筆談
自宅に戻った由里は一息つくとつぶやき始めた。
「良太さんいるの?いるんでしょ?」
独り部屋の中で言葉は響いた。
リョウタは由里から問いかけを意識を通して聞いた。
『由里が俺に気付いた。』
彼は思った。
「良太さん。」
もう一度由里は独り言のように言ったが、あの記者会見で起こったことを思い出し、自分の内面に意識を集中した。
それは月も星も何の明かりもない山奥で、漆黒の闇を見つめているような感覚だった。
彼女はその中に何か見えないか瞳孔を思い切り広げたが、それでも一切の光がないような世界だった。
そして不意にあることに気付いた。
それは目のすぐ前に何かが流れているのだった。
人は真っ暗なところに来ると何かを見ようと、闇の中に視線を留め、無意識に遠くに焦点を合わせるものだが、ふと自分のすぐ目の前に焦点をさまよわせると文字が一気に見え始めた。
何かの模様が書かれた紙を目の前にかざして遠くを見るようにぼんやり眺めていると、突如浮かんで来るステレオグラムの画像のように、由里の視界に文字が次々と流れていることに気付いたのだ。
「由里俺だ、良太だ。俺はお前の中で生きている。由里俺だ、良太だ。俺はお前の中で生きている。」
まるでテレビの端に流れるテロップのように同じ言葉が繰り返し繰り返し目の前を横切って行く。
由里は顔を輝かせ叫んだ。
「見えた!良太さん見えたわ!『由里俺だ、良太だ。俺はお前の中で生きている。」
由里の心臓は胸を突き破るのではないかという程、内から胸を叩いた。
その途端文字は消え、再び由里の前に漆黒の闇が戻って来た。
思わず叫んだ時に意思が乱れ、テロップを失ってしまったのだ。
いや焦点を失うというより、ステレオグラムのだから逆に焦点を合わせてしまったのかも知れない。
由里は焦ってもう一度リョウタからのメッセージを読もうと必死に集中した。
それはリョウタにしても同じだった。今まで苦行僧のような無我の境地に至る修行を重ねて来たリョウタも思わず感激で我に返ってしまったのだ。無理もない、彼が送った言葉を由里がちゃんと読み取ったのだから。
もし生きていたらきっとガッツポーズをしたところだろう。
リョウタはここで心を落ち着かせることに専念し、心が穏やかになって来ると、再び自分の心の中にテロップを流し始めた。
由里も最初にテロップが見えた時のことを思い出し、自分に言い聞かせた。
『集中してはだめ。見ようとしてはだめ。ぼんやり、ぼんやり眺めるだけ・・・。』
しかし、見えない。
どうやっても見えない。
彼女はまだ焦る気持ちがあるのに気づいた。
さっきは見ようとして見たのではない。
さっきはどうしたのか?
『見ようとしてはだめ。ぼんやり、ぼんやり眺めるだけ・・・。』
彼女は闇の中で視線を遊ばせた。
そう、遊ばせるというのが一番適切な表現だろう。
暗闇の中に何かを見ようと焦点を合わせるのではなく、ぼんやりと待つのである。
視線を遠くに、近くに何度かやっているうちに再びテロップが突然目の前に飛び込んで来た。
「由里、俺はお前の中で生きている。俺はお前の意思を感ずることが出来る。だが、俺の意思をお前に伝えることが出来なかったんだ。伝える方法が分からなかった。だが今は違う。お前は俺からの言葉に気付いてくれた。いや、今まで何度か気付いてくれたことはあったが、そのあと何度叫んでも、もう伝えることが出来なくなってしまった。だが俺はそれができるように今まで訓練をして来たんだ。そして今日の記者会見の時に、俺の考えをお前に流してみたんだ。お前は気付いてくれた。気付いてくれたんだ。わかるか由里?」
由里は涙ぐみながら、一人で頷いた。
不意にテロップを見失ってしまったが、気持ちを切り替え再び視線を闇に遊ばせて、リョウタからの言葉を待った。
リョウタにも由里が視線を逸らしてしまったことが分かったから、途中の部分に戻ってテロップを流し始めた。
「お前は気付いてくれた。気付いてくれたんだ。わかるか由里?長い間お前の中でいろいろなことを、お前の意思を通じて聞いて来た。寺井刑事のことも、脇田刑事のことも知っている。実はあの二人にもお前に俺が憑いているように、それぞれ霊が憑いていて、彼女たちから捜査で知ったことを聞いている。脇田刑事に憑いているのは・・・・・」
そこでテロップは途切れたが、すぐに再開した。
「いややめておこう。彼女たちは反対なんだ。自分たちの存在を知らせることには。だが俺はどうしても由里に俺を知らせたくて、長い間訓練して来たんだ。それに、どうしても俺を殺した犯人を突き止めたくて、俺はお前の中で生きて来たんだ。」
リョウタは今までの経験で、言葉よりも文字の方が伝わり易いという事に気付いた。
現に由里が手紙を読むとき、原稿を書くとき、本を読むとき、意思から言葉を感ずるよりもはるかに鮮明に読み取ることが出来るのだ。
人は話す時に、聞いた言葉をイメージとして脳の中に結像すると同時に、文字にも置き換えているのだ。
これはサヨリたちと人名などの固有名詞を文字カードで伝え合うのに似ている。
だから、リョウタは今日の記者会見の時、試しに言葉をテロップのようにして由里に送ってみたのだ。
すると驚いたことに由里は見事その言葉を受け取り、記者質問してくれたのだ。
この瞬間こそが、由里が明確にリョウタを感じた瞬間でもあった。
リョウタは次のようなテロップを流した。
「由里お願いだ。今度はお前から言葉を流してもらいたい。お前と話がしたいんだ。」
由里はこんなメッセージを受け取り、一瞬戸惑ったが、すぐに試し始めた。
しかし、今まで保って来たリョウタからの通信は途絶え、アンテナの外れたテレビのようにホワイトノイズで一杯になった。
彼女は少し動揺したが、根気よく、何度も何度も呼んだ。
良太の名をひたすら紙に刻み込むように。
『良太さん。』
『良太さん。』
『良太さん。』
『良太さん。』
『良太さん。』
彼女は根気よく良太の名を心の原稿用紙に書き込んだ。
何度書いただろう、不意にリョウタから返事があった。
「由里、わかったよ。俺の名を呼んだんだな?『良太さん』って。」
由里は激しく頷いた。
これはリョウタにとって、もちろん由里にとっても、一年半ぶりに交わす夫婦の会話であった。
そしてこれは生体と零体の間に起きた奇跡的な出来事でもあったのだ。
霊から生体の意志に向かって、自分の言葉を伝えようとする努力と鍛錬。
生体の何もわからない状態から、闇の中に突如ステレオグラムの画像を見つけるに至るプロセス。
これが一致したからこそ可能になった会話なのだ。
このあと、死んだ夫と生き残った妻はテロップを交わすうちに、ほとんど苦も無く言葉を交わせるようになっていった。
由里は翌日の金曜日は会社を休み、土日の三日間をかけて、懐かしい夫との会話に専念することにした。
会話と言っても筆談ではあるが。
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