衒学嫌いとオペラ座の怪人

水谷 文史

プロローグ オペラ座の怪人


   0


「だぁっ……、あ、うぉ、で、どぉぉああ……。ん、んん。あーっ、あー、テス、テス。……よォし」

 暗い空間に響いた声は、中年の男のものだった。

「こんにちは。お疲れ様。初めましてだ、オーディエンス。さてと? まぁ、まずは名乗っておくべきだろうな?」

 声質に似合わない、どこか軽い口調だった。

 声の主が、舞台を照らす仄明かりの下へ歩み出る。ぼんやりとスポットライト状に広がった光に照らされた男は、漆黒のローブで頭から爪先までを覆っていた。中世の呪術師か何かのような、そんな出で立ち。

「オレの名は――、そう、さっき決めてきたぜ……《怪人(ファントム)》だ」

 ざらざらと掠れた声で《怪人(ファントム)》と名乗った男は、両手で掴んでフードを外した。暗がりから現れた顔は、このオペラ座には不釣り合いな《能面》に覆われていた。

「ははっ。そりゃそうだろ? なんたって、こんなナリで、こんなオペラ座に登場しくさったんだからな。ははははは!」

 両手を広げて、男は笑う。その笑い声だけが、オペラ座に虚しく響く。

 オペラ座。

 パリのガルニエ宮を模して第2帝政式(スゴンタンピール)を採用したホールは、模造建築とはいえ、生と死の吐息を感じさせるような神秘に満ちていた。かつて、殿堂のどこかに潜む《怪人》の存在をパリの人々に信じさせたオペラ座の魔力を、《この島》は電卓と定規だけを用いて再現してしまっていた。

 不運にもこの場に居合わせた、茂上(もがみ)藤一郎(とういちろう)という学生の視点から、一連の事件は、語り始められる。

 沖ノ鳥MF学院の《音響医学研究室》の若き研究生たちは、最年少の十八歳である茂上藤一郎を被験者にして、超小型の陽電子断層撮影(PET)カメラの試験を行っていた。席についた茂上の頭部を背後から覆っているパーマ・マシンのような灰白色の装置がそれだ。

 いくら研究のためだからといって、まともな許可も無しに、生徒に陽電子(ポジトロン)マーカーを注射するのはいかがなものか。

 大脳にPETカメラ用のマーカーを送り込んだ際の注射痕を撫でながら、茂上は嘆息する。放っておけば二十二時間で分解される放射性同位元素標識に危険がないことは分かっていたが、せっかくの人生初のオペラを、PETと白衣でキノコのコスプレのようになった姿で窮屈に鑑賞しなくてはならない現状に、茂上はもったいない気分でいた。

 『ウィリアム・テル』第三幕。

 英雄ウィリアム・テルが、息子ジェミの頭上のリンゴを、クロスボウで射抜く有名なシーンだ。

 テルにゲームを命じた圧政官ジェスレルが、鶏冠兜(コリュス)の下から、性悪な視線をウィリアム・テルに向けている。

 死の恐怖と父への信頼に揺れるジェミの視線を受け、テルは、「大丈夫だ」と歌い上げる。

「じっと動かないで、大地に片膝を付けて(Sois immobile)」

 旋律の意外な温かさに茂上は驚き、茂上がボックス席から思わず身を乗り出しそうになった時のことだった。

 ふと、異常に気がついた。

 テルが構えたクロスボウに、矢が番(つが)えられている。

 最初、テルがクロスボウを取り出した時、茂上はそこに何の矢も装填されていないことを見ていた。酒場の危険なマジックじゃあるまいし、さすがに本物の矢を撃ちはしないよな? という幼稚な疑問を覚えたからだ。

 しかし今、テルの武器には実弾が装填されていた。

 あの小道具は、ここからどうやってオペラのリアリティを保つのだろう? 音だけを鳴らして、矢は発射されないのか? はたまた、矢は発射されるが、息子役の子役には命中しないような仕組みがあるのか? 見ると、テルの腕が、震えていた。

 その時だった。

 ふいに、ステージの袖から、一人の人物が歩み出た。

 漆黒のフードとローブで、頭頂から踝(くるぶし)までを覆っている。

 圧政官ジェスレルの表情が、かすかに曇った。キャラクターとしての演戯というよりは、不慮の事態に動揺を隠せていない、役者としての表情に見えた。

 黒フードの男は、英雄テルと、息子ジェミの中間に立ち、一言も発さずに、観客席へと向き直った。

「だぁっ……、あ、うぉ、で、どぉぉああ……。ん、んん。あーっ、あー、テス、テス。……よォし。こんにちは。お疲れ様。初めましてだ、オーディエンス。さてと? まぁ、まずは名乗っておくべきだろうな」

「……何でしょう?」

 《怪人》を名乗る痛々しい人物の出現に、これ幸いにと、茂上は隣の席に座る美岡に耳打ちした。短い前髪をヘアピンで留め、おでこを丸出しにしている美岡は、迷惑そうにタブレット端末から目を上げ、つんとして答えた。

「さあね。いいから君は、リラックスしてオペラに集中してよ。脳の活動がヘンになったら、先生に怒られるよ」

 客席の百十人、舞台に立つ役者十数人、その全員の視線を受けて、能面は言葉に悩むようにポリポリと頭部を掻いている。

「さあ、なにを語るべきだろうな……。まずは、そう、テストだ……話題はなんでもいい。そうだ、アレだ。観客の諸君、マジモンの『ウィリアム・テル』の脚本を御存知かい?」

「……なんだよあれ」

 茂上の逆隣で、別の先輩研究生、田代が呆れつつも少し面白がっているような声を洩らした。「頭がおかしいのか?」

「『ウィリアム・テル』は、フランスの高貴な美食家のデブ、ロッシーニによって作曲された、笑えるほど真摯な大規模歌劇(グラントペラ)だ」

 《怪人(ファントム)》がシャンデリアを見上げながら、続ける。

「今、まさに、オレが中断した第三幕……、そこでは英雄ウィリアム・テルが、息子の頭上のリンゴを射抜くシーンが描かれるわけだが……原作の脚本は、役者に本物のクロスボウを使うように指示をしている。あげくの果てに、主役が本番でミスって、子役の眉間をブッ貫いちまって殺した場合のセリフまで、原作脚本には、かっちり用意してある。はは。どうかしているだろ? 現実準拠で、道徳を無視しているわけだ」

 舞台上で、数人の役者たちが目配せしているのが見えた。

 圧政官ジャスレルが、民間人役の数人のスタッフ達を一瞥し、こくり、と頷いている。傲慢な代官が、咳払いを一つした。

「作曲家ロッシーニの野郎は、」

 と《ファントム》が言った。「自らの作品をよりエンターテインメントにするために、子どもの命を舞台装置にしたのさ。果たして、ここに罪悪感は――非道の自覚はあったろうか? 『真なる感動(アナムネーシス)』へのアクセスを夢見た芸術家は、あるいは観客は、生贄子役(スケイプ・ゴート)の命の価値を記憶していられたかね? ほら、一考してみてくれ。考えろ。世の一般ピープルどもは、バイオハザードだの放射能だの、《科学の暴走》ばっかり憂慮しやがる。けど、どーだよ? ロッシーニの脚本が如実に示した教訓を汲み取るに、つまり今オレが言いたいクリティカルは、『美学や文学だって暴走しやがる』ってコトなんだな。……おいおい、適当に反応してくれよオーディエンス! これは余興だ! 別にオレぁ、こんな説教がしたくってわざわざ舞台ジャックしたわけじゃ――」

「何をしている兵士ども! この者を捕えろ!」

 圧政官ジェスレルが、暗青のサーコートを翻し、《怪人(ファントム)》を指差した。

「……え?」

 《怪人(ファントム)》の能面が傾く。

「何者か知らんが、此の地、アルトドルフの大代官ヘルマン・ジェスレルの政務に水を注すとは良い度胸よ!」

 鎖帷子を派手に鳴らし、ジェスレルが《怪人(ファントム)》に詰め寄った。演技を止めず、役者(スタッフ)としてではなく役柄(キャラクター)として不審者を排除しようとする対応は、なるほど、劇場において最も高級な観客への奉仕(サービス)だろう。茂上は感心した。

「ウィリアム・テルを懲らしめたなら次は貴様の番だ! さあ大人しく捕まり、牢獄で断罪の時を待つが良」

 ハサミで切ったように、ジェスレルの言葉が途切れた。

 《怪人(ファントム)》の左手の人差し指が、ジェスレルの眉間にあてられている。兜の下で、圧政官のオレンジの瞳が虚ろになっていた。

「さて」

 ぼんやりと立ち呆けるジェスレルを尻目に、《怪人(ファントム)》は観客席を振り向いた。

「本題だ」

 ホールは静まり返っていた。《怪人(ファントム)》の能面の細い眼窩から覗いた瞳が、観客席を射抜いた。

「今から諸君にオレの力を見せよう。運よく生き残った者は火急速やかにマス・メディアを通じて世に――警告しやがれ。特異点は近い。規範に御しきれる《人間》が主役の時代は今日で終わりだ。欺瞞のオペラ座に現れた未来世界の《怪人》から、目を逸らすな」

 《怪人(ファントム)》が、右手を掲げた。天井に吊られた巨大なシャンデリアを掴むように、黒革の手袋に包まれた手が握りこめられる。

「う……わっ」

 ふと、茂上藤一郎は、両眼を細めた。

 落雷を思わせる鋭さで、ホール内が閃光に包まれたのだ。

ホールの照明から唐突に光が降り注ぎ、そして消えた。

「…………?」

 恐る恐る、茂上は顔を上げる。

 オペラ座は静かなままだった。わずかな雰囲気の変化を茂上は感じたが、その正体もすぐに分かった。ステージ上の照明が、上映の終った映画館のように、じわじわと暗くなっていったのだ。

 茂上は気が抜けた。あれだけの大見得を切っておいて、やったことがこれだけか? 舞台照明の制御装置を使った演出には驚いたが、オペラ座に乱入した割にはいくらなんでもやることが小さすぎるだろう。

「……イタい奴ですね……」

 茂上藤一郎は、むずがゆい気持ちで、隣に座る美岡に苦笑を向けた。

 美岡は、目を見開いていた。小さな唇をぽかんと開き、顔を固めている。まるで石像芸(スタチュー)をしているかのように、動いていなかった。

 硬直した美岡を見て、茂上は自分の背筋が少しずつ冷えていくのを感じた。

 静かだった。

 下層の観客は、誰も身じろぎひとつしていない。《怪人(ファントム)》を捕えようとする者すら、一人もいなかった。

「あ」と茂上は声を洩らす。

 避難誘導灯と化した浮き彫り細工(レリーフ)の仄灯りだけが照らすステージ上で、テルの息子ジェミが、林檎を手に取って食べていた。そのまま、てくてくと歩を進め、舞台の中央に立つ。

 ウィリアム・テルが構えるクロスボウが、ジェミの頭を狙っていた。

 まさか、と茂上は思った。そんなことがあるわけない。こんなイレギュラーが起こった空間だとしても、その最後の非常識だけは踏み越えるわけがない。今にも舞台袖からディレクターが出てきて、「ドッキリでした」と企画のネタばらしをするのだ。あるいは客席のどこかでテレビカメラが回っていて、来期の刑事ものテレビドラマの俳優が《怪人(ファントム)》を止めるためにオペラ座に飛び込んでくるのかもしれない。

 射撃音が短く鳴った。

 一瞬だった。ジェミの鼻梁の中央に、ドラムスティックを短くしたような矢が叩き込まれた。顔面を殴られたように吹っ飛んだ子役は、壊れた人形のように舞台に転がった。

 外国系の顔立ちをした、碧目の少年だった。茂上の目の前で、テルの息子ジェミは急速にそれを演じていた子役へと戻っていった。北極の夜のような沈黙のなか、赤い液体が、少年の顔から流れ出ていた。

「う、わ」茂上の口から、意味のない言葉が零れ出た。

 子役が射殺されたにも関わらず、劇場内は静かだった。声を出したのは茂上だけだった。他の誰も口を閉ざしたままだった。

 鈍い音が響いた。

 茂上は震える身体を起こし、手すりからホールを見渡した。

 血飛沫が茂上の顔へと飛び散ってきた。

 地獄が広がっていた。白衣を着た壮年の男性が、隣に座る老人の頭を、背後の椅子に何度も打ち付けていた。OL風の女性が、幼い女の子を椅子から引きずり下ろし、その腹を何回も踏みつけていた。ステージから下りた圧政官ジェスレルが、最前列にいた観客の老婆を、脱いだ兜で殴り飛ばしていた。闇の中で、オペラ座の誰もが立ち上がり、互いに互いを殺しあっていた。

「なんだよ、これ……」

 呟いた茂上は、ふいに目に飛び込んできた光に顔をしかめた。目をやると、《怪人(ファントム)》が、ステージ上から茂上達のいる五層目のボックス席に右手を向けていた。目のあった能面の顔が、心なしか、ほくそ笑んでいるように見えた。

 背後から殴られた。

 茂上は、悲鳴をあげて床に倒れる。茂上の身体にのしかかってきた田代が、首を絞めてきた。田代の顔は無表情だった。ただ、目だけが罪悪感に震えていた。

「げぁ……っ」

 舌を口から圧しだされる苦しさに喘ぎながら、茂上は抵抗した。力任せにひっぱっても、中等部で円盤投げ選手をしていた田代の腕はびくともしなかった。熱くなっていく目を彷徨わせると、美岡が見えた。

 手すりに背中をあずけた美岡は、ゆっくりと爪先立ちになり、身体を反らしていた。目元が恐怖に歪んでいた。かすかに、首を左右に振っていた。消える意識のなか、茂上は、美岡と目が合った。

「ぃ、あだ……」

 赤い唇から声を洩らして、美岡の白衣姿は、手すりの向こうに消えた。巨大な階段状になった客席に激突したのか、何度か大きな音を立てて人の体が最下層に落ちたのが聞こえた。

 力が抜けていった。物が壊される音と肉が叩かれる音を聞きながら、茂上の意識は少しずつ消えていった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る