取材
本格的な夏を前に六月の鬱陶しい長雨が紫陽花の葉を揺らし、雨だれが次々にその葉の先から地上に落ちていた。
凍える冬を抜けようやく春めいて来たかと思えば寒の戻りや菜種梅雨やらでしばらく本格的な春はお預けとなる。しかし、それもようやく治まり一年で一番さわやかな五月を迎えゴールデンウィークだレジャーだと浮かれ立つ。しかし、今度は梅雨となり再びジメジメとした日々がやって来る。日本はこの後蒸し暑い夏を迎え、台風の試練を乗り越え色鮮やかな秋へと移り再び寒い冬を迎える事になる。
この国の気候はまさに気象のフルメニューである。こんな日本に暮らす人々はこの季節の移ろいを肌で感じ心で感じ、繊細な文化を育んで来たのかも知れない。
雅良太は黒洋芸能プロダクションズの応接室で熱いお茶をすすりながらやり手社長で名高い黒田洋蔵を待っていた。
黒洋芸能プロダクションズは最近成長著しい新興芸能プロダクションの一つで、千川龍、芦屋翔太、習志野あけみといった演歌歌手をENKAという名の元に続々と売り出し、最近斜陽と言われる演歌業界を逆手に取った戦略で勢いに乗っていた。
良太は応接室の棚に飾られた巨大な虎の木彫りをまじまじと見つめていた。その黒光りする虎の木彫りは一メートル近くあり、荒い彫りながら両眼は黒曜石がはめ込まれ恐ろしいまでの不気味な眼光で良太を見返して来た。
彼がまだ幼いころ、こんな置物に跨った写真があったのを思い出した。
彼にはこれも今の黒洋芸能プロダクションズの勢いを示す象徴の様に思えた。
「良太さん、この置物すごいですね?」
突然取材カメラマンの吉田が話しかけて来た。
「まったくだ。あの真っ黒な目を見つめると、ブラックホールに吸い込まれて行く様な感覚に襲われるよ。」
「えっ?良太さんブラックホールに吸い込まれた事あるんすか?」
吉田は真面目な口調で問い返して来た。
まったくこの吉田ときたら、カメラの腕は確かなんだが時々こんな天然な事を言い出すんだからと苦笑いしながら、もう一度虎の両眼を見つめた。
吉田も余程興味を持ったのだろう、取材とはまるで無関係なこの虎の置物の写真を上から下から、それこそなめる様に写真に収めていた。
コンコン。
ドアがノックされて待ちかねた様に勢いよく開かれ、きびきびした動作で秘書と思われる若い男が中に入って来てすぐさま振り向きドアを開いた状態に保った。それから間髪入れずに勢いよく今日の取材相手である黒洋芸能プロダクションズの社長である黒田洋蔵が飛び込む様に大股で入って来た。
「お待たせした。今度企画しているENKAフェスティバルの打ち合わせが長引いてしもてな。」
黒田は関西弁が残る口調でそう言うと向かいのソファにどかりと腰を下ろし、少しスモークのかかった金縁眼鏡を取り、レンズをハンカチでごしごし磨いた後、せっかちにかけ直すと良太の視線をまっすぐ見つめた。
髪はクルクルとカールしていて、禿げ上がった頭の中ほどで周りをイバラの様に取り巻いていた。
一言で言えばもじゃもじゃ頭といった感じだった。
開いたシャツの毛むくじゃらの胸元には、金のネックレスが胸毛に絡むように光っていた。とにかく目立つことこの上ない風体である。
「この度は大変お忙しい所ありがとうございます。私はアミューズ出版社の雅良太と申します。前任の島田に代わりまして御社を担当させていただきます。よろしくお願いします。」
良太はそう切り出しながら自分の名刺を差し出した。
黒田は脂ぎって盛り上がった丸い鼻の下に蓄えた髭をピクリと動かして良太の名刺を受取り言った。
「ああ、アミューズさんには日頃お世話になってるんで出来る限り協力させてもらうわ。」
そう言って黒田も重々しいゴールドメタリックの名刺入れから名刺を一枚取り出すと良太に差し出した。
名刺を受取るまでもなく、一目見るなり驚いた。
なんと金色のプラスチック製の台紙に印刷されていたからだ。
「立派な名刺ですね?」
思わず良太は口走る様に言った。
黒田はニヤリとしながら言った。
「初対面でまず自分を売り込むにはこんな名刺が一番なんや。少々趣味は悪いがね。でも一度見たら忘れへんし、ごまんとある名刺から一枚の名刺を選ぶ時つい選んでしまう名刺は相当に目立にゃあかん。俺はそうしてここまで来たんや。」
なるほど、これが凄腕社長黒田の生き様と言う事かと、心の奥で呟きながら良太は一度会ったら忘れそうにない容姿の黒田を見つめながら内心こう思っていた。
『それにしてもこのもじゃもじゃの頭だけでも十分に目立つぞ』と。
黒田洋蔵、七二歳大阪生まれ。
ここ十年の内に急速に伸びて来た黒洋芸能プロダクションズを引っ張って来た男だ。奇抜なアイデアと少々のスキャンダル、噂によるとかなり強引ともいえる押しの強さで急成長を遂げて来たことが彼の面構えにも見て取れた。
猛禽の様な眼光でスモークの眼鏡の下から見すくめる様に相手を見つめる。若干禿げ上がった縮れ毛の髪は無造作ともいえる体で頭の上で絡み合っていた。
そんな風貌が相手を威圧しそうなものなのだが、口調はざっくばらんでどこか愛着を感じる気のいい親父という雰囲気があった。
「黒田社長。今日は黒洋芸能プロダクションズが急成長してきた秘訣の様な物をお聞かせ願えればと思いこの取材を企画しました。黒洋芸能プロダクションズは先ほど言われたENKAフェスティバルの様な多くの企画をヒットさせ・・・・・」
そこで黒田は口を挟んだ。
「君、大阪出身かね?」
良太はこの思わぬ黒田の質問に一瞬詰まったが、東京に住んでもう二十年近くにもなるが、相変わらずイントネーションは大阪弁の名残があるのだろう時々人から言われる事がある。
「ええ、梅田です。」
その時、黒田の目元がぴくっと動いた。
「へえそうか奇遇やなあ?実は俺も梅田の出なんや。」
出ばなをくじかれた格好になったが、取材をスムースに進める上でひとつここは話を合わせようと良太は脱線させる事にした。事前に黒田に関して調べており大阪出身であることまでは知っていたが、まさか同じ町の出身である事は知らなかったし、東京に来て初めての同郷者との出会いであったからでもある。
「父の生まれは島根なんですけれど仕事に失敗して知人の縁を頼りに大阪に移り住んだのが三歳の頃です。なぜ大阪に行くことになったかは分かりませんし、父も昔の事はあまり触れられたくないみたいでした。だからコテコテの浪速っ子てわけじゃないんですがね。その父も半年前に亡くなってなぜ大阪に来ることになったのかとうとう分からずじまいです。」
黒田は黙って聞いていた。
「まあほとんど大阪出身と言うてもええんちゃうか?」
良太は頷きながら言った。
「まあそうですね。」
そこで良太は話題を変えた。
「黒田社長、先ほどからこの虎を見ていたんですけど、すごい迫力ですね。」
「ああそれか?ある古美術商から買うたんやけど、なんか迫力あるよって無性に欲しゅうなってな。でも高かったわあ。」
黒田はそう言って苦笑いしながら訊いた。
「この置物に興味あるんか?」
「私が幼い頃、父の実家にこんな置物があり、よく背中に跨って遊んでいたもんで、つい懐かしくて。」
良太は照れるように笑いながら答えた。
黒田は黙って聞いていたが何も言わず、少し間を置いて言った。
「じゃ取材を始めてもらおか?俺も次の予定が入ってんやし。」
大坂の話を聞いたからだろう、黒田は思い切り大阪弁でそう言って秘書と目を合わせて頷きあった。
それから良太は黒田に一時間程インタビューした。
演歌と若者を、演歌とPOPSを結び付け、演歌をENKAとして日本と世界と結びつける面白い話をたくさん聞く事が出来た。良い記事が書けそうだと良太自身も満足だった。
記事の冒頭に載せる写真を天然カメラマンの吉田が撮り終えると挨拶もそこそこに、黒田は急ぎ足で部屋を後にした。
良太は吉田と一緒に黒洋芸能プロダクションズのビルのだだっ広いロビーを抜けると、相変わらずシトシトと雨が降っていた。
「それにしても親父はなぜ大阪に行くことにしたのだろう?その理由をなぜ話したがらないのだろう?初盆で大阪に帰った時に少し調べてみよう俺のルーツだからな。」
良太はそんな事を思いながら、傘をさして梅雨空を見上げた。
その二か月後良太はもうこの世にはいなかった。
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