第20話 初恋の君

「…っ、さっきから無茶ばっかり言わないで下さい!」

「何が無茶なものか?ほれ、こうやって、こうして、こうじゃ!」

「あっ、いた!痛い痛い、離してーーぇ。」


 洋次さんがどんな凄い喝を入れたのかは知らないけど、お屋形様はスッカリ元のお屋形様に戻り、最近ハマっているレスリングの技を俺にかけては、俺が痛がるのを見て楽しんでいる。


「いい加減になさいませ!新太が痛がっているではありませんか!」


 お濃さんのレフリーストップがかかるまで、やめてくれない。


「ちっ、面白うないのう…。」

「痛いのに面白いわけないでしょ!」

「殿、その様に乱暴な真似事ばかりされるのであれば、赤子を抱かせられませぬよ!」


 この一言は母さんがお濃さんに授けた知恵。

 お調子者の父さんにも使っている手である。


「えっ?」

「当然です!」

「儂が悪かった。すまん、すまん。」


 俺様武将のお屋形様が直ぐに謝る様になった。

 これは父さんがお屋形様に授けた知恵。

 女という者は子供が出来ると強くなり、妊娠中は何かと気が高ぶるものだから、とにかく謝り言う事を聞いてやるのが平和な家庭を築く秘訣らしい。

 確かに父さんは母さんに対して直ぐに謝る。

 悪い、悪い。ごめん、ごめん。ほぼ口癖だ。口癖で謝られてるからあまり重みはないのだが、殆どの事態は大事にはならずに済んでいるので、悪い手ではないのだろう。


「それより、今日は病院でお産の練習をする日であろう?そろそろ支度せねばのう。」

「殿、行ってくださるのですか?」

「当然ではないか。大切な妻子の為じゃ。ひとつ家族の絆を深めようではないか?」

「殿、嬉しゅうございます。」


 ここが肝心なのだ。

 謝った後は話をすり替え、自分の非を忘れさせる作戦。

 しかし母さんはここまで読んでいるので、自分の要望を受けいれて貰いたい時には、わざと小さな事で怒っているみせるそうだ。


「ところで父上は何をされておる…?」


 縁側で枕を抱えユサユサしている親父を見て、お屋形様は怪訝そうに顔をしかめた。


「父上は赤子が産まれた折にあやす練習を、枕でして下されているのです。」

「ほぅ?」

「父上は誠に情の厚いお方。有難いことに御座います。あんなにも我が子を待ち望んでいただけて、殿も少しは見習っていただきとうございます。」


 親父はお濃さんに気に入られたいだけだと思うが…?お濃さんには効果があった様だ。

 不覚にも俺は親父とお屋形様が並んで、枕を抱え赤ちゃんをあやす練習をしている姿を想像してしまった。

 もう、家族とは思いたくない…。不気味すぎる。



「ただいまーーっ。」

「マリーちゃん、おかえり。どうだった久しぶりの東京は?」


 ポイ! ドサッ!

 親父は赤ちゃん枕を無造作に投げ捨て、マリーちゃんに駆け寄った。


「父上ーーーーーーっ!赤子が、赤子が死んでしまいまするぅぅう!!!」

「あっあっあぅ」


 お濃さんの悲痛な叫びに親父は、珍しく狼狽え、枕とマリーちゃんの間であたふたしている。


「父さん幼児虐待?」

「ぶぁかっ!人聞きの悪こと言うな!」

「お濃さん、父さんなんかに任せちゃダメだよ。ポイ捨てされるよ。」

「ただの枕じゃないか!」

「ただの枕ではありませぬ。この枕は赤子に見立てたもの。父上を信じておりましたのに…、私は、私は悲しゅうございます!」

「そんな…、ノンちゃん…。」


 お濃さんは赤ちゃん枕を抱え泣崩れた。


「ノンちゃん大丈夫よ。いくらそそっかしいパパでも、本物の赤ちゃんを投げ捨てたりしないと思うわ。」

「安心できませぬ。シクシク…。」

「ねぇ見て。拓海のママンと東京でお買い物して、赤ちゃんのお洋服とかオモチャを沢山買ってくれたの。」

「まあ!なんと愛らしい。拓海の母上にまで気をつこうて頂いて、この子は幸せ者にございます。」


 お濃さんは赤ちゃん枕をユサユサしながら、赤ちゃんグッズを嬉しいそうに眺めた。

 親父の言うとおり妊婦の気分は、本当にコロコロと変わりやすいようだ。


「みーんなで赤ちゃんを見守ってるから、パパもうっかりポイ捨てできないわよ。安心して。」


 お濃さんは、チラリと親父を見る。


「父上には抱っこさせませぬ。」

「そんな、ノンちゃん…。」


 お濃さんはまだご立腹のようだ。


「お濃、そろそろ病院に行く支度をした方が良いのではないか?腹もまた大きゅうなったのじゃから、赤子も一段と可愛らしくなっておるであろう。帰りにかふぇいで其方の好物のぱっふえでもしょくそうではないか?」

「誠にございますか、殿?直ぐに支度致しますゆえ。」


 ドサッ


 お濃さんはお屋形様の言葉に嬉々として立ち上がり、赤ちゃん枕をパッと手放した。


「ノンちゃん赤ちゃん枕が…!」


 親ジィーーーィ、空気読めよ!

 折角お屋形様がホローしてくれたのに、そこ突っ込んじゃあダメなとこだろ?


「ただの枕ではありませぬか。」


 お濃さんはチラリと落とした枕を見やり、親父を見てそう言うと、スタスタと立ち去った。


 妊婦の気分はコロコロと変わりやすい。

 変わり過ぎやろ⁈


「やだ、天日干ししてた枕がペッシャンコになってるじゃない?」

「干してたんだ?」

「お父さんの加齢臭が酷いから干してたのよ。ちゃんと干しててよ。」

「…。」


 以来親父の赤ちゃん枕に触れる者はいなくなった。

 22年間親子をしてきた中で、親父の事が小さく見えた昼下がり。


「そうだわ、今日は紗綾ちゃんも一緒に帰って来たのよ。途中でお友達と会ったからお茶してから帰って来るって。」


 マリーちゃんも拓海と話し合ったらしく、以前の明るさや女王様らしい我儘を取り戻した。

 五か月振りに彩綾が帰って来たとなると、我儘女三人で騒がしくなるのは間違いない。

 何故か胸騒ぎがする…。


「お父さん、そろそろ銀行の方が来るころだから、蔵に戻りましょうか?」

「ああ、そうだな。新太、店番頼むな。配達の準備しといてくれ。」

「はーい。」


 お屋形様の特訓のおかげで少しづつではあるが体力のついた俺は、配達の準備を任されるようになった。

 だが、うっかり手を滑らせて酒瓶なんかを割ってしまうと、給料から代金を引かれ弁償させられる。

 給料といっても家賃や食費や保険料などを引かれ、実際手元に入るのは小遣い程度だ。

 そもそも実家に住んでいるのに家賃を支払う必要があるのだろうか?

 頼んでもいないのに勝手に保険に入って、受け取りは無論親父である。その保険料は俺の僅かな給料から取り上げるのは如何なものか?

 糸里酒造はブラック企業だ。


「こんにちは。翼玻璃よくはり銀行でございます。」


 翼玻璃銀行は糸里酒造のメインバンクだ。

 小学校の頃、クラスに翼玻璃銀行の支店長の息子がいて、同級生からは当然のごとく「よくばり」と呼ばれていた。

 まぁ実際欲張りな奴ではあったのだが。


「こんにちは。親父達なら蔵の方にいるんで、そっちに行って下さい。」

「糸…里…くん?」

「えっ?」

「新くんでしょ?久しぶりぃい。こっちに戻ってたの?」

「えーーっと、ごめん、誰だっけ?」

「意外に薄情者だったのね?初恋の相手を忘れるなんて…。」

「えっ…?」


 俺の初恋の相手?初恋…。目鼻立ちをマジマジと見る。やや赤みがかった後ろで束ねた髪を黒髪のストレートおかっぱヘアーに置き換えて想像した。

 まさか?

 いやいやいや、こんなに目がデカかったっけ?

 胸だって…。


「息子さんと知り合いなの?」

「同級生なんです。」

「じゃあ、私は先に社長さんにご挨拶に伺うから後でいらっしゃい。」

「すみません。この人が思い出したら、すぐに行きます。」


 一緒に来ていた連れの女性は、気をきかせる様に先に蔵へ向かった。


「まだ思い出せないの?」


 さあ、さっきヒントをあげたでしょ。サッサと答えなさいよと目が言っている。


「あっ、いや、もしかして岡野さん?」

「やっと思い出してくれた。私ってそんなに変わった?」

「うん、そんなに胸小さかったっけ?」

「はあぁ?」


 しまった!

 そんなに目がデカかったっけ?って言おうと思ったのにぃ!


「ごっごめん!あの頃男子がみんな岡野の胸デカいって言ったから…。」

「そんな事言ってたの?」

「あわっ、決して悪口じゃなくて褒めてたんであって、断じていやらしい意味とかじゃなくて…、思春期の中学生にはその…。えぇーーっと、」


 ああぁーーっ、もう何言ってんだ俺!

 余計墓穴掘ってんじゃねーーか!


「新くん、相変わらずね。中学の時と全然変わってない。」


 目を三日月にして肩をすくめクスクス笑う。その笑い方は中学の時の岡野さんのままで、少しホッとした。


「男は化粧もしないし、髪型だってそんなに変わらないよ。」

「外見のじゃなくて中身。」

「…っ、あの時のことはもう忘れてくれよ。自分でも思い出すと恥ずかしいんだから。」

「いやよ。それより今度ご飯でも行こうよ。同級生は殆ど東京に行っちゃったから、こっちに戻っても友達いなくて寂しかったんだ。」

「ああ、そうだな。」


 俺も伊豆に戻ってから忙しくて気にとめていなかったが、町で同級生にバッタリ出くわすのは、あまりなかった。

 お屋形様達が一緒に暮らしていて、毎日騒がしくしていたし、拓海とたまに会っていたせいか、友達と会えなくて寂しいと感じたりはしなかった。

 また会う約束をして互いの番号を交換した。


「新太ーー、パパが呼んでるわよ。」


 マリーちゃんが声をかけながら、こちらに向かってきた。

 岡野さんは振り返り、チラリとマリーちゃんを見た。


「私も行かなきゃ。先に行くね。」


 岡野さんはすれ違いにマリーちゃんに会釈をする。マリーちゃんはいつもの様に片足引き綺礼した。


「可愛い子ね。知り合い?」

「中学の時の同級生だよ。」


 蔵の方へ向かう岡野さんを見送りながら答えた。


「ふーん。店番代わるわ。」

「もう配達の準備すんでるから、店番よろしく。」

「はーい。」


 蔵の事務所に入ると狭いソファに両親と岡野さんと一緒に来た女性が座っていたので、事務机の椅子を持って来て座った。

 改めて挨拶を交わし、名刺交換をする。

 その女性の名前は戸波香穂さんといった。

 名前のイメージ通り柔らかい物言いをする。


「新太、この書類にサインしろ。」

「こちらにご住所とお名前を頂けますか?」


 戸波さんにペンを渡され、ぼんやり書類の指差された場所をみながら、ペン先を当てる。

 待て、待て俺。いいのか簡単にサインなんかして。この親はただでさえ少ない給料から、今度はなんの金をさっ引こうと企んでいるだ?


「はぁ、これ何の書類?」

「借入金申し込み書でございます。」


 借入金…?

 戸波さんが指差した書類の一番上には、確かに借入金申し込み書と書かれている。

 なんで俺が借金なんかせにゃあならんのだ?


「なんで俺が銀行に借金するんだよ?」

「新酒を製造する為の設備が必要でしょ?」

「いくら?」

「5千万の貸付を検討させて頂いております。」

「5千万ーーっ!」


 俺は驚きのあまり思わず椅子から立ち上がった。

 5千万って、5千万って…、俺は今にも口から泡を吹きそうになった。


「俺の給料の手取り78050円なんだぞ!そんなそんなセコい収入からどーやって5千万の借金返済できんだよ?自慢じゃないけど今の俺には5千円でも大金なんだぁーーーっ!」


 俺は他人様の前で、いや、岡野さんがいるのも構わず我を忘れ激昂した。


「落ち着けよ。」

「落ち着けられっか!親父が社長なんだから親父が借りればいいだろーうが!」

「俺たちはさぁ、もう歳だしなぁ。これから先5千万の返済なんてなぁ。暗い老後じゃん?」

「だからって俺に5千万も貸してくれるわけないじゃないか?」

「その点はご心配無用ですよ。社長様が連帯保証人になって下さいますし、新太様が糸里酒造の後継者と決定しておりますから。」

「いやだ!絶対いやだ!なんで俺が…。」


 俺は死刑宣告でもされた様に半泣きになって拒否した。


「あの新酒はお前と母さんが発案したもんだろ?その為の資金なんだぞ。現社長の俺が借入してもいいんだが、後継者としてお前が責任を負ってやらなきゃいけない事業なんじゃないのか?」

「でも…。俺にはまだ無理だよ。そんな責任負う自信なんかないよ。」


 親父が期待してくれてるのが分かって、怒りがヒートダウンしていった。


「一旦出直し致しましょうか?もう一度よく話し合われた方がよろしいでしょう。」

「はい!そうして下さい!100年先に出直して下さいっ‼︎」

「お前って奴はーーっ!」

「ぷっ、ぷはははーーーっ」


 岡野さんが急に笑いだす。

 この空気の中笑いだすなんて…、全員がキョトンとした。


「ほんと相変わらずね。中学の時から全然成長してない。全国でも名高い銘酒の糸里酒造の後継者になったと聞いて少しは期待してたのに、ほーーんと残念な人。」

「なっ?」

「だってそうでしょう?蔵人なら誰だって自分の酒を造りたいって夢みるもんじゃないの?普通はなかなか借りれないのに貸したげるよって言ってんのに、それをたった5千万ぽっちの借金でオロオロしちゃって。」

「岡野さん、いい過ぎじゃない?」

「いいんです。この人昔からそうなんです。いつも自分に自信がなくてチャンスをものに出来ないんです。そうよね?新くん。」

「くっ…。」


 さすが同級生。痛いところを突いてきやがる!


「えーーーっと、なんだっけ?俺は岡野さんのことが、ずっ、ずっ、」

「やめろーーーっ!

 なんでここでそんな昔話持ち出す!忘れてくれって言ったやろーーっ。」

「いやよって言ったでしょ?意気地なしの新くん。」

「おまえなぁ、いい過ぎやろ?」

「どこがよ?なんなら続き聞いてもらう?俺とぉ、おっおっ、おつ…。」

「やめんかい!」

「やーい、意気地なしの新太。さっさと書類にサインして初恋の彼女に男気ってやつ見せなさいよ!」

「おおっ、書いたるわい。サインくらいしたるわい!」

「ちゃーんと字かける?住所覚えてるかなぁ?」

「うっせー!」


 俺は岡野さんの挑発にまんまと乗せられ書類にサインしてしまった。

 そのことに気付いた時には、全て書き終えた書類を破棄する間もなく、サッと取り上げられた。


 その後、俺に話しかける者は誰もいなかった。

 これから先の俺の人生は借金地獄である。




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