さきほどの爆発で、織部さんの手から落ちたニューナンブが、どこかに転がっているはずだった。

「《知る》は《領る》だろ文学少年? 脳のしくみを完全に理解した俺にとっちゃ、人間の魂も、身体も、過去も、未来も、思うがままなんだよ。……ほら、これが。全知の所業だ」

《怪人》が、呵呵と笑って片手を振った。人形師がマリオネットを乱暴に操るような動作に違わず、二人の作業着姿の男が、ふらふらと怪人の前へと歩み出てきた。

 それぞれの片手に、例の簡易爆弾が握られているのを、僕はもちろん見とめる。危険な武器だ。心臓が、どくん、と鳴る。

投げられたらどうする?

遠くに弾き飛ばすしかないだろうな。

持ったまま寄って来られた場合には?

迅速に奪って捨てなくてはいけない。

「ははははは! お前の大脳側頭葉内下部が活性化してるのが見えるようだぜ、民科捜!」

《怪人》が、尖った八重歯を剥きだして笑いながら、まっすぐに僕を指差し嘲笑してくる。「過去の経験(エングラム)を遡ってるな? 呼吸が深くなってるぜ? 処策は思いついたか? でも、残念!」《怪人》が言う。「正解はこうだ!」

 虚ろな両目をした二人の傀儡が、火のついた簡易爆弾を、口に咥えた。

「なっ――」僕の全身を、戦慄が駆け抜けた。

数秒後に訪れるであろう光景が、まざまざと僕の瞳に浮かんだ。乾いた音と、木端微塵に吹き飛ぶ被害者の頭部。どうする。どうする。どうする。そのビジョンを掻き消すかのように、気がつくと僕は、床を蹴っている。

 《怪人》にとって、八人の傀儡の命などどうでもよいのだ。なら、わざわざ彼らに襲わせなくとも、自爆を図り、僕らの方から飛びこむのを待つだけでいいってことか。

「そうこなくっちゃなあ正義の名探偵!」

 怪人の哄笑が、耳に響く。思う壺でも構うものか。パワードスーツの脚力が、二人の傀儡と僕の距離をぐんぐんと縮めてくれる。だが――

 ――くそっ、二人の距離が遠い……!

 傀儡同士はぎりぎり、僕がいっぱいに両腕を伸ばしても両方からは爆弾を奪えない位置で立っていた。片方を救えば、片方が死んでしまう。

 片方は青年。未来有望な研究者というわけだ。

 もう片方は壮年の男。子どものいる齢だろう。

極限のジレンマに、焦燥と絶望が吹き出しそうになる。どうする。その、時だった。

『左は私がいく』

 耳に声が届いた。

『君は右に専念しろ』

 スピーカー越しの声が届くやいなや、僕の左脇に織部さんが疾駆して並んできた。片腕を骨折し、もう片方の腕もスーツの機能を喪失したばかりだというのにこの速度。僕が駆け出してからすぐに、痛みと恐怖にも負けず駆け出したのだろう。

 なんていう勇気だ。

折れかけていた心を支えられた心地で、僕は頷きを返した。走る向きを微調整し、ただひたすら、救うべき右の被害者だけを見据え手を伸ばす。

 簡易爆弾についた導火線は残り三センチ程度まで減っていた。死の炎は一秒ごとに一センチほどずつ縄を焼き進んでいる。二人の傀儡を同時に救おうとしたのなら、絶対に間に合わないだろう。

 だが、助けられるという確信があった。スーツに加速された僕の脚は一秒で十メートル以上も傀儡との距離を詰めている。片方の救出に専念できる状況も、織部さんが作ってくれた。

 果たして伸ばした指先が、人差し指と中指が被害者の口に加えられた爆弾の先端を摘んだ。

「うぉおおおっ!」

スーツの膂力を二本の指に集め、気合の一息と共に引っこ抜く。その勢いを殺さずに、誰もいない壁へと爆弾を離してやった。

――よし!

指先から離れて遠ざかっていく爆弾の導火線がまだ一センチは残っているのを見届けると、僕の瞳は一瞬のうちに織部さんの方を見やっている。

こちらも無事に間に合ったようだ。今まさに被害者の口から爆弾が取り出され、織部さんの腕の動きに合わせて、火薬の塊が壁へと投げ捨てられ――

「…………っ!」

 僕は目を剥いた。織部さんの背後に、一人の巨漢の傀儡が迫り、ハンマーを振りかぶっていたからだ。

 その瞬間に僕は全てを悟った。

爆弾を咥えた二人の傀儡は囮だったのだ。僕らの動きをコントロールし、僕ら二人に確実に有効打を与えるための。

 凝縮された一瞬のなかで、織部さんが殴り飛ばされたのが見えた。

 織部さん! 僕は叫ぼうとした。だが次の瞬間、ぼきりと嫌な音と衝撃が、僕の背中から全身に重く響いた。

「が……っ……!」

 瞳だけを動かして背後を見る。今まさに、大男の逞しい腕の無骨なハンマーによって、背を殴り抜かれた瞬間だった。

 スーツが自動反撃をしなかったのは、スーツの全筋肉が爆弾排除のために伸びきっていたからだろう。身体が思いきり宙に掬い上げられるのを感じた一瞬後には、僕は、《怪人》が積み上げた家具のオブジェまで吹っ飛ばされている。

「ぐぁっ!」

 机が、椅子が、なにやら用途不明な棚が、僕めがけて崩れ落ちてきた。咄嗟に緊張したスーツがヘルメットだけは自動で守ってくれるが、物量には抗えず、僕は顔だけを残して、うつぶせに生き埋めになったかたちになる。

「っ、織部、さん……」

 背の鈍痛に目を歪めつつ隣を見やると、仰向けの姿勢で同じく家具にうもれた織部警部がいた。ハンマーによって吹き飛ばされ、家具の山に叩き込まれたのだろう。

「危機は去った」

 囁くような声が、僕らに降ってくる。

「なんのための棚の山だと思ったよ? コイツは檻だったわけさ。馬鹿力のお前ら二人を閉じ込めるためのな」

 コツ、と僕のすぐ頭上に、革靴が立った。

 牙を剥いて笑む《怪人》が、長い人差し指で、トントンと蟀谷を叩く。僕らのオツムを嘲うかのようだ。

「監視カメラは見てたぜ。バケモンみたいなスーツを着てるのは二人だけだな。お前らの自由さえ奪っちまえば、もう危険は無ぇ」

「くっ……」

 せめて片腕だけでも動けば、と僕はもがくが、予想以上に家具の山は重い。考えてみれば今、胸や腹が圧し潰されていないことが不思議なくらいだ。数センチも引き抜けない腕に、その不自由さに、僕の鼓動が騒ぎだす。

負けた?

この状況は、かなりまずいんじゃないか?

「さて」怪人が、機械じみた動作で小首を傾げる。「どうやって、殺すか」

 傀儡六人が、各々の武器を手に怪人の隣から僕らを覗き込んでくる。ハンマー二本。ドリル一機。巨大なペンチ風の工具が一つ。チェーンソウ二機。それらが僕らの身体をどう痛めつけるのか……理屈で想像はつくものの、いまいち危機感を覚えられない。

 現実感が、なかった。

予防接種の順番を待つとか、船酔いによる嘔吐の感覚が迫ってくるとか、そういった日常の脅威よりも遥かにダメージのイメージがつかない。きっと、今まで怪人に殺されてきた人々も、例えば味方の強化骨格部隊に頭部を粉砕されて死んだ隊員も、死の直前まで自分の死に様を想像できていなかったのではないだろうか。

「じゃ、後は任せたぜマリオネッツ」ひらひらと手を振りながら、怪人が去っていく。「残虐思考のスイッチは押しておいた。俺は諸君らの所業を想像するに留め、後で死体(完成品)だけ拝ませてもらうぜ」

 ふいに巨漢の一人が屈んだかと思うと、巨大なペンチが僕の肩を挟んだ。

前から、背後から、みしり、とスーツごしに圧力の集中が伝わってくる。骨が圧潰する様を想像して、僕は初めて、ぞっとするような恐怖に囚われた。

「やめ……ろ……」

「却下だ」

 怪人の声がほくそ笑んだ。その、次の、瞬間だった。

 ばきょり。

 僕は、音を聞いた。

 広間の入口のドアが、ひしゃげて開いた音だった。

そこから駆けこんできた信じ難いものが、怪人の傀儡の光が降り注ぐ空間を、怒涛の勢いでこちらに疾走してきた。

 僕の肩をペンチで挟んでいた傀儡が、きょとんとした表情でソレを見た。かと思った瞬間には、疾駆してきたソレが放ったストレートのパンチが、傀儡の喉元に突き刺さっている。

 飛翔。

 傀儡が、僕の視界から消えた。

「…………えっ」僕は、唖然とするしかない。

 ぽかんと動きを止めた五人の傀儡が、我に返ったかのように一斉に武器を構える。その次の瞬間、今度はチェーンソウを構えていた二人の傀儡が、一瞬で叩きこまれた二発のパンチによって同時に吹き飛ばされた。

 ばごぉん! と派手な音を立てて、壁に張りついた傀儡たちが床に落ちる。一撃で気絶させられたらしく、どちらも動かない。

 意識を怪人に奪われているはずの傀儡が、それでも恐慌したかのような唸り声をあげた。闖入者にむかって思い切りハンマーを振り下ろす。だが、巨躯なる乱入者は、全く無駄のない動作で一歩脇へと歩をずらし一撃を躱した。流れるように放たれたアッパーが、攻撃後の傀儡の顎を打ち砕く。

 がくり、と膝から崩れ落ちる傀儡。倒された仲間にパニック状態に陥ったわけでもないだろうが、傀儡たちが狂ったように攻撃を開始する。だが、突き出したドリルも振られたハンマーも、巨大な的であるはずの乱入者にかすりもしない。反撃で放たれる拳と蹴りに一人、また一人と、まるで人形のように吹っ飛ばされていった。

 天井からは例の紅い光線が降っている。だが、パワードスーツのヘルメットすらかぶっていない乱入者の頭部に紅い点が灯っているのに、巨漢の猛攻は、止まらない。

『……君の民科捜はどうなっているんだ』

 織部さんが、心の底から茫然としたような声で言った。

「……別に普通ですよ。蒼井というホームズを、僕というワトソンがサポートしてるだけです」

『じゃあ、このばけものは何だ』

 僕は、乱入者に呆れの眼差しをむけて呟く。

「……ジェイソンですかね」

 ぎりりり、と逞しく握られる拳。

 床を削るように踏み開かれる両脚。

 ふしゅう、と排気音にも似た吐息を床に這わせて、ファイティングポーズをとったその巨漢は、頭部に遮光カーテンをぐるぐる巻きにした、白壁大典くんだった。

「嘘だろ」

 いつの間にか立ち尽くしていた怪人が、完璧に素に戻ったような声で言った。「え、気配だけで敵を全滅させるとか、少年漫画以外でありえんのかよ」

 ぎろり、と音がなる勢いで、白壁くんが顔無き顔で怪人を睨んだ。「やっべ」と口を押えた頃には、音と気配で怪人の位置を察知したらしい白壁くんが、床を蹴っている。

 怪人が悲鳴をあげる。両腕を大きく振り、ぐんぐんと距離を縮める白壁くんから、逃れる方法はもはや無い。

「終わった……」

 僕と織部さんの声がシンクロした。

 一筋の弾丸と化した白壁くんが、握りしめた憤怒の拳を怪人に振りかぶる。半袖シャツ姿の巨人の陰に、小柄な怪人が、完全に隠れた。次の瞬間だった。

 乾いた音が、連続して鳴った。

 僕は、眼を剥く。

 がくり、と白壁くんが膝をついた。ずん、と重い音を響かせて倒れた彼の脇腹から、赤い液体が溢れ出ている。

「力ってのは単純明快だな」

 怪人が、くるくるとソレを指で回す。「インスタント殺傷能力。人間の英知の結晶といえば、やっぱりこいつだ」

 怪人が、ニューナンブを手に笑った。

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