配置転換
由里の勤めるアミューズ出版社はJR四ツ谷駅から歩いて八分の所にあった。
彼女は改札を抜けると襟をたて、木枯らしが吹きすさぶ歩道を早足に歩き、会社へと急いだ。
せめて徒歩五分くらいならよいのだが、三分の差は大きかった。
鉄道が張り巡らされている世界有数の巨大都市東京では、どこへ行くにも大抵最寄り駅が五分以内の所にあるものだが、アミューズ出版社が入っているビルはどの駅からも遠く、徒歩八分の四ツ谷駅がまだ近い方だった。
この不便さの分、ビルの家賃が安いのだろう。
ようやくビルにたどり着き、エレベータを待った。
四、三、二、一
エレベータのランプがカウントダウンして、上りのランプが点滅し始めた。
エレベータのドアが開くと、田中が下りてきた。
今から朝食でも買いに行くのだろう。良太と同期の田中は四〇前だが独身だ。
出社してから朝食を摂るのが日課になっていた。
「おお由里、編集長が呼んでたぞ。」
そういって田中はそそくさとコンビニへ向かった。
由里が田中を相手にしないため、最近はこんな調子だった。
由里もこれは好都合でしつこく言い寄られることから解放されてほっとしているくらいだった。
彼女はエレベータに乗り込むと九のボタンを押した。
「何の用かしら?」
由里は皆目見当がつかなかった。
「九階です。」
エレベータのアナウンスに送られて彼女は編集室に向かった。
朝八時半なのにタバコの煙でむせるようだった。
最近の会社は分煙や、喫煙室の設置などで非喫煙者への配慮がされているものなのだが、この会社はそんなことには無関心なようだった。
彼女は手荷物を自分の席に置くと編集長の下へ向かった。
社員が五〇人ほど入る九階のオフィスの東南角に編集長の席があった。
彼女が行くと編集長はパソコンに表示した原稿に顔を向けたまま眼鏡の隙間から由里を見上げて、自分の隣のミーティングテーブルを指さして座るように促した。
彼は眼鏡を外して布でしばらくしごいたあと立ち上がり、由里の前の席に座ると胸ポケットの箱からタバコを一本取り出し、ZIPPOのライターで火を点けた。
このライターは彼のこだわりの一つなのだ。
彼は煙を大きく吸い込むと首を横に向けてふーっと吐いた後、由里に目線を戻した。
「編集長?私に何か御用という事でしたが?」
由里は切り出した。
編集長はタバコの灰を目の前の灰皿にトントンと落とすとこう切り出した。
「雅君、今度社会部の連中を手伝ってやって欲しいんだが?今社会部では芸能界の一大スキャンダルに発展しかねない情報を掴んで密かに調査をしている。この情報を掴んているのは恐らくうちだけだ。だがうちの社会部じゃ人手が足りなくてね。」
由里は眉間に皺を寄せて編集長の顔を見つめて言った。
「一大スキャンダルですか?」
編集長は何も言わず頷くとタバコを灰皿に押し付けてもみ消した。
由里に顔を近づけるとタバコ臭い息を吐きながらこう囁いた。
「どうやら黒洋がある大物政治家とよからぬ関係だったらしい。」
その辺りに人はいなかったし、別に小声でささやかなくとも、ここにいるのは編集長と由里だけだし、社内機密に関する規則もわきまえているのだが。
「黒洋芸能プロダクションズがですか?」
由里も編集長に合わせて小声で囁き返した。
編集長は何も言わず頷いて由里をじっと見つめていたが、更に由里にとって意外なことを告げた。
「それと雅君、きみ黒洋と何かあったのか?」
由里は何のことかわからず編集長に聞き返した。
「どういう意味ですか?」
編集長は少し考えていたが意を決したようにこんなことを言った。
「実はこの間、黒洋の新人デビュー披露会へ行ったんだが、黒田社長が君のことについて外して欲しいような事を言ってな。それに先日の『エンタワールド一月号』の記事で、黒洋というか社長本人について気に入らない記事があったと言っていた。黒田社長が毎晩銀座で数百万円ばらまいているという記事だ。」
「あの記事は田中さんが書いたんですよ。それに編集長も目を通してらっしゃるでしょ?」
由里は食ってかかった。
由里の剣幕に編集長は思わず身を引いて両手を広げてなだめるように振った。
「まあ落ち着け。もちろん俺も読んだ。あながち嘘でもないからな。毎晩かどうかはわからんが・・・」
「でしょ?私も田中さんに毎晩ですか?って聞いたんですけど、田中さんその方が面白いからって・・・」
由里が続けた。
編集長はニヤリと笑って言った。
「雅、このことは気にするな。うちは散々黒洋さんには世話になっているが、さっきの件もあるんで、ここらで少し距離を置きたいと考えているんだ。そうしないと例の件で黒洋が火を噴いたとき遠慮なく叩けんからな。ここはひとつ泥を被ってくれ。まあ黒洋の件は田中にやらせておけばいい。御用聞きくらいであいつはちょうどいいからな。それに・・・。」
「それに?」
編集長が言葉を切ったので由里の方から聞き返した。
「それに、黒洋に詳しいお前が社会部にいてくれればなにかと都合がいいのもある。」
なるほど良太がいつも編集長は狸だと言っていたのを、このとき由里は実感した。
別に編集長の名前が綿貫だからというわけではないのだ。
編集長との話が終わり自分の席に戻った由里は天井を見上げてしばらく今後のことを考えた。
金魚の銀ちゃんに憑りついてしまったリョウタはまだこのことを知らない。
彼はその頃、銀の意識の中で由里に戻る準備を念入りに練っていた。
練ると言っても、銀に憑りついてしまったときのことを必死に思い出そうとしていたのだが、こればかりはやろうと思ってやったわけではないので骨の折れる作業だった。
実際、骨を二、三本折れるものなら、その方が楽かも知れないと思う程だ。
何せ失敗すれば自然の気に飲み込まれ、めでたく成仏となるのだから。
彼には一つ記憶が残っていた。
由里に高橋のことを告げようとしたとき、由里の方から自分の名を呼んで来たあの時。
彼はそれまで何度となく失敗して来たひたすら喚くことをやめ、無心に徹した。
自分を自分の中に深く沈めて、更に沈めて、まるで深海探査艇が五千メートルの海底に沈んで行くように、無心という言葉ももう湧き起らない程深く沈んで行ったとき、一つの光を見たような気がした。
彼はその光に導かれて行った。
まるで提灯アンコウの灯す光に導かれる小魚のように。
そして目覚めた。
アンコウではなく和金の意思の中でだ。
恐らく真の無我の境地に至ったとき、由里以外の魂の光である、銀の魂に引き寄せられてしまったのだろう。
だから、由里に戻るときはこの逆、銀以外の魂の輝きである由里の魂の灯を頼りに進んで行けば由里に辿りつけるはずだった。
最も無我になったときにこの意識が働くかは別問題だった。
そうしようと念ずることは即ち無我ではないのだから。
そのとき急に銀が身をよじった。
水槽の明かり以外に部屋の明かりがついたのだ。
由里が戻ったのだろう、銀のうれしい気持ちが手に取るように分かった。
銀は部屋の明かりがつくともうじき餌がもらえると知っているのだ。
「おいおいギン、そんなに興奮するなよ。そんなに興奮してちゃ無我になれないじゃないか?」
リョウタの言う通り、銀が興奮するとその意思が沸騰し、容赦なくリョウタに浴びせかけられるのだ。
だがリョウタはそれでも無我になろうとあの時のように自分を沈めた。
深く、深く。
由里へ、由里へ。
意思のやり取りもしやすいし、視覚もある程度共有できるし、金魚とともに暮らすのもまんざら悪いことではないのだが。
だが彼は由里に戻らねばならない。
そして由里の中で、銀の中でできたことを実行に移すのだ。
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