転生

 一体どれだけの時間が、その荒野に流れたというのだろうか。濃い死の匂いが漂う荒野では、未だファントムに命じられた『殺し合い』が続けられていた。理性をなくし、生きる本能のままに戦う者達を見ていたのは、ただ鴉のみ。敗者は次々と、勝者の血肉になっていく。

 そのなかでも一際亡者たちを喰らい続ける男がいた。最初にこの殺し合いを始めた、ルーカスだ。もう理性は残っていないのだろう。虚ろな瞳には強烈な殺意と生存本能のみが映っており、襲い掛かってくる亡者を次々に倒し平らげている。爪は血にぬれぼろぼろになり、服も血まみれでどす黒く染まっている。爛々と光るその瞳は、こつこつと歩いてくる人影を捉えた。


「ウ……ァ、ガ……」


 襲いくる亡者かと、ルーカスは警戒したがすぐに目を大きく見開く。圧倒的な力と放たれる威圧感に佇むだけのその人影に敗北感を覚えたのだ。歩いてくる人影が大きくなり、ルーカスはただ、頭を垂れた。それしかできなかったのだ。


「顔を上げよ」


 その命に従い顔を上げると、右目を覆い隠す仮面に、紫の瞳。端正な顔立ちにルーカスは一瞬だけ既視感を覚えた。だがそれはすぐに、己の主であるということに塗りつぶされる。主――ファントムは笑う。


「やはりお前は生き残ったか」


 含みのある言い方にルーカスは首を捻る。ファントムはナイフを取り出し己の指先を傷つける。血の滲む指を口に含み、そしておもむろにルーカスにくちづけた。鉄錆の味。先程までルーカスが味わっていたはずの味だが、もっとなにか、違うものを感じる。

 どくん、と動かぬはずの心臓が脈打った気がした。ルーカスはファントムを突き飛ばすようにして唇を離し、地面に倒れ込んだ。その瞳は虹色に輝き、左胸の、死に至った傷のところから煙が出る。痛みを伴うのかルーカスは呻いた。ファントムはどこか嬉しそうにそれを見つめていた。そしてしゃがみこみ、ルーカスと視線を合わせる。


「……君、名前は言えるかい?」

「なま、え…?」


 なまえ、そう、名前だ。死ぬ前まで、自分が呼ばれていた名前。息子に、妻に……あの人に、呼ばれていた名前。しかし彼には、どうしてもそれを思いだせなかった。


「わから、ない……」

「……そうか」


 ファントムはその返答を聞いて、少し安堵したように見えた。何故だか、この人は自分の生前を知っているのではないか。彼にはそう思えて仕方なかった。


「ならば、君の名前は今日からヴィクターだ」

「ヴィク、ター……」


 与えられた名前を繰り返すルーカス、いやヴィクターの様子を見て、ファントムはひどく満足げに笑った。そしてヴィクターに向って手を差し出す。


「行こうか。君には新しい服と役職をあげよう。君は俺の下で、亡者の軍を率いるんだ」


 呆然とその手を見つめていたヴィクターだったが、ややためらったのちに、その手を掴んだ。立ち上がり、手を繋いで歩き出す。


「……懐かしいな」


 ファントムの言葉の意味をヴィクターが理解することは、できなかった。


 かくして亡者を率いる一人の将が、ここに生まれたのだった。


―――序章 幻影は嗤う 了

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