第3話‐1 「これだから理系は」


   3


「あぁ。最後に」

 帰りがけに、相田さんが帽子の下から僕を見据えて言った。

「その少年の主治医の名前を、お伝えしておきますね」

「はあ。頂いた資料は、後で読むつもりですが……」

赤肚小咲あかはら こざきさんですよ」

 絶句した僕の様子を愉しむかのように、相田さんは目を細めた。「いやぁはは。彼女と同じく有名人の富野くんなら、VIP同士、案外、簡単に会えちゃうかもしれませんね?」

 正面切っての嫌がらせに、僕はどう反応すればいいのか分からない。相田さんの飄々とした笑顔からは、彼が内にどんな思惑を秘めているのか分からなかった。乾いたビジネスの精神か、それとも、幼稚な害意か。

「……相田さん」きっと僕は、相田さんを睨んでいただろう。「まさか、彼女と僕を会わせるために、わざわざ今回の依頼をしたんじゃないでしょうね」

「まさか。流石にそんな子供っぽいことはしませんよぅ」帽子をかぶり直す相田さんの、表情は見えない。

「……結果は、追って連絡します」

 潮の香りをかぎながら、なかば相田さんを締め出すように玄関のドアを閉める。ドアが閉じる直前、「あ、あと、本当に最後に!」と若い刑事は笑顔を覗かせた。「もし病院で富野君のファンに会ったら、その時はよろしくお願いいたしますね!」

 意味が分からない。

 どうして相田さんが、どこにいるとも知れない《僕のファン》の心配をしているのだろう。


   ※


 沖ノ鳥MF市は、ぜんぶで八つのエリアから構成されている。


翠人区みどりひとく

青鷲区あおわしく

黒牛区こくぎゅうく

赤獅子区あかじしく

中央翠人区ちゅうおう みどりひとく

中央青鷲区ちゅうおう あおわしく

中央黒牛区ちゅうおう こくぎゅうく

中央赤獅子区ちゅうおう あかじしく


 沖ノ鳥MF市の地形は、紙に二重丸を描いて、それを十字に切り分けた図を想像してもらえると、分かりやすいはずだ。

円形の沖ノ鳥メガ・フロートを、東西南北に四等分するように、四つの扇型の区に分ける。四つにそれぞれ、翠人区~赤獅子区までの名前をつける。そして、各区の中心角寄りの部分に、中央翠人区~中央赤獅子区の名前をつける。完成。それが、沖ノ鳥MF市の簡単な全景だ。

 奇妙な区名の由来は、タロット・カードの《運命の輪》であるらしい。

 ウェイト版タロットの寓画には、巨大な輪の他に、本を読んでいる四体の獣が描かれている。某フリー百科事典によれば、タロットに描かれたこの四体の獣――もとい天使たちは、二十一番目のカードである《世界》に向けて勉強をしているのだそうだ。

 また、そもそもこの四種類の生き物は錬金術において四大元素を象徴する存在たちであるらしい。火、風、水、土。《世界》を構成する四要素だ。区名に冠された《翠》や《青》といった色は、四大元素のテーマ・カラーを表しているわけである。

 世界の理解に至るための輪。

 勤勉な天使たちの研究の園。

 世界の理を解明するために創造された円、この沖ノ鳥メガ・フロートには、まさに、ふさわしいモチーフではないだろうか。


 僕らの本当の自宅は翠人区にあるのだが、今年の一月から六ヶ月の間は、青鷲区の海岸端のモデルハウスに住むことになっている。

 僕は、昼食に白壁くんが作ってくれたアサリのパスタを食べてから、モデルハウスを出た。《島》の中心部にある中央青鷲区の病院を目指す途中、僕はついでに、青鷲通りの例の《オペラ座》に立ち寄ってみた。

 青鷲通りは、青鷲区の中央町に位置する、区内随一の繁華街だ。若い研究生御用達のセレクトショップやスイーツ店、映画館や書店が並ぶ、歓楽街である。

 オープンは大々的だったので僕も存在は知っていたのだが、じかに目にするのは初めてで、正直、感動する。

 パリのガルニエ宮の豪奢なレプリカは、まるで高層ビル群の隙間に立つ神社のように、並木と独特の神聖なオーラによって、周辺の研究施設から、地から天まで超然としていた。豪華で、洒脱で、端的に言うと、浮いていた。

 青鷲オペラ座の主要な客層は、実は、オペラを楽しみにしている貴婦人たちではない。真なるターゲットは、芸術に感動したヒトの瞳孔の動きをチェックしたい文化人類学者であり、ステージの床の材質を研究している業者であり、壁の反響を確かめたい音響技術者たちなのだ。

青鷲オペラ座の正体は、すべての環境を芸術の再現のために特化させた、巨大な実験施設にすぎない。

 ふと青鷲オペラ座の玄関を見ると、既に何組かの民科捜が、動いているのが分かる。青鷲オペラ座は、外見から内部の爆発の形跡を見とれなかった。だが、ここは確かに、何人もの人間が死んだ残虐な事件の現場なのだ。

 犯人が捕まるのは時間の問題だろう。

 《エンタメ文学的殺人犯》達が、動機や工夫の一切を無視されて、その物語を不成立にされてしまったのと同じように、《オペラ座の怪人》として超常の殺人鬼を気取っている《怪人》氏もまた、理系の科学者たちによるルーチン・ワークによって追い詰められ、滅びるはずだ。

 沖ノ鳥メガ・フロートで、ミステリーは成り立たない。

 僕は、青鷲オペラ座を後にした。

 茂上藤一郎という少年が入院しているという、中央青鷲区にある沖ノ鳥MF中央病院へと向かう。


   ※


「……残念、で御座いますがね」

 沖ノ鳥MF中央病院に辿りついて、すぐのことだ。

「本日はもう、茂上さんとの面会は御断りしているんですよ」

 ナース・ステーションを訪れた僕は、四方八方に跳ねた黒い癖毛を眉まで伸ばした大学部生くらいの青年ナースに、四角い眼鏡の奥からうんざりしたような目で睨まれつつ、そう言われた。

「え」

「お引き取り下さい。申し訳アリマセン」

 思わず、固まってしまった。まさかこんな入口で、捜査がストップしてしまうとは。

「え、いや、あの」

 僕は、焦って、いびつな笑みを浮かべる。意味のないジェスチャーをしつつ、なんとか交渉を試みる。

「僕はMF市警の相田刑事からの依頼で参ったのですけれど……」

「相田?」

 癖毛で眼鏡の男性ナースが、一応といった様子で、手元のリストを確認してくれる。

「……そんな方からのご連絡は頂戴しておりませんね。残念で御座いますが」

 ……相田さん。

 流石に仕事のやり取りを舐め過ぎていませんか、と僕は内心で呆れる。

「では、赤肚先生はいらっしゃいますか?」

 仕事で来ているのだから、簡単に退くわけにもいかず、僕は適当なカードを切る。

「茂上藤一郎さんの、主治医になっていると思うのですけれど」

 赤肚小咲の名を口に出すたびに、僕は自分の醜い自傷痕を晒しているような気分になる。別に、僕の体にリストカットの痕なんて無いけれど、心に負った恥と怒りの記録を、人に見せているようで、思わず顔をしかめそうになった。

「はて。医学部生の赤肚小咲のことを仰っているのでしたら」

 青年ナースは毛ほどの動揺も示すことなく、淡々と応対する。

「勘違いをされていますね。赤肚小咲はドクターでは御座いませんよ。だってホラ、ご存知か知りませんが、医師免許の最低年齢は十八歳です。赤肚は、十七歳の、研究生で御座いますので」

 ああ、そうか。

 対外的には、そう言うしかないのだったな……。

「失礼しました。じゃあ、医学部生の赤肚さんはいらっしゃいますか?」

「いち医学部生の居場所まで、僕らは把握していませんね」

 青年は首を横に振った。

「もし把握していたとしても、一般の方には御答え致しかねますが」

 だよなぁ……。

「そこを、なんとか」

 自分の手札の少なさに苦笑しながら、僕は頼み込むしかない。

「青鷲通りの凶悪事件の解決に茂上藤一郎さんの証言が、どうしても必要なんです。平和のために、どうか許可を出して頂けませんか……」

 眼鏡で癖毛のナース青年に、特大の溜め息をつかれてしまう。

「既に」

 と青年は眼鏡を押し上げ、気だるげに僕を睨む。

「既に本日、七組の民科捜がいらっしゃり、何の収穫も得られずに御帰りになられています。茂上はまだ誰かとまともに話ができる精神状態にないのです。それなのに何組かの民科捜は、『我々の技術を以てしても口を割らないなんて、茂上の脳は未知の異常をきたしているに違いない!』などと騒ぎ、我々に診療記録を要求しだす始末で御座いました」

「それは、確かに茂上さんの気持ちを軽んじすぎていますね」

「規則を、軽んじすぎているのです」

 あ、そっちか。

「中央病院には中央病院のルールが御座います。カルテは外部非公開。当然で御座いましょう。面会謝絶の患者と部外者を会わせるなど以ての外。どうぞ、お引き取りください」

 取りつく島もない。

 僕は、なかば途方に暮れて、ナース・ステーションの内部に目を向けた。

 壁から壁へ、視線を流すと、病室の空きと埋まりを示す表が貼られていた。景気がいいのか悪いのか、ほとんどの病室は埋まり、患者名が書かれていた。

 そして、その隣には、手術の予定表が貼られている。

ホワイトボード上には、手術の予定と患者名がびっしりと書かれていた。空いている手術室は一か所しかない。昨日、今日と、『101号手術室』だけ、予定が空白になっている――。

「…………」

「どうされましたか」

「いや」

 僕は、融通の効かない窓口を後にした。

 まっすぐに、MF中央病院を歩いて、手術棟に向かう。

 目指すは、『101号手術室』だ。

 もしかしたら、という思いがあった。そして、思ったとおりと言うべきか、予想に反してと言うべきか、手術棟に踏み入った僕の耳に、甲高い女性の喚き声が聞こえてくる。

「…………ああ」

 耳障りな声だ。そう感じたのは、僕が彼女に抱いている憎しみのせいだろうか。この喚き声がもし彼女の苦痛の悲鳴だったとしたら、僕はむしろ清々した気持ちになっていたかもしれない。

 僕は速足に、声の出所を目指す。民科捜の義務感のせいでも、倫理観のせいでもなく、純粋に、探し人が見つかったせいだ。

 防音設備の整った廊下をビームのように通ってくる女性の喚き声を辿って、オフホワイトの角を曲がる。果たして、手術室前の廊下のど真ん中を占領し、患者や病院のスタッフ達から異様な注目をうけている二人組が見えた。

 一人は、まあ、人間の男性だ。

 もう一人は、赤と白の怪物だ。

 『101号手術室』の扉が開け放たれ、そこから飛び出してきたと思しき《怪物》が、廊下を運ばれつつあった別の患者の手術台にしがみついていた。

 男性の方は、いかにもドクター風の外見をした壮年の人物だ。ドラマで見るような薄いグリーンの手術着から、手袋と帽子だけを棄てたような、簡素な服装をしている。下あごが若干、上唇よりも前に出た、面長な顔をしていた。《怪物》の腕を掴んで、困り果てたように、患者から引き離そうとしていた。

 一方、おもちゃ売り場から離れたくない幼児がするように、床に尻をついてへたり込み、手術台に横たわった三歳くらいの患者の脚を鷲掴みにして駄々をこねているのは、高校生くらいの女性だった。

 蒼井依知華の真逆。一本一本を染め上げられたかのような真っ赤な髪を、背に流している。聞いた話ではカラーコンタクトを入れているらしく、瞳も赤。何を塗っているのか、唇も真っ赤。挙句の果てに、身につけている手術着スクラブもその下のスキニーパンツも、真紅だった。それら全ての赤と対象的に、羽織っている白衣と肌だけは、まるでメラニン色素を欠落させたかのように真っ白だ。

 目には、薄墨を引いたような、ひどいクマが見える。睫毛が長く、目は大きく、頬もややこけ過ぎではあるがシャープで、黙っていれば美人に見えなくもない。ただ、声をあげるたびに大きく開け広げられる口や、わきわきと骨を鳴らすように蠢いている五指、時折ごりんごりんと肩関節を跳ねさせ回す様など、奇怪な動きが美貌を台無しにしていた。

 そんな異形の出で立ちの彼女だが、じわじわと目を引いていくのは別の箇所だった。

 首が、折れている。

ように、見えた。

「『先生』、騒ぐな! 患者さん達が見ているだろうが……!」

「うるっさぁああいなぁああああ! 私はっ、好きな時に好きなだけオペをするの。もともと誰からも免許なんか貰っていないんだから、今さら許可がなによぉっ!」

「だから、そういうことを大声で言うなと言っているんだ!」

 壮年の医者が、途方に暮れきった表情で、髪をがしがしと掻きながら、片手で赤髪の少女の腕を引く。

 床の少女は、まるで骨格標本のように細い四肢をじたばたと蠢かせている。そのたびに、明らかに正常な位置からずれて左に倒れた彼女の首が、重力に素直に――まるで水飲み鳥のように、揺れている。

「嫌よ嫌よ嫌よ嫌よ! 私はもう仕事の手術はしないわ、この女の子の手術がしたい! 三十八時間もぶっ続けであんなオジサンのやりたくもない手術をしてあげたんだから、そろそろ休暇を貰ったっていいじゃないのよぉぉおおおおおおおおっ!」

「だから、黙って休めと言っているんだ! 寝ろ、今すぐに! さあ、こっちに来い!」

「厭だぁあああああああああああああああああああああ!」

 僕は、二人に近づいた。

 真っ赤な少女の、彼女の肩の高さで縦に二つに並んでしまっている両目が、涙目のまま、僕に気がついて、きょとんとなる。

「あ……」

 少女の口から声が漏れる。

「あっ、あぁっ、あぁぁあああああああああああ!」

 見開かれる目。

 ワイン色の瞳。

 赤と白の怪人物が、僕に、右手を差しだした。

 直後。彼女の左手が、不自然に倒れた自らの側頭部をがしりと鷲掴みにした。かと思うと、ゴキンと音を立てて、首を正常な位置へと戻す。

 口紅か何かで真っ赤に塗られた唇に、裂けんばかりの笑みを浮かべ、少女は叫んだ。

「ユタくぅううううううん、じゃないのぉおおおおおおおおあっ!」

「……どうも」

 僕は、その憎たらしい少女を見据えた。

「こんにちは。赤肚さん」

 赤肚小咲。

 陳腐で、手垢塗れで、詩的さに欠け、どうしようもなく有り触れた表現を許してもらえるのなら、彼女は世にも名高い《天才》というやつだ。

「えっ、えっ? なんでユタ君が病院にいるのぉ?」

 奇妙に間延びした声で喚きながら、赤肚さんが僕に歩み寄ってくる。

「民科捜の仕事です」

「ふぅん。よく私が手術室にいるって分かったわねぇ?」

「ナース・ステーションで手術の予定表を見たんですよ」

 僕は努めて、目の前の一歳年上の少女への嫌悪感を抑え込んで、言う。「昨日と今日、予約でいっぱいだった手術室のなかで、『101号手術室』だけが空白だったんです」

 沖ノ鳥MF総合病院の病院としての機能は、本土の大学病院とほとんど同じだ。

しかし、MF中央病院もまた、この《島》に属している他の施設と同じく、医療技術や薬学の巨大な臨床実験施設としての側面が強調されている。

ナース・ステーションの壁に貼られていた手術の予定表には、大量の手術室の部屋番号が書かれていたが、そのほとんどは予約で埋まっていたMF市内の患者へのスタンダードな手術が行われると同時に、本土から運び込まれた希少な病人への、術式の臨床実験などが行われているため、なかなか空きが出ないのだ。

 そんな中、この手術室だけが三十八時間もの間、予定で埋まっていなかった。

「昨日の『101号』に予定を入れずに、今日の『101号』以外の手術室にまで予定が一杯だったということは……公に名前を公開するわけにいかない人物に、二日ぶんの予定を譲ったとしか思えないじゃないですか」

「ふぅん。それが、私だと思ったわけ?」

 赤肚さんが僕の目の前に立ち、愛おしそうに僕の顔へと手を伸ばす。骨ばった両手が、僕の頬に包むようにふれ、親指で豊齢線をなぞってくる。赤肚小咲の、真っ赤な睫毛にふちどられた目が蕩けそうに潤み、真っ赤な舌が真っ赤な唇を舐めていた。

気色悪いと思った。

「十七歳という年齢のために、法的には執刀医として認められていない、貴女かなと思いました」

 僕は言う。

「そして、こちらは勘の材料程度にしかなっていませんが……予約の空白は三十八時間でした。手術が行われているのだとすれば、尋常じゃない長丁場です。だから、どうせ表に出せない人物が執刀をしているのなら、それは長丁場が大得意な、貴女かなと思ったんですよ」

 赤肚小咲。

 職業は、研究生。

 副業は、闇医者。

そして――。

 持病は、疾病及び関連保健問題の国際統計分類(ICD)のF51「非器質性不眠症」。

 赤肚小咲は、いわゆる超短眠者ショート・スリーパーだ。一日三十分の睡眠だけで、健康体を保ててしまうらしい。それが、赤肚さんに長時間手術を可能にさせる『才能』であり、他者を隔絶する技術の源泉でもある。

 考えてもみて欲しい。

 凡人が一日当たり六時間眠り十八時間を生きるとして、赤肚小咲さんは一日あたり二十三時間と三十分を生きることができるのだ。

 生きている時間の差は、一日で五時間と三十分。二日で十一時間。一年で、八十三日にまでなる。

 赤肚さんは現在、十七歳だが、並の十七歳よりも実に四年もの歳月を、神によって余分に与えられてきたことになる。そして、彼女は、その有り余る人生を、徹底的に人体に触れて過ごしてきた。

 そう。幸か不幸か、赤肚小咲は少しおかしくて、人体に向き合う以外の趣味がなかった。きっと友達もいない。「努力とは、人生の時間の傾斜配分に他ならない」――とは、僕のよく知る人物が赤肚小咲さんを形容した文句だが、まさにその通りである。

 赤肚さんは、単純に誰よりも多く勉強をし、人体に向き合い続けてきた。だから、人よりも医学に秀でている。そういう『天才』だった。

「ふぅぅうううううううん」

 自分の居場所を言い当てられたことが、さも嬉しいといった様子で、赤肚さんは目を細めた。彼女の指が、僕の目の隈をなぞる。「名推理」と、無邪気に歯ぐきを覗かせた。「患者は、本土のお客さんだったのよぅ。大手企業の重役さぁぁぁん。趣味の狩りの最中に、顔面を猟銃で吹き飛ばしちゃったらしくてねぇ。生え際も鼻の穴も、上あごも下あごも無くなっちゃってたのよ」

 「生え際」、「鼻の穴」、と、顔の部位を言う度に、赤肚さんの人差し指が、僕の生え際と鼻にあてられる。

「それで、新しい顔が欲しいってお願いしてきてねぇえ。顔面移植がとんでもなく時間のかかる手術だって知って、わざわざこの《島》の私を指名したんですってぇ」

「それで、三十八時間も手術をしてたんですね」

「……この範囲の顔面移植手術としては……三十八時間は、電光石火と言っていい所要時間だ」

 壮年のドクターが、先ほどまで赤肚さんに捕まっていた別の患者さんを、キャスターごと行かせてやりながら、こちらに歩いてくる。「術後の外面的な美しさから言っても……公的な手術なら間違いなく世界記録級だ。歴史的だ。本当に」

「あなたも、手術に三十八時間、立ち会っていたんですか?」

 僕はドクターに尋ねる。壮年の彼の顎に髭がちらほら見え、目元も黒ずんでいて、ひどく疲れているようだった。

「大事な顧客に万が一のことがあったら大変だからな」

「万が一のことがないために赤肚さんに担当させたのでは?」

「確かに」ドクターが弱々しく苦笑する。「顔面移植手術は大金を生む分野なのだ。今回のように患者が法外な金を払ってくれるだけではない。あらゆる国の軍事機関がこの術式の進化に賞金を組んでいる。戦争に向かう兵士の顔の治療するために、な」

「兵士を戦争に向かわせないという選択肢は、ないんですかね」

「非公式だろうと、神の手の現物を見て起きたかった」ドクターが妄言のように呟きながら、軽く手を上げ、去っていく。「いずれ私が、最先端術式(フォアフロント)を修めねばいけない……全ては勉強だ」

 やれやれだ。

「それでそれでぇ? 民科捜の仕事ぉ?」

 赤肚さんが首を傾げ、僕の手をとる。僕の指の間の水かきを、指の腹でつまみながら、僕の目を覗き込んできた。「具っっっ体的にぃ、何をしに来たの?」

「青鷲通りのオペラ座で起きた集団暴行事件の調査です。被害者の一人、茂上藤一郎さんという人物に話を聞きに来たんですよ」

 僕は粛々と、努めて、事務的に告げる。

「丁度よかった。赤肚さんは、茂上藤一郎さんの担当の先生ですよね? 茂上さんとの面会を、お願いすることはできますか?」

 赤肚さんは非公式の闇医者だが、その実力のおかげで、『オペラ座の怪人事件』のように、MF市警から犯罪被害者たちを預けられるようなケースも、あるにはある。

 僕が頼んだ途端、赤肚さんは、おもしろい玩具でも見つけたかのように目を輝かせた。わざとらしく、ぎゅっと閉じて首を大きく横に振る。幼子のように、叫ぶ。

「ダメダメ! 絶対に、駄目ぇえええええええええええええ!」

「駄目ですか?」

「ううん。駄目じゃない」

 心底幸せそうに目を細め、甘えんぼうがするように僕の目を見つめ返しながら、首を振る。

「駄目じゃないですぅ」

「ありがとうございます。じゃあ、案内して貰えますか?」

「はははははは! ごめっ」赤肚さんは満面の笑みを浮かべ、唇の前で、人差し指をバツ印状に交差させた。「やっぱり、駄目ぇえええええええええええええええええ」

「相変わらずですね」と僕は無表情を保って言った。絶対に、赤肚さんの想い通りに激昂するものかと、冷たく決意していた。

 赤肚小咲さんは、天邪鬼だ。

 いや、別につねに嘘を吐くとか、そういうことではない。そうではなくて、常に人をからかって――刺激を与えようと、してくるのだ。会話の相手が無難さに安住することを、許さない。

 親しい人間がおらず、きっと寂しいからだろう。

 コミュニケーションが下手くそだから、とりあえず喚いて、相手の感情を逆なでにして、反応を誘うことしかできない。

 ……荒んだ見方だろうか。

 どうだろうな。

「……ユタ君の反応も、相変わらず、あっさりしているわねえ」

「努めているんです。赤肚さんに喜んでほしくなくて」

 赤肚さんはつまらなそうに僕の手から指を離した。「あ、そう」ポケットに両手をつっこみ、唇を尖らせる。

「二年も前のことだというのに、まだ赦してもらえていないわけね」

「…………」

 黙れ、と思う。

「ははははははははははははは。ま、いいわ。茂上藤一郎ね」

 赤肚さんが、クマの深い目を細めて笑う。

「OK。案内するわ。私は闇医者であり、情報屋。民科捜はお客様だものね。それに、ユタ君の頼みを私は断れないもの」

「ありがとうございます」

 連れだって歩き出してから、ふと気になって、僕は赤肚さんに言う。

「どうでもいいことを一つ訊ねてもいいですか?」

「いいわよ。なんたって、どうでもいいんだもの」

「首は大丈夫なんですか」

「ああ、これ?」

 赤肚さんが左手で首を鷲掴みにし、ボキリと、折る。

「別に折れてないわよ。指の骨とか、手首とかを、パキポキと鳴らしてほぐすのと同じ。最近、体中のどこの骨をキめたら一番キモチいいかを試しているの。だんだんエスカレートしてきて、今のところ首が心地好いわ。コツを教えてあげましょうか?」

「結構です」

「ざんねぇええん」


   ※


「ところでユタ君」

「なんですか」

「生存者たちの症状について、相田刑事から聞いている?」

 振り向くと、隣を歩く赤肚さんが、いつの間にか上半身を僕に向けていた。僕の顔を覗き込むように上半身を低くし、上目使いに、視線を僕の目に送っている。

「奇妙な症状のせいで、事情聴取ができない人々がいる、ということだけ」

「充分よ」僕の嫌悪感を知ってか知らずか、赤肚さんは白い歯を見せる。

「まさしく奇妙な症状ね。患者たちはみんな、脳に異常を来たしてしまっているわ」

「脳に、ですか」

「ええ」

 赤肚小咲さんの指が、僕の鼻先を横切って脇の空間を指差す。

「彼らよ」

 いつの間にか僕らは、数台のベッドが規則正しく並べられている奇妙な空間を歩いていた。ベッドとベッドの間には、患者同士を遮るように、透明なパーテーションがある。天井にはカーテンのレールが、ベッドを僕らから隠すように走っており、白いバンドで束ねられたライトグリーンの薄絹が垂れ、電灯の光を透けさせていた。水晶を思わせる清冽な部屋だ。

「ここは……」

「ICU。集中治療室よ」

 そう言われてみれば先程、両開きのアクリルの押し戸をくぐったのだった。病院の深部から人々を遠ざけるようなあの純白の扉はICUの入り口だったのか。

「集中治療室って初めて入ったのですけれど、思ったよりも開放的なんですね。もっとこう、医療器具が密集した個人部屋だと思っていました」

「思ったより集中していないように見える?」と赤肚さんが僕に体を寄せ、腕に手を回してきたので振り払う。「散漫治療室、なんちゃってぇえ」と下らないことを言って、赤肚さんははしゃいでいた。

 ベッドを見る。数人の看護師に支えられ、リクライニング式の寝台に身を起こしているのは、五十歳くらいの男性だった。

 人間では、ない。

 人型の皮膚の塊。

 そう第一印象を抱かせる雰囲気。

 男は、看護師たちからの呼び声に、一切の反応をしめしていない。看護師によって優しく持ち上げられた片腕は彼らの手が離れると同時に、ぼとりと音を立ててシーツに落ちた。

 印象的なのは顔だった。その表情からは苦痛がまったく見受けられない。刈り上げられた白髪まじりの髪、その下の額や眉間は、生まれてこのかた一度も皺を溜めたことがないかのように、のっぺりと弛緩しきっている。目蓋が下がり、目尻も異様に低い位置にあって、人工呼吸器のせいで分かりにくいが、頬や唇もブルドックのように垂れ下がっていた。

 看護師の一人が男性の目の前で指を振る。すると、なかば閉じられた目蓋の奥で、男性の瞳がそれを追った。その瞳だけが、やけに潤み、光っていて――僕は、はっとする。

 男性は目蓋を自力で閉じられないらしく、看護師の一人が指によって、目蓋を下ろさせていた。目蓋の肉に押されたせいか、男性の目からひと雫、小さな涙が頬を伝う。

「ギラン・バレー症候群とかSSPEとか脳炎に似た症状でもあるのだけれど、実際は違ったわぁ」

 両手を白衣に突っ込んだ赤肚さんが説明してくれる。

「正式な病名は不明。意識ははっきりとしているけれど、脳からの信号が肉体に一切届いていないから動けない。脳髄が皮膚の牢屋に幽閉されているの。被害者の遺体を解剖してみたらね、脳の神経細胞のシナプスに、見たことのないタンパク質が取りついていたわ」

「取りついていた、なんて表現されると、まるで寄生虫か幽霊みたいで不気味ですが」

「でも比喩としては正しいのよぅ」

 赤肚さんがまた性懲りも無く、僕の鼻先にルビー色の瞳を寄せてくる。

「脳が体に命令を出すためには、ニューロン間の興奮伝導が必要なことはユタ君だって知っているでしょう? ニューロンは軸索末端から刺激物質を送って他のニューロンを刺激しているわけなのだけれど……《オペラ座事件》の被害者たちは、その軸索末端に謎のタンパク質で《栓》をされているせいで、ニューロン間の刺激物質の伝達を阻害されているの」

「脳死状態ということですか」

よ。高次の運動はみられないけれど、呼吸や脈動は正常。眼球運動をみるに、もしかしたら意識もあるかもしれないわ」

 意識が、ある。

 看護師の指を追う男性患者の目が、僕の脳裏に再生された。江戸川乱歩の小説『芋虫』や、トランボの『ジョニーは戦場へ行った』を思い出す。意識を保ったまま、口も四肢も動かせなくなる孤独はどんなものなのだろう。まっくらな宇宙に脳を吸い出されるような、ぽっかりとした恐怖を僕は感じる。

 僕の沈黙のなにが面白かったのか、赤肚さんが笑い声をあげた。こちらを怪訝そうに睨んでくるナースやドクター達に構わず、彼女は僕の両手をとって舞うように足を運ぶ。

「もしかしたら彼らは私たちの会話を聴いているかもしれないわねぇ? 返事をしたがってもいる可能性もある。謎のタンパク質によって肉の牢獄と化した体に、彼らの魂は、閉じ込められたままでさぁあ」

「治るんですか?」

「あるいはね」

「治してあげてください」

 それが科学の力であり、目的であり、義務のはずだ。

 患者たちから目を逸らし、僕はICUの長い病室を進む。


   ※


 茂上さんの病室には、先客がいた。

 赤肚さんに案内されたのは、ごく普通の個人病室だった。

 『ごく普通』というのは、あくまで、巨大な生命維持装置がないとか、何重にも張り巡らされた感染防止のフィルターがないとか、その程度の意味でしかない。病室の内装は、ちょっとしたリゾート施設のホテルと見まがうほどに、お洒落だった。

「いい加減に……してくれよっ!」

 少年が、顔を真っ赤にして民科捜員に怒号をあげる。患者の《人生の質(クオリティ・オブ・ライフ)の向上のために設えられのであろう高級ベッドで身を起こした少年――茂上藤一郎は、あからさまに、良質な人生を送れていないように見えた。

「ひっ……!」

 極薄のタブレット端末を手に重要参考人への質問をおこなっていた民科捜の少女が、びくりと肩を跳ねさせる。

「ど、どうしたんですか、いきなり……っ?」

 いきなりじゃ、ないよなぁ……。

 と、二人のやり取りを病室の隅でソファに座って眺めていた僕は呆れてしまう。それほどに、少女による茂上藤一郎への質問は酷いものだった。

 数分前。ふわふわとしたショートボブの数か所をヘアピンでとめた民科捜の少女は、「オペラ座の事件について、心中お察しします……」と、大きな眼鏡の奥で瞼を厳粛に伏せたかと思うと、「けれど、私はプロのメンタルセラピストなのでご安心ください! 必ずや貴方の心を癒し、私達にデータを受け渡せる精神状態にしてあげますね!」と、不遜な宣言と共に温かい笑みを浮かべた。

 十分ほどタブレット端末を操作しながら「人生で一番幸せだった時は?」「親のことを思い出してみてください」などチェックポイントじみた質問を重ねた少女は、「……ということで、今の会話で貴方の心は癒えたはずなので、そろそろ事件についてお話いただけますよねっ?」

と断言と共に期待の眼差しをむけた。唖然とした茂上が首を横に振ると、「うん? まだそんな反応をしめすということは……」と患者から目を離し、また数分間タブレットをいじる。「あ、ありましたよ茂上さん! 貴方に類似した精神疾患者のデータが無事に見つかりました!」と歓声をあげたかと思うと、「さて、茂上さんのようなタイプの患者さんを癒せるアプローチを再開します!」と何事もなかったかのように、質問を始めた。

「お前、俺を舐めているだろ」

 いよいよもって、ベッドの上の茂上藤一郎が不穏な唸り声をもらすと、少女は、きょとんと眼鏡の位置を直した。

「あれ……?」

少女は、困惑に歪んだ笑みを浮かべ、首を傾げる。そして、むっとしたように頬を膨らませた。

「も、茂上さん、おかしいですって。今の治療を行った後なら、理論上、貴方は事件について私に全てを話していないとおかしいのですよ……?」と、非常識を嗜めるように言う。

「ふざけるな!」

 まったくだ。

 MF中央病院を訪れたどの民科捜もこの調子だったのなら、茂上さんから一切の情報を得られていないのも、無理はない。というか、茂上さんが素直に話していたら、茂上さんを聖人と認めてもいいくらいだ。

「ちっ……紀乃きの、もういい」

 病室の入り口付近、腕を組んで様子を眺めていたスーツ姿の黒髪の女性が舌打ちをした。

「……この《島》の民間科学捜査員とやらが役立たずなのは十分に分かった。目障りだ。どけ」

「え、そっ、そんなっ!」

 紀乃と呼ばれた眼鏡の少女を押しのけ、長髪を後ろで結った凛とした雰囲気の女性は茂上藤一郎のベッドの脇に立つ。

「沖ノ鳥メガ・フロート市警、警部補の織部おりべだ」

 と黒い手帳を見せつけ女性は言う。

「気持ちは重々承知の上。事件の解決には君の証言が必要不可欠だ。無理に話せとはいわん。せめて、君の研究室が取得した君の脳のデータを提供してほしい」

 警察だったのか。

 僕は少しだけ驚く。そして疑問に思う。MF市警の刑事さんがじきじきに取り調べに来ているのなら、どうして相田さんは、僕に、茂上藤一郎さんへの事情聴取なんて依頼したのだろう。

 やはりあの刑事は、茂上さんから事情を聞くことは僕以外では不可能だと、僕を買い被っているのだろうか。

「……嫌だよ。俺はもう、あんた方にも、沖ノ鳥島にも、うんざりしてるんだ」

 茂上藤一郎さんは、織部という刑事から目を逸らし、俯いてしまう。

「誰とも話したくない。話したくないことに理由なんてないんだ。気は変わらないよ。もう嫌だ。帰ってくれ」

 織部さんは口を横にきつく結んだ。叱責か捨て台詞か、何かを言おうとしたようだったが、別の声が邪魔をする。

「タぁぁーーイム・アぁぁーーーーーーーーップ」

 愉快そうに、ゲームの主催者のように言って、赤肚さんが手を叩いた。

「MF市警の刑事さんたち、お時間よ。ご退室をお願いするわぁ」

 赤肚小咲さんは、横長のソファの僕の隣に、背を丸めて、骨ばった脚を抱くようにして座っていた。動物でも追い払うかのように「しっしっ」と織部警部補と紀乃さんに手を振りつつ、首を傾げ、ルビーのように真っ赤な瞳で、僕を見てくる。

「はい、お次でお待ちの方、どうぞぉ」

 いかがわしい艶のある声で囁かれた。

 僕は嘆息する。無理に決まっているだろ、こんなの。

 だって、茂上さんは今、本当に誰とも話したくなさそうじゃないか。今更僕が事情聴取をはじめても、彼を苛立たせ、挙句の果てには精神状態を悪化させ、退院を遅らせてしまうだけかもしれない。

 なかなか腰を上げようとしない僕の耳を、赤肚さんはつまんだ。そっと赤い唇を寄せ、耳元で、叫ぶ。

「ユタさーん。富野ユタカさぁーーん。赤肚先生がお呼びでぇぇぇす、至急、患者さんのところへぇぇぇえええ……うきゃっ!」

「うるさいですって!」

 思わず振り払った。仕方ない。これも仕事なんだ。駄目でもともと、何かしらのアクションを起こすしかない。

 と、僕がソファから立ち上がり、茂上さんへ微笑みかけると、不思議と彼も、目を大きくしてこちらを見ていた。

 様子がおかしい。

 気がつけば茂上さんだけでなく、その脇に立つ織部警部補も、入り口付近でタブレットを抱いていた紀乃さんも、きょとんとした顔で、僕を見つめていた。どうした?

「……富野ユタカ?」

 織部さんが、堅い声で呟いた。

「富野……まさか、あの富野か?」

 ――ああ、しまった。

 三人の好奇の眼差しが、僕に向けられたのが分かる。ナイフの切っ先に狙われたかのように、居心地が悪くなる。

 否定をしようにも、僕は他ならぬ《富野》なのだからするわけにもいかず、けれど肯定もしたくなくて、僕はただ名乗るに留める。

「どうも。《トミノ民間科学捜査研究所》の調査員、富野ユタカと申します」

「まさか、と思うけれど」と、今度はベッドの上から茂上藤一郎さんが追求してきた。

「お父さんは、あの《大哲学者》の富野?」

 違います、と言いたい所だったが、不可能だった。

「そうです」

 三人とも、かたちこそ違えども、大袈裟な反応を示した。

 茂上さんは緊張したように口を横に結び、紀乃さんは慌てたように口を押え、織部さんは目を見開いて、ほんの微かに唇を開いた。心の底からにじみ出た泡のような声で織部さんが言う。

「信じられん。まさか……こんなところで会えるとは……」

 僕もなんだか緊張してしまった。

「すみません。民科捜の仕事で来ているので」

 僕は咄嗟に、お忍びのハリウッドスターのような言い訳をしてしまう。もちろん僕はただの学生で、スターでも何でもない。

「茂上藤一郎さんに話をお聞きしたいので、MF市警の皆さんは、席を外してもらってもいいですか?」

 僕は苦々しい気持ちで、出発の直前の、相田さんの言葉を思い出す。

 ――もし病院で富野君のファンに会ったら、その時はよろしくお願いいたしますね!

 あのファンとは、まさかMF市警の刑事たちのことだったのだろうか。

 可能性はある。あの面白いこと好きの刑事なら、もう既に民科捜や警察があたっている茂上さんの元に、織部さん達に会わせるためだけに僕を派遣することだって、ありえる気がした。

「本当に、富野さんの、息子さんなのか」

 織部さんと紀乃さん、ついでに赤肚小咲さんにも部屋から出った後で、茂上藤一郎さんが話しかけてきた。

「本当です」

「つまり君は、この島で唯一の、」

 と茂上さんが言ってくる。「文系の研究生?」

「ええ」僕は苦笑する。

 価値というか、コンプレックス。

 僕の、恥ずべき、他者との差異。

 沖ノ鳥メガフロートが建設され、《特区法》が施行された時、当然、問題となったのは沖ノ鳥MFが扱う学術領域の範囲だった。子ども達に何を教え、国に何を齎すか。そもそもの出自を科学者の不満にもつメガフロートは、あたりまえのように科学の分野に注目した。特許を取得できる発明、知見、技術。つまりは《理系》の領域に。

 そんななか、異なる価値観を示したのが僕の父だった。なぜか世間に人気だった父の意見はそれなりに重視されたようで、沖ノ鳥メガフロートの教育機関には見事、《文系》の科目が豊富に並んだ。

 そして、それを修めようとする者は現れなかった。

 《特区法》の金銭的な支援がどうしても理系に偏ってしまっていたことが理由だし、技術職の不足に喘いでいた時節柄理系の学生にスポンサーが圧倒的につきやすく文系につきにくかったことが要因だし、本土でも比較的優遇されていた文系の大学教授が《島》に所属するメリットが薄かったことが原因だ。

 現在、MF学院に《研究生》として登録されている学生は、哀しいかな僕一人である。まともに教員もいない《島》に、文系が住む理由自体がほぼ皆無だ。

「驚いたなぁ」

 茂上さんの声色には、先ほどまでの、人を拒絶するような硬さは無く、言葉通りの驚きが滲んでいた。

「噂には聞いていたけれど、本当にいたのか……」

「人をツチノコみたいに言わないでくださいよ」

「齢は?」

「十七です」

「俺は十八」茂上さんが表情のないまま、ふと気にしたように付け加える。「あ、別に、敬語、使わなくていいよ。俺は気にしないし」

「いえ、僕のこれは礼儀というか」

 僕は苦笑する。

「癖なので」


   ※


「文系の学生って、普段は何をしているんだ?」

 茂上藤一郎さんが問うてきた。

 興味を示してくれていることには違いなかったが、声に明るさはない。彼は僕が――誰がこんなあだ名をつけたのか――《大哲学者》であるところの富野の息子だと知り驚いて、その惰性で疑問を発したようだった。僕が答えなければ、あるいは答えても、「あ、そう」と黙ってしまうような、そんな声色だ。

「もちろん研究をしていますよ」

 ソファに座ったまま、僕は答える。

「文系の研究か?」

「いえ。僕の場合は、所属が文系の学部なだけで、普段は理系の研究をしています」

「へえ。分野は?」

「生物学というか、」

 僕は首を傾げる。

「化学というか。微妙なところですね」

「研究分野も微妙なくせに、民間の科学捜査研究所だ、とか名乗っていたよな」

 茂上さんが、ぽつりぽつりと言葉を続ける。

「文系でも、民科捜でできることはあるのか」

「ないですね」

 情けない事実に、肩を竦める他ない。

「だから、僕は雑用係です。あるいは探偵の助手……ワトソン役でしょうか」

「研究は生物学で、民科捜をやっているのに文系から理系に、移籍はしないんだな」

「移籍は……まあ、考えたことがないでないですが、していませんね。沖ノ鳥メガ・フロートにやって来て所属して、それきりです」

「未だに、文系の講義なんて受けているのか?」

「全く受けていません」

 僕は首を振った。

「受けようにも講師がいないですし」

 茂上藤一郎さんが口を噤んた。沖ノ鳥MF唯一の文系の講師だった僕の父を想い、そして、その講師がいなくなってしまった原因を、想ったのだろう。

「……ごめんな」

「いえ。気にしていないので」

 本心からの言葉だったが、気遣いととられたのか、茂上藤一郎さんは気まずそうに沈黙してしまった。

 僕はしばらく、無言のまま窓の外に視線をむけていた。

 僕の座っているソファは、入り口のちょうど反対側に、つまりは窓際にあり、首を少し後ろに向けると、それだけで空が見える。

 春。午後五時の空は、わずかに赤みがかり、透き通る桜の花弁を思わせる淡い色をしていた。耳にとどく空調の音が心を宥める母の手のようで心地よい。退屈だが、くつろげる時間が、ゆるやかに進む。

「なにも、訊いてこないんだな」

 茂上さんの呟きに、僕は振り向く。茂上藤一郎さんは、下半身にかかった毛布を指でいじりながら、視線も下げたまま、言う。

「君も、民科捜の仕事で来たんだろ? オペラ座の事件について、何も質問、しなくていいのかよ」

「え、訊いてもいいんですか?」

「……話したくない」

 ほら。

「だと思ったので……」僕は、眉を下げて笑う。「茂上さんがあからさまに喋りたくなさそうだったので、僕も、何も訊かないことにしました。いいんですよ、もう。こっちも、クライアントに落ち度のある依頼ですし」

 病院への連絡もなしに、同僚の警部補に会わせるためだけに人を歩かせた(かもしれない。いや、どうせ、そうであるところの)相田さんなんて、もう知らない、と僕は拗ねるように思う。

「適当に、話は聞けなかったことにします」

 茂上さんは黙ったままだ。大量殺人の現場に居合わせた人間の気持ちなど、僕には想像もできなかったが、それでも、凄惨な光景をわざわざ思い出す気にはならないだろうなと、そのくらいは、慮れた。

黙ったままの茂上さんに僕は問う。

「茂上さんは、学部はどこなんです?」

「話は訊かないんじゃなかったのかよ」

「ただの雑談ですよ」

 本心だ。僕は苦笑する。仕事中の僕はいつも、苦笑してばかりだ。

「茂上さんだって、僕に所属や研究の部門を訊いてきたじゃないですか。僕も、茂上さんの素性が気になったので」

「依頼主から貰った資料に、書いてなかったのか?」と、茂上さんは皮肉っぽく呻いた。恐らく、他の民科捜から自身のデータを読み上げられて不快な思いをしたのだろう。

「工学部だ。所属は音響医学研究室。専門はセンチカメラの開発」

「センチカメラ? なんだか、涙脆そうというか、感傷に浸りそうな名前のカメラですね」

「センチメンタルは関係ない」

 茂上さんの口調は、疲労し、話し疲れた人のそれだった。

「CTとか、MRIとか、ああいうのの一種だよ。腹を開かずに胃の写真を撮ったり、頭蓋骨を開かずに脳の画像を撮ったりする、アレだ」

「頭蓋骨を開かずに、ですか」

 僕は、自宅で蒼井に聞いた《人間が念じただけでマウスに尻尾を振らせる装置》のことを思い出した。頭蓋を開かずに脳組織を刺激することを称して、蒼井がなにやら用語を口にしていた気がする。文系と侮られても癪なので、僕は、彼女の言葉を引用した。

「非しゅうしん性、というやつですね」

「就寝? ああ、非侵襲性な」

「はい」恥ずかしい。

「概ねそうだよ。ただ、センチカメラの場合は、イオフェタミンにのせた放射性物質を血管に注射して、脳組織に染み込ませてやらないといけないから、誤解されがちなんだけれど」

「放射性物質ですか」僕は思わず反応してしまう。物騒な単語だからというよりも、やっと知っている単語が出てきたからだ。「それって、大丈夫なんですか?」

「危ない気がするだろ、やっぱり」

 茂上さんが、初めて少しだけ口角を上げた。科学者としての苦労を共有したがっているようにも見えたし、苦笑をすることで化学素人の僕を安心させようとしてくれたようにも見える。

「トレーサーに使われる《123I-IMP》には中毒性があるし、放射能がある。けれどもちろん、人体に害はないよ。現状、医療の最前線で使われている核医学マシンたちの無害は、幾度も立証済みさ。核医学をうけた患者群と、うけなかった患者群の癌死亡率をくらべたら、核医学をうけた患者群のほうが低かったっていう統計もあるくらいだ」

「茂上さん」

「ん?」

 やっぱり茂上さんも、自分の専門が好きでこの《島》に所属しているんじゃないですか。

 そう言おうとしたが、やめた。今更僕が茂上さんの科学好きを指摘しても、きっと彼の気分を害するだけだろう。先程、茂上さんは織部警部補に「俺は沖ノ鳥島にうんざりしている」と言っていたではないか。過剰な気遣いをする気はなかったが、これくらいは労りの域だろう。

「いえ、なんでもありません」

「あ、そう」

 幸いなことに、茂上さんは追求してこない。

「……まあ、人体に害はないとはいえ」と、さっそく科学の話へと帰っていく。やはり、好きなのだろう。「インフォームド・コンセントは、徹底して欲しいよな」

「インフォームド・コンセントというのは確か、お医者さんが治療の前に、どんな治療を行うかを患者さんにしっかりと説明しなくてはいけないっていう、道義のことでしたっけ」

「それで正しいよ。俺は今回、オペラ座で新型のセンチカメラの被験者になったんだけどな、俺達の研究室の講師は、俺に事前にたいした説明もなしに、トレーサーを注射した」

「トレーサー?」

「《123I-IMP》。さっき言ったろ。無害な放射性物質」

 理系の学生なら一度聞いただけで、こんな数字とアルファベットの羅列でしかない単語を記憶できるのだろうか……。

「仮にも放射能のある物質をだぜ、教授、俺に、ささっと注射しちまったんだよ。はい、茂上くん、この講義用のレジュメを研究室まで運んでおいてくれる? ってなノリでさ。はい、茂上くん、今日は当番だから、放射性物質を注入させてもらうよ、ってな感じだったよ」

 茂上さんは淡々と、愚痴をこぼす人に特有の、自らと対話するような口調で言う。

「いくらこの《島》が科学者の天国だからって、少し横暴がすぎるよな」

 確かに僕も、沖ノ鳥メガ・フロートの科学には、少々歯止めが効いていないような印象をうけていた。

 テレビをつけていると、どう見てもマッドサイエンティストの暴走にしか見えないような研究成果が、毎日のように報道されている。「人類を絶滅させるウイルスに対抗できるように、とりあえず研究用に、人類を絶滅させられるウイルスを自作してみました」とか、「何の役に立つかはこれから考えるが、とりあえずゴキブリの筋肉に家庭用ゲーム機程度の演算能力をDNAコンピュータとして備えさせ、並列処理でスパコン並のスペックを実現させてみました」とか。教師のいなくなった教室で小学生達が騒いでいるかのような、無法地帯の気配を感じる時は少なくない。

「オペラ座での実験は大変だったんですね」

 と、相づちを打とうとして、僕は思いとどまる。それを言うと、先ほどの僕の「事件のことは訊かない」という断言が嘘になる気がした。ぐっと堪え、仕方がないので、「確かに、この《島》の科学者たちは、やや自由すぎる気はしますね」と口に出した。

「ああ。先週、《島》に来てすぐ、無秩序さは感じた」

「ん? 《島》にいらしたのは、先週なんですか?」

 僕は意外に思う。

「編入生ってことですか……。先週まで普通の高校生をしていたのなら、先ほどのセンチカメラや薬物の知識を、いったい本土のどこで得たんです?」

「ネットと図書館からさ」

 茂上さんが、ふっと口元を緩める。

「オタクだったんだよ。『ブラックジャック』とか『医龍』とか『仁』とか、大好きだったんだ、俺は」

「結構、古い漫画を読むんですね」

 ぜんぶ、たしか、医療漫画のはずだ。

「勇気を出して審査を受けて、願いが叶って《島》への所属が許されて……胸を躍らせてやって来たのに……」

 茂上さんの目が、悲痛そうに歪んだ。

「来てすぐに、今回の事件だよ。あんなことになるなら、《オペラ座》の実験になんて行かなければよかった。あの日だってな、ホールの中で俺は――」

「待ってください」

「ん、どうした」

「あ、いえ」

 僕が、あわてて苦笑し、頬を掻く。

「なんだかこの流れだと、茂上さんが、オペラ座の事件の辛い記憶を話してしまいそうだったので……」

「あ」

 すっかり忘れていたかのように、茂上さんは驚いていた。

「たしかに話しそうになっていたけれど……それをどうして、民科捜の君が止めるんだよ」

「だって、事件の話は聞かないと約束したので……」

「律儀だなあ」

 茂上さんが笑う。

「けど、まあいいや。話すよ、このまま」

「いいんですか?」

「いざ誰かに話したい気分になってみると、どうして今まで話していなかったのか不思議なくらいだ」

 いいんですか? ともう一度確認したい気分だ。喜びと同時に、僕は民科捜への情けなさも感じる。なんだ、普通に会話さえすれば、茂上さんは事件のことを話してくれるじゃないか。いったい、民科捜たちは何をやっていたんだ、と。

 いや、何をやっていたのかは分かっていた。彼らがやっていたのは情報収集だ。会話じゃない。被験者を否応なく見下した、科学技術越しの無機質な実践だ。

 沖ノ鳥メガフロートの人々は、人に向き合うための技術にばかり向き合っているから、人に向き合うことを忘れている。

 茂上さんはぽつぽつと、思い出すままに事件のことを語り出した。

 初めて観たオペラが思ったより楽しかったこと。密かに好意を寄せていた先輩が転落死したこと。その潰れた遺体の顔面の写真を、ショック療法と称して民科捜に見せつけられたこと。頼りにしていた男性の先輩に首を絞められ気絶したこと。目が覚めると病院にいて、看護師から、首を絞めていた先輩が舌を噛み切って自殺していたと知らされたこと。そして、全てのきっかけとなった《能面の男》の登場のこと。

 茂上さんの個人的な被害者との関係を除けば、事件当日の劇場内の様子は、概ね相田さんから貰った資料に一致しているように思えた。ただ、気になった証言が、一つあった。

「光が見えたんだ」

「光?」

「ああ」

 茂上さんが頷く。

「能面の男が手をかざすと、劇場内に閃光が走ったんだよ。ホール全体の光量が調整されたみたいにさ。それからすぐにホールの中が真っ暗になって、避難用の誘導灯だけが光ってて……その後すぐに、先輩たちが石像みたいに動かなくなって……。……そう、そうだ……そのあと、能面の男が、俺たちに光る指を向けて来たんだ。先輩たちが飛び降りたり、掴みかかってきたりしたのは、犯人が俺たちに指の光を向けてきた時だった」

 光を使って、犯人は人々を操作したということか?

 光線をあてて人間を洗脳するなんて技術が、実在するのだろうか。分からない。けれどいずれにせよ、《光》が今回の犯罪に用いられた技術の鍵である可能性は高い。

 僕は、蒼井の仮説を確かめるべく、いくつかの質問をする。つまり、《超音波》の線と、ケミカルな線だ。

「光の他に、妙な音がしたりはしませんでした? あるいは、ガスを吸い込んだりは?」

「ガスはあったな。劇場内の舞台装置から、霧がホールを満たしていて……うん、いや、むしろ、能面の男が手を掲げると同時に霧は晴れていた気がする」

「晴れていた?」

「換気扇か何かが動いていたのかもな」

 うーん、と僕は唸る。《怪人》が用いた技術が《洗脳光線》のようなものだったのだとすれば、霧は光を屈折させてしまうから邪魔になる。霧を晴らしたのは妥当な気がする。

「音は……どうだったかな。犯人が好き勝手やっている間は聞こえなかった。と思う……」

 質問してから気がついたが、集束超音波は、超音波と言うからには、人間の可聴域を越えた音なのだろう。仮に使われていたとしても、茂上さんが音を知覚できているはずはないか。

 しかし、霧はあったのだ。ケミカルな手段がとられた可能性は、どうやらある。

 僕は、ふいに気がつく。

 ケミカル?

 そういえば茂上さんは、なんとかという化学物質を用いて、脳組織に放射性物質を染み込ませる技術について話していた。そして、赤肚小咲さんに曰く、《奇妙な症状》を発症した被害者達の脳には、見たことのないタンパク質が取りついていたという。劇場内を満たしていたガスと、これらの技術と症状は、関係がないだろうか。

「トレーサーの技術を用いて、ニューロンにタンパク質を寄生させられるか、だって?」

 僕の質問に、茂上さんは首を捻った。

「どうだろな。俺の専門は、あくまでマシンの開発であって、化学ではないし……」

「そうですか……」

「ただ、劇場内のガスに化学物質を混入さぜて、脳に届けることは可能だと思うよ。センチカメラのトレーサーは、撮影の対象とする臓器にしっかりと放射性物質が集まるように、臓器ごとに親和性のある薬品を選び分けるんだ。《123I-IMP》は、脳に親和性のある薬物。だから、劇場の噴霧器ヘイズマシンに、同じように脳と親和性のある化学物質を仕込んでおけば、観客達に悟られずに、脳に物質を送ることはできる、はずだよ」

「なるほど……。あ、そういえば、茂上さんは劇場内で、センチカメラのデータをとっていたんですよね?」

「ああ」

「撮れた画像に異常はなかったんですか?」

「なかった」

 茂上さんが、寂しそうに笑む。

「残念ながらね。つまり、俺の脳には、センチグラフィ用のトレーサーを妨害する規模のタンパク質なんて、寄生してないってことだ。というか、もし寄生していたら、君のいう奇妙な症状を俺も発症しているはずじゃないか」

「あ、そうですね」考えれば分かることだった。「すみません」

 《怪人》氏が用いた技術が何かは分からないが、少なくとも、その技術には隙がある。茂上さんに《怪人》の術は効かなかったのだから。

「ところで、茂上さん達がいた席はどこでしたっけ?」

「席? ホールのか?」

「ええ。犯人が光を向けてきた位置を、確認しておきたくて」

「5番ボックス席」茂上さんが言う。「美岡先輩が予約してくれたんだ。観客からみて右側の、一番高い位置にある席だったな」

「えっ」僕は思わず、目を大きくした。

「ん? どうした」

「ああ、いえ、たいしたことではないのですけれど」

 僕は、少しだけ動揺する。

「5番ボックス席は、『オペラ座の怪人』の原作で、登場人物のファントムがいつも予約していた席ですよ。今回の事件の犯人の呼び名と一致していたので、少し驚きました」

「犯人の呼び名……?」

「ええ。資料に、犯人は自らをそう名乗った書かれています」茂上さんなら知っていると思っていたのだが。「どうしかしましたか?」

「いや、ただ忘れていただけだよ。そういえば、名乗っていたな」

 嘘ではなさそうだったが、別の何かに、茂上さんも動揺しているようだった。

「そうか、ファントム、か……」

「驚いているようですけれど、事件について何か思い出したんですか?」

「いや、こっちもたいしたことじゃないんだけれどな」

 茂上さんが苦笑して、頬を掻く。

「放射線医学の現場だと、本番で人体に放射線で害を与えないように、事前の実験では、人体と同じ物理的特性をもった人形が使われるんだ。X線とかガンマ線用の軟組織等価物質であるところの、水とかパラフィンとかアクリル樹脂でできた人形をさ。その人形のことを、学術用語で、《ファントム》っていうんだ」

「つまり」

 僕も思わず、頬が緩むのを感じる。

「つまり今回は、被験者は茂上さんだったわけですから、茂上さんこそが《ファントム》だったわけですね。茂上さんの先輩は、そのジョークのために、5番ボックス席をとったのかもしれません」

 言ってから、僕は、席を予約したという美岡という先輩こそ、茂上さんが恋心を寄せていた人物だったことを思い出す。

 失言だった、かもしれない。

「つまらない冗談だな」と茂上さんは呟いた。

「僕は、好きですけど」

「いや。つまらないし、笑えないよ」

 そう言いつつ、茂上さんは泣きながら笑っていた。

「本当に、これだから理系は」

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