第4話 MF学院


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 ケータイの着信音で目が覚めた。


 ハンモックから身を起こす。ぼんやりとした頭のまま、僕は床で充電中だったスマートフォンを拾い上げた。

『おはよう、ユタカ』

 耳にあてたスマートフォンから発された声に、僕の眠気は吹き飛ばされる。

 どくん、と胸の奥が疼く音が聞こえた。

『あれ、返事がないな? どうした? 具合でも悪いかい』

「…………どうして」

『ああ、驚かせてしまったかな? 手を貸してもらったんだよ。本当はもっと早くに電話をするつもりだったんだけれど。不本意ながら、ここ数日はなかなか忙しかったからね』

 麻のカーテンで覆われた窓から、パインミルクのような朝陽がコテージに染み込んでくる。地獄からの来訪者と会話をするには、あまりにも穏やかな光景だ。

『家族とはできる限りお喋りをすべきだと僕は思うんだ』

 と、スマートフォンの向こうで彼の声は言った。

『人は成長をするにつれて、家族に甘えたい気持ちをどんどん萎えさせていってしまうものだけれどね。僕には時折、これがとても寂しいことに思えてしまう』

「……どういうつもりですか」

『誰だって、たまには息子と話をしたいじゃないか』声が微笑んだ。『いけないかい? 頼む、たまには甘えさせてくれよ』

「…………」

 僕は目頭を指で揉む。だめだ。話が通じない。

『幸福とは何だろう? 寂しさの無いこと、というのが一つの答えだと思うんだ』

 声が続ける。

『ある科学者の研究では、孤独でいることは、一日に十五本の喫煙をするのと同じくらいに健康に悪いんだそうだ。またメンタルヘルスケアの見地では、心の病に対抗するためのもっとも基本的な治療法は、患者さんを一人にしないことだという。夏目漱石は著作のなかで『孤独な者はなによりも強い』と語っているけれど、僕にはこれは、精神的な強者だった彼の強がりのように見えて――』

「父さん」と、僕は言った。

 紛れも無い父の声に。

 紛れも無い父の思考に。

『なんだい?』

「悪いけど、切るよ。今朝は、学校に行かないといけないんだ」

『寂しいなあ。けど分かった。また話そう』

「ああ」

『話せてよかったよ。もう少ししたら、きっと家にも帰られると思うからな』

 麻に梳かれた朝日が眼に痛い。

 中空を睨んだまま、僕は、溜め息を吐いた。

胸の疼痛を、追い出すようかのように。

『溜め息か。どうかしたかい?』

「なんでもない」

 つい癖で、僕はこう続けてしまう。

「電話、ありがとう。じゃあ」


   ※


 六月の下旬になった。

《オペラ座の怪人事件》の発生から一週間。

 六月二十六日。

 沖ノ鳥島は日本で唯一熱帯気候に属しているため、本土と比べて年間を通じて気温も湿度も高い。太陽と海は今日も絶好調で、まだ六月だというのに気温は28.5度、湿度は67.0%の猛暑を記録している。

登校した《学院》のガラスの天井から見上げる青空は、少年少女の青春を全力で応援するかのように晴れ渡っていたが、脳を蒸すような気候の余計なお世話のせいで、僕の気分はかなり低調だった。

ドリブルの音。

わあっと咲く、少年少女の声援。

「……みんな、元気だなあ」

 僕は《沖ノ鳥MF総合研究学院》の体育館の壁際に座って、ぼんやりと同級生たちバスケットボールを眺めていた。《先端科学特区法》が施行され、義務教育から高等教育までのカリキュラムが著しく変化しても、科学者にとって体力と筋肉が資本なことは変わらない。

「んん……」

 と、僕のすぐ脇で、僕の陰鬱な気分の元凶が呻きを上げた。

「……蒼井、起きてください。出番がきますよ」

 シューズが擦れる音とドリブルの音が響く床に、ジャージ姿の蒼井依知華は幼子のように丸くなり、親指をくわえるような姿勢で寝息を立てていた。

 見慣れた寝姿ではあるが、つくづく美しいと思う。硫酸銅の結晶を思わせる睫毛に、瑞々しい唇、床とジャージに流れる髪は、陽光の粒子をたっぷりと含んで視界を霞ませるほどに光っていた。

すやすやと寝息をたてる蒼井依知華の寝顔は、SF映画に出ていれば、人類が総力をあげて守り抜ぬきそうなほど可憐なのだが、容姿が可憐なだけで単位が支給されるほど、《MF学院》の講義は甘くはない。

「んぅ、む……」眉間に皺をよせ、蒼井が色の淡い唇を動かす。「あと、五分だけ……睡眠をとらせてくれ」

「駄目ですってば。試合に出ないと単位が貰えないですよ」

「なにか問題が?」

「ありますってば」

僕はがっくり項垂れる。「進級出来なくなっちゃいますって……! 一緒の学年にいられなくなっちゃいますよ? そうなったら、お互いに困るでしょう?」

 MF学院の授業カリキュラムは、大学と同じく《単位制》を採用している。たとえ十七歳の僕らであっても、単位を落とし続ければ落第の憂き目にあってしまう残酷な世界だ。

 MF学院の生徒が取得しなくてはならない単位には全部で三種類があり、「体育」はその中でも最も重要な《必修単位》に含まれる教科だった。

 《必修単位》とは、たとえば、日本人としての初歩的な知識である「国語」や、科学者にとっての公用語である「英語」など、研究者として生きるうえで最低限必要な知識として位置付けられている科目である。文系軽視の傾向の強いメガ・フロートの御多分に漏れず、MF学院もまた、「国語」の授業を義務教育の範囲までしかカバーしていない。そんな偏屈な教育機関ですら「体育」を必修科目に指定しているのだから、科学者の業務がいかに体力勝負かが理解できて心底憂鬱になる。

 MF学院に所属する若人たち――厳密には二十二歳までの研究生たちは、センセーショナルな研究成果を出す必要をある程度免除される代わりに、専攻科目ごとに定められた単位数を年内に獲得しなくては落第させられてしまう。

逆に言えば、二十二歳までなら単位さえ取得していれば《島》からの退去も免除されるので、それなりに有情なルールであるともいえる。

 ちなみに、他の二種類の単位区分は《選択必修単位》と《自由単位》というものだ。《自由単位》の方はその名の通りで、各研究生が己の学びたい分野の講義を心の赴くままに取れる区分なのだが――もう片方の《選択必修》はやや特殊で、簡単にいうなら、自らの師匠に指定された数種類の講義を指す区分だ。MF学院のメンター制度はなかなか面白いのだが……今はそれを説明するよりも、目の前の少女にやる気を出させる難儀に集中したい。

「睡眠は素晴らしい」

「聞いてくださいよ」

蒼井の頭が、ジャージの中へ沈んでいく。

「闇が心地好いのだ」

「ちょっと、亀じゃないんだから。隠れないでくださいよ」

僕はジャージの襟から蒼井の顔をひっぱりだそうとする。蒼井は唸りながら緩慢に暴れ、「やである」と蒼井らしからぬ覚束ない文句を吐いてきた。

「嫌とか言っている場合じゃありませんって……! ああほら、へそが出てますし。ねえ、蒼井」

 ほとほと困り果て、僕は、傍に立つジャージ姿の大男に小声で語り掛ける。

「ほら、白壁くんも見ていないでなんとかしてくださいよ」

 白壁大典くんは、相変わらず口をヘの字にし、両手を背で組んだボディーガードのポーズで屹立していた。分厚い胸板と二の腕を包む《MF学院》指定の体育着――白に紺ラインのジャージ――が、彼の筋肉のせいであからさまに引き伸ばされている。

実年齢がいくつなのか知らないが、少なくとも十七歳の僕や高柳さんよりは年上であり、かつ体格的にはもはや人間というよりゴーレムな白壁くんが、MF学院では同年に入学したクラスメートだという事実は、いつ思い出してもシュールだ。

「この授業は、《講師》の園部さんが厳しいせいで、試合で勝たないと単位認定に必要な点数をもらえないんですから」

天変地異すら無表情で受けいれそうな白壁くんの佇まいに、無性な焦りを覚えた僕は、必死の思いで協力を懇願してしまう。「もうすぐ蒼井のゲームが始まります。今まで蒼井の怠惰のせいで負け続けているチームですし、ここで負けたら後がないんです。勝てないにしても、せめて蒼井を出場させないと、本当に必須単位を落としかねません。お願いですから、白壁くんも手を打ってください」

 白壁大典くんは、切れ長の目でじっと僕を見つめた後、口をへの字にしたままバスケットボールのゲームに視線を戻した。そして、不動である。

「……白壁くん?」

白壁くんの無表情は、《なんでもできるマッチョ助手》である彼に限ってそんなことは無いとは思うのだが、まるで僕を見捨てたようにも見え、僕は一気に不安な気持ちになる。

 と、そんな具合に四苦八苦していた時だった。

「ちっ。相変わらずいちゃいちゃしやがってよぉ」

 ふいに聞こえた声に、僕は顔を上げた。

眩い体育館の中、僕らに向かって歩いてきたのは、むっちりと弛みのある両頬が、どことなくカエルを思わせる男子研究生だった。

どんな美容院でどんな注文をしたのか、大きく両側に盛り上がった髪型が、見事な台形になっている。普段は白衣姿のその少年も今日は上下白地に紺ラインのジャージ姿だ。

「いまの聞いたぜ富野。大好きな蒼井ちゃんとずっと一緒の学年にいたいだ? けっ、つくづく恥ずかしいやつだな」

 台形頭の少年は、喧嘩腰な口調とは裏腹に、ひどく打ちのめされたような顔をしていた。

 僕はその同級生に会釈をする。

「こんにちは。高柳さん」

 彼の名前は、高柳真守さんといった。沖ノ鳥メガ・フロートが研究生の受け入れを開始したその年に、七歳にして《小中一貫沖ノ鳥MF学園》に入学を果たしたいわゆる第一期生である。僕とは比べものにならない秀才だ。

それほど親しい仲ではない筈なのだが、なぜか高柳さんは、頻繁に僕たちに突っかかってくる。今もどういうわけか、いわく言い難い憎しみの籠った眼で僕を射抜きつつ、チラチラと落ち着かない様子で蒼井依知華を盗み見るようにしていた。

「いちゃいちゃというか、いらいらしてるんですよ」

 高柳さんに構う余裕もなく、僕はまた蒼井の顔周りからジャージの襟を剥こうとする。

すると、眉間のしわを深めた蒼井が、

「んぅんー……っ!」

と、いかにも同情を誘う憐れっぽい声で、睡眠の世界から精一杯の講義の呻きをあげてきた。

「やめろ」

「はい?」

 高柳さんが、憤怒とも焦燥ともつかぬ表情を浮かべ、唸ってきた。

「どうかしましたか? 高柳さん」

「どうかしてんじゃねえか、手前」

 すたすたと僕に歩み寄ってきた高柳さんは、ぎりぎりと音を鳴らさんばかりに歯を食いしばりながら、括目した両眼で僕を睨みつけてくる。

「なに気安く蒼井さんの胸倉を握りしめてやがんだオイ」

首をジャージに引っ込めた蒼井の口と鼻を覆っている布の部位を、いまだ胸倉と呼んで正解なのだろうか。と、僕はそんな我ながら下らない不満を覚えつつ、ひとまず手を離す。「はあ」

「嫌がってんだろうが。自分がされて嫌なことは人にするなって教わらなかったのか」

「授業中は寝るな、とも教わりましたが」

「うるせえよ。とにかくな、こんなに眠そうな女子は寝かせておいた方がいい。体調を崩したらどうすんだよ」

「そんなことを言われても、蒼井には単位をとってもらわないと困るんです」

それに、僕としては蒼井依知華を普通の女の子扱いする気はなかった。

 なにはともあれ、こうも恐ろしい眼光で威圧されては、僕は一旦、蒼井から手を引かざるを得なかった。高柳さんの目を盗んでまた叩き起こしモードに入りたいところだが、彼はじっとその場に棒立ちになり、珍しい鉱物でも鑑賞するかのようにまじまじと蒼井を見つめだしてしまうから、打つ手がない。

 非常に、邪魔だ。

 どうしろというのだ。

 孤独に唸りつつ僕はゲームに両眼を向けた。

すると、そこで。

「……ん?」

ふと、試合を行っている研究生達のうち一人の女子生徒に目を吸い寄せられた。

 主が走るたびに、クラゲのよう膨らんだり萎んだりを繰り返すショートボブ。前髪を抑える複数個の、明るい色の丸っこいヘアピン。アラレちゃんを彷彿とさせる大きな眼鏡の奥で、大きな両眼が、めくるめく戦況に混乱している。

 見覚えのある容姿だった。

「はい!」と鋭い声と共にチームメンバーからボールをパスされてしまった眼鏡の少女は、「え、あわわわわ」と漫画のような弱音を漏らしたかと思うと、「え、えーいっ」と頼りない掛け声と共に、両手と一緒になぜか片足も後ろに伸ばした奇抜なフォームで、ボールを放り投げた。ボールはもちろん、フォームに忠実に、明後日の方向へ飛んでいく。

「おい、富野」

隣に座った高柳さんが、女子のゲームをじろじろと眺めながら、僕に顔を寄せてくる。「お前、いま、どの女の子を見てたんだよ?」

 なんて目ざとい。

高柳さんは、やけに押しつけがましい期待の籠った声で、「もしな、気になる子がいるんだったら、俺が間を取り持ってやらねえこともねえぞ」と訳の分からないことも言ってきた。

揚足をとられたようで腹が立ち、リアクションをとるのも億劫だったが、僕は緩慢な動作で、眼鏡の少女を指差す。

「あの子って、前からこの授業を受けていましたっけ?」

「あの子ぉ?」

高柳さんが首を伸ばして、体育館のコートの少女を見やる。「ああ、キノキノ探偵事務所の妹かよ?」

 僕は思わず、顔をしかめかける。「キノ……なんです? やたらファンシーな単語でしたが」

「民科捜だよ。《双子探偵・キノキノ探偵事務所》。知らねえのか?」

「探偵って文字が二回も」

「その名の通り、双子の民科捜なんだってよ」高柳さんが得意げに教えてくれる。「捜査員の名前はたしか、階音(かいおん)と色名(しきな)だったか? 名字はどっちも紀乃だ。《音》の兄と《色》の妹って、変な名前だったから、つい覚えちまった」

「へえ」確かに珍しい名前だ、と僕は思う。

階音さんと、色名さん。ということは、僕が中央病院で出会った彼女の名前は、紀乃色名さんということになる。

「今年度のはじまりからずっといたぜ? んだよ、今気がついたのかよ?」

「恥ずかしながら……」

 我ながら薄情なやつだと思う。

 《沖ノ鳥MF総合研究学院》には――理工系の高等学校や専門学校に所属したことのある人間なら理解してくれるだろうが――このご時世にあってもなお、女子生徒は非常に少ない。比較的容姿の整った紀乃色名さんは、おそらくかなり目立つ方だと思われる。そんな彼女の存在にすら気がつかないとは……普段の自分の余裕の無さと、内向さが情けないばかりだ。

「ちっ、贅沢な野郎だなぁ! 色名ちゃん、多少もっさりした所はあるが、この学校ではかなり可愛い部類だろうが。あの癒し系女子すら眼中にねえなんて、さっすが、女子と同棲している富野様は格が違うこって――」

 ぶちぶちと不平じみた呪詛を洩らす高柳さんの声は、しかし僕にはいまいち届かなかった。僕はその間、競合相手の民科捜の奇抜な名前に、いいようのない劣等感を覚えていた。

「双子探偵キノキノかぁ……」

「あん?」

「やっぱり、チームとか捜査員の名前にインパクトがあると、お客さんいっぱい来るんでしょうか……」

「なんだよ? 色名ちゃんが好きなのか? 富野くんよ」

 文脈を完全に無視しつつ、高柳さんが、ぐいぐいと肘を僕の腕に押し付けてくる。

「いえ別に」

「ちっ」

 なぜ舌打ちをされたのか。

「ふん、名前が派手だから売れるだって? 馬鹿じゃねえのか」

高柳さんが怒りをはらんだ口調で吐き捨てる。「キノキノに関していえば、名前が派手なだけじゃなく、実際、かなり有能な二人組らしいぜ。馬鹿が」と二度も罵倒してくる。

「え、そうなんですか?」

 非常に言いにくいことながら、MF中央病院での活躍を見る限り、紀乃色名さんのスペックが高いとは、僕には決して思えなかったのだが。

「どんな分野でも、かなり専門的な解析まで二人だけでこなしちまうらしい。しかも格安らしいぜ? 特に兄貴の方がすごくてな、先端技術(フォアフロント)級の研究でめちゃくちゃな利益を出してやがるから、民科捜は趣味みてーなモンらしい」

 ああ、兄の方がすごいのか、と僕は失礼にも納得しつつ、純粋に敬意を抱いた。

紀乃階音さんが研究している先端技術(フォアフロント)とは、沖ノ鳥メガ・フロートにおける研究の格付けの一つだ。その名の通り、現生の人類が触れている最新レベルの科学のことである。

いかに沖ノ鳥MFといえど、真に有益な最先端研究というのはほんの一握りで、先端技術の科学者と呼ばれる人々はエリート中のエリートである。

ちなみに、その次に名誉な格付けとしては、本土の市場で《最新型》と銘打たれている最高級技術(ハイエンド)がある。介護用のロボットとか、合法とされている医薬品とかだ。残酷なことではあるが、本土の人びとが口にする《最新》と、沖ノ鳥MFでの《最新》には、十年以上の時差があるといわれる。

そして、最も不名誉なのは、市場ですら時代遅れのものだとされている製品で、旧式技術(ダイナソー)などという蔑称で呼ばれているものだ。扇風機とかフィーチャー・フォンとか、現役の電子家電とも骨董品ともつかぬ品物は、《新しさ》を絶対の価値基準の一つとする沖ノ鳥メガ・フロートでは嫌われる傾向にある。

悔しいが確かに、《キノキノ探偵事務所》の実力は、《トミノ民科捜》の数段上なようだ。

「文系の富野くんも、困ったことがあったら訪ねてみたらどうだ?」と高柳さんは、まるで《文系》が侮辱語であるかのように言った。「たしか兄の階音の方の専門は、先端技術(フォアフロント)の化学だったはずだ」

「化学ですか」

 僕の思考が、脳に電極を差しこまれたかのように、ふわりと活性化する。「ちょうど、《オペラ座の怪人事件》のキーワードも、化学なんですよね」と、無意識に零してしまう。

「ああ、《怪人事件》な。俺はニュースで爆弾騒ぎを見ただけだけど、実際はもっと複雑なんだろ」

「知っているんですか?」

「民科捜をやってる友達らが、けっこう話題にしてるからな」

 友達、を強調して高柳さんは言った。

 高柳さんは、僕と違って顔が広い(高柳さんの容貌の話ではなく)。おかげで高柳さんは、自らは民科捜を営んでいないにも関わらず、かなりの事件通になっていた。

「富野ん所も捜査協力してるのかよ?」

「一応。……これでも、結構、功労者のつもりですよ」

「自分で言うんじゃねえよダセェな。キノキノに対抗心でも燃やしたのかよ」

 はい。

「化学物質ねぇ」

と、先ほどの謎の色名さん推しから離れ、高柳さんはさすが科学者と言うべきか、真剣な表情で呟いた。「オペラ座のホールから、結構、不気味な薬品が見つかったんだろ」

「お詳しいですね」

「民科捜連中、口が軽いからなぁ。自分の手柄を自慢したいのもあり、データを集めたら推論を語りたくなる学者根性もありって感じだったぜ」

 つくづく、沖ノ鳥MFの科学者のモラルには閉口する。


 高柳さんの言う通り、ホールからは微量な化学物質が見つかった。

 五日ほど前のことだ。

中央病院で茂上藤一郎さんから情報を得た後、僕は相田さんから、オペラ座の現場検証の結果をデータで貰っていた。

警察民科捜間のセキュリティに護られたPDFファイルには、オペラ座のホールの詳細な鑑識結果がつらつらと書かれていた。

「なんでこんな資料を僕に?」

と、自宅の玄関先で訊ねてみれば、

「いやぁ、はは。意図なんて無いですよ?」

と相田刑事は後頭部を掻いた。「別に、鑑識結果に眼を通した富野くんが、ふとした拍子に民科捜としての見解を無料で漏らしてくれないかなぁなんて、全く考えていません」

 絶対に、無料で何も答えてやるものか、と思った。


「……本当は」と僕は呆れた。「外部の人に洩らして良い情報じゃ、ないはずなんですけどね」

「研究室のデータならいざ知らず。堅いこと言うなよ」

 被害者のプライバシーよりも、自分の研究室のデータを、外部に漏らしたくないらしい。さすが企業(プロ)の研究員だ。

「つーか、そもそもMF市警がこの手の事件の捜査に民間の手を借りすぎなんだ」

「それは確かに」

 僕も頷く。

 ただでさえ全ての住民が高度な専門知識を有しているこの《島》だ。MF市警は、捜査資料を、なかばオープンソースのように扱いつつある。研究生同士の多少の情報交換は、実は、セーフなのかもしれない。

 どうしようか、と僕はぼんやりと考える。

 僕個人としては、トミノ民科捜はもはや、《オペラ座の怪人事件》に関して、やれることはやった気がしている。だが、今後また何かのかたちでMF市警から引き続きの依頼が来ないとも限らない。

 高柳さんが隣にいるうちに、トミノ民科捜が獲得していない情報を聞き出しておくのは、有益に思えた。

「ホールのいたる所から、薬物は見つかったそうです」

 僕は記憶を整理する意味も込め語り出す。

僕は高柳さんを――蒼井に関して妙な熱を発する欠点を除けば――有能な科学者として信頼していたし、彼と会話をすることで得られるものもあるかもしれないと、未知の情報にも期待していた。

「全域とはいきませんが、一階を中心に、ケミカルな物質が床やシートに付着していたそうです。その化学物質は、被害者の体内から発見されたものと、構造が一致したらしいんですよ」

「へえ、体内か。検死したのは、中央病院のドクターか?」

「ええ」

まあ、正確にはドクターではなく、紅い髪の闇医者だが。

「患者の脳に見られた謎のタンパク質の、原因となった化学物質だと考えられているようです。ホールで見つかった物質をマウスに投与してみた結果、同様のタンパク質がシナプスに寄生したらしいので」

 僕は高柳さんに、赤肚さんから聞いた奇妙な症状と謎のタンパク質について、ざっくりと話した。

「へえ。んじゃあ、被害者たちは、犯人がオペラ座で撒いたその化学物質のせいで、脳を脅かされたと」

「おそらくは」僕は首肯する。「どのタイミングで化学物質を投与されたのかずっと不明だったんですけど、民科捜の現場検証が、それは明らかにしたらしいですね」

「ヘイズマシン、だろ?」

「ええ。オペラ座には演出用の噴霧器(ヘイズマシン)が備え付けてあったらしいんですけれど、どうもその中身が入れ替えられていたみたいですね。爆発で生き残ったマシンを調べてみたら、中に溜まっていたのは噴霧用の無害なリキッドではなく、例の化学物質を、水に溶かしたものだったと――」

「うん? 待てよ」

高柳さんが言った。「爆発で生き残った、ってのはどういうことだ。初耳だが」

「ああ、えっとですね。《オペラ座事件》は、集団暴行事件の他に、爆破も起こっていたじゃないですか。爆破されたのは、実はオペラ座のただ一か所だけで、そこは、演出用の機器を制御する管制室だったそうなんですよ」

 青鷲区オペラ座の管制室は、舞台上の演出装置の一切をその部屋だけで管理できるようになっていた。

部屋のかたちとしては、図面を見る限り、映画館の投影機を置く部屋をイメージすれば間違いない。管制室が位置していたのは、観客席側の二階部分。観客席の最後列の、さらに後ろにあたる所だった。

四機のヘイズマシンは、その管制室の、ステージを覗くための窓の外側にぶらさげられていたそうだ。

「警察や民科捜が問題にしたのは、そんなところにあったヘイズマシンに一体いつ、どうやって《化学物質》が仕込まれたのかってことだったんです」

「たしかに、なかなか難儀な仕事そうだな。……オペラの開演前に、たとえば前日に、仕込んだとかか?」

「みんなそう疑ったそうなんですけれど、どうも違うようでした。『ウィリアム・テル』を演じた当日の劇団のマニュアルを確認すると、ヘイズマシンにリキッドを注入するのは開演の当日ってことになっていたらしいんです。開演直前に、新しいリキッドで動作を確認して、そのまま使うっていう」

「……やけにせわしないルールだな?」

「はい。僕もそう思ったんですけれど、この理由はこの《島》には在りがちなことで……。つまり、演劇の当日まで、新製品のリキッドの実験依頼を受け付けられるようにってことらしいです。気持ちいい香りがついているとか、光の屈折率が違うとか……そういう新しいリキッドの実験を行いたい業者は、ヘイズマシンの中身は満杯な状態から実験を始めたい。そういう要請にいつでも応えられるように、劇団としては、演劇当日の補給を習慣にしていたみたいですよ」

「ご苦労なこった。つまり、当日以前に《化学物質》をヘイズマシンに仕込むのは不可能ってわけか」

「そうなります」と僕は頷いた。「では、いつ仕込まれたのか?」

「当日以前が無理なら、当日以外に考えられねえな?」

「そうなります」と僕はまた頷く。「でも、それってかなり大変なんですよ」

 《オペラ座事件》の当日、管制室には、三人の演出班がいた。

 その三人というのは、オペラの演出の専属のスタッフであり、上演中は、トイレに行くときなどを除いて常時、管制室に待機をしていたのだそうだ。

つまり、オペラの上演中にヘイズマシンに細工をするには、この三人をどうにかしなくてはいけなかったわけだ。

「それに加えて、管制室には非常用のベルがあったんです」

「ベル?」

「火災とか、不審者とか、そういうのが出た時に、消防とか警察を呼べる、あの」と言いつつ僕は、赤くて丸いスイッチをジェスチャーで示す。「学校とかにもある、アレです」

「アレか」

「あのオペラ座は、雰囲気づくりのためだか何なのか知らないですが、管制室以外には非常ベルのスイッチが無かったそうなんですよね。本家のオペラ座の廊下や劇場内に、赤いスイッチが無かったから、それに倣ったみたいで」

「でも、少なくとも、管制室にはあったわけだ」

「管制室だけは、本家のオペラ座にも無かったので」と僕は言う。「ですが、その管制室の非常ベルは、鳴らなかったんです」

「鳴らなかった?」

「つまり、オペラの上演中には、押されなかったようです」

 ダン、ダン、というバスケットボールのドリブルの音が、思い出したように聞こえてくる。

「いったい、なぜでしょう? 関係者でもない不審者、ファントムが侵入してきて、強引にも、ヘイズマシンを使って妙なものを会場にばら撒こうとしたのに」

「分かった」高柳さんが、指を鳴らした。「犯人が関係者だったってことは?」

「ない、と思われています。今のところ」

僕は首を横に振る。「だって、劇団の関係者は――この事件で全滅しているんです。一人残らず、死亡したか、MF中央病院で植物状態になってしまっています。もし犯人が関係者だったとすれば、黒ローブに能面っていう衣装のまま、会場内でのびていないとおかしい。けれど、そうはなっていなかった」

「つまり、犯人は身内じゃないと」

 高柳さんが、顔をしかめる。「じゃあ、いったい犯人は誰で、いったいどうやってヘイズマシンに化学物質を仕込んだっつぅんだよ」

「警察の見解は、こうです」

 と僕は言った。「正体不明のファントムは、管制室に単身で突撃し、非常ベルを鳴らす暇すら与えずに、三人の演出班をナイフで刺し殺した」

「少年漫画かよ!」

 ばしゅん、とシュートが決まる音と、高柳さんの叫びが重なる。

「だって、それ以外ありえないんですもん。なんとかして管制室を制圧して、ヘイズマシンに化学物質を入れないと、事件を起こせないんですよ」

 なぜ僕が市警の見解を擁護しなくてはいけないのか。

「怪人は管制室で三人のスタッフを殺して、ヘイズマシンを使ってホールに物質を撒いた。その後、ホールに現れて、なんとかして惨劇を起こしたんです。そしてその後、爆発を起こした。爆発したのは、管制室に設置された爆弾なそうですよ」

「つまり、三人を殺した時に設置したわけか」

「そうなりますよね」

「犯人が爆発を引き起こした理由は、ホールに化学物質を撒いた証拠をヘイズマシンや管制室ごと消すためだったってことか? あまりにも……なんというか、ダイナミックだな」

「そうですね。でも」と僕は言った。「工作としては杜撰(ずさん)でした」

「杜撰?」

「はい。だって、実際には、犯行に使われたヘイズマシンは生き残ってしまいましたし。それに、犯人がおそらくマシンと一緒に証拠隠滅しようとしたはずの演出班たちのご遺体も、ほぼ原形を留めて、残存してしまったんですから」

 実際には、三名とも頭部は吹き飛ばされてしまって身元の確認が難しかったのだが、その程度だった。劇団の名簿もあったし、この《島》ならDNA鑑定だって格安で行える。

「神様に見放されたみたいですね、ファントムは」

「見放されたと言えば」と高柳さんが呻く。「蒼井さんもピンチだぜ」

「え?」

「試合が終わったらしい。次は、蒼井さんのチームの番だ」

 眼をあげると、コートの中では、二組のチームが互いの健闘を讃えあって礼をしていた。紀乃さんも、周りの友達たちから肩を叩かれ、ミスを慰められている。

「ちょ」

 僕は、膝立ちになって喘いだ。「あ、蒼井っ! 起きてください! 試合ですよっ!」

「やである」

「やでも何でもいいから! 立たないとアウトですって!」

 選手達が続々コートに集まっていった。見ると、蒼井達の班の対戦相手は、ここまで連戦連勝の超強豪チームである三班だった。挙句の果てとはこのことである。

「オラァ、一班も準備しろぉ!」と教官の園田さんも蒼井達のチームに召集をかけている。「今日は一班、一人欠席らしいじゃねえか! 誰か一人、助っ人で入れぇ!」

 すっ、と。

 手を上げたのは、白壁大典君だった。

 強豪の三班達の視線が白壁くんに向く。

 不動の白壁くんが、挙手の姿勢のままじっと見返した。

 僕はそれを、ただ眺めていた。

「…………え」


 結果として、コートのどこからでもボールを一投げでゴールに叩き込む白壁くんの妙技に頼り切った一班が戦術勝ちした。

 よかった。


   ※


「富野くん」

 聞き覚えのある声に名を呼ばれたのは、《沖ノ鳥MF総合研究学院》の学生食堂でのことだった。

 一限目の《体育》をなんとか乗り越えた終えた僕は、二限目に履修登録していた《分子生物学》の講義を受け、三限目の《生化学》の実習をこなし、腹をすかせて食堂を訪れていた。

 必須科目以外の一切の講義を受講していない蒼井依知華と、その御守たる白壁大典くんは、僕が二限三限と学業に勤しんでいる間、ずっと学食にいた。

彼らと合流し、できるだけ食費を抑えようと、学食で最も安価なカレー(具少なめ)すら購入せず、自宅から持ってきた企業のモニター用食品で口と胃袋を慰めていた。そんな時だった。

「よかった。やっと見つけた」

 眼を上げると、テーブルについた僕らへ歩み寄ってくるのは、黒く艶やかな髪をポニーテールにした、凛とした雰囲気の女性だった。

 かっちりとタイトなグレーのスーツを纏っているその女性――織部伊織刑事は、僕が齧りついている緑色のパンを見ると、吊り目ぎみの両眼をやや意外そうに丸くした。ふわりと口元を緩めて言う。

「メロンパンかな? 随分と可愛らしいものを食べるんだな」

「いえ、ミドリムシパンです」

という残酷な真実は、僕自身悲しくなるので伝えないことにした。

「どうされたんですか? MF市警の刑事さんが、こんな所に」

「インターネットを見たか?」

「はい?」

「《怪人》の次の犯行が起きた」

 なに。

 僕は脊髄反射的に、テーブルに時計代わりで置いていたスマートフォンに触れた。検索エンジンのホームを開くと、たしかに、検索ワードの上位にファントムの字があった。

「……《ファントム・アート》?」

「ああ」

 検索してみるとヒットしたのはいくつかの画像と映像だった。

「……これは……」

 画像の場所には見覚えがあった。

他でもない、《沖ノ鳥MF総合研究学院》の赤(あか)獅子(じし)キャンパスだ。MF学院には、翠人(みどりひと)区(く)から赤獅子区までの四つの区にそれぞれキャンパスがあるのだが、写真が撮られていたのは間違いなく、その内の一つだった。

 赤獅子区のシンボルである《大地を踏みしめたライオン》の紋章、それが刻まれたオベリスクがある広場。晴天にそそり立つオベリスクの根本には噴水があるのだが――そこが、人間で埋まっていた。

 二十人もいるだろうか。十代から二十代前半くらいの研究生たちが、崩れた鉄骨の山のように折り重なって水に浸かっている。それを遠巻きに見守る人々はケータイ電話を構えたり、周囲に何事か叫んでいたり、走っていたり、大騒ぎだ。

「水に沈んでいる学生たちが被害者だ」

織部さんが僕のスマートフォンを覗き込み、綺麗な指を伸ばした。「動画もあるだろう?」

《ファントム・アート》と題された一連の映像・画像は、御手製らしいキュレーションサイト、俗にいう《まとめサイト》にアップされていた。

僕は三角の再生アイコンをタップする。動画は、どこか高い建物から広場を見下ろすかたちで撮影されていた。手ブレが一切ないのは、三脚を使っているからだろうか。

始まったのは、無数の人びとが次から次へと噴水に跳びこんでは横たわる、ある種終末的な光景だった。多種多様(カラフル)な服装の人びとが我先にと水しぶきをあげて動かなくなる様子は、どうにも現実味がなく、かつて信じられていた旅鼠(レミング)の集団自殺を彷彿とさせる。

「幸いにも死者はいなかった」

織部さんは言った。「周囲にいた正義感の強い人々が、犠牲者たちを水からすぐに引き上げたんだ。誰もがぐったりとしていて、体から力が失われていたらしい」

 僕は目蓋を下ろして眼を休める。

「これは、ファントムの仕業なんですか?」

「動画を撒き戻してみてくれ」

 僕は言われた通りにした。ムービーの途中、織部さんは映像を止め、ある一点を指差す。

 噴水から一〇mほど離れた場所に、パーカー姿の男が、いた。

 フードを被った男は、魔法使いが杖で人をさすかのように、ピンと伸ばした人差し指を一定のリズムで振っている。注意深く見ると、彼に指差された人々こそが、見えない力に弾かれたように噴水に駆けこんで行っているのが分かった。

 そして。

 フードの男がこちらを仰ぐ。

 陰から覗く能面。

真っ暗な眼窩の奥で、その両眼が笑んだ気がした。

「…………」ぞくり、と背に奔った寒気を、僕は無視する。「彼が《怪人》ですか?」

「そうだ」

「被害者達はどうなったんです?」

「オペラ座事件の犠牲者たちと同じだ。噴水から引き揚げられた時にはもう植物状態で、今はMF中央病院のICUに入ってもらっている。水を呑んだ者はいたが、窒息死した者はいない」

 キュレーションサイトにあげられていた画像や映像は、いくつかの種類があった。

どこかの大道路。能面の男が指さしたバスの運転手が運転席から落ち、そのまま車体が太陽光発電施設へ突入した。別の動画では、駅のホームでモノレールを待っていた中年女性が突然線路に降り、あわや轢死というところでダイヤを大混乱させた。

規模の大小こそあれ、とにかくいずれも、映されている本質に変わりはない。

 《怪人》が人を操る、その決定的な瞬間だ。

「MF市警の報道規制は突破された。今晩のニュースは、どの局も《ファントム・アート》で持ち切りだろう」

「織部さん」

「何だ」

 口にすべきか、少しだけ迷う。

 不安を吐きだす気持ちで、僕は訊ねた。

「これは、本当に《怪人》の仕業なんでしょうか?」

 織部さんが顔を上げ、眉を顰める。「どういう意味かな?」

「《怪人》の使用している技術が何であれ、《怪人》が人を操るためには、脳内にタンパク質を寄生させる必要があったはずです」

「ああ」

「ここで被害にあっている人々は、いったいどこで、《怪人》のタンパク質を脳に寄生させられたのでしょう?」

 織部さんが言葉に詰まる。

 沈黙が顔を覗かせた一瞬、食堂内の明るいお喋りの声だけが、僕らの聴覚を埋めていた。

「劇場での感染は、ヘイズマシンによって撒かれた化学物質が原因とされていたはずです。なら、学院のキャンパスや街中で操作された人々は、いったいどこで感染したのでしょうね」

「不明だ」

 織部さんは、さすがの冷静さを保って言った。

「被害者の意識がないため、事件直前の彼らの行動については、調査がやや遅れている。街頭カメラの分析が進めば、きっと分かるはずだ」

 なるほど。

「状況は分かりました」

 僕はスマートフォンのブラウザを落とす。「でもどうして、織部さんが僕らの所へ?」

「《怪人》が使っている科学技術を一刻も早く知りたくてな。科学技術については君らに訊ねるのが一番いいと聞いたんだ。相田忠義警部補の推薦さ」

 ああ、と僕は納得する。

 まずい。

今は、少し。

「君はどう見る? 《怪人》はどんな手を使って人を操っているのだろうか?」

「あー……」

 曖昧な呻きをあげ、僕はチラリと視線を横に流した。

 蒼井依知華は、僕の隣でテーブルにつっぷして眠っていた。僕ら《トミノ民科捜》の情報源は、その九割以上が蒼井依知華であるため、彼女が眠りに落ちている今、僕から織部さんに提供できる知識は何も無い。

それに、蒼井には午後からも必須科目である《英語》の講義を受けてもらわねばならないのだ。出来れば今は、寝溜めをしておいて欲しかった。

「その子と、彼は?」

 僕の視線を追ったらしい織部さんが怪訝そうな声で訊ねてくる。蒼井依知華の日本人離れした青の白の容姿と、無言でこちらを眺めている白壁くんに、困惑しているようだ。

「大きな方は白壁くん。僕らの助手です。こっちはおなじくパートナーの蒼井です。ファッションが独特なやつで」僕はごにょごにょと呟き、「とにかく、事情は分かりました。きっと急用と思いますので、今晩までには見解を提出します」

「うん、助かるよ」

 ほんの微かに織部さんは頬に笑みを浮かべた。

 僕らの脇を通り過ぎていく男子研究生たちが、こそこそと織部さんに視線を送っているのが分かった。飾り気の無いスーツ姿で立つ織部伊織さんは、それでも相当な美人で、男女比が極端に偏ったこのMF学院においては、とても目立つ存在だ。

 会話はぴったりとピリオドを迎え、話題は途絶えたはずなのだが、織部さんはその場を動こうとしなかった。

口元を強張らせ、どこかぎこちない動きの瞳を学生食堂の景色にゆっくりと巡らせている。その手は身体の前で組まれ、もじもじと一人で指相撲をするような動きを続けていた。

「あの」

「ん?」

 僕の声に、両眼を大きくし、織部さんは笑みを向けてくる。「何かな?」

「まだ何か御用がおありですか?」

「ん? ああ……いや、違うんだ」

 織部さんは両手を前に出し、苦笑を浮かべた。自信無さ気な、どうにも似合わない仕草で視線を脇に逸らし、「その、なんだ」と口ごもる。

「ここからは、プライベートな話なのだがね」

 僕の厭な予感を的中させ、織部さんはもごもごと言った。

「もし君さえ良ければ、今晩、食事でもどうかな? 君とは話したいことがたくさんあるんだ」

 やっぱり。

「いえ、結構です」と、即答したいのが正直なところだった。

 織部さんが話したいことというのは、僕の父親に関することに決まっている。そして僕は、あまり、父の話題が好きではなかった。

「駄目、かな」

 剣歯虎の牙に似たフェイスサイドの前髪を耳にかけつつ、すっかりディフェンス側に回ってしまっている織部さんの姿は、やけに可愛らしく妙な気分になったが、僕は精神を強く持って言った。

「お誘いありがとうございます」と断りを入れつつ。「とても嬉しいんですが、今晩は、ちょっと人と会う約束をしているんです」

「勿論、今日でなくても構わない。明日でも明後日でもいい。君の時間のある時で結構だ」

 罪悪感が胸を指す。案外と、ねばってくれるものだ。

「無理にとは言わないさ」

あきらかに「無理にでも頼む」と言いたげな形相で、織部さんは言った。「けれど損はさせないよ。庁内のグルメから聞いて、良いレストランも知っているんだ。肉でも魚でもいい。年長者からちょっと豪華な食事を奢ってもらう経験も、若いうちにしておくといいんじゃないか――」

「えっ」

「ん?」

「奢って頂けるんですか?」と僕は思わず訊ねてしまっていた。

 ふー、と、僕の背後で鳴ったのは、滅多に聞けない白壁くんの鼻息だったかもしれない。呆れの溜め息のようだった。

 チャンス、と心の声が漏れそうな程に瞳を光らせた織部さんは、「もちろん、学生にお金を出させるような真似はしないさ」と、ひときわ強く頷いた。

 ぐらりと来た、なんてレベルじゃない。

 研究に次ぐ研究と慢性的な仕事不足のせいで、トミノ民科捜は万年の金欠状態なのだ。外食なんて夢のまた夢だし、豪華な食事なんて呼べるものを食べたのは何か月前だろうか。それに、織部さんにご飯を奢ってもらえるのなら、一食分の食費も浮く。

「ありがとうございます。そこまで言って頂けるなら、お言葉に甘えさせて頂きます」

 敗北宣言である。

 気がつくと僕は、そう答えていた。いっそのこと、「では今晩の六時にステーキかお寿司をお願いします」とも付け加えたいくらいだったが、残念ながら、この後、人と会う約束をしているのは本当だった。

「良かった」

 目を細めた織部さんはウンウンと頷くと、「予定の空く日が分かったら連絡をくれ」と、ポケットから出した携帯電話を振って笑んできた。

 去りゆく織部さんの姿を見つめつつ、脳内の予定表の仕事欄のところに「織部さんと食事」と書き込み、僕は息をついた。

「なんであの人、あんなに父さんに拘るんだろうなぁ……」

「知りたいのか」

 唐突な相槌に驚き、僕は振り向く。

 食卓の上に顔を倒したままの蒼井依知華が、片側の潰れた頬と口から声を発していた。

「なんだ、起きていたんですか?」

「いま起きた。再び寝る予定である」

「寝ちゃ駄目ですってば。それより、今の話、盗み聞きしていたんですか?」

 気怠げな蒼い瞳が、ぐるりと僕に向いた。

「織部伊織警部の生い立ちについて、《調査》を行った」

 《調査》。

 その隠語に、僕は眉を顰めた。

 宇宙から来た生き物のように、蒼井は口だけを動かし語り出す。

「織部伊織が生まれたのは西暦二〇〇五年八月六日の千葉県。祖父が警察官、祖母が主婦、父親が教師で、母親が介護士である。父親が二十四歳、母親が二十二歳の時に婚前妊娠された第一子だ。本人はそれを恥じているのか、その事実について家族以外の誰にも話していない。兄弟はいない。妹が欲しいと友人達によく口にしていた。《大哲学者》である富野氏に興味を持つ契機となったと思われる出来事は、彼女の人生に十一件確認できた。そのうち時期的に早いもの、内容の新鮮味の高いもの、発生地が故郷に近いものから順に因果関係の強度を仮定した場合、最も影響が大きかったと思われる出来事は――」

「やめてくださいよ」

 思いがけず鋭くなってしまった僕の声に蒼井が口を噤んだ。

「《調査》できたからって、人の過去を話すのは良くないことです。そろそろ加減を知ってください」

 《調査》。それの意味を周りに知られたら具合が悪い。

ふむ、とも、ふん、ともつかぬ息を洩らし、蒼井依知華は両腕を机の上に組むと、その上に顎を乗せた。

「それよりも、です。《怪人》が使用している科学技術を、そろそろ教えてくれませんか」

 僕は、そんな蒼井依知華の前で姿勢を正し、問うた。「ヘイズマシンで化学物質を撒き、光を使用して人々を操る技術って……いったい何なんです?」

 蒼井の隣に腰掛けていた白壁大典くんが、お願いしたわけでもないのに胸元から白く小さな機器を恭しく取り出した。

 眼鏡型のデヴァイス。

 沖ノ鳥メガ・フロートが開発した最先端技術の一つで、正式名称を《サラスヴァティー》という。蒼井の相棒だ。

端的に説明するなら最強のカンニングペーパー。思い出しの代行者。慌てん坊の百科事典。いろいろな修辞文句(コピー)が考えられるが、その機能は、発話直前の声帯の緊張や軟骨の振動から目的となっている語を割りだし、類似したワードを眼鏡に表示するという、とんでもなくお節介なものだ。

 あお、そら、みず、という語さえ浮かべば《サラスヴァティー》は《海》を提示するし、死に至る病、サルトル? ヴォルテール? と浮かべれば、いやいや《キルケゴール》だよ、あるいは《哲学者》と言いたかったの? と眼鏡が教えてくれる。背景にあるのは、人間の声帯の動きと目的となる単語の相関関係を調査した膨大なデータベース。使用者にある程度の知識があることが大前提だが、うろ覚えによる発言の停滞を、ほぼ完全に抹殺することができるインター・フェースだ。

ここまでなかば意図的に引っぱってしまったが、蒼井依知華は、この世のかなりの事象を知識として有しているらしい。

魔法のつむに触れた訳でもないのに日にウン時間もビーズソファに丸まっている眠り姫が、膨大な知識をどうやって学んだのか、僕にもよく分からない。ただ、僕らが出会い《島》に入学した二年前のあの日から、僕が質問をすれば、彼女は大抵のことには答えてくれていた。

博学という体質。

全知という能力。

 たとえば直感像記憶という能力がある。あるいはサヴァン症候群というものがある。既に名のあるそれらのケースこそが蒼井依知華の智慧の泉(サラスヴァティー)なのか否か、それは今後、彼女についてもっと詳しくならないと判断ができない。

「オプト・ジェネティクスである」

 青の瞳を細め、蒼井が、《怪人》が使用している科学技術の名を口にした。眼鏡型デヴァイスには、流れるものの女神(サラスヴァティー)の名に違わず、翠蒼の予測単語が次から次へと煌めいていく。

「《オプト》は《光》、《ジェネティクス》は《遺伝学》の意味である。遺伝子操作を加え、光感受性タンパク質を備えさせた神経細胞(ニューロン)を、視認によって観察したり、光のスイッチの切り替え(オンオフ)ることで遠隔制御したりする技術だ」

 オプト・ジェネティクス。

 オプト・ジェネティクス。

 妙に軽やかで、それでいて人を惹きこむ深みを感じさせるその技術の名が、僕の脳裏で繰り返し反響する。

 《怪人》の魔術の正体。

 《怪人事件》の犠牲者達の死因。

「技術が成立したのは今から二十年前、二〇一〇年の前後である。従来、脳細胞を調べるには、細胞を刺激してその活動を電極で測定するしかなかった。しかし、ノーベル化学賞を受賞した下村脩博士による《緑色蛍光タンパク質》の発明がきっかけで、全てが変わった」

 神の助言で明快化された蒼井の解説が、淀みなく流れていく。

「蛍光タンパク質の本質は、たんにそれが緑色に光ることではない。光を当てることで柔軟に変質をとげる、その性質こそが画期的だったのである。蛍光タンパクを応用した複数の研究チームは、光を受容することでさまざまな反応を返す新たなタンパク質を創り上げた。わざわざ脳に電極を刺さずとも、光の目視によってニューラル・ネットワークを観測したり、頭蓋の外からレーザーをあてるだけで、脳を自在に刺激したりすることが可能になった。たとえばこんな実験があった。ミーセンボック博士は、生きたショウジョウバエの脳に遺伝子操作を加え、逃避反応を担うニューロンだけが光感受性タンパク質を作るようにしたのだ。この遺伝子組み換えバエに紫外線レーザーをあててやると、ハエ達はいっせいに狂ったように何かから逃げ出したのである。眼を切除したハエでも同様の反応は確認された。つまり、ハエたちは光を目視して逃げたわけではなく、レーザーによって直接刺激された光感受性タンパク質が、光の駆動装置(アクチュエーター)として機能していたのだ」

「脳を、光で、操るっていうことですか」

「その通り」

「殺人や、自傷行為を起こさせることも、可能だと?」

「原理的には」と蒼井が頬杖をついた。「ハエが見えざる敵からの逃避行動を行ったのは、ミーセンボック博士が、ハエの脳の逃避反応を司る部位を刺激してやったからにすぎない。博士は他にも、人が眠くなる時に活性化する部位を刺激することで、人間に眠気を催させることに成功している。先日も言った通り、ヒト・コネクトームや脳マップが解析されだして久しい今日においては、望む行動を司る脳の部位さえ解明できていれば、後はそこを刺激すれば人間を自在に操れるということになる。殺人や自傷行為といった活動は、人間の活動のなかではそれほど複雑な脳機構に依(よ)っていない。食欲、縄張り意識、パニック、恐怖心、適当なアプローチを選んで、それに関わる脳の部位に光感受性タンパクを寄生させれば、充分に可能であると思われる」

「そうですか」

 寄生とアプローチ。光の糸(レーザー)を繋いでやれば、人間を傀儡(マリオネット)にできてしまう。

 尊厳も無く。

 精神は無視して。

 ただ器質的な肉として、自由に、動かしてやれてしまう。

 それが、オーム科学と、フィジカルな叡智の終着点なわけだ。

 嘆息する。僕の頭のなかで、たくさんの証言とデータが、糸に手繰り寄せられるように絵を画いていく。能面の男がホールに向けたという光。それはまさに、怪人が人を操るのに使った糸だったのだろう。

 植物状態の患者たち。集中治療室で被害者たちのニューロン間の交歓を邪魔しているのは、光感受性タンパクの成れの果てか。光感受性タンパク質とは、光で神経を無理やりに変質させて弄る物質なのだ。使用後に脳に障害を残しても不思議ではない。

 ヘイズマシンが何食わぬ顔で毒の息を吐くビジョンを想像する。極小の水の粒子に含まれていたのは、光感受性タンパクの作成を神経細胞に命じる化学物質だったのだ。

 敵の武器は分かった。

 対策法も、自ずと見つかるはずだ。

 僕は最後に、スマートフォンにPDF形式で保存してある事件現場の実況見分資料を指でスライドさせた。

 一階に広く分布した化学物質。鮮血に濡れたボウガンの矢。血と皮膚片のこびりついた鶏冠兜(コリュス)。スプレー缶のキャップだけ。ひしゃげたヘアピン。犯人のものと思しき靴の痕。爆裂した噴霧器の無数の欠片と、それと一緒に散乱した管制室スタッフの遺体の欠片。

 凶器は割れた。

 もはや、これらから意味を読みとる必要はなさそうだ。

「後でMF市警に伝えておきます」

 僕はミドリムシパンの残りを口に放り込むと、サンプル食品であるミドリムシドリンクの粉末を水に入れた。ストローで水をかき混ぜながら、蒼井に言った。

「なぜ、最初から教えてくれなかったんですか?」

「訊かれなかったからである」

 悪びれた様子もなく、蒼井が即答した。「相田忠義がコテージを訪れた時、ユタが私に訊ねたのは『人を操るような技術は存在するか?』という事のみだった。私はそれに答えたまでである。その技術と《怪人》氏との関係を訊ねられた覚えは無い」

 無機質な応答だった。

 人間味が無いといった方が正しいだろうか。

 知識の面でいえば、まさにそうなのだ。蒼井依知華の知識は人智を超えている。僕が質問をすれば、彼女は答えてくれる。でも、彼女はその全知の価値を理解していない。

 科学の価値を、科学自身が知らないように。

 蒼井依知華は、自らの叡智が孕む真価に興味がない。

 だから僕が、彼女の代わりに、彼女の知識を引きださなくてはなさない。正しい質問をぶつけ、事件の答えを聞きださなくてはいけないのだ。それが、僕らトミノ民科捜の在り方だ。

「そうでしたね。すみません」

 海藻を溶かしたような緑色になった液体からストローを引き抜きつつ、僕は謝った。「ついでにお願いしてもいいですか」

「何だ」

 さっさと終わらせてしまおう、と思った。

「《怪人》の居場所も、教えてもらえませんか?」

 怪人を気取る幼稚な悪戯にかかずらっている時間は、この島の人間には無いのだから。

 何でも知っている少女は、外しかけた眼鏡型端末をかけ直すと、両手の上に顎をのせた姿勢で、苦でもなさそうに語り出した。

「オペラ座で人々を襲った人間、その居場所は――」



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