知らぬが、
ファントムに手を引かれ連れられ、生存競争が続けられている地獄のような荒野からどこでもありそうでどこでもないような場所、そして口に出すのもおぞましいようなところを通り、ヴィクターは手を離さぬように主人の後ろをついていく。やがてたどり着いたのは、大きく古びた屋敷だった。
勝手知ったる様子で、ファントムは屋敷の扉をあける。ギイ、と軋んだ重い音を立てながら扉はゆっくりと開いた。玄関ホールには、美しいシャンデリアがきらきらと輝いている。ぶ厚い深紅の絨毯を踏みしめて、ヴィクターはファントムのあとに続き邸に入った。
ファントムが立ち止り、何事かとヴィクターは周りを見回す。ゆっくりと歩いてくる人影が見えた。エプロンをつけた女性……まるで小間使いか何かのような。その人影がはっきり見えた時、ヴィクターは息をのんだ。
その小間使いは、首から上がなかったのだ。
恭しくお辞儀をする小間使いに話しかけるファントムは、戦場で生者に宣言した時とも、亡者たちを前に演説した時とも違う、とても優しい顔をしている。その事実にヴィクターは戸惑った。冷徹な主かと思いきや、普段の顔はそうでもないらしい。
「オリビア、出迎え有難う」
「……!」
その首なしの小間使いは、オリビア、というらしい。綺麗に切りそろえられた爪が虹色に光っていて首がない以外は、普通の女性に見える。ファントムに声をかけられ心なしか嬉しそうに見えたのは気のせいだろうか。首から上がなく表情がわからないせいもあり、身体全体で感情を表現しているように見える。
「ああ、この男はヴィクター。ここの住人にするんだ」
ファントムの言葉を聞いてオリビアはヴィクターに向ってぺこりと頭を……彼女の首から上は存在しないから正確に言えば肩からなのだが……を下げて見せた。
「ヴィクター、彼女はオリビア。ここの家事をやってくれている。まあ、本業は狙撃手なのだけれど」
「……よろしく、オリビア」
ヴィクターが会釈をするとオリビアはヴィクターの手を持った。何事かと思ったがオリビアが真剣そうなのと主人の手前、振り払うようなことはしなかった。そして掌に指で文字を書く。
『なにかわからない事があったら遠慮なく聞いてくださいね』
「ああ、ありがとう」
どうやらこれが、オリビアの完全に通じ合っていない人とのコミュニケーションの取り方らしい。ファントムはすべてを察しているようだが、初めて会ったヴィクターにそんな芸当は無理だ。
しかし、こんなに優しそうな女性がなぜ、首から上を失くしながらここにいるのだろうか。そんなことをふとヴィクターは思う。
「ほとんどの亡者は、生前の記憶を失ってしまうんだ。……そのほうが幸せだろうからね」
「幸せ…?」
ファントムの言葉の意味はヴィクターには理解できなかった。その表情で理解できていないことを察したのだろう、ファントムは苦笑した。
「知らないほうがいいことがある、知って後悔することもある、そういうことだよ」
その言葉を聞いてなお理解できないヴィクターはファントムの瞳を覗き込む。仮面に隠れ片側しか見えない紫の瞳には、なぜだかひどく悲しい感情が溢れている気がした。
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