第6話 「世界を滅ぼすのに必要なボタンの数は?」


   6


 陰鬱な雨の音がする。

 頭部を覆うヘルメットのせいで、雨水や土の匂いは嗅ぐわない。

 沖ノ鳥メガ・フロート。青鷲区にあるとある貸出研究所(レンタル・ラボ)の前で、織部伊織は拳銃の調整を行っていた。突入まであと二分。支給されたパックから射出型スタンガン(テイザー・ガン)を開封する。手先に、力が入る。

『いやぁ、はは。美人には銃も似合いますね』

 ヘルメット内部の無線から、飄々とした声が聞こえてきた。

「全頭ヘルメットだぞ。顔は見えまい」

『おっと、美人だってこと自体は否定しないんですね。気高くて宜しい……』

「何の用だ」

『無線の最終チェックですよぅ。突入のカウントダウンに向けてね』

 相変わらず、深刻さとはまるで無縁な声色だ。どうしてこうも、何事に対しても面白半分で接せるのか。今日の突入を織部に命令してきた時も、相田忠義警部補は、織部に今と全く同じ口上で語りかけてきた。

「いやぁ、はは。美人には涙も似合いますねぇ」

 MF中央病院でのことだ。

《大思想家》の成れの果てを見せつけられ、喧嘩に負けた子どものように病院から逃げ出した織部に、道路端で車によりかかっていた相田忠義警部補が声をかけてきた。まるで待ち構えていたかのように両手をあげて、へらりと笑った。

何の用だ。と訊ねれば、例の動画の分析が完了したので報せに来た、と言う。なぜ私の居場所が分かった。と訊ねれば、刑事の勘ですよぅ、と身をくねくねとさせた。

「あの映像から何か分かったのか?」

 相田忠義の車に乗り込みながら、織部伊織は問うた。もちろん大した期待はしなかった。動画の《怪人》は顔を能面で隠していたし、動画内の誰も《怪人》に気付いているようには見えなかったからだ。

 だから、

「えっとですね、犯人の名前と居場所が分かりました」

 と運転席の相田忠義が言った際には、思わず「は?」と頓狂な声を漏らしてしまった。

「驚きました?」

「うん……」

 つい素で唸ってから、織部は咳払いをする。「詳しく説明しろ」

「決め手は、《ファントム・アート》の撮影に使われていたビデオカメラの《レンズ紋》でした」

 車を発進させながら相田が語り出す。

「織部さん、カメラのレンズって一枚ごとに微妙に表面の構造に特徴があること、御存知です?」

「生憎だが、私はカメラの専門家ではない」

「あるんですよ。工学系の民科捜に調査を外注したところ、動画の光の分布図からレンズ紋が割りだされましてねぇ。いつ、どこの、メーカーが作ってどこに納品され、どこの店で売られ、どこの誰が購入したカメラなのか。明らかになったんです」

「そんなことが……」可能なのか。

「《怪人》が使用したビデオカメラの購入者が第一容疑者となりました」

 ハンドルにもたれかかる姿勢で車を操作しながら、相田忠義がにこにことした。「レンズ紋の解析と同時に、《怪人》が着用していた能面の種類についても調べてみたんですけれどね? 宮城にある量販店で売られている安物だと判明したんですよ。職人の手に依らず、3Dプリンタで量産されているため、面ごとに特徴がありません。つまり、MF市の技術を使えば、能面に覆われた《怪人》の顔の微妙な陰影から、能面の下の素顔の凹凸を――すなわち《顔特徴点》を読み取れるわけです」

 背筋に寒気が走った。人のはらわたや神経が、そういう大切なものが、とてつもなく無邪気に良心を欠いた手で美しく解体されているような、あっけらかんとした恐怖を感じる。

「人間の顔には特徴点っていう、個人個人の顔の違いを我々に解読させるための大事なコードがあるんですけれどね。眉とか鼻とか頬骨の点を、今回は能面の上から割りだして、第一容疑者の顔と照合しました。ドンピシャでしたよ。いやぁ、もうね、本当にSFの世界ですよ。民科捜に曰く、顔特徴点による犯人の割り出しは二十年前から実現していたそうですよ。二〇一二年には既に、フルフェイス・ヘルメットの上からでも、人相を特定できちゃっていたらしいです」

「《怪人》の名前は?」

「新田新雅」

 と言って、相田忠義が、胸ポケットから新田の顔写真をとりだして見せてくる。「MF市に住む技術者。電気屋さんです」

「間違いないんだな」

「明日、敵のアジトに突入します」

「突入?」

 織部は思わず顔をしかめた。「犯人はただの電気屋なんだろう。武力で制圧する必要があるのか?」

「ははは。甘いですよ、織部警部」

 十字路を右折しながら、夕明かりのなかで、相田忠義がとんとんとハンドルを叩いて笑った。「《怪人》は、劇場の管制室で三名ものスタッフの心臓をナイフで一突きにした武人なんですよ? 逮捕令状を突きつけるにしても、コッチもそれなりの武装をしなきゃ……。返り討ちにでもあったら大変ですからねえ」

「……お前、どうしてそんなに楽しそうなんだ……」

「え? いやぁ、はは。やだな。私、そんなに楽しそうです?」

 分かっちゃいますかぁ。と彼の口が動いたのを織部は見逃さない。彼の歪んだ嗜好を織部が糾弾するよりも前に、「問題は」と相田が言っている。「突入にあたっての問題は、《怪人》が実際にどれだけの戦闘能力を有しているか、なんですけどね。新田の経歴を調べましたが、不思議なことに、武道などの経験が見当たらなかったんですよ」

「全く?」

「ええ。沖ノ鳥MFに来てからアスレチック・ジムには通っていたようなんですが、格闘技と呼べる類のものではなかった。高校まで陸上競技をやっていたようですが、その程度です。よって、彼が肉体的に会得しているスキルは不明なまま。はは。これについては初見殺しに注意していくしかありませんね」

「初見殺し?」

知らないスラングに織部が眉を顰めるも、相田はあえて無視するかのように、さっさと続けてしまう。

「なので、ひとまず警戒すべきは彼が使用する科学技術の方です。今日のお昼過ぎくらいに富野くんから連絡があって、《オプト・ジェネティクス》という技術の可能性が高いことが分かりました」

 富野くん。その名前に、織部の胸の奥がぎゅっと握りこめられるように痛んだ。

動揺を顔に出しかけたが、相田忠義がまるで織部の内面を見透かすかのように片目を向けて来るので、断固として押し隠す。喉の奥で咳払いをして。

「オプト、なんだって?」

「オプト・ジェネティクス。《光遺伝学》という意味の先端科学技術(フォアフロント)らしいですよ。脳の神経に、光に反応して構造が変化する特殊なタンパク質をとりつかせて操作する研究領域なんだそうで」

 左折。スピードを落とした相田忠義の車が、なめらかな挙動で道路の白線をなぞっていく。

「詳細な技術の説明は省くとして、キーワードは《光》と《タンパク質》です。先日の茂上統一郎くんの証言に、《怪人》が手を掲げるとホール内に閃光が走った、っていうのがあったのを覚えていますか? 実は先日、彼の証言を元にオペラ座の照明器具を改めて調査しなおしてみたんですがね。担当してくれた紀乃色名さんが、照明自体に細工がしてあるのを見つけてくれたんですよ」

 相田忠義の異様な手回しの良さに、織部は密かに驚く。

「細工とは?」

「リモコンによる操作によって、レーザーが放てるようになっていました」

 赤信号。相田忠義の車が、振動も音もなく停止した。

「このレーザーと例のタンパク質の関係について、紀乃階音さんという化学系では《島》でトップクラスの民科捜に依頼し、検証を行ってもらったんですが……ふふ……レーザーを当てられたタンパク質には、明らかな構造の変化が見られたそうです。これはつまり、オペラ座に仕掛けられていたレーザーが《光遺伝学》の操り糸だったってことなんでしょう。《怪人》は、このレーザーの加減によって被害者たちの脳を操り、行動をコントロールしていたんです」

 青信号。信号が青でも赤でも、相田忠義の饒舌は変わらない。

「光受容性タンパク質の感染経路については、オペラ座の管制室にあった噴霧器が凶器だと既に調べがついています。管制室を襲って3名のスタッフを惨殺した《怪人》は、ヘイズマシンの中身を入れ替えて化学物質をホールにばら撒いた。紀乃階音さんによれば、人間の体内に入ったこの化学物質が脳にタンパク質を形成するまでには最低でも三時間がかかるそうです。これは丁度、超・長編オペラ(グラントペラ)である『ウィリアム・テル』が第三幕を迎えるまでの上演時間に相当します」

「『ウィリアム・テル』第三幕といえば、テルが、息子ジェミの頭上の林檎を射抜くシーンだな」

 怪人が登壇した青鷲オペラ座では、そこから先が悲劇に書き換えられたのだった。

「その通りです。化学物質を散布した《怪人》は、じっくりオペラを鑑賞しつつ観客達の脳に薬が浸透するのを待っていたわけですね」

 相田忠義が、細い指でハンドルの革を撫でる。「で、機が熟したタイミングでステージに立ち、新田はあらかじめホールの照明に仕掛けていた装置を、作動させた。ホール内の照明に細工ができたのは、《怪人》の正体が電気屋である新田だったからこそです。再現実験等はこれから市警内で行いますが、まぁ、使用された技術については、オプト・ジェネティクスで間違い無いでしょうね。いやぁ、やっと事件の全貌が見えましたよ」

 嘘みたいな話だ。

だが、それを現実にできる技術が存在する以上、相田が語った顛末は、もはや単に希少な凶器を用いた殺人事件でしかないのだろう。銃を知らぬ者から見れば、射殺事件は魔法の産物だが、アメリか市警にとっては日常茶飯事。そういうことだ。

 だが、そこまで納得した上で、織部には理解のできないことがあった。「相田。おかしくないか?」

「おかしい?」ハンドルをきりつつ、相田が首を傾げる。

「なぜ、新田がそんな高度な技術を持っているんだ? 単なる電気屋が、先端科学級の技術と道具を、どこから手にいれた?」

「さあ。勤勉だったんじゃないですか?」相田が反対方向に首を傾げる。「ほら、やればできる子というやつで。この《島》には、裏ルートも多いですし」

「では、なぜ茂上は無事だったんだ」

「化学物質との相性でしょうかねぇ」

「写真を見る限り、新田のような貧相な男が一瞬で三人も刺殺できるとは思えない」

「人は見かけによりませんからね。細マッチョなのかも」

 訝しい眼で織部は相田忠義を睨む。なぜ、こいつはこんなに楽観的で愉快気なのだ。まさか、事態が悪化するのを楽しみにしているわけじゃないだろうな。

「嫌な予感がする」織部伊織は正直に言っていた。「新田のアジトへの突入で、本当に事件が終わればいいのだがな」

「織部さんの厭な予感が当たったら、まぁ困りますけれど。はは、大丈夫ですよ。今回は頼りになる仲間達に要請をかけてありますので」

 頼りになる仲間達。浮ついた文句に、織部伊織がまた相田を睨む。意外なことに、相田忠義の顔にあったのは、先ほどまでのへらへら笑いとは違う、残念そうな影だった。

「《怪人》は多分、明日で本当に終わりますよ」期待しているような面白い展開にはならない。そう知っているような。玩具を片付けられた子どものような声で。「ちょっとだけ寂しいですよね」


 しゃこん、と音を立てて、射出型スタンガンをホルダーに射しこむ。

準備は整った。

『準備はできたか、織部警部補』

「はい」

 全頭ヘルメットの内側に響いた男の声に、織部は返事をした。通信してきたのは、三時間前のミーティングから行動を共にしている『頼りになる仲間達』のリーダー、岡元だ。今となっては覚悟を決めているが、会議室で相田から彼らを紹介された時には思わず眉根に皺を溜めてしまったものだった。

「ご紹介しましょう! 織部さんと一緒に新田を制圧する、頼れる仲間たちです」

 にこにことした相田忠義が、大袈裟な手振りと共に言った。

「江戸村さん。サイバー犯罪対策室の班長さんです」

「どうも」と頬のこけた男が微笑んできた。

「須川さん。鑑識歴30年のベテランです」

「よろしく」と小太りの男が眼鏡をあげて言った。

「栗本さん。今年からMF市警に配属になった一年目の巡査です」

「任せてください!」と若さで一杯の青年が鼻の下を指でこすって笑った。

「そして言わずと知れた紀乃色名さん。興味があるとのことだったので、同行してもらうことになりました」

「よろしくお願いいたしますねっ」ピンクの眼鏡をかけたショートボブの可愛らしい少女が、跳ねるように笑みを向けてきた。

 並んだ四人と、ニコニコと頷く相田を見て、織部伊織は満を持して驚愕を口にした。

「誰一人、まともに現場を経験していないじゃないか」

「俺がいるさ」

 背後からの声に振り向くと、まるまると腹の出た小柄な男がいた。刈り込まれた白髪の下の顔には歴戦を誇示するような皺が刻まれている。両腕も太く、力士の腹と二の腕を残して、他を圧縮したような体格だった。

 男の足に眼をやる。他の職員が革の靴を履いているMF市警にあって、彼が履いているのは、黒の安全靴だった。

「機動隊の方か?」

「惜しいな。元・機動隊の岡元だ。よろしく頼む」

「元?」

 織部伊織が目を細めたタイミングで、相田忠義が軽やかな笑いを発した。

「不思議でしょう、織部警部補? 彼らには経験も、腕力も、必要ないんですよ。彼らは、強化骨格機動隊(パワード・フォース)です。民間企業が開発したパワード・スーツを身につけて有事に出動する、MF市警に特有の機能別部隊なんですよ。いやぁ、格好いいですよねえ」

 ごっこ遊びか何かか?

いかがわしいその名称に、織部は辟易した。

「……経験も腕力もいらない、だと?」

「はい」

「なら、もちろん、お前も行くんだろうな?」

「行きませんよ。怖いですから」

 嘆息する。

 捜査の大部分を民科捜に一任している沖ノ鳥MF市警が、現場で働く警察官を不足させがちなのは事実だが、まさか、こんな仮装じみた服を着込ませて、サイバー捜査官や鑑識までを駆りだしていようとは……。

 今回の制圧対象は新田一人。デビューしたての強化骨格機動隊にとっては程よい相手なのだろうが、不安はぬぐえない。

 それでも結局、織部伊織は、本土で雑踏警備を十年もやってきたという岡元以外は素人同然な警察官たちと共に、こうして新田のアジトである貸出研究所(レンタル・ラボ)への突入の瞬間を迎えてしまっている。

『……突入!』

 岡元の声を合図に、織部達はドアを開き、雨に霞む青鷲区の埠頭から研究所の内部へと身を滑り込ませた。

先陣をきったのはサイバー捜査官の江戸村と、鑑識の須川だった。後に続いた織部の視界で、二人の素人が、脹脛の人造筋肉を動かして屈む。二人が構える拳銃の先に、人間の気配はない。

二人が数mほど進んだ段階で、入り口から警戒にあたっていた岡元と栗本、そして織部が侵入する。一緒に来ると言い張った紀乃色名のことは、織部が断固として同行を拒絶し、相田と共に近くの護送車で待機させていた。

薄暗い研究室に敵は見えない。

オール・クリア。

では、次へ。織部がそう、アイコンタクトをしかけた瞬間だった。

『……天井だ!』

岡元が叫んだ。

 電光灯の消えた薄暗い天井にぶらさがっていた噴霧器が、侵入者に反応するガンカメラのように織部たちを向いた。網の目のような噴霧口が白く霞んだかと思うと、さぁっという静かな音と共に霧雨が降ってくる。水滴がヘルメットを覆い、直後に光が迸った。

 沈黙していた電光灯の中央の一点から、室内を薙ぐように、閃光が走ったのだ。人間の頭部をサーチする機能があるのか、的確に織部達の頭を光が横切っていく。

本当に、捜査官への対策がとられていたわけだ。

だが勿論、全頭ヘルメットによってレーザーと化学物質を遮断しているパワード・フォース達に《光遺伝学》の技術は効かない。《怪人》の罠は破られた、かに思えた。

「っ!」

 織部が細めた目をあけると同時に、ふいに、研究室の隅から『風景』が立ち上がった。音もなく江戸村と須川に駆けていくのは、ギリースーツを着込んだ二人の男だった。

 首から爪先まで屋内用の迷彩服を身につけた男たちは、しかし頭部は向き出しになっている。彼らの禿頭めがけ、天井から光が降っていた。《光遺伝学》の操り糸だろう。

 織部が警告を叫ぶ間もなかった。

迷彩服の二人の敵は、手にしたナイフを江戸村と須川の背中に埋めた。二人の警察官が、がくりと身体を折る。ゆっくりとした動作でその場に膝をつき、球状のヘルメットを項垂らせ、片手を床につき――、

 ぐるんと一回転。

 片膝を軸とした江戸村と須川の高速の足払いが、迷彩服の二人を宙に浮かせた。

 織部が絶句して見守る中、だん、と迷彩服の二人が床に背中から落ちる頃には、江戸村と須川は一息に跳び起き、犯人たちの手首に手をかけている。なおも抵抗しようとする二人を、江戸村たちは人形を弄ぶかのような怪力で持ち上げると、再び床にうつぶせに抑え込んだ。

江戸村達が胸のパックから黒い覆面を取り出し犯人の二人にかぶせる。窒息を待つかのような三秒の沈黙が流れた。

天井から降るレーザーだけが、同志の粛清を狙うスナイパーのポインターのように、覆面の後頭部に灯っていた。

『無力化しました』

やがて須川の落ち着いた声がする。

『いやー、びっくりしたなあ』

と江戸村の太平楽な声も無線で聞こえてきた。

 江戸村と須川は手を背中に回し、ズッ――と重い音をたててナイフを引き抜いた。織部の位置からは見えないが、二人の背中では、凶刃を受け止めた紺色の人造筋肉が、そのかすかな傷を自動修復しているところだろう。

相田忠義に事前に延々と話された御高説によると、この紺色のパワード・スーツには、ダイラタント流体工学という技術が用いられているらしい。普段は柔らかいにも関わらず、衝撃を受けた瞬間には鉄を凌ぐ硬度を発揮するというのだ。

 プシュッ、と空気の抜ける音がして、江戸村と須川の驚異的なアクションをサポートした脹脛と二の腕の人造筋肉が、かすかに収縮した。《知能》を内蔵されたスーツは、打ち倒すべき敵を、ほとんど自動的といっていいアシスト性能で撃破する。あるいは、襲い来る脅威にほぼ全自動で対処をする。今は狙われたのが背中だったから――背中を一般的なナイフで刺される程度ではパワード・スーツはダメージを受けないので――スーツは反応しなかったが、これが頭部あるいは心臓を狙った銃撃だったなら、スーツは自動的に腕を持ち上げ、主の致命傷を防いでいただろう。

 銃とスーツが人間を邪魔者扱いする日も近いな、と織部は思った。人間は現時点でも、スーツの歩行を助ける補助器程度の役割しか担っていないのだから。

『襲撃者たちは無事か?』

『ええ。怪我はさせていませんよー』

岡元に訊ねられ、江戸村が慎重な手つきで迷彩服の男たちの体を調べた。『呼吸と脈も正常。意識は無し。例の症状でしょうかねえ』

『この人たちも被害者ってことっすね』

 織部伊織の右後方で、栗本巡査が舌打ちをした。『なんの罪もない人たちを道具にするなんて……怪人の野郎、悪魔っすよ、クソ』

『罪のある連中だったら道具にしてもいいんですか』鑑識の須川のせせら笑いが聞こえた。

『あ?』

『私語はそこまでだ』

岡元が言った。『サーモ・グラフを作動させた。これ以上、このフロアに敵はいない。引き続き警戒を――』岡元の言葉は、そこで途切れる。

 織部も、岡元と同時に、彼の無言の原因を目撃していた。ゆらり、ゆらりと漆黒のコートの裾を揺らして、一人の人間が研究室の最奥部の階段を下って来たのだ。

武装した警察官五名の存在にも関わらず、ひどく落ち着いた歩みで降りてきている様がどうにも異様だった。織部伊織がホルスターから射出型スタンガンを抜いて構える、それと同時に、フードで頭を覆った男が首を揺らした。

「ご、あ、ぎゅ、あぁぁあああ、ごおぉあ、ど…………」

 階段の途中で立ち止り、何度か咳払いをして、フードの男が織部達の方を向いた。暗いフードの中から、能面の眼を光らせて、奇妙にざらざらと耳障りな声で。

「あーっ、あー……レディス・エン・ジェントゥルメン」と両腕を広げる。「予想外、と思ってもらえたかね? 《怪人》の秘術にかかった気分はどうだよ。体の動きを封じられ、しかし魂は自由なまま、風景に溶けていた二人の男に屈服させられた気分はどう……」

 そこで、《怪人》が黙った。

 左にゆっくりと首を傾げ、射出型スタンガンを自分に向ける五人の警察官を順に眺める。今度は、右にゆっくりと首を傾げ、床にのびた二人の男を眺める。首を正位置に戻した《怪人》が、やがて小さく呟いた。「…………あれ?」

『お前の罠は全部無効化してやったぜ』

 栗本巡査が、吐き捨てるように言い、《怪人》に射出型スタンガンの銃口を見せつけた。

『新田新雅。無駄な抵抗は止めて、大人しく投降しろ』

 《怪人》が黙る。一秒、二秒と沈黙を続け、

「マジかよ」と掠れた声を漏らした。「監視カメラでしっかりチェックしてから降りてこればよかったぜ……」

『腕を頭の後ろに組んで膝をつけ』

「お断りだ」《怪人》が叫び、階段を駆け上りだした。舌打ちをした栗本が、引き金をひくよりも先に――

 ごふん、と。

 噴霧器が厭な音を漏らしたかと思うと、真っ黒な霧を吹きだした。

『なに』

 岡元の呻き声が聞こえた頃には、視界が真っ黒に染まっていた。なんてことはない、墨いペンキが噴きつけられたのだ。織部伊織が手袋でヘルメットを拭うが、汚れは取れない。

そして唐突に、暗闇の向こうから、ぎゅいいいいいいんという激しい音が聞こえた。

さらには、その音が不規則に跳ねるのも聞こえる。そう。例えるなら、チェーンソウでも携えた何者かが、階段を全力で駆け下りてきているかのような――

『全員、ヘルメットを解除しろ!』岡元の叫び。織部伊織は言われた通り、左右の鎖骨の上にあるスイッチを同時に押した。

 ぱしゅ、とも、かほぉ、ともつかぬ音を立て、漆黒に染まったヘルメットが背中側へ外れた。

織部の眼に入ったのは、チェーンソウを持った見知らぬ男が、岡元へと全力疾走してきている光景だった。

 凶悪に飛沫を散らすチェーンソウの、ぎゅいいいいいいいいいいいいいいいいん、という哄笑に、しかし岡元は毛ほども同様も見せず、両脚を地に踏ん張る。左手を前に構え、回転音を押し殺すほどの声量で、

「イアァ――――――――――――――――――ッ!」

 と雄叫びを上げた。警察学校で織部伊織も習った、犯人を威嚇するための声そのものだ。

 チェーンソウが振り下ろされた一瞬、岡元を中心に床の全体が振動したような錯覚に織部は囚われた。空間をまるごと押すような豪快な動きで一歩を踏み込んだ岡元は、迷彩服を着たチェーンソウ男の襟と腰を掴むと、人造筋肉を盛り上がらせた両脚を基盤にして、一息に投げ飛ばした。

 背負い投げ。

 円の軌跡を画いて床に叩きつけられた迷彩服の男が両目を剥く。一方で、宙に放られ暴れているチェーンソウを、一瞬にして跳ね上がった岡元の左足が、後ろ向きに蹴り飛ばした。

 壊滅。

 壁に激突したチェーンソウが、目に見えて形をひしゃげさせる。床に落ちた頃には自らの回転によって自壊したのか、その場で歪な音と共にパーツをばら撒いて停止した。

「お見事……」

 凶器が砕け散る音が残響するなか、織部伊織の隣で栗本がどこか間抜けな感嘆の囁きを漏らした。

 その一瞬。

 五人の警察官の注意は、完全に、チェーンソウの男に奪われていた。

 かしゅん、という音が一瞬でもしただろうか。

 織部伊織は、頭上から、冷たいものをいきなり浴びせかけられた。シャワーのような連続性のある飛沫に、織部は水の出所を一瞬で想像できた。スプリンクラーだ。

「残念だったな警察諸君!」

 豪雨の向こうから、《怪人》の声が響く。

「オレの罠をぜんぶ突破しただと? なめるんじゃねえぞっ! ヘイズマシンも迷彩二人組もチェーンソウも、ぜーんぶ囮だよ! オレの技術を看破したお前らの対策法なんてお見通しだ! お前らのそのメットを剥ぐために、オレは、ぜんぶを、用意してたのさ!」

 スプリンクラーが停止する。

 織部の前髪から、ぽたぽたと雫が床に落ちた。

「鼻からでも口からでも、一息でも吸えば、もうアウトさ」

 《怪人》のざらざらとした笑いが届く。

「どうだい諸君、いったいいつまで息を止めていられるかね?」

 織部伊織は、すぅっと深呼吸をする。

 濡れた前髪を越して《怪人》を睨む。

そして、自由に動く指でテイザー・ガンを向けた。

 岡元も、江戸村も、須川も、きっと織部の隣では栗本も、同じように射出口を《怪人》に向けている。

 階段の手すりに身を乗り出していた《怪人》の能面が、織部達の顔の装備を見て、硬直した。

「お前の負けだ、新田新雅」

 言い放った岡元の鼻と口は、小型の直結式防毒マスクで覆われている。強化外骨格と同じインディゴブラックのマスクが、パワード・スーツに内蔵された酸素ボンベに管を伸ばし、警察官たちの清浄な呼吸を確保していた。

 二重のマスク。

 《怪人》への対策。

 織部は、作戦会議室にて相田忠義が語ったことを思いだす。

「新田が用いている《光遺伝学》は、大なり小なりヒトの脳神経図を参照しています。オーム科学が解明したヒトの脳の地図、つまり、どこをどういじればどうなるのかの説明書、新田はそれを読み解いて、暴行なり自殺なり、望む現象を引き起こすためのスイッチを順当に押しているにすぎません」

 科学とは応用の連続だ。

 科学は妥当な道筋しか辿れない。脳の状況が分かったから、新田は策略を計画できた。アプローチを自由に選択できて、《光遺伝学》を選択したのだ。

 だから、こちらだって同じことができたわけだ。

 《光遺伝学》を封じるための妥当な対策を、当然に導くことができた。《怪人》の使用技術さえ分かれば、あとは望む結果を出すために、自由に対策を選択すれば済むのだ。所詮、《怪人》も万能ではないのだから。対策は、単なるガスマスクで済む。

「貴様の光受容性タンパクは俺らには届かん。なんなら、このマスクを剥ぐためにまた尖兵でも寄越すか? 相手になるぞ」

 無言になった《怪人》が、どこか呆けたように織部の隣へと指を向ける。

手袋の先端にレーザーポインターでも仕込んでいるのか、うすら紅い光線が放たれた。

もちろん無駄だ。五人の警察官は、MF警察署を出てから一度も無菌の酸素ボンベ以外から息を吸っていない。化学物質を呼吸する機会は皆無だった。

「無駄だ。大人しく投降しろ、新田――」

 バシュ、と音が鳴った。

 織部や岡元より前に立っていた江戸村が、その場に崩れ落ちる。

 織部伊織は隣を振り向き、眼を剥いた。

栗本の射出型スタンガンの銃口から飛び出した送電ワイヤーが、江戸村のうなじへと突き刺さっていた。三〇万ボルトの電撃が江戸村の首から注がれ、彼の動きを完全に奪っていた。

 須川が振り返り、叫ぶ。「栗本くん、いったい何を……ぐっ」 須川の左腕が顔を護る。自動的に反応した須川のパワード・スーツが、物凄い勢いで放たれた岡元のパンチを受け止めていた。

「岡、元……っ!?」須川が眼を剥く。

 信じられない光景が展開されていた。

岡元が須川へと跳びかかり、明らかな殺意をもって攻撃を開始していたのだ。

虚ろな両眼のすぐ上にレーザーを当てられた岡元が、受け止められた拳を開き須川の腕を捕える。もう片方の手を伸ばし、オートで防御に転じた須川の左腕をさらに握った。

「ぐぁ」

 パワード・スーツとパワード・スーツ。知能を持った装備と装備が互いをねじ伏せあい、均衡した力の秤を、岡元自身の身体能力がすこしずつ傾けていった。

がら空きになった須川の腹を、岡元が右足で蹴り上げた。何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。緊急的に硬化した須川の人工の腹筋へと膝を繰り返し叩き込んでいた。

「ぐッ……ぶっ、ぉっ、づっ、が……あ、あぁああ、ああ!」

 スーツの耐久力を摩耗させた須川の口から苦悶が漏れた。咄嗟の判断で織部伊織は岡元へと銃口を向けた。

「や、やめろ! いったいどうしたんだ」

 引き金を絞りながら、織部の脳内は困惑しきっていた。

 どうして栗本が。

 どうして岡元が。

 どうして《光遺伝学》で操られている?

 恐慌のあまり武力を頼ろうとした織部の手から、小気味の良い音を立てて射出型スタンガンがすっぽ抜けた。

 いつの間にか接近していた栗本が下方から蹴り上げたのだ。

「栗本……――」

握られた栗本の右拳が、まっすぐに織部の頬へと放たれた。

 怖い。

 刹那、右腕がちょっと痙攣した、というのが実感だった。不快な電流を興奮した思考の一端に感じたかと思えば、織部の腕が反射的に栗本の拳を防いでいる。

「っ……!」直後、織部の膝が折れる。ごろりと赤子のように、床に全身が丸まった。知能をもったパワード・スーツの合理的な判断により織部伊織は四肢で頭部と腹部の全てを護る情けないダンゴムシの体勢を強制的にとらされていた。

直後、栗本の拳が、蹴りが、織部伊織の全身へと降り注ぐ。

衝撃。衝撃。衝撃。衝撃。衝撃。

「成程。お前らはよく対策したよ。よくもまぁオレの技術を特定したもんだ」

 機械の筋肉のシェルターの向こうから、《怪人》のざらざら声がやけに鮮明に織部の耳へと届いた。

「そうさ。俺が使っているのは、この島が育んだ科学技術だ」

 衝撃。痛覚。衝撃。

 振動。衝撃。衝撃。

 怖い。怖い。怖い。

地震が止むのを机の下で待つ子どものように、空爆が止むのを防空壕で待つ人のように、織部伊織は痛みと衝撃に耐え、震えるしかなかった。人造筋肉のわずかな隙間から、階段に立つ《怪人》を怯えきった眼で見る。

「オレはな、興味があったんだよ」

 人形遣いが如く両手の指を手繰らせながら、《怪人》は語っていた。「オレたちが手にした科学技術、いったいどこまでできるんだ? ってな。こんなことまで出来るのか。そう確認してみたかったんだよ。計画を練るうち、オレはだんだん怖くなった。なんだよ、考えてみりゃあオレは、相当やばいことを実現できちまうんだなぁ、ってな」

 ぐしゃあ、という悍ましい音が響いた。

 織部の視界の隅で瑞々しいばかりの赤が床に広がった。

 床にめり込んだ岡元の拳に《怪人》のレーザーが当たっていた。それはもちろん、一瞬前まで誰かの頭があった箇所の筈だ。光が命令した動きを物語るように、岡元の剛拳に際して防御を放棄した須川の両腕がバンザイの形で床へと落ちた。

無防備な須川の頭蓋を、パワード・スーツの拳が粉砕してしまっていた。

「さて……一部始終を見てもらえたかオーディエンス?」

 《怪人》が語りかける。

 研究室の四方の天井に備えられた、監視カメラに向かってだ。

「本動画が、一連の《ファントム・アート》のエンディングだ。チャンネルはそのまま。ラストが凄いぜ。まずはオレの、ちょっとしたメッセージに耳を傾けてくれ」

 塾れた紅い果肉の中から岡元の拳が引き抜かれる。痙攣を続ける須川の肉体に眼もくれず、岡元は自らの頭部を両手の平で挟んだ。スロー再生のように両手の隙間を狭めていく。岡元の前髪の隙間から、艶やかな赤の雫が線を引いて流れる。

「世界を滅ぼすのに必要なボタンの数は?」

 能面の男の声が、薄闇の環境音を覆い隠す。

「それが、この動画の導入となる問いだ。どうだ、簡単だろ? 答えは分かったか? そう、一つだ。一つで足りる。合衆国大統領の《フットボール》、ロシア大統領の《ヒマワリ》、どれか一つでも押されれば、核ミサイルは発射され、被弾した大国が報復に乗り出し、世界大戦が始まる」

 両手を掲げ。

「地球上で《高い警戒態勢(ハイ・アラート)》状態におかれた約六〇〇〇の核が二分以内に全弾射出され、地球上の生きとし生けるお茶の間の皆さんの命を消滅させる。インスタント終末。リーズナブル・ジ・エンド。科学の進歩は、ボタン一つで世界を滅ぼせるようにした」

 秒間2センチといったペースか。岡元の右と左の手が、確実に間のスペースを狭めていった。衝撃。衝撃。衝撃。震える織部伊織には何もできない。

「無論、危険なボタンは核だけじゃねえ。テロリストを乗せた飛行機の操縦桿でもいいし、原発の制御装置でもいい。大事なのは、世界にいくつかあるボタンのうち、一つでも押されりゃあ、世界はいつでも滅んじまうってことだ。さて」能面がかすかに笑った気配がある。「第二問。ここからが本番だぜ」

 フードの下で、能面がやや俯く。

「いま、世界を滅ぼせるボタンは、世界にいくつある?」

 呵呵と笑う。問うた途端、能面の男は、天を仰いだ。「ははは! 悪いなオーディエンス。こりゃあアンフェアな質問だ。気付いたろ? ボタンは、数なんざ、もはや数え切れねえほど在るんだからな。そう。ボタンは、いまや、そこら中で売ってる。オレだって持ってる。ただ、残念ながら、オレのは核攻撃を指示するボタンじゃねえ。ややハッタリになっちまって申し訳ねえが、世界を一瞬で滅ぼせるボタンでもない。オレのボタンで滅茶苦茶にできるのは、せいぜい沖ノ鳥メガ・フロート全域くれえかな」

 衝撃。厭な音。ぼろぼろになって隙のできた織部の左腕を、ついに栗本の片手が握りしめた。

「あ……っ」

 力を込めるも人造筋肉が反応しない。左腕を万力で持ち上げられ、虚ろな殺意に満ちた栗本の両眼が織部伊織に降り注いだ。

「心臓ペースメーカーをクラッキングできる性能のパソコンが各個人に普及した。あらゆる毒物はインターネットで注文可能になった。つまり、そういうことさ。終末ボタンの正体は、チープ革命が個人に供給した安価で高度な技術たちであり、検索エンジンによって拡散された科学の知識であり、そしてほんの少しの、使い手のやる気だ。そう。科学は、ここまできた」

 蹴りを放とうとした織部の両脚を、栗本の両太ももが、のし掛かって封じてくる。一方的に無傷な栗本のパワード・スーツの片腕が、織部の両腕を頭上に抑えつけた。

「やめろ……正気に戻れ……」

 制止の声にも、栗本は反応を示さなかった。

 がら空きになった織部の顔と、胸と、胴体を、品定めするように、的を絞るかのように、彼の視線が這う。

「いいか、オレを、例外的な災厄と思うなよ?」

 能面の人相が変わる。口調は変わらないが、どこか、この上なく知的な問いを孕んだ、冷酷な哲学者の顔になる。「オレ一人を悪者にして安心するなよ。いいか、オレは、《凡人》だ。他人よりちょっとだけ行動力があるだけの、完膚なきまでの《凡人》だ。それがどうだ? オレみたいな《凡人》がだぜ、ちょっと気を変えただけで、科学を悪用し、社会を脅かす《怪人》になれるんだ。誰もが入手可能な、チープな科学技術のおかげでだ。いいかオーディエンス。イメージしろ。何年かに一度オレみたいな変わり者(イディオット)が、ほんの少し妙な気を起こしただけで、このビデオでオレが撮影してる程度の惨劇なんざ、これからまた何度でも起こっちまうんだ」嗤う。「その何度目で、オーディエンス、君や君の家族が犠牲になるかは分からないがな?」

 栗本が拳を振りかぶる。

 織部伊織が悲鳴をあげる。

 直後、馬乗りになっていた栗本の全身が織部伊織の視界から消えた。

 ぜいぜいという荒い息は織部のものか他人のものか。栗本の代りの顔が、織部の視界から彼女を見下ろした。

 江戸村だった。自力でスタンガンから復帰したのか、震える全身を両脚で支えて、栗本を殴り飛ばしてくれたのだ。直後、江戸村のこめかみにレーザーが灯る。彼の両眼が虚ろになる。栗本の後を継ぐように、全く同じ動作で、握り込められた拳を振りかぶった。

 絶望が織部伊織の脳を覆った。

「オレの出現は、特異点ではあるが終点じゃない」

能面の男が両腕を広げる。

「始まりにすぎねえ。科学は、ここまで来たんだ。今が臨界点(クリティカル・ポイント)だ。オレはそれを報せるために腰を上げた。オレは別に科学技術を否定しようってんじゃねえ。真機械破壊運動(ネオ・ラッタイト)に与しようってワケでもねえ。オレは諸君に一考してもらいたいんだ。あるいは、味わって欲しいんだよ。今までSF小説や映画だけで描かれてきた近未来的で煌びやかな絶望が、今、科学技術によってセンセーショナルに実現しやがってるって現実をな。そんでもって、こっからが大事なんだが――ん?」

 《怪人》が見たのは銃口だった。

 江戸村が拳を振り下ろす一瞬前に、織部伊織は、最後の勇気を振り絞り、腰からニューナンブを引き抜いていた。

 咄嗟に閃いた《怪人》の指先が、レーザーを織部の眉間に灯す。それと全く同時に、織部は、トリガーを引いていた。

 銃弾が、《怪人》の左手を貫通する。織部に向いていた五指をあらぬ方向へと折り曲げ、肉と筋を吹き飛ばした。

 一方の織部伊織は、レーザーを受けたにも関わらず、その自我を失わない。

 能面の眼窩で双眸が驚愕に剥かれた。「馬鹿な」

叫びと共に織部伊織は拳銃を連射する。狙いと目的は失わず、《怪人》の右手と右の太腿へ、それぞれ一発の銃弾を届けた。

「がっ……ぎゅあ……っ!」

 《怪人》が、その場に崩れ落ちていく。人造の筋肉の伸縮を以て、織部伊織は階段へと駆けた。跳躍し、手すりを握り、アシストされた運動能力で身体を浮かすと、

「ああぁああああああ――――――――――ッ!」

叫びと共に放つ蹴りで、非力な《怪人》、新田新雅を薙ぎ倒した。

倒れた《怪人》に馬乗りになる。

 罅の入った能面に、がちり、とリボルバーを押しつけた。

 漸近した死への恐怖と動揺が織部伊織の身体を震えさせた。撃て。撃て。撃て。殺せ。殺せ。怖い。制御を失った思考が、織部伊織の指に力を送り込んだ。

 祖父の笑顔が脳裏に浮かんだ。

 ふいに涙が眼を覆う。

「……ああぁぁあああああああああっ!」

 とてつもない意志の力で織部伊織は拳銃を投げ捨てた。抵抗の意思を示さない《怪人》に涙まじりの声で、織部伊織は叫ぶ。

「新田……新雅……貴様を、逮捕する!」

 乱れる息。肉体と精神の疲労の限界を迎えながら、織部は、虚ろな意識で《怪人》の能面を剥いだ。

――ああ。

 織部伊織の表情が凍りついた。

――なんだ、いったい、この悪夢はいつ終わるんだ……。

 新田新雅の頭部にあったのは、地図だった。

 異様すぎる《怪人》の頭に、織部伊織は口を手で覆う。

 新田新雅の首から上には一切の皮膚が無かった。剥きだしになった顔面の筋肉の上では、肉と頭蓋骨を外された脳みそが艶やかな色を晒していた。

 脳の溝と溝に、ガソリン色に光る金属が複雑な図形をつくっていた。毛細血管を真似るような金属は、脳の灰白質の内側へと複雑な針を根のようにはっている。まるで、脳の隅々にまで電流を届けんとするかのように。脳と金属の割合すら分からぬほどに複雑に、肉と鉄が絡まり合っていた。

玉虫色に輝く金属の地図上には、所々にランプを灯す歪な機械が装着されていた。規則的に点滅するそれは何かの受信機にも見えたし、脳内に光を送るための基盤にも見える。

 光の根。

 織部伊織は悟る。

 この男も、《端末》なのだ。

 新田新雅の脳みそを基盤にし、コントローラーを握っていた人間は他にいる。

 新田新雅を《光遺伝学》で操った真の《怪人》が、別に存在している。

 《オペラ座の怪人事件》は、まだ終わっていない。


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