戦支度

 ファントムがヴィクターと一夜を共にした翌朝のことだった。ヴィクターが部屋を出て、ファントムは頭を抱えていた。今朝のやりとりが、耳から離れない。


『殿下、生きておられたのですね』


 そう嬉しそうに目を細め頬を撫でる姿はファントムのよく知る、己の親衛隊であったルーカスのものだった。いくら寝ぼけていてもう一度起きた時には全く覚えていなかったとはいえ……と、ファントムは深く溜息をつく。


「俺は、どれだけ経って、名前を捨てようがお前の心の中にいたのだな」


 むしろ彼が、何も覚えていないほうが良かった。そうすれば、自分はずっと、『ファントム』であり続けることができるのに。彼を想いつづけることができるのに。


「俺は、お前をこうしたくはなかった……何故、死んだんだ、ルーカス……」


 ダン、と机をたたくファントムの瞳から、一筋の涙が零れた。それだけ、ファントムと名乗る前の己にとって、ルーカスという存在は大切なものだった。

 確かにルーカス……いや、ヴィクターは己の手の内にある。もし二度目の死を迎えたとしても、なんとしても蘇らせる気でいる。いや、蘇らせられるだけの力が今のファントムにはある。己の境遇を嘆くだけの、昔の『殿下』だったころの自分とは違うのだ。ああ、もう一度、ヴィクターが思い出してしまったらどうしよう。先程からファントムはそんな嫌な空想ばかりする。完全に過去を思い出してしまったら。きっと彼はファントムのもとで忠誠を誓うヴィクターという存在と、イディアル王国の軍人であるルーカスという自分に葛藤するだろう。そして忠誠を天秤にかけて……きっと己を取ってくれると、半ば確信はしているが、そんな葛藤を強いる事すら、ファントムは忌避していた。


「俺が、スティーブンでなければどんなによかったか……」


 ぼそりと呟く彼は間違いなく、イディアル王国の王太子とその弟が血眼で探している元王太子だった。その情報も昨日届いた書簡に書かれていた。しばらくはイディアル国境に姿を現さないほうがいい。そんな忠告とともに。

 ファントムは雑念を振り払うかのように首を振る。そしておもむろに立ち上がり、果物籠の中の林檎をかじった。しゃり、と子気味良い食感とともに甘酸っぱい芳香が口の中と鼻腔を満たす。行儀悪く貪るように、当り散らすように食べ進める。芯を残して綺麗に食べ終えると、ファントムはいつもの軍服に身を包む。ファントムにとってその軍服は正装のようなものだった。亡者の軍を率いる己を演出するもの。

 控えめに部屋の扉がノックされる。きっとオリビアだろう。どうぞ、と言えばオリビアが着替えた服と林檎の芯を回収し、そしてファントムの姿を眺めまわして細かい塵をブラシで綺麗にした。戦支度とでもいえばいいだろうか。

 一礼したオリビアに、ファントムはにこやかに告げた。


「それじゃあ、行ってくるよ。兵士たちを集めに」

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