枕元に立つ日

寺井と脇田は由里が運ぶ茶菓子を目で追いながら、向かいのソファに由里が腰かけるのを待った。

夫である良太が殺されてもう半年近くが経とうとしていた。

外は春はもうすぐといってもまだ二月。背筋を冷たい手でなぞるような木枯らしが吹いていた。どんより曇った冬空をしばらく見つめていた由里は物思いから覚める様に寺井に振り向き言った。

「寺井さん、脇田さんいつもありがとうございます。もう雅が亡くなって半年近くになりますが、捜査の方はやはりこれといって進展はないのでしょうね?」

寺井は微かに頷くと話を切り出した。

「お察しの通り確かに捜査の進み具合はまだ芳しくはありません。良いお知らせが早く出来ればと思ってはいるんですが。」

「だが進展らしきというか状況が少し変わって来た事を伝えに今日はお邪魔する事にしたんですわ。」

脇田が少し意味ありげな笑みを浮かべながら言った。

「状況が変わって来た?」

由里は脇田を見て怪訝そうに聞き返した。

「そうなんです。脇田が言ったように僅かですが状況が変わって来ました。少なくとも署に一時広まっていた物盗りが被害者に出くわして起こった偶発的な強盗殺人事件という見方は薄れています。」

寺井の言葉に由里は少し身を乗り出して尋ねた。

「と言いますと?」


「それは私から言うわね。」

サヨリは得意そうにリョウタに意思を伝えて来た。

「実は有力な物的証拠が出て来たのよン。」

「サ・ヨ・リさん。あまりもったいぶらず早く言ってよ。父さんたちが引き上げたら肝心な事をリ・ョ・ウ・タさんに伝えられなくなっちゃうのよ。」

ミドリは急かすようにサヨリに忠告した。

「分かったわよン。まったくミ・ド・リはうるさいんだから。実はね・・・・」

サヨリの長い前置きが終わり、こういう話しだった。


あの日、あのことがあった時間、部屋の明かりが点いた時に男のようなシルエットが慌ててカーテンの向こうに現れるのが撮影されていたのだ。

それはたまたま、向かいのマンションの住人が部屋で遊ぶ子供の姿をビデオカメラで撮影していた映像に映っていたのだ。ビデオは秋田からやって来た祖父母に見せている時に祖母が見つけて何となく言ったひと言から分かったことだった。


「・・・ということなんです。」

寺井は由里にあらましを説明して、鞄からビデオカメラを取り出し部屋のテレビに接続し始めた。

由里は期待と不安の入り乱れる表情でそれをじっと見つめていた。

寺井の横で脇田が言った。

「今日は雅さんにその映像を見て頂き心当たりがないかお聞きしようとやって来た次第ですわ。」

まもなく準備が終わり映像が再生され始めた。

その映像は二歳のくらいの男の子が生まれたばかりのような赤ちゃんにおもちゃを持たせようとしている映像だった。

生まれたばかりの子ではおもちゃはおろかスプーン一本持たせることもできないだろうが、お兄ちゃんとなった男の子のいじらしい仕草に由里は微笑んだが、気付くとビデオの隅に日付と時刻が表示されており、それは八月二四日、二一時三分を表示していた。

由里はその頃に犯行が行われ、夫が殺されたのだと思い表情を曇らせた。


その時、真っ黒だった部屋の窓の一角がパッと明るくなった。

何が起きたのか分からなかった由里だが、それが自分たちの部屋の窓だと気付いた。

そして少し間を置いて黒い男の陰が一瞬だが窓のカーテンに現れた。

時間にすれば一秒程度の瞬間的な映像だった。映像を見た由里はあまりにも一瞬の出来事で正直何もわからなかった。


当然心当たりなどあろうはずもない。


由里の意思を通して今起こっている事は分かるが、視覚を通して見る事の出来ないリョウタはもどかしい気持ちで次の会話を待っていた。


「もう一度見せて下さい。」

由里は寺井に言って何度も何度も繰り返して見たがやはりあまりにも一瞬で何も分からなかった。


「体格のいい、若くはなさそうという感じくらい・・・・そう、誰でも分かるくらいのことしか分かりませんでした。」

しばらくして唇をかみしめながら由里はぽつりと言った。

「分かりました。お手間を取らせました。でもこの映像が出て来ただけでもかなりの前進だと言えます。我々は決してあきらめません。雅さんも希望を持って待ってください。」

そう言い残すと二人の刑事は引き上げて行った。

由里はソファに戻ると両手で頭を覆いながらも、頭の中では先ほど見た映像がいまだに何度も何度も再生されていた。


その日、由里は気分を変えようと外食に出かけ、帰って来たのは十一時過ぎだった。

あの日以来暗い部屋に戻るのが怖くていつも居間だけは電気を点けていた。

それでも居間のドアを開けると必ず良太が倒れていた場所を見てしまう。


今も。


あの事件が起きたこの部屋を売って引っ越すことも考えたが、良太との幸せな時間を過ごしたのもこの部屋だ。それを考えるとどうしてもできなかった。


由里はその場に立ち尽くすと天井を見上げたまま、自分や夫の身の上に起こったこの忌まわしい出来事に思いを馳せた。

やがて気持ちが落ち着いて来たのでソファの前の絨毯にしゃがみ込んだで、フーッと一つ大きなため息をついた。

その視線の先には水槽があり、大きな金魚が優雅に漂っていた。

「あっ、いけない。」

由里は突如叫んだ。

「忘れてた!」

彼女はさっと立ち上がり、水槽の傍に置いてあるエサ袋を開けるとひとつまみのエサをつまんで水槽の中に落とした。

金魚は待ちかねたように水槽の端までさっと寄って来て夢中になってエサを食べ始めた。

「銀ちゃんごめんね。朝から色んなことがあって、こんなに遅くなっちゃったの。」

今は唯一の同居相手となった巨大な和金に愛おしそうに由里は語りかけるのだった。


床に就いたのは夜中の一時過ぎだった。

さすがに疲れていたのだろう間を置かずにまどろみやがて眠りに落ちた。


「由里、すまんな。こんなことになってしまって。俺はお前の事いつも見守っているからな。愛しているよ由里。」


由里が目を開けるとまだ部屋は暗く、ショーケースの前に置いてある時計を見ると325という数字が発光ダイオードの緑色の光で輝いていた。

由里は今しがた夢で見た良太の事を思った。

彼女は夢と言いながらも実にリアルな感触を思い出しながらつぶやいた。

「あの人に『愛してる』なんて言われた事あったかしら。新婚の頃は何度かあったような気がするけど。」


今度は自分の思った事が本当に由里に伝わった事が分かりリョウタは興奮していた。

やはり自分の声いや意思が由里に伝わっているのだ。


サヨリによると、霊体から生ける者に意思を伝える事は本当にむつかしいことらしかった。彼女自身出来た事はなかったし、他の霊と意思をかわして来た経験からも、それが出来るらしいという幽霊仲間の噂に過ぎないというべきだった。

そもそも、霊となって人にくっついたものの、霊が自分自身に気付かず、リョウタが最初に霊として目覚めた濃霧とラジオのノイズの中で一生を終えることも少なくないという。

これを霊の一生というべきかは疑問だが、憑依した相手が死ねば、その霊にはもう寄りすがる場所はなくなり、大半の浮遊霊のようにしばらくはそこに漂っているが、やがて自然という強い意思の中に溶ける様に飲み込まれて二度と戻らないのだ。


だから霊には霊なりの一生があると言っても間違いではないのだ。


存在自体が稀である霊の世界であり、豊富な経験や能力を持つ霊もやがてその宿主と共に滅んでゆくので、この世界の情報はそんなにあるものではない。


だから、霊となって五年のサヨリと違い半年足らずの駆け出し幽霊のリョウタは自分なりにこう思っていた。


今まで何度か自分の声が由里に伝わったような出来事があった。

それは自分に邪心がなくふと心にある思いを抱いた時だったような気がする。


最初にそれが起こったのは田中が由里に言い寄り、それをやんわり由里が断った時に思った安堵の言葉。

二度目は仕事を引き上げる由里に、『お疲れ様』と無意識に思った瞬間だった。


それにしても思わずに思った事を相手に伝えることのなんと難しいことか?


これらの出来事についてリョウタなりに考えたことはこうだった。


目を覚ましている時は霊から意思を伝えても、生きている者にとっては生活の雑音でかき消されてしまう。だが眠っているときは、半分霊と同じ意思だけの静かな時だから思いが伝わりやすいのではないかと。


それでも自分の思いを伝えようとすると、伝えようという思いが邪魔をして伝える事が出来ないという、まるで禅問答の世界だ。

無神論者の彼だから神などいないという考えは霊となった今も変わらないが、リョウタはふとこう思うのだった。


少なくとも神という絶対的な存在はいないと。


だがもしかすると、厳しい修行で無我の境地に至り悟りを開いた高層と呼ばれた人たちは、無我になる事で霊たちと意思の交換が出来たのではないかと。


『思った事を思わずに伝える?』


しばらくはこの事が彼の霊としての修業のテーマになりそうだ。


それまでは当分由里の枕元に立って自分の意思を思い通りに伝えるなどできそうにない。


再び眠りに落ちた由里の意思が自由な世界に飛び立つのを感じながらもポツリと思った。


「面と向かって『愛してる』なんて言えなかったけど、これは俺の本当の気持ちだ。

だって言おうと思わずに俺の心に浮かんだ言葉だから。」

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