第1話 エンタメ文学的殺人事件


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「――と、以上の鑑識結果から、生物学的、薬学的、気候変動学的、そして物理学的に、犯人は悦田順平と、浅羽早紀である。話は以上だ」

 蒼井依知華が、相も変わらず、学術論文のように淡々とした口調で、犯行現場の鑑識結果を述べた。

 春。

 五月の末だった。

 光と水分を含んだ空気が、春と夏の香りを鼻孔に運ぶ季節。この《孤島》に来る途中にクルーザー・ヨットから眺めた光景は、三日間も降り続いた雨にすっかり洗われ、静かに凪いでいる透明な海と空だった。

 本格的な梅雨の時期の前に旅行で来られたらよかったのだが、残念なことに、今日、僕らは仕事で、この絶海の《孤島》を訪れている。

 とある洋館で起きたという、連続殺人事件を解決するために。

「ば、馬鹿な……っ!」

 蒼井に名を挙げられた青年、悦田順平が、椅子から立ち上がって叫んだ。「出鱈目を言うんじゃないぞっ!」

「出鱈目ではない。事実を列挙したまでだ」

 蒼井依知華が、グラスタイプのヘッドマウント・ディスプレイを押し上げた。

少女は、サファイアのように青い睫毛に縁どられた双眸で、一同を見渡す。洋館内の食堂には、連続殺人事件に巻き込まれたという《神原気象化学研究室》の面々と、事件解決のために《孤島》を訪れた僕らや警察といった部外者が、集められていた。

 食堂全体には、赤いカーペットが敷かれている。中央には、マホガニー製のダイニング・テーブルが置かれてもいた。季節外れで使われていない暖炉が寂しそうに最奥から成り行きを見守っている大食堂は、いかにも、「名探偵、さてと言い」のミステリーの舞台そのものに見えた。

「そ、そんな推理に、なんの証拠がある!」

 悦田さんが、ちらちらと手元を覗き込みながら喚いた。

「推理?」

 蒼井が、眉ひとつ動かさずに応じる。「今のは推理ではない」

「なんだと……?」

「現場検証の報告である。私の言葉に、一切の憶測は介在していない。証拠はあるのか? という質問にあえて答えようとするなら、『先ほどの私の発言では、証拠しか語られていなかった』となるだろう」

 身長一五〇センチそこそこ。中学生か、下手をすれば小学生に見えかねない小柄な少女が、刑事や事件当事者たちの前で報告を読み上げている様子は、何度見ても場違いに思えてしまう。

 一本一本が光ファイバーのように輝いている《青い髪》を、腰まで流した少女。無塗装のプラスチックのように真っ白な肌、顔、鼻梁に、鉱石じみた青色の睫毛と、瞳を持つ女の子。そんな蒼井依知華の世俗ばなれした容姿もあいまって、非常に非現実的で幻想的な光景が、西洋風の食堂で展開されていた。


 一連の殺人は、三日にわたってこの洋館で行われたという。


 《神原気象化学研究室》のメンバー達は、私的な合宿のために《孤島》に来ていたらしい。

 一日目の朝、この《孤島》を訪れた男女15名は、夕方からひどい豪雨に見舞われた。別に豪雨だからといって、彼らが保有していた最新式のクルーザーは航海が可能だったが、彼ら曰く、犯人によって爆弾で吹き飛ばされてしまったため、脱出は不可能になったとか。切断されるような電話線なんて今時存在しないのだが、洋館のどこかにジャミング・マシンでも仕掛けられたのか、携帯電話もネット回線も通じなくなったため、島外と連絡がとれなかったのだとか。とにかく非常に強引に、無理矢理にクローズド・サークルが作られた。ちなみに、捜査の結果、ジャミング・マシンは、ボイラー室からしっかりと見つかった。

 一日目の夜から殺人が起きた。

 15人のメンバー中、最年長だった研究室長が、浴室で刺殺されたのだ。以後、《孤島》に閉じ込められたメンバー達は、一晩に一人ずつ、正体不明の殺人犯に襲撃され、次々と命を落としていったらしい。

 食堂への籠城が提案されるも、「殺人鬼と一緒の部屋になどいられない!」と宣言した女性メンバーが、自室で何者かに頸動脈を切られて息絶えてしまったり、男性メンバーの一人が、犯人の手がかりを探して館中を歩き回ったものの、溶け崩れたロウソクや、切れたピアノ線などのゴミしか見つけられず、結局、小太りの副研究室長が全裸の遺体としてエントランスに吊るされてしまったり――、とにかく、謎が謎を呼ぶ展開のまま、殺人は繰り返されたそうだ。

 そして、四日目の今日。合宿期間が終わっても連絡のつかないメンバー達を心配した《研究室》の顧問講師・神原光明が、クルーザーで《孤島》を訪れた。ついに、事件は発覚。かくして、神原からの通報を受けた警察と、警察から応援の要請をうけた僕らが、捜査のために《孤島》を訪れたわけだ。

 生き残った12人のチームワークは抜群だった。洋館の間取りや、犯行当時の各人物の居場所をわざわざ図に書いて、パワー・ポイントでスクリーンに映して解説してくれたあたりは、いかにも理系らしいと言えなくもなかった。

 事件は一見、たしかに、「迷宮入り」の称号を頂いてもおかしくないほどの複雑さを呈していたのだが――

「い、いろんな謎やトリックに、お前はまだ一言も触れていないじゃないか!」

 悦田順平が、蒼井に人差し指をつきだし、ヒステリックに唾を飛ばした。「館を巡るだけ巡って、ドアや手すりを耳かきで叩くだけ叩いて……それだけで、『犯人はお前だ』、だとっ!?」

「耳かきではない。アルミニウム粉末法に用いる、磁気性刷毛だ。高級品である」

「事件を最初から振り返るでもなく……俺たちに一人ずつ当時の状況を質問していくでもなく……? 『部屋から指紋が出た』、『薬品の反応があった』というだけで……それだけで本当に、名探偵の役目を、果たしたつもりか貴様ぁ!?」

「我々は探偵ではない」

 蒼井が、断じた。「我々は、ただ、相田刑事から依頼を受けて馳せ参じただけの、民間の科学捜査研究所員である」

「で、でも、待ってよ……っ!」

 ダイニング・テーブルの一席に律儀に座っていた一人の女性メンバーが、血相を変えて立ち上がった。

 蒼井依知華に名指しで「犯人」と呼ばれてしまった若い女性、浅羽早紀だった。

「私と悦田くんにはアリバイがあるわ! 第三の事件の発生当時……副研究室長が殺された時、悦田くんは、私と一緒にいたもの! キッチンに飲み物を取りにいって、冷蔵庫の前で偶然に出会って……時計を確認したから間違いないわ! 三日目の夜七時十三分に、悦田くんに犯行は不可能よ!」

「証拠はあるか?」

「えっ」

 浅羽早紀が、絶句した。

「証拠である」

 無垢に輝く青い瞳を浅羽に向けて、蒼井が、淡々と言った。「お前と悦田順平が、五月二十九日の午後七時十三分にキッチンにいたという、客観的な証拠はあるか?」

 《神原気象化学研究室》の面々は、一様に、ぽかんとした表情をしていた。

「お前が時計の見間違いをしていないこと、また、今のお前の発言が虚偽でないことを証明する物的証拠があるなら、我々が検証を加える余地はある。そもそも、お前達二人は、現在、容疑者なのだ」

「証拠、証拠と……お前なぁ……!」

 悦田順平が、長い癖毛をぐしゃぐしゃを掻き回す。まるで台本をカンニングする大根役者のように、手元に、ちらちらと視線を落としている。「執拗に証拠を求めるのは、探偵じゃなくて、犯人サイドの役目だろうがぁ……!」

「あ、怪しいのは、真島くんよ……っ!」

 浅羽早紀が、狐目をわなわなと震わせて、歪な笑みを浮かべた。「第二の事件の後、真島くんは、こう言っていたわ! 『ええっ、早野沢さんが殺されただってぇ? 首をカッターで掻き切られて……!? 嘘だぁっ!』ってね!」

 まるでドラマで回想シーンでも流すかのように、浅羽早紀は真島さんの口調を真似ていた。名指しされた真島孝之助さんは、席についたまま、びくりと肩を跳ねさせる。

「あの時は、第一発見者の岡村さんが、私達に早野沢さんの死を伝えたばかりだったのよ!」

 浅羽さんが捲したてた。「真島くんは、まだ早野沢さんの遺体を見てすらいなかったのに、どうして犯行に使われた凶器が『カッター』だって知っていたの!? 真島くんが犯人だからでしょ! どうよ、鑑識さん! 真島くんの発言は、彼の自白みたいなものじゃない! これについては、どう言い逃れる気!?」

「証拠はあるか?」と蒼井は言った。

「えぇー……?」

 浅羽早紀が、泣きそうに絶句する。

「真島孝之助が、カッターという単語を偶然口にしたのではないこと、あるいは、真島孝之助が、問題の発言の前に誰かからカッターという単語を全く耳にしていないこと、また、今のお前の発言が虚偽でないことを証明する物的証拠があるなら――」

「埒があかない!」

 悦田順平が、テーブルを激しく叩いて一同を驚かせた。

「真面目にやれよっ! 手順を踏めっ! まだトリックは解明されていないだろ!? 第二の事件があった二日目の夜に、メンバー全員がエントランスの大窓から見た4mの巨人の謎は!? 第三の事件で副研究室長を殺すことになる犯人が、当日参加の余所者でしかない浅羽の姉貴をわざわざ襲撃した動機は!? 事件の、全てを、解決しろよっ!」

「事件の解決は、我々の仕事ではない」

 蒼井の表情は、揺るがない。

「真実の解明も同様である。我々の仕事は、ただ、現場に残された科学的な証拠を可視化し、情報化し、警察機関に提出することだけである。以上だ」

「え、いやいや! ちょっと待てって!」

 蒼井は、腰まで伸ばした青い髪を翻し、くるりと悦田たちに背を向けた。馴染みの刑事に向き直り、てくてくと歩み寄る。ずいっと手を出して、青髪の少女は、相田刑事を見上げて言った。

「相田。検知結果の提出は終えた。仕事内容に不備はないと思われるが、どうだ?」

 市警の若手刑事である相田さんが、苦笑を浮かべながら後頭部を掻いた。

「えっ、はぁ……そうですねぇ。……不備はないです、確かに」

「では、報酬を払え」

「えっ? 今ですかっ? こんなタイミングで?」

「その通りだ」と蒼井は頷く。「口座へ振り込む面倒は、不要である。金を貰えば、私の仕事は完了となる。早く帰りたいのだ」

「はぁ」と相田さんは、眉をさらに八の字にして、苦い笑みを漏らした。

「はは……分かりました。お疲れ様です、蒼井さん」

 蒼井が、相田さんから報酬の入った茶封筒を受け取った。指で中を確認する。

「たしかに」

 と蒼井は頷いて、封筒を、肩に下げたショルダー・ポーチに仕舞った。蒼井はくるりと身を翻して、とことこと食堂の出口に歩きだしてしまった。

「おい! 待てよ! ちゃんと最後までやれっ!」

 悦田さんが、テーブルに身を乗りだして絶叫する。汗だくの顔を、今度は僕に向けてきた。

「お前も何か言えよ! 名探偵だろ!?」

「あっ、いえ。僕らは探偵じゃないんです」

 蒼井と同じ否定を、僕も手を振りながら言った。

「僕らは、ただの民科捜なので。アリバイとか、真犯人の特定とか、そういうのは警察署で、刑事さん達に話してもらえると助かります」

 悦田さんの目が、きょろきょろと、僕と手元を往復する。慌てに慌てた容疑者の青年は、僕の背後に立つ白壁大典くんに、指を向けた。

「お、お前はどうなんだ……っ! 何か言えよっ!」

 《トミノ民間科学捜査研究所》の助手である白壁大典くんは、無言のまま、静かに目を閉じ、首を横に振った。

 無愛想なリアクションも、白壁くんがすると、容姿が良いぶん、なかなか様になる。

 身長一九五センチ、体重八六キロという筋骨隆々の巨体に、眉間に皺を寄せた彫の深い顔を持つ白壁くんは、肉体派のハリウッド俳優のような迫力を持っている。常に寡黙なまま、僕や蒼井と同じ白衣に包まれた彼の姿には、膂力と知性の混じり合った、有無をいわせぬ説得力があるのだった。

 白壁くんのボディ・ランゲージに押し潰されるようにして、食堂に静寂が訪れた。今がチャンスだ。

「……というか、」と僕は言った。

「こんな《孤島》に施設を持ってるってことは、悦田さん達だって、《島》の科学者さんなんですよね?」

 せっかくなので、沈黙に乗じて、僕は悦田さん達に、言いたかったことを言うことにした。

「だったら分かるでしょう? いくら豪雨で《孤島》にメンバーを閉じ込めたからといって、今時クローズド・サークルなんかで科学捜査を欺けるわけがないじゃないですか」

「それは、」と悦田さんが視線を手元に落とす。「言わない約束で……」

「約束で、じゃありませんって」

 僕は少しだけ悲しい気持ちで指摘した。

「その手元のミステリー小説をいくら読んでも、解決策は書いていませんよ」

 悦田さんが、顎を落として顔を上げた。彼の手から、とある古典ミステリー小説の文庫本が、ぱさりと床に落ちる。

「小説を参考にして今回の殺人を企画したんですか? もしかして、小説の犯人が名探偵に負けた理由を分析して、それを避けるようにして犯行を行ったとか? きっと、そうですよね。だって、僕もその小説、大好きなんです。館で起きた出来事は、小説の内容に似ているなと思いましたよ。小説の通りの証拠は出ませんでしたけど。たとえば、小説で犯人は――」

「ユタ。先に船に戻るぞ」

 食堂の扉によりかかりながら、蒼井が声を飛ばしてくる。

「眠いのである」

「……ちょっと待ってください」

 またこのパターンだ。

 僕は溜め息をつく。

「……ネタバレをしたくないので、僕も追及はやめます」

 仕方のない妥協だった。

「本当は、僕は、悦田さん達がどうして殺人なんてしたのか、どういうトリックを使ったのか、問い詰めたい気持ちでいっぱいなんですよ。でも、僕らの仕事は、あくまで現場の科学的な調査だけなので」

 申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 犯人たちの工夫に舌を巻いてやることも、人間としての葛藤を理解してやることも、犠牲者たちの尊厳を守ることも、僕らの仕事ではない。

「すみません、相田さん」

 僕は刑事に向き直り、ぺこりと一礼した。「蒼井が戻りたいそうなので、僕らは先に《島》に戻ります。悦田さん達のことはお任せしてもいいですか?」

「いやぁ、はは。やだなぁ、お任せしてもーだなんて。犯人の逮捕は、私たちのそもそもの仕事ですよ」

 相田さんは、今日はずっと苦笑を浮かべている。後頭部を掻きながら、最後は苦みを消して、にっこりと手を振ってくれた。「分かりました。先に戻ってくれて結構です。富野くんも、お疲れ様でした」

 僕は、助手の白壁くんと一緒に、足元に置いていた十五キログラムのアルミケースを、一人一つずつベルトを肩にかけて持った。科学捜査に使う諸々の道具の入った箱だ。

 悦田さん達と、相田さん達に一礼して、食堂の出口へと向かう。

「……ど、どうなってるんだ。浅羽ぁ」

 共犯者の浅羽早紀と共に手錠をかけられながら、悦田順平さんが項垂れていた。「小説の通りに、進まなかったじゃないかぁ」

 当たり前だ。と僕は呆れる。

 ここは現実。リアルが創作の通りに、いく筈がない。

 それに何より、僕らの《島》は、理系の領域なのだ。

 文学に勝ち目はなかった。残念なことに。


   ※


 粘性を感じさせるほどに青い海を、僕らを乗せたクルーザーが、白い波しぶきを立てながら進んでいる。

 《島》が生んだ最新鋭のクルーザー・ヨット《See-Gull(シー・グル)》の純白の船体には、帆も、矢尻のように尖った船首も、船らしい外観は一切、存在していない。光沢を帯びた丸っこい船体は、浮上した潜水艦のようでもあり、鯨のアンドロイドのようでもあり、海を走る新幹線のようでもあった。

 新幹線のノーズ部分にあたる場所に、《See-Gull》のデッキがあった。チーク材の床に立ち、手すりにつかまり、風にあたっていると、茶番のような殺人事件で滅入った心が少しだけ晴れてくる。

「んー……っ」

 白雲の浮かぶ澄んだ昼下がりの青空に目を細め、鬱屈した気分を吐きだすように、僕は、思いっきり背伸びをした。

「おう。お疲れかい、ぼっちゃん」

 声に振り向くと、新幹線の運転席にあたる部分――サングラスじみたメタリックな操縦席から、色黒の壮年男性が出てきていた。《See-Gull》の船長、石黒国武さんだ。

「あれ? 運転は大丈夫なんですか?」

「なに。自動運転だもんよ」

 石黒さんは、ニッと白い歯を剥いて笑ってくる。

「なるほど」

 さすがは最高級技術(ハイエンド)だ。

「本当に、今日はありがとうございました」と僕は頭を下げた。「《孤島》に行くためだけに、こんな立派な船を出していただいて」

「はん。あらたまった礼なんてよせやい。俺こそ、コイツの自慢に付き合ってもらって感謝してんだもんよ」

 豪快に言い切った気の良い壮年の船長は、まさに《海の男》といった風貌をしていた。日焼けした二の腕は、枝豆のようにぼこぼこと隆起しており、刈り込まれた黒髪も、潮風に似合う。タンクトップにショートパンツを着た今の姿なら、「俺ぁ、休日は、趣味でカジキマグロを突いているんだけどよ」と言われても、誰も違和感は覚えないだろう。

 だが、実際のところ石黒さんは、長崎に本社を置く上場企業猿尾興業株式会社のベテラン社員であり、社内ベンチャー《沖ノ鳥MF先端造船所》の責任者だというから、相当なエリートだ。さらには自身も現役のエンジニアであり、船舶工学の専門家であるというから、非常なインテリでもある。

「しかしよぉ、さすがにあの日、突然ぼっちゃんから電話がきた時にはびっくりしたぜ。『《孤島》に行きたいから一番良い船を、運転手ごと貸せ』だなんてよ。勝手なお願いもいいとこだ」

 本当だよ、と僕も内心で、過去の僕自身に呆れる。

 蒼井に言われるがまま、言われた通りのセリフで電話をかけてみたら、一瞬にして険悪なムードになって、僕だって愕然としたのだ。

 ここ最近、依頼への成功が三回も続いていたせいで、蒼井を信じすぎていたらしい。なにが、「理論上、無礼を働いても許されると思われる」だ。誰に思われたのだ、蒼井は。

「……いや、まあ、従った僕も僕ですけどね……」

「なに?」

「あ、いえ」僕は、無理やり笑みをつくって、誤魔化す。

 結果として、電話先のリーダーだった石黒さんが、たまたま少年少女に寛容だったから助かったのだ。

 蒼井に言われた通り、「あっ、あの、先日、科学誌の『Isaac(アイザック)』で、おたくの研究室が製作した《See-Gull》の記事を読みまして」と切り出し、「非常に興味をそそられ、もしよろしければ一度、実物を見学したく思ったんですけれども」と話を繋げ、「あ、偶然にも、今度の休みに、絶海の孤島の別荘で起きた連続殺人事件を解決しにいくことになったのですが、よろしければ一緒にいかがですか?」と提案をしたら、「お前、面白い奴だなあ」と気に入られてしまったのだ。「俺は、好奇心旺盛で遠慮を知らない子どもが大好きなんだ」と。

 どういう展開だ。

「まァよ、これも何かの縁だ」

 石黒さんが笑いかけてくる。

「またコイツに乗りたくなったらいつでも言えや。暇さえありゃ、一泊二日で《島》をぐるっと一周してやっからよ」

「ありがとうございます」

「それにしても、なんだかなぁ?」

 石黒さんが、はじめて微かに不満そうな表情になった。

「せっかく最高級のクルージングだってのに、ぼっちゃん以外は、あんまり海を楽しんでる感じじゃねぇなあ」

 石黒さんの険しい目が、僕の傍らにいる蒼井依知華に向いていた。

 蒼井は、目を閉じ、すやすやと寝息を立てていた。しかも、わざわざ自宅から持参した巨大なビーズ・ソファに沈んでいる。胎児のように丸まり、柔軟な丸いソファを楕円に潰している蒼井依知華の姿は、純白の藁に産み落とされた、青い卵のようだった。

 この少女は、本当に眠るのが大好きだ。

 せっかくの航海にも全く興味がないかのように……いや、蒼井の事だから実際にそうなのだろうが、すっかり熟睡していた。

 一方で、助手の白壁大典くんもまた、海を眺めるでもなく、風を楽しむでもなく、手を後ろに組んで、じっと無表情のまま僕と蒼井の方を向いて屹立していた。まるで、それが助手の役目だと言わんばかりだ。

 寡黙な大男がこちらを監視しているというのに、白壁くんの目は、いつもどこか、人を単なる「情報の出所」として事務的に見ているような雰囲気があるため、僕は、彼の視線が大して気にならない。白壁くんの名字の通り、まさに、ただの壁が、デッキの一角に生えているかのような印象だった。

 いつもなら、《なんでもできるマッチョ助手》である白壁くんがクルーザーの運転もしてくれているところだが、今回は石黒さんがいるおかげで、彼も自由の身だ。もっとくつろいでもいいはずなのに、白壁くんは、ガードマン的な姿勢を全く崩していなかった。

「すみません。こういう人たちなんです」

「ふん。まあいいさ」

 石黒さんは気を悪くした風でもなく、真っ白なタバコを口に咥えた。と思ったら、ライターも出していないうちから、ふーっと口の端から煙が噴き出る。どうやら、電子タバコのようだ。

「《島》までは、あと十分で着くぜ。わざとゆっくり走らせてんだ。今のうちに、風も波しぶきも存分に楽しんどけよ」

 眉間に皺の寄った彫の深い顔の目を細め、石黒さんは海の彼方を睨んで、ふっと頬を緩ませた。

「つっても、《島》に着いたって、所詮は東西南北ぜんぶ海に囲まれてんだけどな。がははは」

 微笑みを返し、髪を撫でる潮風を心地よく感じながら、僕も海の彼方へ目を向ける。

 青い水平線の彼方、白む晴天との境界には、空色に霞んだ巨大な《島》が、既に威容を現していた。


   ※


 広大な青天と、無限に広がる海が、底抜けの解放感を与える、青と白の世界。

 太陽が波を輝かせ、潮風だけが、誰に聞かれるともなく吹き抜けている。

 そんなフィリピン海の一か所に、僕らの巨大な《島》は浮いている。


《沖ノ鳥メガフロート・シティ》。


 それが、僕らの住む人工島の名前だ。


 セミ・サブマリン式の巨大人工浮島(メガフロート)は、空から見下ろせば、洋上に浮かぶ純白の皿に見えるだろう。島中の建造物の屋根に太陽光発電パネルが敷かれ、それが日をうけて輝いている。緑化と称して木々も植えられている。機能美の集合体だ。

 沖ノ鳥島に大規模な人工島を建設しようとする計画は、実は、人類が二十一世紀を迎える前から進行していた。

 排他的経済水域の確保はもちろんのこと、宇宙ロケット発射基地やメタンハイドレードの採掘場として、沖ノ鳥島の立地は最高に魅力的だったのだ。日本で最も低い緯度にある沖ノ鳥島なら、地球の自転遠心力を最大限に享受して宇宙ロケットを発射できるし、海洋資源に期待された沖ノ鳥島が、《宝島》とまで呼ばれだしたのも、決して最近の話ではない。

 それにも関わらず、今まで政府や民間企業がメガフロートを建設せず、せいぜい防波堤を築いたり、チタン製防護ネットで岩礁を覆ったりする程度で満足していたのには、理由があった。

「つまんねーんだもんよ」

 と石黒さんが豪快に笑って、メガフロート建設における船舶科学者の視点から教えてくれた。

「メガフロートなんて名前で呼べば、なんかスター・ウォーズにでも登場しそうで恰好いいけどよ? 要は、ただの鉄の浮き箱だろコレ。業者にしてみりゃ、手間だけかかって大した技術のアピールにもならねぇんだよな。最初は、ぜんぜんモチベーションが上がらなかったワケよ。だから誰も、ちょっとやそっとの報酬じゃ手を上げなかったし、金を払わなかったんだ」

 そんな沖ノ鳥メガフロートの構想は、西暦二〇三〇年現在、日本の理系事情と結びついて現実のものとなっていた。

 きっかけは、何だったろう。

 一人の天才科学者の世紀の大発明が原因だった、とでも言えば、SF的なロマンを感じてもらえるだろうか。

 二〇〇〇年代に入った当初から、世界の人々は、地球のエネルギー資源の枯渇を真剣に危惧するようになっていた。

 世間の人々は、一九世紀は《石炭》の時代であり、二〇世紀は《石油》の時代、そして来たる二十一世紀は《再生可能エネルギー》の時代になると楽観的に予想していたが、それは全くナンセンスな誤解だった。

 実際のところ、一九世紀の産業革命後の世界を支えたのは、依然として薪や炭、藁を燃やして得られるエネルギーだった。一泊二日のキャンプで民間人が焚き木をするのと大差ない技術で、世界のエネルギーの八十五パーセントがカバーされていたのだ。

 女子供が炭鉱で必死に黒い石を運搬している様子が、教科書ですら紹介されるが、実際は、一八九〇年になってからも石炭は、世界の需要の五〇パーセントを占めるにすぎなかった。

 その後、二十世紀の最大のエネルギー源として、やっと石炭が活躍するようになる。世界大戦で戦闘機が飛ぶようになってからも、機械化の浸透のせいで世界中がエネルギーに餓えていたため、依然として石炭が使われていたのだ。石油は、一九一〇年にはまだ世界のエネルギー源の五パーセントを占めるに過ぎず、やっと五十パーセントの割合を占める頃には、五十年以上の年月が経過していた。

 逆に言えば、人の半生を奪うほどの時間を、エネルギー源の移行に費やすだけの余裕があったのだ。

 しかし、現代は違う。

 発展途上国の急速な都市化により、地球のエネルギー需要は増え続けている。それにも関わらず、やっと世界を担えるようになった石油・化石燃料の埋蔵量は、残り五十年分を切ってしまっていた。挙句の果てに、二〇一〇年代に入ってからも、再生可能エネルギーへのパラダイム転換は全くと言っていいほど進んでいなかった。

 当然だ。二〇一〇年代に世界で消費されているエネルギーの総量は、世界が科学への讃美で溢れた一九世紀の、二十倍だった。4.50×10の二十乗ジュールものエネルギーを、風力や太陽エネルギーといった不安定な再生可能エネルギー源で生み出すには神の協力があっても足りない。風はいつも吹くわけではないし、太陽を遮る一片の雲が、世界をフリーズさせる要因になってはいけないのだ。

 再生可能エネルギーで世界をリードしていたドイツでさえ、国内のエネルギーの五〇パーセントを風と日光で補える時こそあれ、まったく収穫ゼロな日もあった。

需要の少ない時に風力と太陽で発電した電気を大量に蓄え、ピーク需要時に自由自在に使える安価な方法でもない限り、世界文明の危機は、目前に迫っていると言えた。まさに現在、社会で生きている自分達の世代のうちに、世界から電気や冷暖房が失われる可能性があったのだ。 

 ――勘のいい人には、もうお分かりいただけたかもしれない。

 そう。

 今から八年前、日本のとあるベンチャー企業モダン・デポジット社の研究員が成しとげたのは、再生可能エネルギーの分野で、世界を次世代に移行される発明だった。

 《オーシャン》と命名されたその次世代電池は、まさに《需要の少ない時に風力と太陽で発電した電気を大量に蓄え、ピーク需要時に自由自在に使える安価な方法》に他ならなかった。

 ロータリー式採掘法の発明が、石油の時代の到来を決定的にしたように、《オーシャン》は世界中から注目を浴び、莫大な利益をあげた。希望的観測でしかなかった《再生可能エネルギー》の時代が、ついに現実味を帯びたのだ。

 良かった。

 ここまでは良かったのだ。

 『世界を救った科学者の物語』だった筈の《オーシャン》を巡る話は、この後、ごく自然な流れで、《一人の天才科学者と大企業の戦争の物語》に転落してしまった。

 全世界で千億円以上の利益をあげた《モダン・デポジット社》は、《オーシャン》の特許を科学者に認めなかったのだ。

 十年もの年月を最先端技術(フォアフロント)の開発に捧げた科学者が手にできた報酬は、会社の全利益の1パーセントにも満たない金額だった。

 当然、科学者は企業を訴えた。話が違う。十年間、家族も趣味も捨て、研究に命を捧げた結果が、宝くじの一等と大差ない報酬とはどういうことだ、と。

 単なる金の問題ではなかった。特許の帰属が認められないということは、多くの科学者にとって、我が子を奪われるにも似た屈辱と痛みを伴うことだった。血と汗の結晶を、まったくの他人が、自らの手柄として主張してしまうのだ。

 恐ろしいことが起きた。

 判決は企業の味方をしたのだ。一審、控訴審ともに、裁判所は《オーシャン》開発に対する科学者の貢献度を四十パーセント以下と断じた。

 どう考えても、企業の息がかかった判決だった。

 さらなる上告は無駄だと、誰もが確信した。科学者は、研究人生の残り時間を司法に人質にとられるかたちで、和解勧告を受けいれた。

 《オーシャン裁判》の余波は大きかった。この事件をきっかけに、日本中の科学者が、いっせいに日本という国を見限りだしたのだ。

 《オーシャン》開発者への同情だけが、原因ではなかった。

 元々、日本のシステムは科学者を冷遇しすぎていたのだ。

 かつて、とあるファイル共有ソフトの開発を巡って、開発者が逮捕された事件があった。『ゲームソフトの違法ダウンロード蔓延の幇助』が罪状だったが、その理屈で言えば、ひき逃げ事件が起きた際には、高速道路を作った国交省大臣を逮捕しなくてはいけなくなる。結局、開発者には無罪判決が下ったが、裁判所と検察がその結論に至るまで、多数の科学者たちが最高裁判所まで争うことになった。膨大な時間と金を費やして行われた裁判の成果は、後のP2P(ピア・トゥー・ピア)ソフト開発者たちを、強烈に委縮させることだけだった。

 光ファイバー通信の可能性を世界で最初に提案した日本人科学者の意見を、日本の特許庁は「意味がよくわからない」という理由だけで不受理にした。結果として、米国の企業が先に国際特許を所得したため、日本の光ファイバーが世界で第一シェアを獲得することは未だに叶っていない。

 日本政府は焦った。

 科学技術こそが国の価値を決める時代に、国内の科学者たちが、急速に国外へ流出しだしたのだ。国内に残った科学者たちも、モチベーションを枯渇させていた。研究に汗水を流しても、富の面でも名誉の面でも報われないのでは、無理もなかった。

大学を卒業した学生たちは、《工業》という単語を企業名に見ただけで条件反射的に就職活動の対象から外すようになっていたし、大学の研究職すら、「待遇の悪い仕事」というイメージを持たれてしまっていた。

 《科学立国日本》というフレーズも、にわかに滑稽味を帯びていった。

 そして、である。

 追い詰められた政府が、対策として打ち出したのが、『先端科学特区法』政策だった。

 かねてから地理的な重要性が指摘されていた沖ノ鳥島に、超規模な人工島を建設。ありとあらゆる科学の実験施設を設け、研究職を志望する者たちに膨大な支援を行う制度だった。

 支援のなかには科学者の育成カリキュラムも含まれており、七歳から入学できる《沖ノ鳥MF学園》では、研究者になるための専門的な講座を、ほとんど無料に近い学費で受けることができた。若く優秀な科学者を大量に輩出し、研究人生にいたるまで徹底的に支援することで、日本の科学力を回復させることが狙いというわけだ。

 かくして、実験都市沖ノ鳥メガフロート・シティは完成した。科学の島は、天才科学者による奇跡の発明ではなく、それを評価できなかった日本の反省から生まれたのだ。

 僕――富野ユタカや、蒼井依知華は、《島》に住む研究員。

 そして白壁大典くんは万能のスタッフというわけである。


 どう思われただろうか。

 《沖ノ鳥メガフロート》成立には、科学のロマンのかけらもない、金と国際情勢、そして企業の既得権益の問題が絡んだ複雑な事情が、背景にあったわけだ。


 でもまあ、僕らは普段の生活に、さほど息苦しさは感じていない。

 《オーシャン事件》はとっくに過去の話だし、《島》は、なにも堅苦しいばかりの場所ではないのだ。

 市街地には、けっこう美味しいラーメン屋やスイーツ店もある。近所で最近産まれたシベリアン・ハスキーの子犬も、とてもかわいい。

 僕と蒼井と白壁くんは、そこそこ楽しい毎日を過ごしている。

 海も綺麗で、気持ちがいいのだ。


   ※


 波の音で、目が覚めた。

 どうやら、蒼井のビーズ・ソファに凭れるうち、僕も少し、うとうとしていたらしい。

僕らの《島》が近づいてきたようだ。

そろそろ蒼井依知華を起こさなくてはいけないなと、僕は、大きく背伸びをした。



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