ある出来事

「こら田中、あっちに行け。由里に手を出すんじゃない。」

リョウタは先ほどから必死に叫んでいた。

「由里もこんな男を相手にするんじゃない。」


彼が殺された八月から三か月経ち、季節はもう時折肌を刺すような木枯らしの吹く十一月となっていた。

霊体となり由里に憑りついたリョウタは由里の五感を共有すべく訓練を重ねた結果、かなりの感覚を取り戻していた。


由里の感覚を自分の物としているなんて奇妙な感じもする。


今由里はリョウタとは同期入社の田中とありふれた世間話をしていた。田中を知るリョウタとしては好ましい状態ではなかった。

勿論独身となった由里がこの先どのような男を選ぼうが彼女の勝手だが、「この男だけはやめとけ。」と声を大にして言いたい類の男だった。

リョウタはそれが出来ないのが残念でならなかった。


自分殺人事件の捜査は寺井刑事たちが懸命に進めているものの、行きずりの殺人事件との見方が大勢を占めていた。

サヨリから入る警察での会議の様子では、物盗りに入っていた犯人がたまたま帰宅したリョウタに発見されてもみ合った末に、玄関にあったガラスの花瓶で後頭部を強打して死に至らしめたという見解だった。


ただ玄関の花瓶に活けてあった花が、花瓶のあった場所に揃えて置いてあった事は、偶発的に凶器を手にしたには不自然であるという寺井の主張で、辛うじて計画的な犯行という線も捨てきれてはいないらしい。

勿論リョウタにとっても、事件解決のためには寺井の主張が頼みの綱である。


「ところで俺さあ、由里の前の亭主の良太の後を引き継いで黒洋芸能プロダクションズの担当記者になったんだけど、良太の奴あの会社の事なんか言ってなかったか?できれば初取材までになるべく多くの情報を知っておきたいんだけど、良かったら今日飯でも食いながら教えてもらったらありがたいんだが。」


リョウタは聞き捨てならない言葉で物思いから覚めた。


「前の亭主?由里はまだ誰とも再婚しちゃいねえ。お前が黒洋芸能プロダクションズの担当記者?お前絶対黒田社長から嫌われるぞ。飯でも食いながら?下心丸見えだ。由里話に乗るんじゃねえ。」


リョウタは無音で絶叫した。しかしその時一瞬奇妙な事が起きた。


由里が突然何かを聞いたようにピクンと体を震わせ辺りを見回したのだ。


「お、俺の声が聞こえるのか?由里、由里、俺だ、良太だ。」


彼はまたもや無音で叫び続けた。しかし、由里はそのまま何事もなかったように田中を見つめると言った。

「田中さん黒洋芸能プロダクションズの担当になったんですか?あの会社の担当になれるってことはうちの会社ではステータスですもんね?私でよければいくらでもお役に立たせてもらいますけど、良太さん家では仕事の事あまり言わなかったから、社内で聞くこと以外私もあまり知らないんです。」

「そうか。まあ良太らしいな。でも今日夕飯くらい付き合ってくれよ。な?」

田中はまだ執拗に由里に言い寄っている。

これで田中の目的が黒洋芸能プロダクションズでない事は見え見えだ。

「そのうち機会があれば是非。でも今日は急ぎの原稿があるんで申し訳ないですけど・・・」

そう言って由里はパソコンに向かって原稿の執筆に戻った。

田中は所在無げにしばらくたっていたが、やがて諦めたように肩をすくめて立ち去って行った。

リョウタは飛び跳ねたい様な気分だった。

「いいぞ由里。そうだ、それでいいんだ。」

実際、由里にぶら下がったミヤビリョウタという風船は、ぴょこんぴょこんと飛び跳ねていたかも知れない。


「ああ疲れた。」

あれから三時間ほど原稿作成に没頭していた由里は背伸びをしてそう呟いた。

「あらもう十時だわ。今日はこれくらいにして帰るとするか?」

由里は両手で口の前を覆いながら、まだ残って仕事を続ける同僚に気付かれない様にあくびをすると帰り支度を始めた。

「ああ、お疲れさん。」

リョウタは由里を労うように無意識に呟いた。

その時またそれが起こった。

由里がビクッとして周囲を見回したのだ。

自分の声が届いたのだと思いリョウタは、またもや必死に叫んだ。


「由里、由里、俺だ、良太だ。」


しかし、やはりそれきり由里は何事もなかった様に、同僚たちに挨拶すると会社を後にした。


「それはあなたが無心になれたからよン。とは言ってもかく言う私は一度も出来たことないけどねン。」

サヨリからおかしさの感情がどっとリョウタの感情の中に流れ込んできた。

あのことがあってから一週間して再び寺井と脇田が由里を訪れていた。

「雅さん、申し訳ないですが捜査の方はまだ相変わらず行き詰まった状態です。正直言って署には偶発的な行きずり殺人事件という見方が大半なんです。ご主人に殺人につながるような人間関係が見当たらないのも理由の一つです。でも私にはどうしても玄関の花瓶に活けられていた花がきれいにそろえて置いてあった件が納得いかなくて。」

「それは俺も同感だ。不意に帰宅した被害者を殴り倒すのに、慌てて取った凶器の花瓶の花をきれいにそろえて置くなんて考えられないもの。かと言ってこれといって決め手となる証拠も遺留品も見つかっていないのが苦しい所だが。」

寺井に並んで座っていた脇田も同意した。

「とういう事なのよン。私も私の彼と一緒に殺人課の会議で聞いていたもの。」

サヨリまでまるで彼女も刑事であるかの様な口ぶりで言った。


リョウタは今、あの時の事を必死に思い出そうとしていた。暗闇の中で急に襲われながらも、相手の何かを掴んだような気がしたからだ。

何か小さな細い物、そう紐のような物の感覚が、今はない手の中に記憶として残っていたのだ。

遺留品だけでも見つかれば、あるいは捜査が進展するかも知れないというものだ。


寺井たちはいくら相手が被害者の妻とはいっても、テレビや新聞で分かる事、由里自身が知っている事以外は何も話さず、状況報告だけすると引き上げて行った。

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