第5話 赤い過去


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 つい、有給の確認なんてしてしまった。


MF学院の校舎から出た織部伊織は、胸に抱きかかえていた手帳をやっとの思いで鞄に仕舞い、溜め息をついた。

富野ユタカとの会話の後、早々に手帳のカレンダーを取り出して、彼との食事のために休暇を申請できそうな候補日を確認してしまった。

乙女じゃあるまいし。

もう二十五歳だし。

 と、キャンパスを行き交う私服の学生たちを眺めつつ首を振る。

精神一到の心意気で刑事道に邁進してきた自分が、少年とのディナーの約束を職務より優先させんとする日が来ようとは……。うかれている自分の姿が、今まで自分を食事に誘っては拒絶されていった屈強な同僚たちと重なって少しだけ情けない。

 初夏の風の中を歩きだす。

 グレーの靴が歩むのは、焦げ茶色の細い桟橋だ。

 両脇で陽光を反射させるのは、透き通ったオーシャンブルーの海面。視界の両端をかすめる建物は、白亜を思わせる純白にヤシの木を添えられたリゾート・ホテル風だった。

限りなく透明な海面を見下ろせば、オレンジと黒の色彩をもつ鮮やかな熱帯魚が、身をくねらせて泳いでもいる。見上げる空にウミネコがいないことが不自然に思えるくらいの、南国ムードが辺りに満ちていた。

 もちろん、MF学院青鷲キャンパスは、南国の海辺に桟橋を巡らせて成り立っているわけではない。

桟橋に見えるのも、海面に見えるのも、全ては路面として設置されたスクリーンに映る映像だ。

せっかく南の島にいるのだから、という気持ちが科学者たちにもあったのか知らないが、青鷲区のキャンパスや街には、いたるところにこのスクリーンの技術が用いられており、住民たちは毎日、自分があたかも南国の海辺にいるような気分でいられる。もっとも、科学技術が可能にしたそんな美しい光景も、織部伊織にとっては、享楽的な科学に蔑ろにされた地球を覆い隠す欺瞞のブルーシートにしか見えなかったのだが。

 ふと、過去の記憶が蘇ってくる。

――誤魔化か、慰めにしか思えないんだ。

ちょうど同じような感情を覚え、震える声で織部が訴えたのは、今からちょうど十年前のことだった。

 疼痛を伴って蘇ってくるのは、老人介護施設での記憶だ。おそらく人生で唯一、子どもの頃からの夢だった刑事の道への想いが、揺らいだ日のことだった。

――なにを言ってるのよ伊織。どうしてそんな否定的な見方をするの? 内装だって綺麗じゃない。ねえ? 

――そうだぞ伊織。入居者の皆さんだって、こんなに幸せそうじゃないか。

 その老人介護施設を初めて見学した時、織部伊織は、両親の主張の意味がさっぱり理解できなかった。

――外見が綺麗だから何だっていうの? スタッフも、設備も、ぜんぶ、入居者を馬鹿にして騙しているだけじゃない。私はこんな施設に、おじいちゃんを入れたくない。

――落ち着きなさい伊織。どうしたんだ。何をそんなに苛立っているんだい?

 何をそんなに苛立っていたのか?

 きっと、あの日、私を苛立たせていたのは、理屈なんてない、直感的な嫌悪感だ。その当時、とにかくその施設の全てが気に喰わなかった。

――おやつの時間ですよー。

 無人の廊下だ。髪にパーマをかけた若い職員が、幼稚園児でも扱うような甘い声をあげて、誰にともなく両手を叩いた。

 廊下に並んだ扉が一斉にスライドし、中から、完全自動の車椅子に乗せられた老人たちが、まるでモノのように運び出されてきた。おやつですよー、おやつーという若者の声が、砂糖の雨のように老人たちに降り注いでいた。おやつの後には、みんなでお遊戯会もやりますよー。今日はみんなで、お人形劇をみましょうねー。嬉しいですねー。

 何が、お人形劇だ。

 老人たちの魂の抜け落ちた笑顔に織部伊織の肌は粟立っていった。

 ふいに、廊下の隅で、老婆が金切り声をあげた。

 年長者の大声を聞いたのなんて初めてで、それが泣き声だと気づくまでに時間がかかった。十五歳の織部は、びくりと肩を跳ねさせて、そのまま手を胸の前に組んで硬直してしまった。

おいてかんといてえなあ、おいてかんといてえ。

 車椅子から落ちた老婆が、壁を手で叩き大声で喚いていた。

 大粒の涙を零す彼女を一瞥し、パーマの青年はしかし眉一つ動かさない。事務的な笑顔を崩さず、口元で小さく、まさに機械的な呟きを発しただけだった。

――ケア4、《回収》(リトリーブ)。

 青年に侍(はべ)っていた白い柱が、ぐるん、と丸い頭で老婆を睨んだ。

 介護ロボットの見た目は、白い小芥子にそっくりだった。アーモンド型の二つの眼で老婆を見据えたロボットは車輪を器用に操り、円柱状のボディを彼女の元へと滑らせた。『お待たせしました』と柔らかな声が発され、白い小芥子は、両脇から生えた腕を老婆の元へと下ろした。『怖かったねえ』『もう大丈夫ですよ』と一定のリズムで優しい声を老婆に落とした。

ああ、ああ。小芥子を見上げた老婆が顔をしかめて唸った。ああ、ああ、やっと来たんかあ、はよ起こしてえなあ。

『怖かったねえ』『大丈夫?』

ううん、だいじょうぶやないが、いたい、いたいわあ。

『怖かったねえ』『もう大丈夫だよ』『掴まってください』『せーの』

あー。

『怖かったでしょう』『よしよし』『掴まってください』『せーの』

 追加で生えた2本のアームを老婆の脇に差し込むと、白い小芥子は老婆の全身を最初に下ろした腕に乗せ、エスカレーターの要領で車椅子に乗せ直した。

 パンパン、と無頓着な拍手が鳴った。

――はーい、みなさん、仲良く移動しましょうねー、はやくしないと、おやつが無くなってしまうかもしれませんよー。

織部伊織が眼を向けた頃には、パーマの青年は、レクリエーション会場の扉のむこうに消えかけていた。ケア4と呼ばれた介護ロボットに命令を下してから一度も、彼は老婆とケア4に眼を向けず、すたすたと移動していたらしかった。

今からでも遅くない。

 介護士を目指そうかと、本気で思った。

 おじいちゃん。

学校のいじめに不快感を覚えた時、道端で車に撥ねられ死んでいる猫を見つけた時、泣きつく先はいつも祖父だった。頭を撫でてくれる大きな手に、「よぉし」と唸って心に寄り添ってくれる彼に、織部伊織は大きな安心を貰っていた。実家の和室に飾られた祖父の写真はいつ見ても立派で、威厳のある制服に身を包んだ逞しい姿にいつしか憧れていた。

警察庁の生活安全局の長。少年課の第一線で活躍し、その人格を買われて出世していった祖父。肩書きに違わず人情深く、何事にも動じぬ慈しみを向けていたおじいちゃん。

たとえ認知症を患ってしまったとはいえ、そんな祖父が、誰の手からも遠ざけられ、世話を一任された機械の腕の中に投棄されようとしていることに、底知れない怒りを覚えた。

――慰めだし、誤魔化しかもしれないね。

 祖父の入居を決めるサインを書きながら、父は眉を下げて諦念を滲ませて言った。

――でも、そういうものでしか救えない人達だっているじゃないか。

 結局、織部伊織の祖父は、この施設のトイレで、たった一人で死んだ。

 死因は急性心不全だった。家族にも施設の職員にも連絡が届かなかったのは、付き従っていた介護ロボットの充電が切れ、祖父の危篤を伝えるアラームが作動しなかったからだった。祖父は、糞尿と一緒に便器に沈んだ姿で発見された。便所の戸の前では、うなだれた介護ロボットが、白い顔に無表情を貼り付けて停止していた。

 それからだ。

 別に、この出来事が織部伊織に科学を憎ませたわけではない。ただ、この出来事がきっかけで、織部伊織は少しだけ科学と人間の尊厳について考えることが多くなった。

 尊厳死のニュースを見る時。

 原子力発電に関する論争を聞く時。

 警察学校で、遺体を前にした際の作法を学んだ時に。

 それらの先にある、人への敬意に寄り添うようになった。

 日本を幸せに。

 本土から二〇〇〇kmも遠くから喚く島。

 科学至上主義を謳う島に嫌悪を覚えてしまった私は、幼稚なのだろうか。

 外国への闘争心に我を失い、もっともっとと日本にプラスティック製の優しさと慈愛を押しつけてくる《島》。何か、大切なことをみんなが忘れていて、肥え過ぎた科学が、いつか取り返しのつかない爆発を起こすような気がしたのだ。

あなたの背後で、いつも泣いていたのは誰?

 昔読んだ絵本にあったそんな文句が、脳裏に木霊(こだま)していた。

 天を目指す島を眺めて、

 泣いていたのは、きっと祖父だ。


――ちょっと、立ち止ってもいいのではないかなと思います。

 生物実験のために《島》に連れ攫われる無数の雑種犬。

 中学生たちが集めた募金を、笑顔で掴みとっていく科学者たち。

 テレビにうつろう有象無象の災厄の種のはざまで、彼の声は唯一、人間の声に聞こえた。

――何のために? それを語りあってみませんか。熱くなって、楽しくなっている今こそ、理由を考えてみましょう。私達が助けたいと願ったのは、笑顔が見たいと思ったのは、誰だったでしょうか。

 《大哲学者》の富野氏を、最初から特別に思っていたわけではなかった。

 とあるテレビの討論番組で、沖ノ鳥島の成果を狂気とともに捲し立てる学者に、彼は、待って、と言ったのだ。

――ところで、あなたはいつ、奥さんと話しましたか。ご家族は本土にいらっしゃますよね。

 安堵した。

 沖ノ鳥メガ・フロートの五賢人として選ばれた富野氏をテレビで見るたびに。

 彼だけは人類の進むべき道を分かっている。彼さえいれば、本当に大変なことにはならない。科学の島で、科学の暴走を食い止められる、唯一にして最強の砦。富野氏の存在を想えば、あるいは彼の本を読めば、人間の尊厳が本当に貶められる事態にはならないと安心できた。

 そして、例の事件で富野氏がいなくなって。

 途端に、《Uフェイト》のウィルス騒ぎだ。

 織部伊織にとっての《Uフェイト》は、富野氏がいなくなった事で隙間の空いた壁から溢れてきた彼岸の災厄だった。

 居ても立ってもいられなくなって、いつしか織部はMF市警への転勤を希望していた。

 猶予は無い。

 漕ぎ手を失った島が、いつか本土にぶつかってくる前に。

不安で一杯ななかで、私は、富野氏の子息を見つけたのだ。


 風が強く吹いた。

 ヤシの木がそよぐ。

 MF学院のキャンパスを出た辺りで、織部伊織は目を細め、乱れた髪を耳にかけて静めた。

ぼーっと歩いている内に桟橋は終わり、目の前には、アスファルトの道路が現れていた。

道路端の歩道にもスクリーンが埋め込まれているせいで、街と海が混ざり合ってしまったような幻想的で美しい光景が、青鷲区の市街地にも広がっている。

近くの駅から、中央四区行きのモノレールに乗ろう。そう考えた時だった。

ふいに、織部伊織の傍にバンが停車した。

 警戒するともなくそちらを見ると、後部のドアがスライドし、中からけばけばしい少女が降りてきた。

 暗く揺れる紅い髪に、手術室から穢れと悲痛を連れてきたような白衣。

こけた頬を歪ませて、真紅の瞳を織部に向けて彼女は笑った。

「こんにちは。織部伊織ちゃん」

 赤肚小咲。

 MF中央病院の、研修生ではないか。


   ※


「君か。先日は世話になった」

 織部伊織は、突如現れた赤肚に敬礼した。「聞くところによると、富野くんが茂上と話をできるよう主治医に話をつけてくれたのは君だそうだな。助かったよ。おかげで捜査が進展した」

 話を聞いているのかいないのか分からない態度で、赤肚小咲が、ひょこひょこと奇妙な足取りで織部に近寄ってくる。

「しかし、中央病院を拠点にしている筈の君が、なぜこんな所に――」

「あなたこそ」

 ぐい、と織部の鼻に噛みつかんばかりの距離まで顔を寄せて、赤肚が歯を覗かせて言った。「あなたこそ、どうしてこんな所にいるのぉ?」

「……? あ、ああ、富野ユタカ君に用があったんだ」

「用って?」

「怪人事件について意見を求めたんだ。それだけ、だが……?」

「ふぅーん?」

 一歩後退し、身を退こうとするも、そのたびに赤肚も一歩進み、まん丸に見開かれた眼球で織部の両眼を追ってくる。いったい何なのだ……と怒りと恐怖を覚えかけた時だった。

 ごきん、と骨が折れるような音がして。

 首の倒れた赤肚小咲が、悪巧みをするように両目を歪めた。

「な……」

「ねえ」と折れた首を片手で支えるようにしながら赤肚が言った。「ユタ君の研究の内容に、興味なぁい?」

 なんだと?

 ばきん、と首を元の位置に戻し、赤肚は唇に指を沿えて笑った。「私はユタ君の研究のパートナーだから。もしよかったら、あなたにユタ君と私の研究を見学させてあげようかと思ってねえ」

「何のために」

「あなたのために」

 よく見ると赤肚は肩を小さく震わせていた。言葉の端々に、はっ、はっ、と短い呼吸が入るのは、あがり症の人間に特有の、横隔膜の緊張による過呼吸に見えた。

「だって織部ちゃん、ユタ君に興味があるんでしょ?」

「何?」

「興味が無い訳ないわよねぇ。だって病院であんなに仲良さそうに彼と話していたんだもの。なぜかしらね? 刑事だから? 女だから? 《大哲学者》のファンだから? どおでも良い。いいからさっさと、お誘いの返事が欲しいわ。どうするの? 研究の見学をするの? しないの? 早く決めて」

 訳が分からなかった。

だが、激しく興味はそそられた。あの《大哲学者》の息子が、いまこの《島》で何をしているのか、知っておきたいとは思った。

「……パートナーと言ったな」

「ええ」

「富野ユタカ君の専門は、倫理学なはずでは?」

「詳しいわねぇ。やっぱり興味があるんじゃない」

「以前、新聞でそう読んだ記憶がある」

「あそ。気になるなら、一緒に来なさいよぅ」

 前かがみになってこちらを見上げてくる少女の思惑は知れなかった。

 ここで退いては後悔する気がして、気がつくと織部伊織は車に乗っていた。


   ※


 幸い、今日は午前で仕事を終えていた。

 というのも、昨日の朝から晩にかけて《ファントム・アート》がネットを賑わせていたせいで、織部伊織は徹夜で処理に追われていたのだ。今は事件の全貌を把握し終え、映像やサイトのログを解析班に渡してある。

 富野ユタカ君が訪れる時間まで、赤肚の研究室で待機した。

 もしもユタカ君が誘いに乗り、共に食事にでも行った場合に話題の種になればと、《大哲学者》の文庫本鞄に忍ばせていたおかげで、退屈はしなかった。やがて時計の針が三時を回り、四時を回った時だ。

背後から音もなく、赤い長髪を生やした骸骨が首を伸ばしてきた。

「ユタ君が来たわ」

 恍惚とした表情で口角を吊り上げた赤肚小咲が、ゴロリと眼球をこちらに回転させた。「準備をしなくちゃねぇ」

「準備?」

「ええ」赤肚の目元の皮が歪む。「隠れて頂戴」

 背後から、がしりと両腕を掴まれた。

「な――」

 そのまま無理矢理立たされる。力で引っ立てられた訳ではなく、ただ、抵抗をしようとすると、脇の下に添えられた赤肚の指が微妙に肉に喰い込み痛みが走った。

「ぐ……っ!」逆らえぬままソファから立たされ、部屋の隅のロッカーに押し込められる。

「何のつもりだ……っ!」

「観測者効果って知ってるぅ?」

 縦長の密室に詰め込まれ動けぬ織部伊織に、赤肚が息を吐きかけた。「実験において、観察や観測といった行為そのものが実験対象に与えてしまう影響のことよ。観測者がターゲットに与えるプレッシャーや、観測機器が対象物に与えるストレスは可能な限り0にしなくちゃいけないの。ありのままの富野ユタカ君を見たいなら、招かれざる観測者である織部ちゃんの存在は彼には知らせない方がいいってことぉ」

 要は、盗み見をしろ、ということだ。

卑怯だとは思ったが、赤肚小咲がこれほど見せたがっているのには何か理由があるのかもしれない。

「……ユタカ君の実験は、もしかして、人に見られたらまずいようなものなのか?」

 織部の問いに、赤肚は喉の奥で嗤いを揺らしただけだった。

 ロッカーの扉が閉められる。

 横縞状に空いた通気孔から眺める赤肚小咲の研究室は、その主の容姿とは違い、いたって平凡なものに見えた。黒塗りの実験デスクがあり、ホワイトボードがあり、雑菌対策なのか何なのか透明なガラスで四方を覆われた実験台がいくつか安置されている。手をつっこめる穴があるが、中身は空だ。

 唯一、部屋の奥に大規模なカーテンが引かれているのが気になった。

 教室の端から端ほどの距離を紗幕が横断している。場違いな理科室に現れた異次元の劇場のようで夢幻的だった。

 部屋で待っている間は気付けなかったが、よく観察すると、そのカーテンは、内側から絶えず吐息を吹き掛けられているかのように靡き揺れていた。空気の流れがあるのだろうか?

黴臭い棺桶の中には、初めから織部に隠れさせる予定だったのか何も入っておらず、窮屈だがスムーズに体勢を正した時、ドアが開く音がした。

「っ……」

 来たらしい。

 足音に続き、少年の声がした。

「状況は?」

 二回しか会っていない彼の印象と違い、やけにビジネスライクな声色に聞こえた。

「結論から言うならぁ、彼女と遺伝子学的に相似なキメラマウスの作成は大(だい)失敗(しっぱぁい)」

 格子状の赤肚小咲が両腕を広げて嘆く。

 彼女の目の前に、黒髪の少年が歩いて現れた。

 織部伊織がMF学院で会った時と同じ、無地のシャツに綿のパンツという真面目で大人しい恰好をした富野ユタカだった。

「……どう厳しいんですか?」

「マウスが死んじゃうのよ。どうやってもね。基礎的な手順として、彼女のRNAから抽出した逆転写酵素をマウスのDNAに作用させてみたわけだけど、マウスは全て衰弱死したわぁ」

 心底辟易したように、赤肚小咲は自暴自棄なダンスを舞うが如く、くるりくるりと白衣を翻して回転しだした。

「全くあの子の遺伝子は種を越境する致死遺伝子とでも呼びたいくらい凶悪なのよねぇ。でも、致死遺伝子の仕事は個体を生まれる前に死なせることだから、その解釈は誤りでしょ? かといってマクロファージが先天的な遺伝子奇形を引き起こしているのかと言えば発現率が100%だから、それもハズレぇ。マウスの具体的な症状を話せばきっと異常性が分かってもらえるわぁ。まず食欲の減退でしょ、傾眠傾向の発現でしょ、不穏状態による自他への攻撃、肝脾腫の理学的な増大に、検査値の一定の流れに沿っての劇的な変化、末梢血検査では血小板数と白血球数が減少して、凝固線溶系が活発に動き出していることが分かったし血液生化学検査では肝や筋を含む臓器組織の細胞障害が進行していたことも判明したわでもフェリチンや尿中β2-ミクログロブリンの急峻な増加と脂質代謝の阻害と臓器不全マーカーの上昇なんかは既存の学説で説明がつくし最終的には活性化した無数のマクロファージが自己血球を貪食している像が得られることから病態は《マクロファージ活性化症候群》に酷似していると言えるけれど私のキメラマウスは一匹たりとも全身型若年性特発性関節炎を基盤にしていないし活性化症候群の死亡率が8~22%なことを鑑みて今回のキメラマウスでは100%なんだからこれじゃああんまりにも異」

「結論は」

「あの子にそっくりなキメラマウスを作成しようとしたけれどぜんっっっぜん無理です!」

 回転を止めた赤肚小咲が、ばん、と机を叩いて富野ユタカを睨みつけた。「生まれてすぐに原因不明の壊死(ネクローシス)で全滅しました。白血球がマウスを食べつくしてトロトロにしちゃうの。試料(サンプル)が足りません。くーーださぁーーい」

「資料なら採取してきましたが、このアプローチをこれ以上続けることに意味はありそうですか?」

「無さそうってのが正直なところね」

 富野ユタカが鞄から取り出した小さなビニール袋を奪い、赤肚は呟いた。ポテトチップスでも開封するかのようにビニールを開き、中身を取り出し、目の前に運ぶ。

「どうしても彼女のカラダのレプリカが欲しいっていうなら、別の方法を考えた方が良さそう」

 ばきり、と赤肚小咲が自らの首を折った。

 傾いた両眼が、ロッカーの中の織部伊織を、まっすぐに見つめた。ニィと笑んだ双眸の前に、ビニールから摘みだされた資料が掲げられた。

 電灯の光を受けて煌々と空色に輝くあれは、髪の毛だろうか? MF学院の食堂でトミノ民科捜の面々と会ってきたばかりの織部伊織は、あの美しい色に見覚えがあった。

 あれが資料だというのか。だとするなら、彼らの話に登場する《彼女》や《あの子》というのは――。

「ただ、大きな発見が二つぅ」

 ばこん、と首を戻した赤肚が、大きな両目をゴロリと富野に向けた。「蒼井依知華ちゃんのDNAを解析してみたんだけど、彼女のDNAには逆転写反応の痕が見られたのよね。DNAマッピングの結果と予測反応図はこれぇ」

机の上に置かれた用紙を赤肚小咲の白い指が叩いた。

凝視した富野ユタカの背が、固まる。

驚愕。

唖然。

それが見て取れるようだった。

「入学から二年間もゲノム科学の勉強をしてきたユタ君なら、この意味が分かるわよね? あは。さぁ第二の発見は、もっとセンセーショナルよ。見てて」

 富野ユタカは赤肚に手招きされるままに、富野ユタカは無菌実験台(クリーンベンチ)の前まで誘われた。手袋をした赤肚小咲が蒼い髪の毛とメスを摘んだ両手を透明な箱の中につっこんだ。どさくさに紛れた赤肚が、実験台を覗き込んだユタカに身を密着させようとしたようだが、咄嗟に動いた彼の肘にこずかれ、よろめきながら遠ざかる。

「ほら。こうすると。ね?」

「……なんですか、これは」

「さあねぇ。こんな現象は私も見たことが無いわ」

 いったい何をやっているのだろう。

 身動きのできない密室で、織部伊織は窮屈に眉を顰めた。

 蒼井依知華という名前が出ていた。あの、髪の青い少女のことだろうか? 悶々とする思考の中で、彼らの研究のキーワードに思えた発言が浮かんでは繋がる。彼女と遺伝子学的に相似なキメラマウス……資料と呼ばれた青い髪……つまり、富野ユタカの研究の対象は、彼がパートナーと呼んだあの蒼い髪の少女なのだろうか。

 不気味さを感じはしたが、嫌悪感は無い。

 ただでさえ奇妙な容姿の少女だったのだ。もしかしたら彼女は病気で、身体に何らかの異状があるのかもしれない。奇抜なカラーに染められているだけと思ったあの蒼い髪も、彼らの会話から推察するに、何らかの色素の変異が齎した色なのかもしれない。

 なんとなく、話が見えてきた。

 刑事の勘というわけではないが、織部が注目したのは赤肚小咲の挙動だった。彼女は明らかに、富野ユタカに好意を抱いている。つまり、彼女が私を誘ったのは、私に富野ユタカを嫌わせるためではないか?

 富野ユタカが一人の少女の病態に――赤肚の露悪的な表現を借りるなら《彼女のカラダ》に――興味を示していることを私に報せたかったのではないか? 病の研究のグロテスクな側面を強調することで、端的に言えば、私を引かせたかったのではないか?

 可愛らしい策謀だ。

 残念ながら、いくら科学に対して些かの偏見を持つ私であっても、この程度で富野少年を嫌いになったりはしない。

まあ、たしかに、あの《大哲学者》の息子なのだから、社会科学の視点から《島》の倫理的な判断者になって欲しいという願いはあるが――それは私の個人的な想いだ。今後、じっくりと伝えていこう。

 知らず知らずのうちに力んでいた身体を、ほぅ、と吐く息と共に緩ませた。恋敵である自分を排除しようとした可愛らしい天才少女に、織部伊織は多少の慈しみを込めて視線を向ける。

 その瞬間。

 こちらを見つめ返す真っ赤な二つの瞳に。

 そこに宿る、邪悪な輝きに。

 ぞくり、と背筋が疼いた。

「ところでユタ君」

 赤肚の口が三日月のように歪んだ。

「今日は、お父さんと話していかないの?」

 閃光手榴弾でも喰らった気分だった。

思考が、白紙になった。細い耳鳴りがして、何も考えられなくなる。

「赤肚さん」

と、嘆息を挟んで富野ユタカが首を振った。「よくも僕の前で父の話ができますよね」

「じゃあ、どうして富野君は私にお父さんの殺害を命じないの? やめてください、延命を止めてくださいって頼まれれば、すぐにでも私はあなたのお父さんを動かなくしてあげるのに」

「その理由も、赤肚さんが詮索して良いことじゃないですよ」

「やっぱり、たまにはお父さんからアドバイスを貰いたいの?」

「どうでしょうね」

「どうなのよ」

「目障りだからといって肉親の殺害を命じる子どもがいると思いますか」

 心臓がぐにゃぐにゃと畝っていた。

 どういうことだ。

 お父さん?

 どう考えても彼らは富野ユタカの父親の話をしている。

 彼からアドバイスをもらう? 殺害? 延命? 有り得ない。だって、《大哲学者》の富野氏は、二年前のあの事故で――

 二年前の、墜落事故で、死んだはずではないか。

「いいじゃない。少しぐらいお喋りしていきなさいよ」

「必要ありません」

「ちょうど研究も行き詰った所じゃない。お父さんからアドバイスを貰えれば、何か突破口が見えるかもしれないわ」

 赤肚小咲が、研究室の奥にあるカーテンへと駆け寄っていった。ちょうど、織部伊織のロッカーの正面にくる位置だ。

 赤肚小咲が壁面のスイッチを押すと、ぱちん、と音がして、カーテンの奥に明りが灯った。同時に、富野ユタカ達のいる研究室が、開演前の映画館のように徐々に薄暗くなっていった。

 なんとなく、肌色が透けて見えた。

 映画の上映が始まるように、学校の教室の端から端までほどの間に張られた紗幕全体から光明が漏れてきたのだ。向こう側から透けてくる色は、端から中央にいくにつれ色は濃くなり、中心部には、肌色とも黒色ともつかぬ何かの影が見えた。

 ありえない、ありえない、という呟きが、鼓動に混ざって脳内に響いていた。

「さて、起きてもらうわね」

 赤肚小咲が壁面の装置を操作すると中世の舞台のように紗幕が左右に開いた。そして、現れた光景に織部伊織は素早く口を手で抑え、喘ぎを押し殺した。

――嘘だ……ありえない。なんだ、これは……――

 これは、人間なのか?

 壁一面に磔にされていたのは、人間の血管と皮を極限まで引き伸ばして作った膜のバケモノだった。

部屋の両脇に設置された南米のトーテムポールのような機械の柱が映画のスクリーンのようにその両端を噛んでいる。

古の航海図にも似た褪せた茶色のそれは、瞼か鼓膜のようにピンクがかって透き通り、膜の中央に向かうにつれ色を濃くしていた。

 膜が動いた。

 潤いを感じさせるなめらかさの中心でそっと持ちあがったのは一対の睫毛だった。毛のない眉の下で、清廉な宇宙にも似た清い眼がこちらを向いた。小ぶりな鼻の下で、色の無い唇が、ほろりと雪が融けるように綻んだ。

『こんにちは』

 テレビで何度も耳にした、あの声が漏れた。

『ご飯は食べて来たかい? ユタカ』

 《大哲学者》、富野氏の声だった。


 気がつくと、脚がすくんで転びかけていた。

 狭い空間で重心をズラした脚が、ロッカーの扉を蹴り上げて派手な音を鳴らした。その瞬間、膜の怪物を眺めていた富野ユタカ君が、ぐるりと首を回してこちらを睨んだ。

「誰だ」

 黙っておくことは出来なかった。

 織部伊織は、なかば飛び出すようにロッカーの扉を押し開けて、じっと富野ユタカを見返しながら外に出た。

声を発しようとするも喉が想像以上に強張っていて、口から漏れたのは韻語にも似た情けない呻きだけだった。震える手を握りつぶすように、織部は胸の前で両手を抱きしめた。

「織部さん……」

 富野ユタカの両眼が、流石に驚いた風に見開かれた。夕陽の中で、壁の異形にそっくりな澄んだ瞳が、織部を映して苦々しげに細められる。

「刑事の仕事って大変なんですね? 掃除用具入れに隠れて覗き見だなんて。最近の小学生でもやらないと思いますよ」

 吐き気を堪えて、織部伊織は応ずる。

「……ユタカ君……これは、いったい……」

「《介(かい)肉式(にくしき)DNAコンピュータ》ぁ」

脳髄を蕩けさせるような甘い声を吐き出したのは、赤肚小咲だった。「固有作品名は《人肌本棚》よ。私なりに施してみた、富野博士への延命処置」

 震える視界のなかで、赤肚小咲が小首をかしげる。

「人間の生死の境は曖昧なの。心臓が止まって、脳が腐って、肺が濁っても、臓器を構成していた全ての細胞が一瞬で同時に死に絶える訳じゃないわ。生きている細胞一個でも掬って、培養してあげれば、火(ひ)継(つぎ)が可能なのよ」

「いったい、何の話をしているんだ」

「人間って何?」

 薄闇に光る皮人形の前で、赤肚小咲が、ゆっくりとこちらを向いた。意味不明な問いかけと共に、赤髪の少女は、ニィと口角を上げる。「そうよ。大事なのはこの問いなの。人間の本体とはいったい何? 脳? 記憶? 魂? 心臓? それとも顔? あるいは言葉? 交友関係かしら? 社会的地位? 財産だったり遺伝子だったり読書履歴だったりしちゃうわけ? あは! 残念だけど、この陳腐な疑問に正解なんて無いわよねぇ」

 かすかに脈打つ肉の膜の前で、赤肚小咲がクスクスと笑む。

「科学が発達するにつれ、人々の価値の重心は少しずつ生命論的なものから機械論的なものに移行していったわ。人々は《人間》の《価値》を、人体そのものではなくて、その個人に附随する諸々の社会的事象に見出すようになった。つまり、個人情報とか、遺伝子情報とか、年収や預金総額とか、あるいは目に見えない概念としての心や魂とかね。さらにいうなら、人々が口にする《人間》という単語が意味する範囲だって拡大していっているわ。今や人間を《考える肉塊》だなんて捉えている人は誰もいない。生まれて食べて、子孫を残して死ぬだけの普通の獣なのに、人を生殖器と爪と牙だけで見られる人なんて一人もないわ。人間の生殖能力を考える際に病院を考慮にいれない学者はいないし、人間の戦闘能力を考える時に拳銃や核兵器の存在を論じない人もいない。人間って何? その問いは何故か人間の周りのいろいろな事情を巻き込んで回答を複雑怪奇に肥大化させちゃってるわけ」

 指を膜に這わせて赤肚が蕩けそうな声で続ける。

「私はずっと、それって変だなって思っていたの。だって、例えば、そう、マインド・アップローディングなんて技術があるでしょう? とある人間の人格データをコンピュータに移行できるように仮になったとして、それは不老不死を実現させたことになるの? ならないわよね? だってアップロードされた記憶は脳っていう肉からすっかり乖離しちゃっているんだもの。アップロードされたのは私が外界に刻んだ《爪痕》ではあっても、私という獣の《爪》では無いわ。記憶をアップロードした先に私の肉が一片たりとも残っていないのだとしたら、やっぱり、私という存在はきっと致命的に断絶してしまっているのよ。パソコンの画面で私によく似た3DCGの女の子がヘラヘラ笑っていたとしても、それは私ではないものね。本当の私は死んで冷たくなって、火葬されて粉末になっちゃってるわ。つまり。そう、つまりね」

 紅い唇から光る歯と舌。

「《人間》の本質は、やっぱり肉であることだと思うのよ」

 襞をためて笑む双眸。

「大事なのは、指で掻き混ぜることができて、舌で味わうことができて、傷つけば血を流せるような、肉と骨と体液なのよ。肉から乖離した今のみんなの価値観って、致命的に的外れ(ナンセンス)だと思うわ。勿論、ネットにアップロードできるような知識とか記憶とか観念にも価値はあると思うけれど、やっぱり、アップロードの基盤になるのは、肉じゃなくちゃねえ?」

 肉遣いの魔女は両腕を広げて。

「この《人肌本棚》は、純、《大哲学者》製のDNAコンピュータなの。材料はぜんぶ、富野先生のカラダ由来。この膜の面積の1平方センチメートルごとに500MFLOPS(メガ・フロップス)の演算能力があるわ。蓄えられているデータはぜんぶ、生前に富野氏が書いた膨大な著作物の内容、あるいはテレビで発言した言葉、ホームビデオに残っていた談笑、SNSに投稿した短文……さらには富野氏の自宅や研究室の本棚に遺されていたあらゆる書物の内容、そういうものの全部よ」

 目頭が熱かった。

 世界が揺れているのは織部自身が首を振っているからだった。

「社会的な文脈上の富野氏を構成していたあらゆる知識を、肉体的な人間としての富野氏を構成していた細胞そのものにインストールしてあるの。死にゆく富野先生から採取した細胞を培養した基盤にね。まるでオリンピックの聖火リレーみたいに、富野先生の生は受け継がれて、継ぎ接がれて、連続しているの。本棚を見れば人が分かる、という名言があるわ。中国では人は死んだらただの肉になるっていうわよ。じゃあコレは何? 人間の定義って何だったかしら?」

 言いたいことは分かった。

 織部は、なおもクツクツと笑み続ける赤肚に詰め寄っていく。

「《本棚》に向かって何かを問いかければ、それらの記録をデータベースに、いかにも富野氏的な引用をDNAコンピュータが返してくれるわ。並の人間の擬似記憶なら会話がちぐはぐになってしまうところだけれど、さすがは富野先生ね。《大哲学者》の膨大な量の生前の発言をデータベースにしてみると、アラ不思議、会話はあまりにも精密に成立してしまう。チューリング・テスト程度の人と機械の判別試験なら簡単にクリアできてしまうんじゃ――ひっ……?」

 織部伊織は、赤肚小咲の胸倉を締め上げていた。

「どうしてだ」

「な、何が……?」

「なぜ、こんなことをした……っ」

 指から力が抜けない。赤肚が爪先立ちになるくらいに二の腕に力を込める。

「延命……措置だと……? ふざけるんじゃない……こんな姿にされて……お前は本当に……富野氏が幸せだと思うのか……」

 視界の隅で、褪せた色の皮がまばたきをする。

 駄目だ。もはや彼の名を口にすることさえ恐ろしい。

「ユタカ君が……本当に喜ぶと思ったのか。自分がなにをしたのか……分かってやっているんだろうな……」

「わ……わっ……」

 痙攣したように、泣きそうに、赤肚は唇を震わせて。

「分かんないわよぅ!」

「…………っ」

「あは! ごめんねぇ!? 富野先生の幸せとか、ユタ君が喜ぶかどうかとか! コレを作った時はもう、ほんっとにどうでもよかったの! だってコレは発展途上だもの! 改良途中だもの! まだまだこれから良くなるんだから!」

 あははははははははははははははははという嗤い声が織部伊織の思考を嬲っていった。

「いずれは! 地球上のどんな場所にいるどんな身分の人でも、大切な人の皮膚の欠片に大切な人の記憶を入れて持ち運べるようになるわ! なんなら自分の肌に移植しても素敵ね! お気に入りの服に縫い付けても最高じゃない! 《人肌本棚》(これ)は、その第一歩なのよ。私の小さい頃からの夢! 小さい頃からずっと……わたしは、世界中のみんなの頭の中が《人肉》でいっぱいになればいいって思ってたのよ! そうすればきっと、わたしだって」

 歪すぎる笑みが、赤肚小咲の顔を覆った。

「わたしだって、世界中のみんなと気が合うようになるからさぁあああああああああああああ」

 意味が分からない。

 嫌悪と恐怖しか感じなかった。

 気がついた時には、握り拳を振り上げている。眼球が飛び出しそうなほどに眼を見開き、血が零れるほどに歯を食いしばっている。赤肚小咲の笑いが止まった。自分よりも明らかに力の強い大人の暴力の前に、天才少女が怯えきっている。

 いい気味だ。

 ぐんっと拳を振った、その瞬間だ。

 横から伸びた手に腕を掴み止められる。

 織部伊織の右腕に、静かに指が添えられていた。

「やめましょう」

 少年の声。

「研究の邪魔です、織部さん。出て行ってください」

 ばちん、と頭の奥で何かが弾けた。

 赤肚小咲を掴んでいた手を離し、富野ユタカを睨みつけ、壁へとひねりあげた。

「なぜ、こんなことを許しているんだ……っ」

「法では認められているんですよ。父はMF市の規約で、死後は自分の身体を検体として差し出すことになっていました。事後承諾ではありましたが、《本棚》については、父の唯一の親族である僕も許可を出していますし」

「ルールの話をしているんじゃないんだユタカ君……! お父上の心はどうなるんだ……」

 いつの間にか、頬が涙で湿っていた。

「君は、《大哲学者》の息子じゃないか……」

「哲学者」

 富野ユタカの冷徹な瞳が、織部伊織を見据えた。

「口だけの賢そうなお喋りが、いったい誰を救えるんですか」

 シャボン玉がはじけるように、織部伊織の何かが終わった。

「あの事故の現場で、父は、誰も救えませんでしたよ。織部さんが僕に何を期待しているのか察しはつきますが、冗談じゃないです。僕は絶対に、父のような過ちは繰り返しません」

 決意を秘めたその声が、かつての父の声と重なった。

――そういうものでしか救えない人達だって、いるじゃないか。

 手を離す。

 凄惨な墜落現場で血だまりから掬い上げられた少年の面影に、たじろいでいた。

 裏切られた気持ちで、織部伊織は研究室から駆けだした。

 《大哲学者》の死。

 無限の恐怖が脳を撫でまわしていた。


  ※


「あ、はははははははははははははははははははははははは!」

 夕陽色の闇に染まる研究室で、半身を折って少女が笑う。

「見た? 見たっ、ユタ君!? あの顔……織部ちゃんったら最後、すっごい顔してたわよねぇ! あはははははは!」

 僕は、赤肚さんに詰め寄った。

 笑い転げる少女の頬を、平手で張る。

 絵に描いたような乾いた音が鳴り、少女が真顔になった。

「赤肚さん」

 怯えたような眼で、頬を抑えて、ゆっくり僕に向き直った赤肚小咲に、僕は言う。「研究を続けてください」

「え、あ……」

 赤肚さんが、ふるふると唇に笑みを浮かべようとしている。

「アプローチの方法は任せます。それを考えるのが、あなたの仕事です。あなた、研究以外に何もできないですもんね」

 赤肚小咲を睨んで黙らせる。

今朝、《人肌本棚》に僕に電話をかけたのは、赤肚さんだろう。

 そのことについて、今更糾弾するつもりはない。たとえ誰に批判されても、僕は、蒼井の研究を続けなくてはならないのだから。

 僕は、《本棚》の周囲に並んだ実験器具の数々を見やった。

 ガラスの内側から無数の引っ掻き傷をつけられた、人間を入れて余りあるサイズの巨大ミキサーがある。

 四方に革の手枷足枷のついたテーブルと、それを潰すための黒ずんだ液体の痕に汚れた圧砕(プレス)装置がある。

 三つ並んだ透明な棺桶とでも呼べそうな容器には、体重六十キロまでの人体なら二時間あれば髪の毛一本も残さずに分解できるバクテリア群が、今も黄ばんだ威容をもって溜められている。

 人に叱られる理由なんて、もう、数えるのを止めたはずだ。

 父を売り、その肉を弄んだ罪で縛った少女を利用して歩んできた道。僕は今更、立ち止ることなんてできない。

 立ち止れるような場所まで、辿りついてすらいないのだから。


 どういう経路を通って病院を出たのか、覚えていない。


 沖ノ鳥MFの洗練された夏の大気には、ほのかに潮の香りが通っている。夕焼け空を走るモノレールを見上げながら、僕は自転車に乗って帰った。

僕は、閉所恐怖症だ。

あの日から、閉鎖的な乗り物が苦手になった。

「…………」

――君は《大哲学者》の息子じゃないか。

 だから何だっていうんですか、織部さん。

父さんの遺伝子が決められるのは僕の顔のかたちだけです。そう言い切れたら楽なのだが、残念ながらそうもいかないのが現実だった。なぜなら僕の人生はまさに、父の振る舞いに導かれてきたのだから。

 風。

 紅い雫。

 空を、一滴の《赤》が横切っていく。

 それは僕であり、父であり、僕の幼馴染の女の子であり、女の子のお父さんもあり、そして、あの墜落事件で燃え尽きた七二人の乗客全員でもある。

 南アフリカから日本を目指していたエアバスは原因不明の出火でエンジンを停止させて、あの夏の夕刻、空を切る一枚の銀色の葉っぱになって落ちていった。

 あの光景を僕は今でも鮮明に思いだせる。人もバッグもカップから溢れたオレンジジュースも、まるで無重力みたいに宙に浮いていた。まるで絹のように揺蕩うオレンジジュースのあいだを縫うように、僕は手を、幼馴染の女の子へと伸ばしていた。

手を繋ぎたかった。

さあもう助からない、人生最後に触れたいものは? そう神様から尋ねられた僕が求めたのは、往生際の悪い救命具でも、僕を育ててくれた父でもなく、彼女の掌だったわけだ。

高度二万九千フィートからの墜落。それは、墜落の衝撃だなんて他人行儀で無機質な文句で表現できるような事象ではなかった。僕は、いうなれば、ただひたすらに強力で単純な重力の作用を目の当たりにしただけだった。

 僕の視界を泳いでいた人々。死の間際にあって、それでも愛するものと共に人生のラストシーンを演じていた人々。誰の喉を潤すこともなかった鮮やかなオレンジジュース。さっきまで誰かのうたた寝を助けていた紫色の座席。そのなにもかもが、耳を劈く落下音が最高潮に達した一瞬で二次元状のペーストに圧縮された。

 僕はもちろん気絶した。何分か、何時間か経って、僕が、五月雨の雫のようなかすかな視界と、耳鳴りに痛む聴覚を取り戻した時には、選別は終わっていた。

 生き残るものと。

潰れるものの選別。

 夏の夜の八時頃。月光に照らされた黄土色の谷底で、僕の視界には、鋼の墓標が焦げ肉の海に並んでいた。大自然が中途半端に稼働させたミキサーの底のようだった。

 生き残っていたのは、僕と父だけだった。

 潰れたのは、それ以外の概ねだった。

「どうなったの……」

 うなだれていた父の背に僕は問うた。意味のある問いが口から出たことに僕自身が驚いた。案外の人間の神経は図太いのだなと、これもまた図太くも、僕は思ったものだ。

 僕が声を出したからだろう、父は僕を振り返り、泣きそうな笑みを浮かべた。「よかった」だなんて、あまりに親馬鹿な一言を洩らしながら。

 父が告げたのは、二人の死だった。幼馴染の女の子と、医者であり科学者であった彼女の父の。四日間のアフリカ旅行を共にした二組の親子、そのうち生き残ったのは富野家の二人だったわけだ。

「そんな」

 かすれきった僕の声に、父が浮かべた無念そうな表情を、僕は絶対に忘れない。

「……嘘だ……」

 今思えばわざわざ見に行かなければよかった。膝立ちになって這っていった僕は、「嘘だ」と希望を持つにはあまりにも厳しい肉塊を見るはめになった。いかにも見覚えのある時差対策の二つの腕時計を巻いた逞しい腕が、肘より上のなにもかもを紅の絨毯のように引き伸ばされた形で父の眼前に溜まっていた。まぎれもなく彼女の父だったものだった。

 視線をちょっとずらすと、煌めくガラスをお腹に突き立てたあの子が口と股から血を流して岩肌に横たわっていた。

「あ」

 と僕の喉は決壊してしまった。

「ああぁぁああああああああああああああああああああああ」


 飛行機が落下した場所は、中国の端っこにある山奥だった。

 鉄の塊の落下を目撃した人なんておらず、業火のせいでレーダーも機能していなかったらしかった。こんな岩ばかりの場所で、鉄の鳥の胃袋で息をしている僕らを見つけてくれる人は誰もいなかった。

 七日間。

僕と父は、二人だけで、谷底に溜まったわずかな食料だけで食いつないだ。機内食の残骸、旅行客のお土産、彼女が日本の母親に買った民族料理の缶詰に謝りながら、焦げ付いたそれらを口に運んだ。

 父は食べた。

 僕も食べた。

 彼女はもちろん食べなかった。

死んだ彼女を主語にして《食べなかった》なんて語る意味はないはずだった。

 でも。

この話には、ユーモアの利いたオチがある。

 七日の後。のちに世界中のお茶の間に、奇跡の救出劇のヒーローとして報じられるレスキュー隊が到着した。

 遅すぎる奇跡の到着に、乾ききった血だまりから空を見上げていた僕は、それでも昂揚した。隣に転がっていた父に呼びかけたが返事はなかった。墜落の際にガラスのシャワーを浴びていたらしい父は、二日ほど前から感染症を起こしていた。一国の猶予もないほどに弱った父の手を、僕は、ただただ握った。

 神に祈るしかない。哲学者の息子らしい感情かどうなのか知らないが、この七日間で一生分くらいの諦めを学んでいた僕はそんなことを冷静に思った。残された最後の力を振り絞って、この七日間ずっと眼をそらしてきた彼女に目をやった。助かったよ、一緒に帰ろう。そう語りかけるために。

 そして。

「…………え」

 冗談でも、修辞的な文句でもなく、僕は、彼女の美しさに思わず声を漏らした。

 血に塗れ、埃に塗れ、腹部をガラスで貫かれ、それでも月光に照らされる彼女の横顔は整っていた。

そんな筈はないのに。

 この夏の七日間で、死体が腐敗していないはずがないのに。

 厭な予感の剣山に全身を串刺しにされた僕は、がたがたと震える手足で、彼女の元まで這っていった。

 手を伸ばす。少女の脈をとった。

 もはや死んでいた。

 途方もない後悔を覚えて、僕は泣き叫びながら崩れ落ちた。

生きていたのだ。

彼女は、落下の時点で死んでいなかった。七日間。この瞬間に腐らない程度には、生命活動を保っていたのだ。僕は彼女のぶんの食料を奪い尽くして生き残ってしまった。

「……気がついていたのか?」

 死にかけている父親を怒りに満ちた目で見下ろしながら、僕は言った。

 僕よりも先に目が覚めていた父が、彼女の生存に気がついていない筈がなかった。なぜなら僕が目覚めた時、僕に二人の死を告げたのは、父だったのだから。

「墜落した時、彼女が生きていたこと。つい最近まで彼女が生きていたこと、父さんは知っていたのか」

 父は笑った。きっと朦朧としていた意識の奥から、それでも笑みを返してきた。「お前に」と、すっかり瀕死の人間相手の読唇術に長けてしまった僕にむけて、父が囁いた。

「お前に生きて欲しかったんだ」

 食料と、応急処置だけが求められた闇の底で、偉大な大哲学者は、どうしようもなく無力だった。

 だから僕を生かすためには、自分のぶんの食料と、他のもっと瀕死な誰かさんのぶんの食料を、僕に与えることしかできなかった。

 そして僕はというと、瀕死の父親に、優しい言葉の一つもかけてやれなかった。

 僕が父に伝えた、最後の文句がこれだ。

「生き残っていたのが父さんじゃなくて、あの子のお父さんだったらよかったのにね」

 医者であるあの子の父が生きていれば、父さんもあの子も生き残れていたのかもね。

役立たずな父さんが、代りに死んでいればよかったのにね。

 涙を滲ませて閉じられた父の両目。願わくは、僕が父に宛てた最後の親不孝が、暴風に紛れて父の耳に届いていなければいいなと今は思う。

 レスキュー隊のヘリコプターが近づいてきて、降下してきた隊員に僕は助けられた。

父は、病院に運ばれ、そのまま死んだ。

 みんなの死体も、回収された。

 彼女のカラダも。

 彼女の父の残骸も。

 赤。

 赤。

 赤。


 蒼。


 はっとして立ち止まる。

 いつの間にか僕は、2030年の沖ノ鳥メガ・フロートにいた。巨大な研究の園の青鷲区にあるマクタン島風の自宅の前に辿りついていた。

 目の前には海がある。地平線まで続く空と水の赤が美しかった。さざなみの音が世界の休息と夜の訪れを呼んでいるかのようだった。潮風と共に玄関を潜り、リビングに行くと、蒼井依知華が新品のビーズソファに丸まってすやすやと寝息を立てていた。息を吸うと木材の香りがした。僕は彼女の隣まで歩いていく。ラタン製の木編みのソファに腰を沈め、しばらく蒼井の寝顔を眺めた後、鞄からカルテを取りだした。

 蒼井依知華のカルテ。

彼女を救うための、僕の研究資料。

「知らなかったんです」

 ふいに、脳裏に、自分の言葉が蘇ってくる。

 あの事故の後、担当の医師である赤肚小咲さんに泣き縋ったのは僕だ。

「何もできないことが、罪だったなんて」

 僕は父のようにはなりたくない。口先ばかりで何の技術ももたない、社会科学になんて染まらない。

 僕は、何かができる人間になりたいと願う。

 あの日の無能を償えるくらいに。

あの日の無能を忘れられるくらいに、救いようのない誰かを救いたい。

 僕は夕食の時間がくるまでカルテを読み続けた。蒼井依知華を救うことが僕の贖罪であり、トミノ民科捜の研究テーマだ。

何か新しいことが始まるのは、これが終わってからで構わない。


   ※


 我関せず、という風に。

 あるいは、俺を見ろ、という風に。

 《怪人》の犯行は、また続いた。

 まったく、僕個人としても危機感が足りなかったとしか言いようがない。起こりうる災厄に対して、あまりにも心を無防備にし過ぎていたと思う。そりゃ、大きなショックを受けることになるわけだ。

 《怪人》の次の犯行。

その犠牲者は、織部伊織さんだった。

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