月曜日の朝
由里は少し春めいて来た風を頬に感じながら四ツ谷駅からアミューズ社へ向かう歩道を歩いていた。
春めいた風以上に彼女の心は春爛漫だった。
いつからぶりだろう?こんなに心が晴れやかなのは。
由里はリョウタからのメッセージを受け取ることが出来、今までの事、霊界の事、事件の事、様々な話をそれこそ水入らずで話すことができた。
彼女にとって死んだリョウタと話せることは驚くべきことではあるが、信じられないことではない。
彼女は今まで幾度となく、どこかにリョウタを感じていたのだから。
通いなれた会社への道がこんなにも清々しく見えるのもきっと、この満ち足りた気持ちからだろう。
電車の中でもリョウタとのおしゃべりは続いた。
冗談を送って来たリョウタのテロップに、思わず吹き出してしまったときの、前の席に座った男性の怪訝な顔を思い出すと、再び顔が赤くなった。
そして四ツ谷駅に着いたときにリョウタから送られてきた言葉、
『愛してる。』
に由里の心は十分満たされたのだ。
生きているとき、付き合いはじめ新婚当時以外ほとんど聞いたことのない言葉。
自分自身言ったことのない言葉。
『愛してる。』
生きていた頃、夫婦となった普段の生活の中でこの言葉は当たり前のように、空気のように、分かっていることというように、二人の間で飛び交うことはなかった。
だが今、語り合えるとはいえ、決して触れ合うことの出来ない間になってしまって再びよみがえった言葉で、彼女は心に大きな安らぎと希望と勇気を得たのだった。
会社はそこのコンビニの前を右に曲がって五〇メートルほどだ。
由里が角を曲がった途端、田中と危うくぶつかりそうになった。
「きゃっ!あっ田中さん、おはよう。」
由里はつい大きな声で元気に明るく言葉をかけた。
独り者の田中はいつものようにコンビニへ朝食を買いに行くのだろう。
黒洋の担当者同士となって何かと言い寄っていた田中に、いつしか冷淡になっていた由里の思わぬ明るい言葉に驚き、しばらくコンビニの横に立っていた田中に構わず、由里は振り向き、さっさと会社のあるビルの中に吸い込まれて行った。
「おはようございまあす。」
由里の大きな挨拶に、何人かの者が驚いて顔を向けた。
社会人となり職場に入ると、幼稚園の時のように明るく大きな声で誰彼なく挨拶をすることもなく、逆に大きな声で挨拶すると場違いな感じで、周りにかろうじて聞こえるくらいの声でボソボソと声を出すものだし、そもそも挨拶をしない者も多い。
由里はにこにこしながら自分の机につくと、パソコンを起動し、ログインすると大きく背伸びをして言った。
「よしっ!」
前の席に座っていた後輩の女の子が、パソコンの蓋の向こうで背筋を伸ばして由里に声をかけた。
「どうしたんですか由里さん。今朝からご機嫌ですね?」
由里は含み笑いをしながら何も言わずに頷いた。
思えばこの子が、昼休み時間にインターネットでステレオグラムの画像を集めたサイトを見つけて由里に教えてくれたからこそ、見方を覚えてそれがリョウタとの会話に役立ったのだ。
由里は背筋を伸ばしてパソコンの蓋の向こうにいる彼女に言った。
「恭子ちゃん。お昼ピアッソに行こうか?私驕るから。」
恭子は今朝から妙にハイな先輩から、女性社員で一番人気のイタ飯屋に誘われて、ポカンとしていたが嬉しそうにこくりと頷いた。
リョウタは由里から伝わって来る活気の感情を嬉しそうに味わっていた。
幽霊になって初めての晴れやかな気分に浸っていた。
そして彼は幽霊になったもう一つの大きな目的を意思の中に広げ始めた。
自分殺人事件のことである。
由里と意思を交わすことが出来るようになったからには、これから情報量は爆発的に増えるはずだ。
由里と協力してこの事件を解決まで持って行く道が大きく開けたと言える。
由里は社内メールの確認を始めた。
ごみの捨て方のルールに関するものや、今音楽業界共同で企画されている幅広いジャンルを対象にしたコンクールの概要などのメールにも目を通した。
ようやくアミューズでも社内禁煙の方針が発表され、来期四月から社内では喫煙室を除いて全面禁煙となるらしい。
非喫煙者というより嫌煙者に近い由里にとっては歓迎すべきことだった。
そもそも今頃ようやくこのような方針を出すなど遅いくらいだ。
これも世の中の趨勢であろう。
受信ボックスを見て行くと、送信者が綿貫になっているメールがあった。
編集長からのメールである。
親展マークがついていた。
さっそく開いて読んでみると、例の黒洋と政治家との過去の黒い癒着についての新しい情報だった。
世の中は今、習志野あけみの件で沸き立っている。
今朝乗って来た電車にも、週刊誌の中づり広告に習志野あけみの写真と、先日の黒田の記者会見の時のハンカチで目を覆っている写真が並んで印刷されて、大見出しになっていた。
普段叩かれることの多い黒田は今回も管理責任を指摘される厳しい記事が多かったが、一方で記者会見で見せたようなタレント思いのプロダクション社長という世間的な同情に同調するような記事も少なくはなかった。
報道関係者としては今ホットな話題に飛びついて、最新の情報を視聴者や読者にいち早く提供することはひとつの使命である。
それはアミューズにとっても同じことだった。
見方を変えれば、世間の注目を浴びていないからこそ、逆に取材としてはやりやすくなったと言える。
編集長からのメールを読み進めて行くとこのようなことが書いてあった。
癒着は三五年前にさかのぼり、二人がまだ大阪で駆け出しの人生を送っていた頃である。黒田が車で起こした死亡事故を、まだ市会議員だった頃の堂海がもみ消したというもので、堂海はその後、中央の政界に打って出て、今やかなりの影響力を持つ政治家となっていた。
片や大手の芸能プロダクションに急成長した会社の社長であり、何かと報道ネタになることが多い黒田という事で、取材は慎重の上にも慎重を期すようにということだった。
黒洋は今様々な面で窮地を迎えようとしているのだろうか?
由里がこう思ったときリョウタが話しかけてきた。
「だが待てよ由里。習志野の件はやはりどう考えても黒洋からリークしたに違いないぞ。自分たちがリークしたということは、窮地を自分たちから演出して、本当の窮地をすり抜けようという腹じゃないだろうか?あまりにもタイミングが良すぎる。それもエンタテイメント専門のアメイZingがすっぱ抜くなんてどう考えてもおかしい。アメイZingの社長は会社を立ち上げた時、黒田社長に大きな借りがある。黒田社長は簡単にアメイZingをコントロールできるはずだ。それに、俺にはどうしても習志野あけみが自分から覚せい剤をやるようには思えない。」
由里はテロップを送り返した。
「えっ?どういう事?自分たちがリークしたっていうのは十分あり得るけど、習志野あけみが自分から覚せい剤をやらないという事は、誰かがそそのかしたってこと?それも黒洋の誰かが。」
「その線が濃いと思う。もし俺の感が正しければ、習志野は何か月も前から生贄にされるべく飼いならされた哀れな子羊ということになるな。」
リョウタはテロップを返して来た。
「良太さん、そっちに行ってから随分と刑事さんになったわね?」
由里のおどけたテロップにリョウタはこんなことを書いてきた。
「俺がそっちに行った?由里、忘れたのか?俺はここにいる。お前の中にだ!!!」
感嘆符が三つもついたテロップに由里は吹き出しながら答えた。
「あっ、そうだった。それならお家賃いただけるかしら?」
リョウタからおかしさの感情が伝わって来た。どうやら筆談をするうちに、感情さえも感じることが出来るようになって来たみたいだ。
「あの雅由里さん?何分私お足がないもんで、どうか居候させていただけませんか?」
堪えきれなくて由里はついに声を立てて笑ってしまったが、周りの視線を感じると慌てて口を押えてパソコンの前にかがみ込んだ。
次にリョウタはこんなことを言って来た。
「由里、冗談はさておき今度寺井刑事に会ってちょっと聞いてもらいたいことがあるんだけど。」
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