憑依
そろそろ落ち葉が目立ちはじめ秋も深まり、仕事から帰る道すがら、肌寒さを感じる季節になった。
彼女はソファのテーブルにコーヒーカップを置くと、マンションのメールボックスに届いていた島根の義母からの手紙の封を切った。
*――――――――――*
由里さん
お変わりありませんか?島根はもう凍えるような寒さで、今年もまた年寄りにはつらい季節がやって来ました。
先日お電話いただいた、水槽で見つかったネックレスの件、啓太ともども大変驚いています。
やはり良太が知らせてくれたのでしょうか?これが手掛かりとなって、一刻も早く犯人が捕まることを祈っています。
所で実は、良太もよく知っている高校時代に一緒に野球をやっていた方の奥さんが五年前に癌で亡くなり、現在もお独りとのことです。
とても良い方で、よく家にも遊びに来ていました。
良太ともウマが合ったようで、何かと一緒に飛び回っていました。
由里さんからお電話をいただいたとき、ふとこの方なら由里さんも再婚して、今度こそ幸せになれるのではないかと思い立ちお手紙しました。
きっと良太も喜んでくれると思うし、こちらの方と再婚すれば、あなたも遠い人ではなくなるのではと思ったりもします。
ごめんなさい。年寄りのわがままですね。
一度考えてみてください。
これからもっと寒くなります。体に気をつけて元気にお過ごしください。
雅 淑子
*――――――――――*
由里はにこりとして手紙を読み終わり、自分のことをこんなに案じてくれている島根の母に感謝した。
彼女はカップに残ったコーヒーを飲み干すと、ふーっとため息をついてソファにもたれかかった。
実は昼間に寺井から電話が入り、例のネックレスの調査の状況のことだった。
扱っている店はやはり東京でも五店ほどで、他県では扱っていないとのことだった。同じ型のネックレスの購入者リストの提供を受け、それぞれ身辺調査をしたが、良太に繋がるような関係は今のところ見つかっていないとのことだった。
あの遺留品がもとで一気に捜査が進展するのではないかという彼女の思いは打ち砕かれてしまった恰好だった。
そうはいっても、まだまだ希望は捨てられないが。
寺井たちは製造元のメリー・パリジェンヌという会社に持ち込んで鑑定してもらったが、他の同型のネックレスと別段変わった特徴は見つからなったとのことだった。
『そうか、これで俺ももうすぐ浮かばれると思ったんだが、そう簡単にはいかなかったんだな?』
そう思ったリョウタは慌てて思い直した。
『いや、俺は成仏しないぞ。由里と一緒にいるんだ。』
生きた者の意思を感ずるのは、声で話すよりも、文字を通しての方がはるかにやりやすかった。
人は文章を読むとき、頭の中でイメージを描くのみで、自分から言葉を発する思念もなく、ひたすら読むことに集中するからである。
だから、由里から送られてきた自分の母親からの手紙は自分で読むように理解できた。
『お袋いいアイデアだ。高橋なら俺も大賛成だ。比べちゃ高橋に申し訳ないが、田中なんかが言い寄ってこないように、早く高橋と再婚してしまえ。』
とリョウタは念じた。
由里は田中に対して、黒洋芸能プロダクションズの同じ担当記者という間柄以上の関係は持たず、うまくあしらっていた。
もっとも、由里は頭のいい女だ。田中の本性をすぐに見抜いてしまったのだろう。
そのときまた由里がビクッとしてソファから身を起こして、辺りを見回した。
彼女は天井の明かりを見上げ、窓のカーテンに振り向き、水槽の金魚に振り向き、夫が倒れていた場所をじっと見つめた。
「あなた?良太さん?良太さんいるの?」
由里は一人の部屋で独り言を言った。
実際一人なのだが。
「再婚?」
彼女は周りを見回し、必死に呼びかけていたが、それっきり何も聞こえなくなった。
それはリョウタも同じだった。必死に思いを伝えようとしたが、それっきり彼の言葉いや意思が彼女に伝わった様子はない。
しかしリョウタはこれで何度目かの意思の伝達であり、以前のように心の中でわめき散らすのはやめて、心を落ち着かせて今の思いを心の奥に封じ込むと無心になることに努めた。
由里からの意思の波が洪水のように押し寄せたが、リョウタはひたすら無心になることに集中した。
いや、無心になろうと集中すること自体無心ではないのだということにも気付いていた。
だからあの時のように、濃霧とラジオのノイズの中に自分を置いた。
ただそこに自分はいる。いるというより、自分の存在自体を感ずることもなく、自分を消した。
時間の感覚も、場所の感覚もなく、己の意思もなくどのくらいそうしたのだろうか?
そしてようやく彼に自分が戻って来た。
周りは初めて目覚めたときのように薄暗い場所だったが、ラジオのノイズは聞こえず、唸るような響きと、ボコボコと泡立つような音が聞こえた。
彼は目覚め由里の意思を探したが、どういうわけか由里をどこにも感ずることができなかった。
彼に伝わって来たのは説明しようのない、単純な意思だった。意思と呼べるものなのかもわからない。
ただ前に、上に、下に。
食べるものはないか?
そんな意思。
由里の意思とは全く異質の意味不明な意思だった。
リョウタは混乱していた。
『自分はどうしてしまったのだろう?ここはどこだ?由里はどこに行ったのか?』
彼の自問自答はやまびこのように自分にはね返ってくるだけだった。
やがて、さっき感じた何かの意思のようなものを感ずることもなくなり、唸りと泡立ちの音だけが彼に届く唯一のものとなった。
由里に自分の意思を伝えようと無心に徹した結果、由里から途絶してしまい、感ずることさえできなくなったのか?
また最初からやり直さねばならないのか?
彼は説明のつかない事態に心が乱れた。
しかし理解しようにも理解できない状態に落ち込んだ彼だが、やがてどうにか落ち着きだけは戻って来た。
『由里が俺に語り掛けてきた。』
この思いが彼に勇気を与えた。
『由里が俺の存在に気付き始めている。』
この思いが彼に力を与えた。
『あともう少しで意思を通わせることが出来るかも知れない。』
この思いが彼に希望を与えた。
「はい、雅です。」
電話の向こうに義母の淑子の声が聞こえた。
「あっ、お義母さん?私です。由里です。」
「ああ由里さんどうしたんね。何かあったんかね?」
淑子の声に由里は一瞬声を詰まらせたが、気持ちを落ち着かせるとこう切り出した。
「夜遅くすみません。実はちょっとお伺いしたことがありまして。実はあの・・・・『タカハシ』って誰かご存知ですか?」
淑子はすぐに答えた。
「その人なんよ。良太の高校時代の友達って。誰から聞いたんね?手紙にはまだ名前は書かんようにしとったのに。」
「良太さんです。良太さんが教えてくれたんです。」
一瞬途切れて淑子の驚きが電話を通してもはっきり分かった。
「良太が?良太が教えてくれた?どうやって?」
矢継ぎ早の淑子の声が受話器に響いた。
「お義母さんからの手紙を読んでいたら、心の中に突然『再婚』という言葉が聞こえて、次に『タカハシ』という文字が浮かんだんです。
私、前から良太さんの声を聴いたような気がして振り向いたりしたことがあるんですが、今日は今の言葉が浮かんできたんです。
だから、お義母さんに電話をして確かめようと・・・・」
二人はそのまま電話機を握りしめたまま、しばらく黙ったままだった。
「良太の幽霊が由里さんに話したんやろうか?」
しばらくして淑子の方からこんな言葉が返って来た。
「そうかも知れません。もしかしたら良太さん、私のそばにいてくれているのかも知れません。」
由里の詰まった声が答えた。
「で、他になんか言うとらんかったかね?」
淑子が聞いてきた。
「いえ、でもそれっきりもう何も聞こえて来ません。私の錯覚なんでしょうか?でも、『タカハシ』という名前は確かに心に浮かんで来ました。」
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