第3話-2 人生の正解と宇宙の果て


 茂上さんの病室を出たのは、結局、午後六時を過ぎた頃だった。

 扉をスライドさせ、廊下に一歩を踏み出すと、壁も床も、すっかり茜色に染まっていた。窓の外から染み込んだ夕焼けが、アイボリーの壁紙も銀色の窓の縁も、リノリウムの床も全て、懐かしい色に浸している。

 夕陽の色のせいだろうか。茂上さんの病室の真正面、出てくる僕を待ち構えるように窓際に凭れて待機していた織部警部補の姿も、なんだかセンチメンタルな映画のワンシーンのように映った。

 スーツ姿でずっと立っていたらしい彼女は、僕の出現と同時に、俯いていた顔を静かに上げた。

「茂上藤一郎は、何か話したのか」

 織部警部補が控えめな声色で問うてきた。成功率の低い手術が終わるのを待っていた家族が、「どうなりましたか」とドクターに訊ねるような、深刻さがあった。九割がた諦め、けれど最後の一割の希望を捨てきれないような瞳をしていた。

「ぜんぶ話してくれましたよ。何か思い出したら、また連絡してくれるとも約束してくれました」

 織部さんを強ばらせていた緊張が、肩や肘から蒸発するのが見えるようだ。

「そうか」と織部さんはゆっくりと瞬きをし、「……流石だな」とライバルを讃える剣豪を思わせる笑みを浮かべてきた。

 流石だな、とは妙な感想だった。悲しいことに、民科捜としての僕のネームバリューは貧弱だ。つまり織部さんは、僕のことを、あくまでも《大哲学者》の息子として捉えているらしい。

 さすが《大哲学者》の息子だな、と。

「どんな手を使ったんだ?」

「手も足も使ってないですよ。普通に会話をしたら、滔々と話してくれました」

「つまり、君にはそれだけの能力があったというわけだ」

 完全に買いかぶり過ぎだったが、謙遜するのも億劫で、僕は曖昧に苦笑を返す。

「はは……」

「お疲れ様だ」

 織部さんはそう言って、片手に握った何かを差しだしてくる。僕はそれを受け取る。ミルク入りの缶コーヒーだった。少し、ぬるい。

「織部さんったら、病室を追い出されてすぐにコーヒーを買いに走っていっちゃったんですよー」

 僕の斜め後方から少女の声がした。振り向くと、紀乃と呼ばれたあの眼鏡の民科捜の少女が、ふにゃりと溶けそうな笑みを浮かべていた。

「憧れの富野さんに会えて、珍しく興奮しちゃったみたいですねっ。おかげでコーヒー、すっかり温くなっちゃっていませんか? 織部さんったら『しまった、富野君が出てきてから買って来るべきだったか』なんて深刻な顔で後悔してたんですよー。少しでも冷まさないようにって、ぎゅっと抱きしめてるところなんて、女の子みたいで結構かわいかっ――」

「紀乃」

 織部さんが唸るように言い、見事な三白眼で紀乃さんを射抜いた。

「黙れ」

 紀乃さんが笑顔を無くす。織部さんが懐から名刺入れを取り出し、一枚を僕に差し出してきた。

「沖ノ鳥MF市警の織部伊織おりべ いおりだ」

「民科捜の、富野ユタカです」

織部さんはどこかぎこちない笑みを浮かべていた。僕と目が合うと、ぐっと唇をへの字にし、言葉に詰まったように頬をこわばらせ、視線を逸らした。

「どうしました?」

「いや……」

 織部さんが、剣歯虎の牙のように整えられたフェイスラインの前髪の脇から、どこか悔しそうな瞳で僕を見やる。

「父上のことは……その……残念だったな」

 ああ、《あの事件》のことか。

 きっと誰よりも織部さんが残念に思ってくれていたのだろう。とても真摯な響きだった。

「富野氏の本には、何度、心を支えられたか分からない。彼の名言集が完成していたなら、日本の科学事情はもっと、まともな方面に歩んでいただろう。《あの事件》のことは……悔やんでも、悔やみきれん」

「僕ではなく、父に伝えられたら良かったのですけれどね」

 織部さんは、僕の中の富野の血に語り掛けるように、あるいは、僕を介せば父に言葉が届くと信じているように、真剣な態度で語りだす。

「君は今、この《島》で何を?」

「研究です。民科捜で生計を立てながら」

「研究か。これは私の勝手な願いなのだが……」勇気を振り絞ったように、織部さんが僕を見据えてくる。「願わくは、私は君には、父上の後を継いでほしいと思っている」

「父の後、ですか?」

 僕は、本気で疑問に思ってしまう。父は、誰かが後を継げるような具体的な仕事をしていたのだろうか?

 僕は首を傾げ、自然と意識を過去に戻す。鼻孔をくすぐる実家の居間の香りを、思い出した。


   ※


 働いている父を最後に見たのは、中学二年生の頃だった。

 『働いている』とはいっても、スーツを着た父が会社に出勤するのを見たわけでも、給料の入った茶封筒を手にニヤニヤしているのを見たわけでもなく、それはただ元気な父がまだ自宅にいて、おそらく収入があったのであろう豊かな生活を僕ら一家がしていたという程度でしかないのだが、とにかく、もう随分昔のことに思えた。

 浮かんできた記憶は、休日の光景だ。一戸建ての自宅の居間で、僕は、当時僕が想いを寄せていた幼馴染と一緒に、テスト勉強をしていた。テーブルに教科書を広げ、僕と女の子は向かい合っていた。そして、なんと父も、僕らの横で数学のドリルを広げ勉強をしていたのだ。

「あの……、おじさんもテストがあるんですか?」

 最初は多少苦笑を浮かべる程度で、父を無視して勉強を進めていた幼馴染の女子だったが、一時間ほどが経ち、ついに耐えきれなくなったのか、眉を顰めて父に訊ねた。

 もともと彼女は集中力が高い方ではなく、勉強も苦手で、たしか次のテストはかなりピンチだったはずだ。何度も集中力がきれ、お喋りをしたそうに嘆息を繰り返していたのだが、僕の父が、どういうわけか異様な集中力を発揮して、《四角形BFDEが平行四辺形になることを証明しなさい》に齧りついていたので、声を発すに発せれなかったのだ。

「若さが足りなくてさ」

「え?」

 父が背を伸ばし、でも目だけはドリルを睨んだまま、唸るように言った。

「僕は今年で、四十五歳なんだけれどさ。中学生の子たちを眺めていると、つくづく、自分の老いを思い知らされるんだよ。齢のせいで。あの頃に異性に感じていたときめきとか、テスト勉強に感じていた抗いがたい面倒臭さとか、そういうのがぜんぜん思いだせなくて」

「まあ、だって……昔のことですもんね?」女の子の困惑しきった表情は、見ていると胸がむずむずするほど可愛らしかった。

「嫌だよなあ。年はとりたくないよ。つくづつ、博識は敗北だよな。だって、大人だと思われると、君たちに仲間外れにされてしまう」

「いや、むしろどうして仲間に入りたいと思うのかが、疑問なんだけど……」

 僕は顔をしかめた。

 当時の僕は、父のこういった訳の分からない願望というか、主張というか、浮世離れした価値観に、少なからず鬱陶しいものを感じていた。子どもっぽく、恥ずかしいとも感じていたと思う。まあ……この日に限っては、僕はたんに、幼馴染の女の子との時間を邪魔する父に、苛立っていたのかもしれないが。

「そりゃ、若い子たちとは仲良くしたいに決まっている」

 父が僕に視線をやった。

「ユタカは知らないだろうけど、大人たちと最近の少年漫画の話をしても、なにも面白くないんだよ。みんな、漫画を、『最近の子ども達のもの』と見下してかかるからな。必殺技の格好よさを論ぜられる相手は、全く少ない」

「そりゃそうだよ。それが大人ってものだ」

「そうなのか? お前は大人に詳しいなあ」

 皮肉とも天然ボケともつかない感嘆を洩らし、父はまた唸った。

「それはそれとして、平行四辺形の証明って、どうやればいいんだっけ? この問いを真剣に解かずには、僕は、中学生には戻れない」

「解けても、父さんは義務教育には戻れないよ」

「私たちに訊かれても、困りますってば」女の子が肩をすくめた。「私もそこ苦手ですし。っていうか、大人がやって駄目なら、私じゃ、もっと無理ですよ」

「なぜだ? 君たちは普段、授業を受けているじゃないか。しかも、教科書まで持っている。僕は、かつて教科書を読んでいたという記憶しか有していないんだぞ」

 僕と女の子は、やれやれと顔を見合わせた。彼女の苦笑は、呆れているというよりも、父のユニークさを微笑ましく楽しんでくれているように見えた。恥ずかしい限りだったが、彼女と顔を見合わせ、二人で「やれやれ」と内心を共有できた瞬間は、手をつなげたような気分で、幸せだった。

 ふむ、と静かに唸り、父は腕組みをして椅子にもたれた。

「……たしか、二年生の数学の担当は、橋谷先生だったね?」

「は?」

「ユタカ達の担任の」

「う、うん」

「なら、通信簿に連絡先が書いてあるな」

 よっこいしょ、と父が椅子から腰をあげた。すたすたと居間を出て行こうとするのだから、僕は慌てて、声を投げる。

「え、どこに行く気?」

「ユタカの部屋だ。通信簿を見て、橋本先生に電話をする」

「やめろって!」

「なぜ止める」

「恥ずかしいだろ!」

「なぜ? 訊くのは一時の恥、知らぬは一生の恥だよ」

 その規模の一時の恥を背負うのは僕じゃないか。

 自分の父親が、担任の先生に、「すみません、数学の証明の問題の解き方が分からないので、どうか解法をご教授願いたいのですが」と懇願する屈辱に、耐えられる息子がいるだろうか? しかも、息子に教えるためじゃなく、自分のために訊くのだ。その規模の恥が《一時の恥》としてやって来た暁には、僕は即死する自信がある。

「分かったよ、僕らが頑張って教えるよ。教科書を読んで、父さんに説明する。それでいいだろ?」

「素晴らしい」

 父は、踵を返して椅子に戻った。

「できる限り、はやく頼むね」

 結局、僕と女の子で必死に教科書を読解し、《四角形BFDE》がいかに議論の余地なく完全無欠な平行四辺形であるのかを、実の父親に必死に主張して聞かせることとなった。その時に父が浮かべた、天啓を得たように満足そうな顔は、とても腹立たしかったが、そんな勉強の日々を繰り返していたせいで、その学期のテストで僕と幼馴染はとても良い成績を残すことができた。もしかしたら、好意的な解釈をするなら、一連のどたばたは、父なりの、勉強の手伝いだったのかもしれない。

 そう。毎日が、こんな具合だった。

 なんだかよく分からないが、父がいると、波乱万丈ながらも、全てがうまくいった。

 僕は両親の夫婦喧嘩なんて見たことがなかったし、僕自身も、両親に派手に叱られた記憶がない。順風満帆というよりも、温室で育つヤシの木のように、全てが父の手で安定していた。

 沖ノ鳥メガ・フロートが本土の優秀な研究者たちに片端からスカウトをかけはじめたのは、十年前だった。

 つまり僕が七歳の時ということになる。僕が小学生の頃にはもう、父は沖ノ鳥メガ・フロートの社会科学分野の特別顧問として雇用されていたことになるのだが、物心のついた頃から、父は、いつも自宅にいたような気がする。僕は出勤という概念は知らなかった。パソコンに向かうか、本を読むか、にこにこと僕に構うか。古い父の行動はそれらしか記憶にない。いったいいつ、本土から一七〇〇km離れたこのメガ・フロートに関わっていたのか、まったく分からない。

 でも、詳しくは後々になって知ったのだが、出張と呼べるようなことはたびたび行っていたようだ。ある時は、土砂崩れにあった地域に慰安講演と称し出かけ、感謝の手紙を山ほどもらって帰ってきたらしい。またある時は、いじめと不登校で学級崩壊を起こした高校に向かい、クラス全員を仲直りさせ、集合写真の中心で笑顔を浮かべてもいた。ある時など、養護老人センターを訪れ入居者の手を握りながらお喋りをしただけで、閉塞感と絶望と個々人の孤独しかなかった施設に、老人同士の笑顔の語り合いを生み出したともいう。どこに行っても父は、異様なほどに人を笑顔にし、皆に愛された。

 けれど、父の本の何がそんなに人を惹きつけるのか僕には理解できなかった。僕が読破した父の本は一冊だけだったが、書いてあったのは、いかにも父が考えていそうな、他愛の無い思考の断片ばかりだった。

『一日でいい。お金を一円も使わないで過ごしてみると、自分がいかに消費社会で生きてきたかが分かります』とか。

『一日三食というルールは実は限られた文化圏にしか存在しません。お腹が空いた時にご飯を食べるという生活も、実践してみると新鮮かもしれません』とか。

 そんな、日々の雑感とも、発想の遊泳ともいえる不思議な思想がつらつらと書かれていただけだ。それがどうして、《大哲学者》になるのか理解に苦しむ。

 僕が小学生になって以降、つまり父が沖ノ鳥メガ・フロートの運営委員会の一人になってからも、父は頻繁に本土の自宅に帰っては、そこそこの期間を滞在した。幼馴染との勉強会に水を差されたのもその頃の記憶だろう。

 父の仕事は、なんだったのだろうか。

 思想家、作家、哲学者。父が、そう呼ばれる類の人々に近い生き方をしていたことは知っている。でも、父の何がそれを可能にするのか――もっと言うなら、父の《何》が、そんな生き方を社会の人々に許させたのか、父の《何》に、人々が対価を支払っていたのか、いまも僕は分かりかねている。

 父の能力は、人心掌握術や心理学といった、努力で手に入れられる技術ではなかったように思える。カリスマとかイデオローグと呼ばれる者達が持つ素質を、父も持っていたのかもしれない。あるいはもっと身近な概念でもいい。学校の学年に一人はいる、誰からも好かれる剽軽者、ムードメーカー、文化祭の司会、そういった者達がもつ人に愛される資質。父は先天的に、そういう何かを持っていた気がする。

 だが、それでも。

 僕には、いつからか不安があった。

 聖人とか、平和主義者とか、寛容の体現者とか、メディアはいろいろな言葉で父を褒めたけれど――そして、僕もまた父を尊敬しようと努めてはいたのだけれど――それでもどこか、父に、底知れない無責任さを感じていた。父はあらゆる場面で真っ向勝負を避けているように見えた。争いを躱し、笑いで誤魔化し、洒落た綺麗ごとを並べる天才的な能力を有するだけの、飄々とした、矮小な人間に思えた。博学であることは間違いなかった。でも――、何もできなかった。

 《あの事件》。

 父は、万死に値する無力さを露呈したではないか。


   ※


 織部伊織さんの口が、動くのが見える。

「君はきっと、この《島》の漕ぎ手になれる」

 追憶の旅に出ていた意識が、はっと目の前の景色に引き戻された。

「ん、何の話です?」

「舵をとる人間が必要だったんだ」

 勇気を振り絞ったように、織部さんが僕を見据えてくる。織部伊織さんは、生真面目で厳格なタイプの警察官に見えたが、今はどこか恐縮しきっているようだ。それほどまでに、僕の父に敬服しているのだろうか。

「メガ・フロート市に来て、私は再認識した。この《島》の倫理は狂っている。行われている研究の危険性と過剰性を鑑みてもそうだし、すぐ身近な――」

 織部さんは紀乃さんを顎でさす。

「研究生や民科捜たちの非常識をみても、そう思う」

「え、ちょっ?」

「織部さんがこちらにいらしたのは最近なんですか?」

「つい二週間前だ。こちらに来て早々に、オペラ座の事件だったよ」

 まるで《島》ではいつも事件が起こっていると批難するかのような首の振り方だった。「思想家である富野氏が沖ノ鳥メガ・フロートの《五賢人》に数えられたのは、メガ・フロートに良心を与えるためだったのだろう。研究に没頭する科学者たちが摩耗させ失っていく、人として正しい道への感覚を、清く保った監督者として」

 《五賢人》というのは、沖ノ鳥メガ・フロートの創設時に《島》に所属したメンバーのうち、特に偉大な学者とされた五人に与えられた、マス・メディアによる俗称だ。

 僕の父は《大哲学者》なんて持ち上げられてメンバーに加えられたし、赤肚小咲さんの父親である赤肚揺堂(あかはらようどう)医師も、《嗤う医師》などと不気味な綽名をつけられ、カウントされていた。

「はあ」

 織部さんの異様な熱と、正義感の気配に、僕はやや気疲れを覚える。

「でも、人として正しい道なんて誰にも分からないと思いますけれど」

 あの父に、それが分かっていたとも、到底思えない。

「全くだ。人生の正解なんて誰にも分からない。宇宙の果てがどうなっているのか誰にも分からないのと同じだ」

 織部伊織さんは、両手をポケットに突っ込み、切れ長の目で僕を見すえながら柔らかな口調で言う。

「ユタカ君。君は、科学は何のためにあると思う」

「何のため?」

 窓の外を染める夕陽に目を細めつつ、僕は質問の響きを確かめる。

 急な質問だ。けれど不快にはならない。茜色の陽光が会話の潤滑油になっているかのようだ。

「知らないことを、知るためじゃないですか?」

「きっとその通りだ」

 織部さんが頷き、口角をきゅっと引き締めた。どこか疼痛を感じさせる、自らの古傷を撫でるかのような微笑みだ。

「ではこの問いはどうだろう。人間の未知には、二種類がある。何だと思う?」

「質問責めですね」

「ソクラテスに影響を受けたんだ。二〇〇〇年の時を隔ててなお、な」

 織部さんの口調に宿る、この必死さは何だろう。

 織部さんは今、会話の主導権を握っているにも関わらず、どこか無理矢理に自らの最も痛いところに触れているような、そんな辛さを滲ませていた。

「人間の未知の二種類ですか」

 先ほど、織部さんが言っていたことを思い出す。

「もしかして、人生の正解と、宇宙の果て、ってやつでしょうか」

「その通りだ」

 織部さんが右手で左腕の肘をさすりながら微笑む。

「文系と理系の大雑把な違いは、それで説明できるのではないかな。探求している謎の違いだ。人生の豊かさの正体を探るか、宇宙のあらゆる事象のしくみを探るか」

「面白いですね」素直に感心する。

「では、この問いはどうだろう?」

 織部さんがゲームに挑むように目を細める。

「君は文系と理系、どちらが偉いと思う?」

「偉さ?」

 少し予想外の問いだった。

「一概には言えないと思います。国語の教科書と生物の教科書のどちらが重要かと訊かれても、答えられませんよ」

「では、質問を変えよう。君は先ほど、科学は知らないことを知るためにあると答えたな。では、知らないことを知ろうとするのは、なんのためだ?」

 ちくりと脳裏を痛みが刺す。

 何の為に。

 何度も自問したことだ。まさにこの問いは、僕がこの《島》に居る理由に繋がっている。

「困っている誰かの幸せのためです」

 答えに迷いがなかったからだろうか。織部さんが少しだけ顔を上げた。

「困っている誰か?」

 と、訊き返してすらくる。

「一般論ですよ」

 僕は、苦笑をつくって誤魔化す。夕焼けがまぶしい。

「治療法のない病で苦しんでいる人がいたら、治療法を見つけてあげるべきじゃないですか」

 織部伊織さんは、数秒だけ僕の顔をじっと見つめていたが、やがて口元をゆるませ、睫毛の長い目蓋をそっと下ろした。

「誰かの幸せのためか。その通りだな。では、その幸せはどうやって見積もる?」

「見積もりですか?」

「分かりにくいか。やや極端な例を出すならだな、君は、《Uフェイト》ウイルスが誰かの幸せに繋がっていたと思うか?」

 《Uフェイト》。

 名前を聞くのは約一年ぶりだ。

 沖ノ鳥MF市の科学者による、《どう見てもマッドサイエンティストの暴走にしか見えないような研究成果》の代表格である。例の、「人類を絶滅させるウイルスに対抗できるように、とりあえず研究用に、人類を絶滅させられるウイルスを自作してみました」という発想で生みだされたウイルス。名前は、そうか、《Uフェイト》といったのだった。最終的運命(アルティメット・フェイト)の名を冠した、究極のウイルスだ。

「どうでしょうね。作った科学者自身は、人類のためになると信じていたようですけれど……」

 他人事ではなかった。僕は一年前、当の本人から信念を聞いたのだ。あわや人類史上最悪のバイオハザードが発生するかという、恐ろしい事件の現場で。できれば忘れたい記憶だ。

「……もしかして、それを判断するのが文系の役目だと?」

 ふと気がついて、僕は織部さんに言った。

「研究の成果物が、本当に人類の幸せに繋がるのかどうか、それを判断することが文系の仕事だと仰りたいんですか? それを担っているのが文系だから、文系の方が偉いと?」

「賢いな」

 織部さんが口角を上げる。

「その通り。自然科学の成果物は、社会科学の思想体系に委ねられなくてはいけない。あるいは、文系の学問には、理系の暴走を食い止める義務がある。……まあ、文系の方が偉い、というのは流石に便宜上の表現だがな」

「大袈裟ですよ」

 と言おうとしたが、義務教育やNHKで学んできた歴史を想い返し、僕は黙る。必ずしも大袈裟とは言い切れないのかもしれない。

 歴史の折々で、人類は科学の進歩を自ら規制し、断念してきた。その判断の根拠となった《倫理》を研究しているのは、まさに文系の人々ではなかったか。

 クローン技術が規制された時も、デザイナー・ベイビーに避難が集中した時も、持ち出されたのは他でもなく《生命倫理》だった。それはもちろん、プラトンやアリストテレスを始祖とする《徳倫理学》を発展させたものだ。だからこそ徳倫理学を《規範倫理学》と呼ぶ際、生命倫理学は対照的に《応用倫理学》と呼ばれている。暗中模索の科学史で、「ここから先は危険だ」という警鐘を鳴らす役目を担ってきたのは、たしかに文系だったのかもしれない。

「君なら分かるはずだ。人文学部心理・人間学科、倫理学専攻の富野ユタカ君」

 織部さんが、すがるような、けれど強い口調で言う。

「沖ノ鳥MF市が、《大哲学者》の富野氏に司らせた学問は、他ならぬ《倫理学》だった。富野氏は今世紀の誰よりも、人間の生き方を探求していたんだ。君の父上は、人間の幸せにこだわっておられた。富野氏はまさに、沖ノ鳥メガ・フロートの科学の行き過ぎを阻止する理性の番人として、《五賢人》に数えられたのだろう」

 夕陽が、織部さんの輪郭を赤くする。ノスタルジックな影に沈みながら、織部さんの唇がまた動く。

「私の勝手な願いだ。できれば君には、富野氏の代わりに、沖ノ鳥メガ・フロートの良心になってほしい」

 織部さんの願いは僕の心に響かなかった。

 綿のハンマーで殴られたかのように、重いけれども、淡い感触しか感じない。

「父の発言は非学術的でしたよ」

 僕はまた苦笑をつくって反駁する。

 笑って誤魔化す意味もあったが、知恵ばかりあって何の技術も持っていなかった父を、あまり褒めてもらいたくなかった。

「聞く人ごとに正しいとも間違っているともとれるような仮説ばかり語っていました」

「仮説でいいんだよ」

 織部さんが言う。左側の口角だけがあがり、僕の顔色を窺うように瞳が揺れる。

「思想の分野に、正解なんてあるはずがないんだからな。富野氏の読者が判断すべきだったのは、別に、富野氏の提唱した生き方が普遍的に正しいか否かではない。読者個人が、その生き方に憧れられるか否か、それだけでいいのだ。……君の父上の思想は、生き方を誰かに押しつけるためにあったわけでも、新技術の開発のためにあったわけでもない。ただ、フラットで俗な、一般の人々がテレビでみて、『ああ、そういう生き方もいいな』と思えるためにあったのだ。生き方に気付いて、人生の選択肢に加えられるようにな。哲人の名言集が、人生のガイドブックとしてコンビニで売られているように」

「俗人をターゲットにしていると言うわりには、織部さん語り口は、少し理知的過ぎますけれどね」

 きょとんと、織部さんが口を閉じた。「たしかに」と、やや虚を突かれたように、視線を廊下の隅に向ける。「私の悪い癖だ」

「悪くはないと思います」

「頭でっかちにならないよう言い直すと、だ」織部さんは視線を、僕と廊下の隅とでゆっくりと往復させながら、なぜか少し照れくさそうに、こう言った。「私は富野氏が、大好きだったよ」

「ありがとうございます」僕はそっと、腕時計を眺めた。「すみません。この後、用事があるので、僕はそろそろ失礼します」

 織部さんが、やや物足りなそうに目を見開いていた。けれど、こちらにも人生の予定というものがある。

「茂上さんから得た情報についてはMF市警にお渡しします。僕の依頼主は、実は、MF市警の相田忠義警部補なんですよ。情報は相田さんを通じて、織部さんにも伝わると思います」

 僕は、セラミックのボックスの帯を肩にかけなおす。織部さんに一礼した。

「興味深い話をありがとうございました。それでは」

 僕は茂上さんの病室の前を立ち去る。スニーカーが床を踏む音を聞きながら、次なる目的地を目指す。

「富野くん」

 背後から、織部さんの声がして、僕は振り向く。

「またいずれ、ゆっくり話ができないかな」

 夕焼けのなか若い女性警官は、ややばつの悪そうな苦笑を浮かべて、襟を直しながら言う。

「食事でも奢るよ。君とはできるだけ、知り合いたい」

 なぜか織部さんは、僕を気にいってくれているらしい。

 ――いや。

 父を、愛してくれているのか。

 織部さんはまっすぐに僕を見た。姿勢を正し、敬意を表するように表情を引き締め、彼女が深呼吸をして告げてくる。

「君に、期待をしているぞ」

 父にですよね、とは言わなかった。

 僕は会釈をして、立ち去る。

 残念ながら、織部さんの期待に沿うことは、僕にはできない。


   ※


 僕は、父とは異なる生き方を志した。

 その違いは強いていうなら、文系と理系の違いなのだろう。

 僕は、自分の研究が誰かに批難されることはとっくに覚悟しているし、いまさら批難に構うつもりも無い。それでも、父の話や倫理学の話を聞かされると、いまだに、過去から伸びてきた鉤爪が胸の奥に突き刺さり、僕を引き戻そうとするのが分かる。

「……ふぅ」

 心の疼痛と不安を吐き出し、気分を入れ替える。行動しよう、と思った。ナポレオンの言う通り、『勇気は行動と共に湧くもの』なんだ。

 腕時計を見ると、時刻は六時半に近い。次の待ち合わせに、少し遅れかけている。急ごう――そう足を速め、病院の角を曲がった時だった。

 どん、と人にぶつかった。

「うわっ……!」

「あぁん」

 倒れかけた相手の腕を、とっさに掴む。そして後悔する。相手の顔を見ると、そこにあったのは赤に濡れた骸骨だった。

 歌舞伎『連獅子』を想起させる真っ赤な前髪の下で、夜を蓄えたようなクマのある双眸が、細められる。

「……何をしているんですか、赤肚さん」

 僕が呻くと、赤肚小咲さんが唇を横に、ニィッと伸ばした。

 背筋に悪寒が走った時には遅かった。コマ送りじみた動きで伸びた赤肚さんの手が、僕の腕を掴む。きゃはッ、と甲高い叫びをあげ、ダンスを踊るように身を振った。

 遠心力で、僕は病院の壁に叩きつけられる。赤肚さんの血色の両目が、僕の眼球に触れそうな距離に迫ってきた。

「全部、見てたわよぉ。あの女とどういう関係ぇ?」

 口元は笑っているが、瞳には余裕のない震えが見てとれた。

 僕の自意識過剰かもしれないが、赤肚さんは僕を《ただ一人の自分に構ってくれる人間》だと思っている節がある。彼女は織部さんに居場所を脅かされた気になっているのかもしれない。

 赤肚さんを不快にさせるためなら見栄を切ってやろうかと一瞬思う。織部さんですか? 僕と知り合いになりたいそうですよ。かなりの美人ですし少しくらっときちゃいました。くらい吐いてやろうか。そう迷ったが、さすがに織部さんに失礼だ。僕は正直に唸りをあげる。

「関係って……何もないのは知っているでしょう? 今日あったばかりの刑事さんですよ。沖ノ鳥MF市警の、織部警部補です」

「……本当に?」

「ええ」

 不安げに目元を震わせる赤肚さんの肩をつかみ、引き剥がしながら僕は告げた。

「ところで丁度、あなたを探しに行こうと思っていたところです。頼んでいた実験の経過を教えて欲しいのですが」

 そう。

 待ち合わせをしていたのは赤肚小咲さんと、だった。

 赤肚さんには《沖ノ鳥MF中央病院》内の施設を使って、僕の研究の手伝いをしてもらっている。僕には医科学系の技術はないし、本格的な実験設備を用意する資金もない。それに研究の対象が特殊なせいで、いつどういった設備が必要になるか分からない。だからその都度、外部の誰かに実験を委託するしかなかった。

「あぁん。ユタ君は本当に研究熱心なのねぇ」

「今朝、お渡した試料は役に立ちましたか?」

「うぅん。まぁねぇ」

 僕に両肩を掴まれたまま、一歳年上のマッドサイエンティストはぷいと顔を逸らし唇を尖らせる。

「思ったよりも役に立たなかったなぁ。汗か垢か、とにかく彼女の老廃物を採取できれば、ユタ君がとびあがって喜ぶんじゃないかって思ったんだけれどねぇ。結果は失敗よ。ああ、ざんねぇん」

 酷い言われようだ。実験の趣旨はあくまで、体外遊離した代謝物質を分析して彼女の体内活動への理解を深めることだったはずじゃないか。

「……では、コピーの作成については?」

「クローン胚の作製についても失敗したわ。あの子のコピーはみーんな、生まれる前に死んでしまった」

「わざと殺したわけではないでしょうね」

「んー? 当然、わざと殺したけどぉ?」

 なかば当て擦りのつもりで投げかけた文句を肯定され、自分の眉がぴくりと引き攣ったのが分かる。

 顔を逸らしていた赤肚小咲さんが無造作に顔面を流れる真紅の前髪の奥で両眼をしめしめと歪ませた。

「……怖い顔ぉ」

 赤肚さんが首をすくめ、上目使いに僕を見る。

 艶のある声が、舌でねられた唾の糸のように僕の首を掴みかかってきた。

「そんなに蒼井ちゃんのカラダのレプリカが欲しいのぉ?」

 欲しいか、だって?

 僕の目元が歪む。

 何を今更。

 欲しいに決まっているじゃないか。

 それこそが、僕の研究の第一の目標なのだから。

「わざとじゃないわ」

 僕の無言の怒りを察してか、赤肚さんがやや目を逸らして言う。

「本当よ。私自身はこれでも必死に守ろうとしたわよ。だけどクローン胚は全て、苗床にした豚の胎盤に分解されて吸収されてしまったの。医科学者としての私の勘では、やっぱり、クローン技術でのアプローチには無理があるんじゃないかしら」

「無理でも続けるしかありません。なんとかして、蒼井と同じ体内環境をもつ実験体を手に入れてください」

 僕は赤肚さんを押しのけ、彼女をまっすぐに睨みつけたまま、肩に下げたバッグを開けた。中から、証拠品用のビニール袋を取り出す。

 自宅の床から拾い集めた、蒼井の髪の毛が、入っている。

 数本の空色の糸が、窓から廊下を染める斜陽のなかで、幻想的に煌めいた。

「少ないですが試料です。生体内(in vivo)実験が必要なんです。お金も必要なだけ用意しますから、実験を続けてもらいます」

「in vivoねぇ。難しい言葉を覚えたわね、ユタ君」

 赤肚さんが首を傾けると、カットソーの襟から大きく覗いた白い鎖骨に、彼女の赤髪が流れた。

「正直に、《好き勝手できる蒼井依知華ちゃんのカラダ》が欲しいって言ってもいいのよ?」

「なんとでも」

 万人から糾弾を受ける覚悟も、できている。

「蒼井ちゃん本人にお願いすればいいじゃない。カラダをいじらせてくれって」

「蒼井本人に苦痛を与えたくありません。それに、僕の研究くらい被検体を苦痛と危険に晒す実験も、ないでしょうから」

 僕は、バッグを肩にかけ直す。軽く目を閉じ、頭を研究モードにすべく、脳を揉むイメージをする。

「……クローン技術でのアプローチは無茶だと仰いましたね。では、蒼井の体の模造品を手に入れるために、それ以外のアプローチは何が考えられるでしょうか。心当たりがあれば御助言をお願いします」

「あの子と遺伝子的に相似なキメラ動物を作成してみましょう。もしかしたら、何か分かるかもしれないわ」

「分かりました。では次はそのアプローチを進めてください」

 僕が赤肚さんを引き留めても、利益はない。はやく実験室に戻ってもらい、研究を続けてもらったほうが良い。

「ご協力、感謝します。赤肚小咲さん」

「感謝、よりは、さぁ」

 冗長に語尾を伸ばしてから、赤肚さんが急に、真剣な表情になった。

「……赦しが、欲しいのだけれどな。富野ユタカ君」

 僕は赤肚小咲さんを見すえる。

 人ひとり分ほどの距離を空けて立つ十七歳の天才医師の姿は、年上であるにも関わらず酷く小さく見えた。

 平然を装って立っているが虚勢だ。

 僕が罵倒すれば赤肚さんの両肩はすぐにでも縮こまってしまうだろうし、歪な笑みも痙攣に変わる。

 赦せだって?

 何を莫迦な。

 僕の脳裏に、父の笑顔が浮かんだ。《あの事件》の記憶が蘇ってきた。映画館を思わせる暗がりのなかで、全てが終わった後に、赤肚小咲に見せつけられたあの最悪のロードショー。

 イメージを振り払う。

 許容なんてできるものか。いつの間にか握りしめていた拳の力を、僕は、尋常じゃない労力を使って抜いていく。

「赦せませんよ」

 と僕は言った。

「赦せるはずが無いじゃないですか」

 赤肚小咲さんの口角がひくりと動く。笑ったのか、動揺したのか分からない。きっと両方だろう。拒絶の哀傷と、唯一の友人との交感の喜びを、この変態は同時に感じている。

 天才的な技術と、極度の人見知り。両方を持つ赤肚さんは、普段、周囲の医師たちからは《医師》として手本とされつつも、《人》としては一切の人格を無視されているという。

 型通り以上の挨拶をしてもらえず、手術の連携と医学の講義以外には口も利いてもらず、愛は勿論、叱責や失望すら向けてはもらえない。無関心の地獄に住む赤肚さんにとって、自らに無限の憎悪を向ける僕は、北極の夜に見つけた火種なのだろう。

「あは。そっか」

 赤肚小咲さんは、白衣のポケットに片手をつっこみ、右手をひらひらと振って、研究室へと去っていく。

「毎度どうもぉ」

 僕は、背に赤い髪を流して遠ざかっていく少女をしばらく見つめる。赤肚さんの髪の異常なカラーリングもまた、僕を惹くために、蒼井の異様さを真似たものなのだろうか。

 深いため息が出る。

 悪魔の棲む森の深部に佇んでいる気分だ。倫理や道徳からは、随分と遠い所に来てしまった気がする。

 僕は身を返した。中央病院の玄関を目指し、歩き出す。

「ああ、そういえばぁ」

 背後から、赤肚さんの声が追ってきた。


「今日は、お父さんとは話していかなくていいのぉ?」


 白熱した怒りの銃弾がこめかみを貫く。

 目を剥いて振り向いた僕に、廊下の向こう側で、赤肚さんが笑いかけている。怒るだけ無意味だ。鬱積した感情をぶち撒ける権利だって、僕には無い。

 こんなに憎いのに、僕は、この狂った少女と同じ側で、研究を続けてしまっているのだから。


   ※


 織部さんの言葉を思い出す。

 この《島》の倫理は狂っている?

 何を今更。

 当然じゃないか。


 既存の価値観で推し量れる世界で満足できる人間なんて、この《島》に居るわけがない。

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