金魚の気持ち

かつてリョウタが銀座のペットショップで他の肉食魚などの餌として売られていた、餌金と呼ばれる和金を買って帰り、それ以来八年間も生き続け、今や十五センチは裕に超えるほど巨大に成長した銀ちゃんに期せずして憑りつくことになった彼は、今や日々食べ物を求めて水槽の中を気ままに泳ぎ回る存在となっていた。

リョウタは生きていた頃、この銀ちゃんに餌をやりながら、よく思ったものだ。


『金魚はいいよな。一日何もせず毎日餌だけ食ってりゃいいんだからな。』


しかし、彼は今その思いを後悔していた。というより銀に申し訳なさも感じていた。

結構金魚業も辛いのだ。

金魚になってみて一番敏感に感ずることは温度だ。

魚類は人間よりも温度に敏感だという。聞くところによると人の三倍の感度を持つらしい。つまり夏に気温が昨日より三度上がれば、人は『今日は一段と熱いな。』と感ずるところ、金魚にしてみれば九度も上がるわけで、たとえ銀ちゃんが類まれなユーモアのセンスのある金魚だったとしても、『今日は三段と熱いな。』などと冗談を言う気にもならないほど、死活に関わるほどの激変になるのだ。

銀の水槽にはヒーターが取り付けてあるから、冬の水温は一定に保たれるが、夏にはクーラーが付いているわけではないので、外気温に比例して水温も上昇するのだ。

ただ水温の温度変化は気温に比べてなだらかなため、急激な温度変化は緩和されるのがせめてもの救いではあるが、逆に上がってしまうと、元の快適な水温に戻るのも遅いということにもなるのだ。

もちろん金魚が『熱い!』などというわけではないが、『熱い』という感覚は持つから、霊であるリョウタには『熱い!』という言葉として伝わってくることになる。

これはサヨリたちとの会話となんら変わらないのだ。

動物と会話ができるというは、霊となってみて結構よかったと思うことの一つだ。

無論『よかった』というのもおかしな言い方ではあるが。


もう一つ驚くべき発見があった。

それはリョウタから銀に対して意思を伝えることが出来ることだった。

当然リョウタの言葉を銀が理解する訳ではなく、意思を銀が感ずるのだが、人間と異なり生きるための様々な雑念がないため、すんなり受け入れることが出来るのだろうとリョウタは考えていた。

なんと言っても、行動や周りの出来事に関することについての思いをイメージとして双方で共有できることは便利だった。

さすがにギ・ンという文字を送っても銀には理解できないが、魚には魚なりの自分という観念があるから、ギ・ンと呼びかけるときに、銀の自分という観念をイメージすることにより、銀は自分が呼ばれたことを認識してくれるようになっていた。

リョウタは銀と会話をしてみて新たなことが分かった。

結構魚は水槽の中から外を観察しているのだ。

また更に良いことは銀の視覚も共有できることだ。

魚の認識できる色は赤や黄色のような色が主で、かなり映像的には品質が劣るが、外の景色を判別することは可能だった。

現に妻の由里の姿を一年半ぶりに見ることが出来た時は、感激で流せない涙が流れたと思う程だった。


「なあギン?あの光るものがお前の住処に飛び込んで来た時の事を覚えていないか?」

ある日リョウタは試しにこのようなことを聞いてみた。

すると銀はぶるっと体を震わせたが何も答えなかった。

しかし、しばらくするとあるイメージが伝わって来た。


シャッという音。

急に明るくなり、黒い影が部屋の中を動き回る様子。

黒い影が水槽の近くまでやって来て、動く様子。


恐らくこれは犯行時に銀が見たものに違いない。

銀もこの時のことは、魚なりに印象に残っていたのだろう。

なにせそれ以来、自分のねぐらにおかしな長いものが居座ることになったのだから。

魚に人間の顔を認識する能力はないから、物の形としてしか伝わってこないし、随分前の記憶で、ピントの外れた写真のようなイメージだったが、なんとなく犯人像のイメージは伝わって来た。

目撃証人の乏しいこの事件の唯一の目撃者は金魚の銀であるということになる。

そして、その銀の記憶を共有できたリョウタも新たな目撃者となれたことを意味していた。


由里が寺井から見せられたビデオで、カーテンに映った人物と同じものだろう。


リョウタは銀から送られてきた犯人のイメージを何度も何度も自分の中で再生してみた。

どこかで見たことがあるような、ないような、面はゆい感じではあるが、なぜか心に引っかかるものがあるのは確かだった。

どこか歯の奥に挟まったものがなかなか取れない気持ちと似ていた。


そのとき水槽の水中ポンプの音が止まった。

食事の時間である。

由里が餌を撒くために、スイッチを切ったのだろう。

銀の心の中にうれしい感情が満ち溢れ、さっそくいつも餌が撒かれる場所に一目散に泳ぎ始めた。

銀の視界から水に浮かぶ餌と、そこから漂う香しい匂いが伝わって来て、彼は無心に餌を口の中に吸い込んでいった。


リョウタは銀の視界の向こうに見える何かに気付いた。

それは何かの影で、水槽の向こうに大きく映っていた。

金魚の赤や黄色に敏感な視覚を人間も同じ色に感ずるわけではなく、光の濃淡で描かれた形だが、リョウタにはそれがすぐに由里の顔であることが分かった。

彼女は長年一緒に暮らして来た金魚の銀をじっと観察しているのだろう。


そろそろ彼女の体に戻ることを実行に移す時が近づいている。

いや戻らなければならない。

そのためにこの数週間の間、銀の体に憑りついてしまったときのことを思い出し、来た道を逆に辿る方法を模索して来たのだから。


それにもう一つ彼には思惑があった。


それは銀とお互いに意思の疎通を行った経験から、人間の由里とも行えるかも知れないという期待であった。

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