一周忌

由里は出雲空港に降り立った。


あれから既に一年。


彼女は夫の良太の一周忌の法要で松江市に行くために朝一番の飛行機でこの地までやって来たのだ。

良太の実家がある松江市は、この出雲空港のある出雲市の隣の市であり、島根県の県庁所在地である。

彼女はここに来ると何か霊的なものを感じずにはいられなかった。

出雲市には言わずと知れた出雲大社があり、雪女などの怪談で有名なラフカディオ・ハーンこと小泉八雲も松江市に住んで数々の作品を残している。

思えばその向こう隣りの鳥取県の境港市は妖怪漫画の第一人者水木しげるの出身地である。

この辺りはなぜこんなに神話や妖怪にまつわる話が多いのだろうと常々思っていた。

中国地方の山陰側に位置し、冬はどんよりと曇った日が多く、そんな気候が人々の心にそんな種を植え付けるのだろうかと思ったりもした。


夫が亡くなって早いものでもう一年になる。初盆と一周忌の法要で良太の実家に向かうタクシーの窓の外に流れる景色は冬のじめじめした気候と打って変わって、雲一つない空が午後ともなれば強い日差しを降り注ごうと待ち構えていた。

由里は懐かしい景色を瞳の奥に滑らせながら新婚の頃を思い出していた。

良太の実家に帰省したときやって来た宍道湖の浜辺も覚えていた。良太はあの時、磯辺の岩を跳び移った際に足を踏み外して海に落下してずぶ濡れになってしまった。良太にしてみれば、ちょっといいところを見せようと思ったのだろうが、結局由里に大笑いされてしまった。あの時を思い出すと由里の口元に自然に笑みが浮かんでいた。宍道湖と言えばシジミが有名で、ドライブインで啜ったシジミ汁の独特の風味を思い出す。

太古の昔、勾玉を作った事にちなんだ玉造温泉を通過すれば良太の実家はもうすぐだ。

五世紀前後の頃、朝鮮文化の交流地点として栄えたこの辺りは、何か神々しいような不思議な雰囲気さえ漂っていた。


その頃、リョウタも今この雰囲気を味わっていた。

由里から送られてくる意識の海の中に浸っていた。


「由里さん、東京から島根はやっぱり遠いやろ?」

リョウタの母親淑子は息子の身の上に起きたショッキングな出来事で随分老け込んでしまったように見えた。夫も長男も失い、大阪を引き上げ島根に移り住んで、今はリョウタの弟の啓太の家族と同居していた。

「なかなか来られなくて、良太さんに申し訳ない気持ちでいっぱいなんです。私はここが大好きなのに。だって、良太さんとの楽しい思い出がたくさん詰まった場所ですもの。」

そう言った途端不意に、由里の目に涙が浮かんでしまった。

息子二人を育て上げた淑子の小さな体が、急にかすんで見えた。

「一昨年は主人に先立たれ、去年は息子に先立たれ、正直言うて生きとるんが辛うて。」

淑子の目にも涙があふれていた。

「ああ啓ちゃんすまんな。あんたたちにはいつも優しゅうしてもろうちょるのに。」

淑子はそばに座って怪訝な表情の啓太に謝った。

「お母さん。生きちょるもんは、なんがあっても、それでも生きて行かんといけんのやけ。死んだもんの分もな。これからも一緒に元気にやって行こうや。そうせんと俺が小さい時、よくどやされたお袋らしくないぞ。」

啓太の言葉に思わず笑みを浮かべた淑子は、涙をぬぐいながら両手を畳に押し当てると、体を起こして立ち上がった。

「そろそろお寺さんが来られる時間やねえ。」

そう言って少し丸くなった背中を向けて奥の間に去って行った。


一周忌の法要は一時間ほどで終わり、参列者たちを玉造温泉の料亭でもてなした後、夕方ようやく家に戻って来た。


都会の華奢な住宅と比べればどっしりとした造りの家は、黒い柱がさらに重々しさを醸し出している。

お茶をすすりながらしばらく思い出ばなしや他愛もない会話をしながら気付けば九時を過ぎていた。


リョウタはこの時、自分の法要が行われ、当の本人も一緒に参列したとはおかしなもんだと思っていた。

まあ大よその背後霊たちもこんな気分を味わっているのだろうが、そのために遠くからやって来てくれた友達もおり、やはり感謝せずにはいられなかった。


由里があのビデオを見た日から、わずかながら目撃情報が出たものの、どれも曖昧でこれといった決め手になるような情報は依然出ていなかった。


寺井たちの地道な捜査活動にも拘わらず、事件解決にはまだまだ時間がかかる状況だった。当事者というか、当の被害者本人のリョウタでさえ自分が殺された時の事は、とっさの事で気付いた時には死んでいたとう感じで面はゆい気持ちだった。

ただ、争いの中で何かを手につかんだような感触が今はない指先に残っている感じは確かにあるのだが。

それが遺留品として見つかっていないということは、その後犯人に持ち去られてしまったのか、そもそも犯人の物ではなく、部屋の何かを咄嗟につかんだだけなのか分からなかった。

いずれにしても自分殺人事件の捜査は寺井、脇田両刑事を中心にした、生身の人間たちに頼るしかないのではあるが。

今リョウタは、伝えたい気持ちを伝えようと思わずに伝えるという、難解な課題に取り組んでいた。

サヨリたちの意見は、自分の意思を生きている者に伝える事は、生きている者にとって幸せとは限らず、これから生きて行くには妨げになる場合もあり、人生にも良い影響は与えないというものだった。

確かに一理はあるが、リョウタとしては由里が死んで、自分と同じ場所にやって来るまで待つことはできないし、そもそも由里が死ねば自分の居場所も、そこにいる自分自身も消え失せ、二人の魂は自然の巨大な意思に飲み込まれてしまうのだろうから、今しかないのである。

それに今取り組んでいる難問のひとつの解決方法を彼なりに掴みつつあるのも事実だった。


今や口癖の様になっている『伝える事を伝えようと思わずに伝える』には、伝えたいことを自分の意識の中に詰め込んで、いざ伝える時には無意識になること。

伝える時は伝える相手が生活するための行動や周りからの影響や、生きること自体に対する意識から解放される睡眠中が一番だ。


ただ伝わる事は、何が伝わるかは分からない。

言えることは、これを伝えたいと思った途端、これらの事は全て無に喫するということだった。


そんな思いをリョウタが巡らせている時、気になる会話が、由里の意思を通して流れ込んできた。


それは母親からの会話だった。


「あの時、父さんが家に代々伝わる骨董品を持ち出して、誰かに売ってしもうたんよ。私がここにお嫁に来たとき、何でも義父が戦時中に中国に行っとったときに裕福な商人に便宜を図ったお礼にもらったもので、漢の時代の彫刻家で劉璋という人が彫って、以後劉虎と呼ばれた相当な値打ちもんじゃと聞いちょったんやけど、大阪に持って行って、二十万円持って帰って来たんよ。そのくらいにしか売れんかったんやろうか?父さんに理由を聞いても何も答えてくれんし。」

彼女は書斎へと立ち上がり言った。

「そうそう、良太の小さい頃の写真があったなあ。」


どうやら由里と母親が昔の話しに花を咲かせているようだった。

リョウタはこの会話を聞いて、黒洋芸能プロダクションズの応接室に置いてあったあの眼光鋭い、重々しい黒檀の彫刻を思い出した。


由里が黒洋に挨拶に言った時に同行したカメラマンの吉田との会話から、もうそこに置かれていない事も知っていた。


共通点は黒檀の虎の彫刻と黒田洋三が大阪出身であるくらいである。

まあ、劉虎のような彫刻はほかにもあるだろうし、ただそれだけのことといえばそうなのだが。


淑子が持って来た良太の子供のころ写真を見ながら話が弾んだ。

由里は劉虎に跨り、新聞紙の兜を冠った良太の得意そうな顔を見ながら、大人になってもあまり変わらない表情に吹き出してしまった。


夜も更け淑子たちとの昔談義も終わり、由里もようやく床に就いた。

部屋は奥座敷だった。

普段誰も使わないこの奥座敷におもちゃや、画用紙を持ち込んで、幼い頃の良太はよくひとりで遊んでいたらしい。

しばらくすると眠りに落ち解放された由里の意識が、リョウタの意識に触れ始めて来た。


だがまだ自分の思いを伝える時ではない。


それは明け方、目覚める前の頃、まさに夢として目覚める事が肝心だった。睡眠の真っただ中で伝わったとしても、それは意識の奥深くに沈み込んでしまい、目覚めた時には跡形もなくなってしまうからだ。

そうは言っても、この目覚める直前というのがなかなか難しいタイミングだった。何せ時間というもの自体存在しない霊の世界では、今が何時で、そろそろ目覚める時間であるということを悟る事は困難なのだ。

それでも今までの経験から、目覚め始めるころ、再び意識の中に生きる雑音が聞こえ始め、更に増幅されて行く。

この雑音が聞こえ始める少し前が一番良いタイミングの様だ。


ただし、雑音が聞こえ始めた時にはもう遅いというのも分かって来た。


リョウタは由里が出雲空港に降り立った時から、この地の霊的な結びつきの強さを感じていた。現にここに来てからは東京より多くの霊たちと意識を通わすことが出来たのもそのためだろう。


試しに父親の良介の霊を探してみたが母親に憑いている様子もなく、おそらく自然の気に飲み込まれてしまったのだろう。


リョウタは、もしかしたら今日こそ、今までの断片だけよりも、ちゃんとしたいくつかの事が伝えられるかも知れないという希望が強くなってきた。


リョウタはそれまで、自分の意識の中に伝えたいことを深く埋め込んで行く作業に専念する事にした。


その中から何が伝わるかはその時次第ではあるが。

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