第2話 マクタン・ライフ


   2


 我ながら、良い家に住んでいると思う。


 僕、富野ユタカは帰宅するなり、ラタン製の木編みソファに腰を沈め、頬杖をつきながら我が家のリビングを一望した。

 壁紙と床は白一色で、ファンを備えた天井はセピア色の材木で編んであった。右手をみれば、窓際に飾られた観葉植物がエキゾチックな雰囲気を演出しているし、僕の足元に無造作に転がされている洗濯籠も、バナナリーフを編んだ茶色のバスケットだ。天然素材と手作りのぬくもりが部屋全体に爽やかな温かみを放っていた。

 僕は、床に無残に散乱した洗濯物から、目を逸らした。

 いや、うん。

 まさに南国リゾート風だ。

 壁一面に開けた窓から青々としたフィリピン海を一望できることもあいまって、豪華なセブ島旅行にでも来ているような気分が毎日味わえる。ああ、ご存知だろうか? テレビでよく持ち上げられる《セブ島旅行》だが、実際にリゾートの中心となっているのはセブ島ではなく、マクタン島で――

 …………。

 ……………………。

 この話はこの辺でよそう。

 僕には、やるべきことが、一つできた。

 すっくと立ち上がり、僕は息を吸い込んだ。

 目の前のターゲットに冷ややかな視線を落とし、低く抑えた声で言う。

「…………蒼井、起きてください」

 とっちらかった洗濯物の真ん中だった。巨大なビーズ・ソファにからだを沈めて青色の少女がすやすやと寝息を立てていた。

 蒼井依知華は、肩と鎖骨が剥きだしになった純白のサマードレスを着て、幼稚園児が履くような無地のビーチ・サンダルを脱ぎかけて丸まっている。爽やかなラムネ色の髪を純白のソファに流し、曇りのない乳白色の肌の指先をピンクの唇で咥えるようにしている様は、なんとも愛らしく、ここが本当に南国リゾートなのであれば温かく見守ってやりたいところだが……生憎ここはビジネスの現場だ。

「…………蒼井。僕が依頼人の話を聞きに行っている間に頼んでいた家事は、どうしました?」

「うむ…………」

 蒼井依知華の耳たぶを摘んで声を注ぎ込むと、青髪の少女は眉間に甚だ迷惑そうな皺を溜め、ゆっくりとした速度で瞼を半分だけ持ち上げた。

「いたい……まぶしい……うるさいぞ、ユタ……」

「そうですか、すみません。でも一個だけ答えてください。今日はこの後、このモデルハウスの監査が入るので、部屋を片付けておかなきゃダメだってお願いしていたと思うんですけど、なんで僕が仕事に行く前よりも散らかっているんですか?」

 とても不細工に顔をしかめた寝起きの蒼井が、美少女も台無しに細められた双眸で、自らが横になっているソファの周りに魔法陣がごとく散乱している衣類に視線を流した。

「…………」

「…………」

「……………………」

「………‥…………」

「…………気のせいである」

「あなたのせいでしょうがっ!」

 眼を瞑って伏せった蒼井に、流石の僕も両肩を掴んで激しい剣幕をみせざるを得ない。いよいよ蒼井が言いつけをサボっていたことを確信すると、声を荒げた。

「どうするんですか、この有様っ! クライアントさんが来るまでもう二十分もありませんよ! せっかく今日まで律儀に居住レポート書いてきたのに、自堕落なところを見られたら信用を無くしちゃうじゃないですかっ!」

「知ったことではない」

「僕らの生活に興味を持ってくださいっ!」

 僕らは、いわゆる商品モニターとして、たくさんの新製品の試用実験に参加していた。

 窓際に置いてある南国の団扇にも似たトラベラーズ・パームの観葉植物は、《光触媒観葉植物》という消臭や抗菌の効果のある人工植物のサンプルだし、僕らがいま住んでいるこの家自体も、太陽光と水と空気からメタン燃料を精製できる新型エコ住宅のサンプルだった。

 万年ピンチな我が家の家計を支える、大事なアルバイトなのだ。

「あーもうっ! 朝と昼に食べてくださいってわざわざ作ってあげたサンプル品フルコースも虫除けネットそのまんまですし……っ!」

「必要性がない」

「餓死する気ですかっ! っていうか蒼井、昨日のお昼頃からずっと面倒くさがって何も食べてないですよねっ? ダメ人間を通り越して生物としてアウトですよ!」

 ウッドテーブルに山積みなゼリーやら低量高カロリービスケットやらを焦りとともに眺めてから、僕はソファで両耳を押えて眼を閉じている蒼井に視線を戻した。

「いや、蒼井が勝手に餓死するぶんにはいいですよ別に。でも、このサンプル品をしっかり完食しないと契約不履行になっちゃうんですよ。お金がないと、僕らの研究とか生活がどうなっちゃうか本っ当に分かってるんですか?」

「ぐぅ……」

「……寝ないで手伝ってくださいってば!」

 こめかみで血管的な何かが切れるのを感じ、僕は蒼井依知華の両肩を掴んだ。なかば自棄になってガクガクと前後に揺すると、少女はますます顔をしかめ、ぎろりと僕を睨む。

 次の瞬間、蒼井依知華は、大きく口を開いた。がぶり、と音がしそうなアクションで、あろうことか僕の手に噛みついてきた。

「い……いてててててててっ!?」

「うるはいのである、ゆた」

「ちょ、蒼井、血っ、血が出ますって! 分かった! 分かりましたから、離してくださいっ、こら!」

 ぶんっと腕を振るうと、蒼井は慣性を見事に活かしてソファに沈む。緩衝性に富んだクッションに激突して猶、頭を打って気絶したのではと疑う速度で、既にすやすやと睡眠モードに入っているようだ。

「痛っ……。ああ、もう……白壁くんも白壁くんですよ。蒼井をしっかり見ていてくださいって、僕、言ったじゃないですか」

 壁際にいつの間にか……というか実は最初から屹立していた白壁大典くんを、僕は今更ながら睨みつける。

 白壁くんは、白のカッターシャツを同系色のチノパンに合せた恰好で、南国帳の壁紙にほとんど同化する勢いだった。ラフな服装を着てなお私服のSPにしか見えない白壁くんは、黙したままじっと僕を見すえ返してくる。

「ああ、成程……。しっかり見ていたけど、手伝いはしなかったっていうオチですか……」

 僕は有能な助手にすっかり項垂れ、歯型に赤くなった右手をさすった。

 もういい。

 こうなったら、僕と白壁くんの工作だけで、これから来るクライアントを、どう誤魔化すかに思考をシフトしなくてはなるまい。僕はともかく白壁くんのスペックなら向こう二日ぶんほど余っている食品サンプルは十分で始末できるとして――

「いやぁ、はは」

 と相田刑事が笑った。

「相変わらず、みなさんは仲が良いですねえ」

 僕は、思わず飛び跳ねた。

 電光石火で振り向くと、リビングの入り口に、私服姿の相田刑事が立っていた。「どうも」と挨拶を口にし、ハンチング帽を摘んで持ち上げている。

 えっ、ちょっ、と僕は小さく悲鳴を洩らした。

「相田さん、いつから居たんですかっ?」

「《気のせいである、あなたのせいでしょうがっ!》からですかね。彼に通してもらいました」

 相田刑事は、にこにこと壁際の白壁くんを指差した。

 ぬりかべが如き白壁大典くんは、への字の口を動かすことなく、こくりと首肯する。

 嘘だろ、いつの間に……。

 というか、人を通す時くらい、一言声をかけてくれよと、僕は呆れる。


   ※


 例の事件から、早くも三週間が経っていた。


 推理小説のトリックを応用して現実に挑んだ《エンタメ文学的殺人犯》達は、ごく一般的な科学捜査によって逮捕され、可哀想な犠牲者達は、沖ノ鳥MFが誇る最新式葬儀場で弔われた。

 文系VS理系の様相を呈した事件は、理系のスペシャリストを率いた沖ノ鳥市警の勝利に終わり、ほんの少しの期間、テレビのニュースを賑わせて、収束に向かっていた。

「いやぁ、はは」

 僕らと向かいあう形で木編みソファに座った相田刑事が、いつもの眉を下げた笑顔で、後頭部に手をやりながら言った。

「その節はお世話になりました。お礼が遅れてしまって申し訳ありませんね」

 相田忠義さんは、沖ノ鳥市警に勤める警察官だ。

 年齢は、二十九。

 階級は、警部。

 事件現場での実質的なリーダーであり、《トミノ民科捜》の主要な依頼人の一人である。

 眉にかかるくらいの黒い髪。細い吊り目に、常になにかしらの意味を孕んだ笑みを浮かべている。僕の知る刑事のなかでは群を抜いて威圧感がなく、その物腰の低さは、生徒を叱れない新米の教師を思わせた。

 今日の相田刑事は、いつものスーツ姿とは違って、グレーのハンチング帽に半袖の白シャツ、灰色のジーンズに黒のベストという私服姿だった。

 帽子をとってニコニコと目を細めていることも併せて、全身が、仕事で来たのではないことをアピールしていた。

「お礼なんてとんでもないです。捜査のお手伝いは、僕らの仕事なので」

 結局、白壁大典くんがこれもまた何時の間にかサンプル品のクライアントさんには電話で延期の連絡をしておいてくれたそうで、僕は落ち着いて相田さんの向かいに座り、優雅にハーブティーを啜って応対ができている。

「仕事ねぇ。いやあ、本当に、富野くん達は偉いですよ。若いのに苦労していてね。私が十七の頃なんて、バスケットボールとテレビゲームとガールフレンドしか眼中になかったのに……」

 それはそうだろう、と僕は苦笑した。

 十七歳は十七歳でも、なんといっても僕らは、《沖ノ鳥MFに所属してしまった十七歳》なのだ。

 僕や蒼井が所属している機関は、名を、《沖ノ鳥MF学院》といった。

 七歳から登録できるこの組織は、小・中一貫の義務教育施設であり、かつ高等学校・大学としての顔を持ちつつも、法令上は、単なる教育機関ではない。いわば、巨大すぎる産学合同のベンチャー企業のような存在だ。

 《先端科学特区法》の要――すなわち科学者育成の専門学校であり、かつ、日本を支える新技術の開発局でもある。

 社員である子ども達は《研究生》と呼ばれ、《講師》の学内ライセンスを有する研究者たちから講義をうける。講義が終わった放課後からがむしろ本番で、僕らは各々の研究に従事しなくてはならない。何をどう研究をするかは自由だが、普通の学校と違うのは、研究生は、研究の失敗が続くと、クビになることが有りえることだ。

 この辺の研究事情は、《特区法》の導入以前と大差がない。研究が認められれば、研究者は高額の《科研費》を国税から獲得でき、次なる研究も、日常生活も豊かになる。

 逆に、有用な発明ができなければ、一切のサポートは打ち切られる。

 年に四回ある《委員会》の審査に通らなければ、研究生はそのキャリアを問わず、《島》からの退去を命じられる。

 つまり、僕らは、最先端の闘技場のなかで、終わりなき英知の耐久レースをしているわけである。まあ、リソースは有限なのだ。有用性を示せない者から消えていくのは、仕方がない。

 そして。

 有用性の示し方には、いくつか種類があって。

「それで、今日は、どんなご用件でいらしたんですか?」

 僕は、単刀直入に訊ねた。

 白壁大典くんにおすそ分けされた低量高カロリービスケットを齧りっていた相田刑事は、きょとんと目を丸くした。「え? いやぁ……」と、包み紙をくしゃりと丸め、眉を下げ苦笑する。

「やだなぁ、富野くん。ご用件って。今日は土曜日じゃないですか。遊びに来ただけですよ。ほら、私服で来ていますよ」

「でも、相田さんは仕事人間ですから」

 僕は、相田刑事が小脇に抱えてきたビジネスバッグを指差した。「三度のご飯より、お仕事が好きな人です」

「参ったなぁ」と相田刑事が笑って首を振る。「本当は、久しぶりに格闘ゲームでもしてからにしたかったんですけどね? コンボの練習、結構してきたんですから……」

「すみません」

「いえいえ。でもまぁ、さすが富野くん、話が早い」

 相田刑事は、わくわくとした調子で、細い指を動かしバッグを開けた。本当は、さっさと事件の話をしたかったのだろう。僕にはそれがバレバレだったし、相田刑事だって、僕が相田さんのそういう性格を知っていることに、気がついている。

 ――そう。

 《島》に所属する研究生たちの生きる道は、各々が手にした専門知識を武器にすることだった。

 たとえば、本土の企業と契約をして、開発した最先端技術を売り込んだり。あるいは、《島》内の工務機関に、専門的なアドバイザーとして雇われたり。

 僕ら《トミノ民間科学捜査研究所》は後者だ。《島》で起きた事件に対して、科学技術にまつわる専門的な知識や技術を提供する。あるいは先日のように現場検証を行ったり。捜査に協力をして、お金をもらうのだ。

 《島》の研究生たちの多くは、年齢に関係無く、ほとんど皆が、なにかしらの副業をもっていた。

「仰る通り、実は遊びに来たついでに、ちょっとご意見をいただきたい案件があったんですよ」

「どっちが、ついで、なのやら」

「オペラ座の事件、ニュースでご覧になりました?」

 ああ、と僕は声を洩らす。

 今朝のニュースで、やっていた。

「爆破事件ですよね? 東区にあるオペラ座の、舞台装置を管理する部屋が、簡易爆弾で吹き飛ばされたっていう」

「ええ。表向きには、そうですね」

「表向きには?」随分と格好つけた言い回しだった。

「たしかに舞台機構の管制室が爆破されて、死者も出ているのですけれど――、それよりも警察が問題視しているのは、爆破事件の直前に劇場内で起こった――奇妙な集団暴行事件なんですよねぇ」

 集団暴行事件。

 僕の頭のなかに、そのカテゴリ名が小説か映画のタイトルのように、象徴的に残る。

「暴行事件」

「ええ! それに関して、トミノ民科捜の皆さんにお聞きしたいのですけれど――」

 相田刑事が、わずかに身を乗りだして口角をあげて、こう言った。


「――っ?」


「相田さん」

「はい」

「前々から言っていますけど」僕は、目を細める。「凶悪事件の話をする時に、目をきらきら輝かせるのは不謹慎かと思います」

「おほっと、失礼!」

 相田刑事が、ハンチング帽をかぶって目元を隠した。口元がぷるぷると震えている。「明らかに先端科学が絡んだ事件でしたので、ついねっ。目を隠しますね!」

 隠せば良いという問題ではなかった。

「詳細をお話しますっ」若い警部補は電子タブレットの電源を入れた。「いやぁ、はは。科学雑誌にも載っていない技術が聞けるかもしれないと思うと、わくわくが止まりませんね!」

 目は口ほどに物を言うというが、口の方が先に喋ってしまっては、世話はない。


「えーっと、二日前、六月十九日です」

 と相田刑事は、切り出した。

「時刻は、午後の四時二十一分。東区の《青鷲通り》で、帰宅途中の研究生十数名が、オペラ座からの爆発音に気づいたんです。通報を受けた消防隊が消火をしつつ突入して、数十名の観客が劇場内で既に死亡――あるいは重軽傷を負っているのを発見しました」

「ニュースでやっていた通りですね」

「ここまではね。ただ、観客で死屍累々だった大ホールは、舞台装置の管制室で起こった爆破の被害を、全くと言って良いほど受けていなかったんです」

 僕は、ハーブティーをすする手を止めた。

 相田刑事は、狐面にそっくりな笑顔になり、続ける。

「観客たちの死因は様々でしたが――頭蓋骨の陥没、大量失血、転落死など、いずれも火災や爆破には関係の無いものばかりでした。そして、生存者である研究生がその場で救急隊員に訴えたことによれば、《観客たちは突然、自分達同士で殺し合いだした》とのことです」

「自分たちで……?」

「ええ。そして、同じく生存者の証言によると――、観客たちが互いに暴行を加えだしたのは、公演中のステージに乱入した一人の男が、犯行声明らしき口上を述べた直後であるようなんですね」

 相田刑事が、タブレットを指でスライドさせる。

「詳細は不明ですが、犯人はどうやら、被害者達にマスコミへの伝言を託していたようです。えーっと……あったあった。生存者の証言によると……こんな感じですか。《生き残った者は、速やかにマスコミに警告せよ、特異点は近い。未来世界の《怪人》の出現を、野放しにするな》」

「……未来世界の、怪人?」

「あはっ。犯人は、自分を《怪人》と名乗ったみたいなんですよ。《オペラ座の怪人》ってことですかね?」

 僕は、静かに息を吐く。

 どうしてこの島には、文学作品で下手なジョークを弄するような犯罪者しかいないのだろう。

「……生存者からの事情聴取は済んでいるってことですね?」と僕は言った。「犯人の容姿は分かっているんですか?」

「あー、実は、事情聴取は、まだ完璧には行えていないんですよ」

 相田さんが後頭部を掻きながら、少しだけばつが悪そうに、苦笑した。「生存者のほとんどは、少々、奇妙な症状を訴えていましてね。まともに話が出来たのは、ほんの二、三人だけです」

「奇妙な症状ですか」

「ええ……。まあ、それについては後で資料をお渡ししますよ」

 珍しく、相田さんは少しだけ話を避けるようにした。件の症状は、それだけタブー的なものなのだろうか?

「ともかく、警察が話を出来たのは二、三人です。その証言から、今回の事件がどうも科学技術絡み……つまり、警察よりも民科捜の専門であるようだと思われたので……」

「まともな事情聴取すら、民科捜に丸投げしてしまったってことですか」

いつものことながら、僕は呆れる。

「いやぁ、はは! それが、沖ノ鳥市警のやり方ですので」相田さんが後頭部を掻きながら、また笑った。「でもっ、犯人の容姿については、警察が生存者から聞き出していますよ。えーっと……あったコレだ――。犯人は、身長百八十センチ。声色的に男性。黒ずくめの衣装に、能面をつけていた、とのことですね」

 能面。

 オペラ座の怪人にちなんだつもりだろうか。

 やはり、ふざけている。

「現場に、監視カメラとかはなかったんですか?」

思いつくままに、言ってみる。「劇場内を記録していた映像データとかは?」

「さすが富野くん」

 相田刑事が、ぱちんと指を鳴らす。

「確かに、大ホールには、オペラの模様を後にDVDで販売するための撮影機器がありました。しかし、その映像データは全部、管制室のハードディスクに保存されていたようで……」

「つまり、爆発で吹き飛んじゃったと?」

「そうなんです!」

 相田刑事が嘆かわしげに首を振った。

「さらに言えば事件当時、ホール内では複数の研究チームが、実験のために音声や映像を撮っていたようなんですけどね? いずれも抜かりなく破壊されてしまっていたようでして……」

「犯人は、犯行後もそんなに長く劇場に滞在していたんですか?」僕は意外に思った。「虱潰しにビデオカメラを探して、破壊できるくらいに?」

「ああ、データの類を破壊したのは犯人じゃないんですよ。全て、被害者たちが、自分で壊しているんです。死ぬ前にね」

「自分たちで……?」

「ええ。ですから――」

 相田刑事が、タブレットを愛おしそうに撫でながら、目を細めて言った。

「これは、《人が操られた事件》なんですよ。たぶんね」

 僕は、ちらりと隣に座っている(というか、寝転がっている)蒼井依知華に、視線をやった。

 サマードレス姿でビーズ・ソファに仰向けになり、日焼けをしらない南国の石灰石のような白い生腕で目を隠している蒼井は、しかし一応、眠ってはいないようだった。

「蒼井、どう思います?」

 問うても、答えは帰ってこない。

「ねえ、お願いしますよ蒼井……」

 僕は、懇願するような口調になる。

「今はいい加減に寝ている場合じゃないでしょう。メインの仕事だけはきっちりしないと、本当に研究が滞っちゃいますよ? それは困るでしょう」

 蒼井依知華は、それでも数秒も沈黙し、はあ、と深々溜め息をついてから、ビーズソファの上で瞼をあげた。「ん」と呻くような声を出し、会話をする準備だけはできたという合図を送ってくる。

 まったく、いつもながら人智を超えた無精だ。

「……それで、さっそくなんですけれど」と僕は本題に入ろうとする。「実際のところ、どう思います? いま相田さんが言ったようなことが、現実にありえると思いますか?」

 蒼井は、ほっぺたをソファに沈めたまま、ぼーっと気だるそうな目を、僕に向けてくる。「人間を自由自在に操れるような科学技術が実在するか、か?」

「ええ……」

 改めて言葉にすると、あまりにも現実とSFを勘違いした質問に聞こえる。僕は思わず苦笑してしまった。

「それは勿論」と、蒼井は、あたりまえのように言った。「非常に豊富に存在する」

「そうですよね。非常に…………うん?」

 蒼井依知華が、何ともなさそうに繰り返した。

「非常に豊富に存在する」

 なんだって……?

「おおっ、本当ですか!」

 相田刑事が、にっこりと目を細めて、嬉しそうに手を打った。

 僕は、唖然を通り越して、寒いものを感じる。「嘘ですよね?」

「ユタは何も思いつかないのか?」

「いや、思いつくはずないですよ。そんな、SFと現実の境目を見失ったような技術なんて……」

「またまた、富野くんったら! この《島》に所属している君が、今さら何を言っているんですかぁ」

 相田刑事が、あまりにも楽しそうに僕に指を鳴らした。

「まるでこの《島》がまだ、SFと現実の境目を見失っていないみたいに聞こえますよぅ!」

 本当に、何が楽しいんだろう、この人は……。

「豊富に存在する、というと、語弊があるかもしれない」

 蒼井依知華は、ふうと息をつく。

「正確には、人間を自由自在に操れるほどの――《傀儡の技術》とでもいうべきものは、まだ存在しない」

「ああ、そうなんですか」と僕は、ほっとする。

「だが、いつ完成してもおかしくない状況にある」蒼井が言った。「それが生まれうる環境と、その前身となりうる技術は、揃っているということである」

「ほぅ?」相田刑事が、目を細めた。「詳しく、お聞きしたいですねぇ」

 今まで部屋の隅に侍っていた白壁大典くんが、ずんずんと蒼井依知華に歩み寄った。差し出された彼の手には、純白の縁をしたグラスタイプのヘッドマウント・ディスプレイが乗せられている。

 片眼鏡(モノクル)型デヴァイスを、蒼井依知華は白壁くんの手から、ひょいと取り上げ、右耳に面倒そうに差しこんだ。デヴァイスを起動させてから、蒼井依知華は吐息を漏らし、そして静かに語り出す。

「二〇一三年、ハーバード大学での実験である」

 もしゃ、と彼女の身じろぎに合せてソファがかすかに形を変えた。

「《人間が念じただけで、マウスに尻尾を振らせる装置》が開発された」

 さっそく、SFじみたタイトルが飛び出した。

「そのマシンは、被験者である人間の思考を読み取った瞬間に、マウスの脳内の《尻尾を動かす運動皮質》に刺激を与えるものだった。ここでいう《人間の思考》とは、すなわち器質的な実態、すなわち生態電位の微動である脳波である。従来型の、帽子型の脳波測定装置の応用だ。ハーバード大学によると、このマシンによるマウスの尾の操作は、約95パーセントの精度で成功したそうである」

「ああ……それは、あれでしょうか」と僕は言った。「猿の脳に電極を差し込んで刺激を与えて、指を痙攣させるとか……そういうのと同じ実験ですよね?」

 さすがに僕も、そのくらいの話なら、聞いたことがあった。何処で、誰が行った実験なのかは知らないのだけれど、癲癇の古い治療に、露出させた脳みそに電流を流すものがあることも。小説で読んだことがあった。

「研究の意義が少々、異なる。ハーバード大の研究において画期的だったのは、マウスの脳を刺激するのに、《集束超音波を用いた非侵襲的な経頭蓋照射》が用いられたことなのだ」

「集束……なんですって?」

「《集束超音波を用いた非侵襲的な経頭蓋照射》である」

思わず眉を顰めた僕に、蒼井依知華が、律儀に繰り返してくれる。「《集束超音波(FUS)》と呼ばれる集束させた音響エネルギーを、脳の特定領域に、頭皮の外側から照射する手法だ。元々は、超音波を高密度に集中させることで、摂氏90度の熱で癌細胞を破壊する治療に使われていた術式である。ハーバード大の研究チームは、低パルスの《集束超音波》を用いることによって、マウスの頭蓋を開くことなく、特定の脳組織を、悪影響を残さず刺激することに成功したのだ」

「頭皮の外側から、悪影響を残さず、脳を刺激、ですか」

 耳に慣れない科学技術を聞いた時、過去に視聴した映画や小説から、類似した知識を想起してしまうのは、僕だけではないと思う。

 《人間が念じただけでマウスに尻尾を振らせる装置》の話を聞いて僕が思い浮かべたのは、超能力者がテレパシーによって人間を操る、キャッチ―ではあるが陳腐な、現実離れしたエンターテインメント作品のイメージだった。

「それは……遠隔でも可能なものなんですか?」と僕は訊ねた。「例えば、オペラ座のステージから、数百人の観客を、超音波で操るなんてことが?」

「少なくともハーバード大の実験においては、被検体であるマウスは台座に固定されていた。《集束超音波》の発生装置も、マウスの頭部に密着させて行ったようである」

 ほら、やっぱりじゃないか。

「……その実験の成功をもって、人間の脳を自由自在に操ることが可能だと言うのは、さすがに飛躍だと思いますけれど」

「その通りである」

 思いがけず蒼井依知華が肯定したので、僕は拍子抜けした。

「そもそも、ハーバード大の実験では、マウスの脳の《尻尾を振る運動皮質》という、ごく一部を狙ったにすぎない」

 ふぅ、と気だるげに息を吐いて、蒼井依知華はソファの上で額を天井にむけた。「同様の手法でマウスの全身を操ろうと試みるにも、手を動かすためには《手を動かす皮質》を――、鳴き声を出させるためには《鳴き声を出す皮質》を、それぞれ別個に刺激する必要があるのだ。あまりにも非効率的である。そしてそれ以前に、マウスの全身を自由自在に操作するには、マウスの脳のどの部分が、マウスのどういう運動を司っているのか――マウスの脳の完璧な《回路図》を把握する必要がある。これは、非常に困難なことである」

「じゃあ、やっぱり無理ってことじゃ――」

「しかし」

 と、蒼井依知華が、僕の発言を遮るように、続けた。

「生物の脳の《回路図》を完成させる試みについては、既に開始されていることも事実である」

「え?」

「脳神経系の網羅的な解析――。《コネクトミクス》と呼ばれる、歴とした学術分野である。こちらの研究のターゲットは、マウスは勿論、人間も当然に含まれている。コネクトミクスの研究者たちは、マウスの脳を旋盤と特殊なナイフによって、リンゴの皮むきのように極薄の切片にすることで、収集した画像データからニューロン同士の接続図の3Dモデルを得ようと試みているのだ。同時に、運動時のマウスの脳のニューラル・ネットワークの活動記録と、3Dモデルを、照らしあわせてもいる。この研究によって脳の各箇所がどのような運動を司っているのかが解明されれば、《ヒト・コネクトーム》、すなわち《網羅的神経系回路図》とでも呼ぶべきものが完成することになる」

「ヒト・コネクトーム……」

 不思議な響きの単語だった。

 とても生々しい話をされているにも関わらず、僕が《コネクトーム》という単語にイメージしたのは、煌めく緑や青で精緻な道を刻まれた純白の電子基板だった。材質的な完成度と、出自不明の機能美を、感じた。

「コネクト、オーム。繋がりを示す英単語(コネクト)と、《全》を示す接尾語オーム(ome)を組み合わせた造語である。《コネクトミクス》の《イクス(ics)》とは《学術》を示す接尾語であり、コネクトームを解析する学術分野であるという意味を表している」

 とめどなく、少女は語る。青く輝く髪と、ほのかに発光しかねない白い肌を持つ蒼井依知華の姿は、枯れることを知らない叡智の泉の精霊にも見えた。

「オーム科学――すなわち、あるターゲットの網羅的な究明を掲げた学術分野は、一定数存在している。代謝物質(メタボライト)の網羅的解析を行うメタボロミクス。タンパク質(プロテイン)の網羅的解析を行うプロテオミクス。最も有名なのはゲノムだろう。遺伝子(ジーン)、オームである。ゲノミクスは、二〇〇一年に解析が完了した分野だ。オームという接尾語は、その学術分野が、ある事象の完全解明を目的に据えていることの証なのである」

 完全解明……。

 理系の人間がもつ限度を知らない野心に、僕は、畏怖を孕んだ呆れを覚えずにはいられない。そこまでしないと気が済まないのか、と突っ込みたくなる。

 目的があってこの《島》への所属を決めた僕だって、人のことは言えないのだけれど……。

「ちなみに、コネクトミクスの研究が公式に発表されたのは二〇〇〇年である。その後、現在まで三〇年間、コネクトミクスは世界中の研究機関で研究が推し進められてきた」

「どうなったんですか」

「韓国の研究チームが、人間の脳地図を世界で初めて完成させたと発表した。二〇一三年のことだ」

 嘘だと思いたかった。

 人間の脳の《回路図》。それはつまり、僕らという全存在という意味に、他ならないのではないか。

 生まれた時からの記憶も、人生のなかで感じた想いも、全ては脳のニューロンの接続部に走った電流でしかない。だとするなら、その軌跡の全記録を完全に把握してしまう《コネクトミクス》の技術なら、僕らの人生の全てを白日の元に曝してしまうことすら、可能なのではないか?

 まるで、最後の審判の日に、人の全ての行いを暴く神のように。

 物質でしかない僕らの脳は、コネクトミクスの科学者たちに対して、あまりにも無防備だ。

 人間にとっての最大の個人情報はDNAであるという言説があるが、今の僕には、コネクトームこそ、絶対に他人に明け渡してはいけない究極のプライバシーに感じられた。

「さらに言えば、《集束超音波》によって脳を遠距離から刺激することも、必ずしも不可能とは言えない」

 蒼井依知華が、グラスタイプのディスプレイの奥で、大きな目を細めた。

「パラメトリック・スピーカーという音響システムの開発が進んでいる。指向性スピーカーとも呼ばれる、限定的な範囲内にのみ音を届けるこの技術は、二種類の異なる周波数をもつ超音波を一点で交差させることで、狭い空間に可聴域の音を再生するのだ。この技術を応用し、超音波の交差点で一定以上の高エネルギーが生まれるよう調整をすれば――」

「狙った空間に《集束超音波》を生じさせて、遠距離から脳を刺激することができるかもしれない?」

 僕の呟きを、蒼井依知華は無言を以て肯定した。

「他にも、可能性を列挙すればきりがない」

 蒼井依知華が、鎖骨に流れる自分の青髪を観察するように首を傾げながら、言った。

「薬学的あるいは化学的な手法を用いれば、化学物質によって脳や筋肉を操作することが可能だろう。オーム科学によって人間の身体が網羅的に解析されている可能性を踏まえるなら、あとは回路図を参考に、望んだ事象を身体内に引き起こすためのファクターを選んで投与してやればよいのだ。認知心理学を頼るのであれば、化学物質ではなく五感的な情報を代わりに与えてやれば良い。熱力学、心理学、生理学、電気化学……その他あらゆる技術に同様のことがいえるだろう。人間の構造はたしかに複雑だが、解析は進んでいる。解析をある程度以上終えられたなら、あとは望む事象をおこさせるために、自由にアプローチの方法を選択すれば済むのである」

「それは、流石に妄想の入った考え方かもしれませんよ」

「その通りである」

 蒼井依知華は頷いた。

「そして、そういう妄想を現実にするための《島》に、我々はいるのだ」

 ぐうの音も出ない。

「なんでもできる可能性があるから、なんでも起きた可能性があります」という理論はあまりにも乱暴な気がしたが、そういう横暴な考え方を無視するわけにいかない《島》に、僕らはいるのだ。蒼井の言う通りである。

「以上だ。全て、可能性の話である」

 僕の呆れと不満を見越してか、蒼井依知華は、少しだけ脱力したように吐息を漏らした。グラスタイプのヘッドマウント・ディスプレイを耳から外し、背後へと差し出す。

「本当にそんな技術が生まれたとは限らないし、どんな技術が誕生したのかも分からない」

 また歩み寄ってきた白壁大典くんが、蒼井が無造作に差しだした手からデヴァイスを受けとった。

「どんな技術が使われたのか分からなくちゃ、対策も立てられないじゃないですか」

 なかばムキになって言ってしまった僕に、蒼井は、心底面倒臭そうに顔をしかめると、ソファに顔面を伏せた。

「それを突き止めるのは、私の役目ではない」

 と、くぐもった声。

「ユタは私に、いつも知識提供を任せっぱなしなのだから、それ以外のぜんぶくらいは負担をすべきである。バイトだなんだ、私の知ったことではない」

 僕は嘆息する。

 蒼井の言う通り。彼女はあくまで、知識提供の担当だ。白壁くんは助手。そして、トミノ民科捜の実働担当は、他ならぬ僕なのだった。僕の有用性は、実働だけだ。

「……と、いう感じだそうです。相田さん」

「はーい」

 ソファで脚を組み、満面の笑みを浮かべて太平楽な返事をしてきた相田さんに、僕は思わずむっとする。

「……で、結局、何をしにいらしたんです?」

 なかば、八つ当たりのように、僕は口を尖らせた。「蒼井の科学の衒学を聞きにきただけなんですか? まぁ、今の情報だけで代金を頂けるのでしたら、僕は、それでも構わないのですけれど」

「あれっ!? お金、とるんですか!?」

「勿論頂きますよ。依知華の知識は、トミノ民科捜の大事な商品ですから。これも立派な捜査協力です」

「い、いやぁ、はは……。富野くん、相変わらず金銭には厳しいですね……」

「最初に言いましたが」と僕は笑う。「僕らのこれは、報酬を伴った業務ですから」

 お礼なんてとんでもない。

 報酬まで貰った上に、感謝まで頂くなんて、申し訳なかった。

「ううん、じゃあ、ですねぇ……」

 ちょっとだけ真剣な声色になって、相田刑事は背筋を伸ばした。「じゃあ本当に、ちょっとしたお仕事を、頼ませていただきましょうかね」

 初めからそのつもりだったのではないだろうか、と僕は疑ってしまう。まあ、構わないけれど。

「オペラ座事件の生存者のほとんどは、少々、奇妙な症状を訴えていましてね。まともに話が出来たのは、ほんの二、三人だけです」

「それは、さっきも聞きましたね」

「生存者には、大きく三種類の方がいます。第一に、奇妙な症状のせいで口が利けない方。第二に、奇妙な症状はなく証言をしてくれた方。そして第三に、奇妙な症状はないにも関わらず証言を渋っている少年」

「証言を渋っている、ですか」

「あまり協力的じゃない少年でしてねぇ。現在、青鷲地区の病院に入院しています。そして、警察に対しても多くの民科捜に対しても、困ったことに、黙秘を続けている」

 相田刑事は、揃えた両手を唇に当てて笑んだ。

「富野くんにお願いしたいのは、彼に話を聞いてくることです。急なのですけれど、できれば今日、午後からね。富野くんなら、きっと彼から情報を聞きだせるんじゃないかな、と」

「僕なら、ですか?」

「ええ! 私が思うに、沖ノ鳥メガフロートであの少年の心を開かせられる人間は、富野くんだけですよ!」

 元気に大袈裟に、腕を広げてにっこりと笑んできた相田さんに、僕は訝しいものを感じた。

「……僕は心理学も精神分析学も、メンタルセラピーも修めていませんけど」

「やだなぁ。だからこそじゃないですか」

 相田さんが、ふっと、細い目をさらに細くした。

「分かっているくせに。そこが君の価値なんですよ、富野くんっ」

 ああ、そのことか。

 価値というか、コンプレックス。

 僕の、恥ずべき、他者との差異――。

「……分かりました」

 正直、なにをどうすればいいのかは分からなかったが、僕は引き受けることにした。トミノ民科捜には――僕と蒼井依知華には、金が必要だ。

「引き受けさせて頂きます」

「ありがとうございますっ」

 ハンチング帽を被りながら、相田刑事が笑った。

「少年の入院先を教えますね! いやぁ、はは。今日は本当に、いい休日だ」


 僕らの次の事件は、題するなら《オペラ座の怪人事件》とでもなりそうだ。

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