第21話 推定7千万の男

 勢いで5千万もの借金を負ってしまった俺は、ショックから立ち直れず仕事を休み部屋でグッタリしていた。

 落胆して黙って蔵から出ていく俺を、親父たちは何も言わず引き止める事もなかった。

 ただ蔵から出てドアを閉めた時に両親が、声をころして笑うのを聞き逃す事はなかった。


 ちくしょーーーっ!


 きっと岡野に煽られた時の事を笑っているに違いない。

 あの人でなしの性悪女。あんな女が初恋の相手だったなんて、子供だったとはいえ好きになった自分が許せん!

 俺の頭の中では諭吉に囲まれて岡野が爆笑している。


「今晩は。」

「岡野さん。昼間はどうも。何か忘れもの?」

「いえ、昼間のお詫びと今後の新太さんの資金運用管理を私が任される事になりまして、そのご報告と承諾を頂きに参りました。」

「あら、それは頼もしいわ。」

「宜しいんでしょうか?ご両親の前であんな酷いことを…。」

「クスッ、確かに。それも同級生だから言えることよね。クスッ。後は新太次第ね。」

「本当に失礼な事を、申し訳ありませんでした。それで、新太さんは…?」

「かなり落ち込んじゃってね。部屋にこもっちゃったの。たぶん呼んでも出てきやしないだろうから、直接部屋に襲撃しちゃいなさいよ。」

「じゃあお言葉に甘えておじゃまします。」

「どうぞ。でも今日はもう攻めないでやってね。かなりナイーブになってるから、明日も休まれると困る。」

「はい。」



 トントントン…。


 誰かが階段を上がってくる足音がする。

 彩綾かな?

 今日はもう誰の相手もしないからな。

 寝た振りしてやる。


「糸里くん、岡野だけどちょっといいかな?」


 ナニ?岡野⁈

 今、世の中で一番会いたくない岡野?

 一生会いたくない岡野か?

 無視だ、無視無視


「お邪魔しまーす。」


 えっ⁈


 カチャッ、キィーーッ


「勝手に入ってくんなよ!」

「ちゃんと声かけたわよ。」

「返事してないだろうが!」

「だから入って来たんでしょ?」

「なんなんだよ、まだ俺をいたぶり足りないのかよ?サッサと言いたい事言って帰れ!」

「謝りに来たのよ。ごめんなさい。ちょっと言い過ぎました。」

「ちょっとだぁ?あれがちょっと言い過ぎましたのレベルか?こっちはおかげで5千万の借金させられそうなんだぞ。そのちょっとが5千万だぞ、5千万。どこにそんな大金あんだよ?」

「銀行。」

「アホかお前はぁ?でもまぁいいわ。親が連帯保証人になったからって、俺に信用なんてないから、どうせ貸してくれっこないもんな。」

「それが貸してくれるのよね。」

「フン、お前は銀行員になって間がないから、常識ってもんが分からないんだろう?いいか今日書いたのは5千万貸して下さいって申し込み書。そっから銀行の偉い奴が審査して貸すかどうか決めるんだよ。貸すには相手の資産とか収入とか将来性を見るんだ。自慢じゃないが俺には何もない。結局親父が金を借りる事になるさ。」


 どうだ参ったか!

 拓海に相談して良かったぜ。やっぱ頼れるのは男の友情。断じて初恋の性悪女ではない。


「よく調べたわね。偉いわぁ。これで話しがしやすくなる。はい、コレを見ながら話しましょ。」


 岡野から数枚の用紙を渡された。


「今日から私が糸里新太様の資産運用管理を任されました。宜しくお願い致します。」


 岡野が改まって深々と頭を下げる。

 俺の資産運用管理って?あの雀の涙以下の給料の管理をするってか?

 まだ俺から絞りとるのか?


「まず一枚目の用紙ですが、これは新太様の預金残高です。」


 ああ毎月給料から三万円天引きされてるやつね。

 えっ?ええーーーっ!


「岡野、お前って奴は、こんな嘘の書類作ってまで俺を嵌めたいのか‼︎俺の預金は24万ほどしかないはずだ。毎月3万しか預金してないんだからなっ!」


 この性悪の女詐欺師め。

 自分の預金残高くらい分かっとるわ。


「はい、二枚目の書類をご覧下さい。こちらが預金の内訳となっております。」


 普通預金 38円

 積立預金 240000円

 定期預金 5000000円

 外貨預金 5698004円


 ぬあぁんじゃこりゃあぁぁ?


 定期預金や外貨預金なんて俺聞いてない。

 あのドケチな両親が俺の為に…?

 まっさかぁ〜。ないない。


「では、三枚目を…。こちらは新太様名義の株券と土地建物の資産になっております。」


 俺は頭が真っ白になり、岡野の言われるがまま三枚目の書類に目を移した。

 書類上では俺は、この家の敷地内にある離れの土地と建物。裏山の一部。

 そして、大津電工、北川研究所、翼玻璃銀行の株を所有していた。


 もう岡野の声も耳に入らない。


「話聞いてないみたいね?つぎ四枚目」


 岡野が書類をめくる。


「これは新太様名義の他行にある預金です。」


 この薄っぺらい紙に書かれたことが、真実なら一千万近い金がある。

 マジで⁈


 子供の時からお年玉や進学の度に貰ったお祝いのお金なんかを、貯めてくれてるのは知っていたが、ここまでとは…。


「こちらには満期になった学資保険のお金とかが含まれてるみたいですよ。次五枚目。」


 岡野は俺の困惑など余所に、どんどん話しを進めていく。

 ちょっと待てよ、とも言えず聞くことしか出来ない自分にも岡野の無神経さにもイラっとした。


「こちらは保険の内訳になってます。」


 保険も預金同様に俺の給料から引かれているものがあった。


「積み立て型、終身型、個人年金保険の三つの保険に加入されています。積み立て型の方は今三百万ほどになっており、終身型の方はこの先10年分は支払い済みとなっております。」

「ざっくり言うと俺には金があるってことだろ?」

「そうです。推定総額7千万程になります。」


 7千万と聞いて驚くことも出来ない。


「そんなに金があるなら借りる必要ないじゃないか?元は親の金なんだから好きにすればいい。」

「この新太様の資産はご両親が準備されたものではございません。」

「その様つけんのも、かしこまった言葉使いもやめろよ。で、誰が?」

「そんな訳にはいきません。仕事ですから。この資産はお祖母様が準備されたものです。」

「いい加減なこと言うなよ。」


 あのばあちゃんがそんな事するわけねぇ。

 ばあちゃんは俺に対してはドケチだった。

 母さんが蔵で仕事していたから、ばあちゃんが俺と彩綾の親代わりだった。

 ばあちゃんは彩綾を甘やかして可愛いがっていたが、俺には冷たかった。

 彩綾にはお菓子やジュースを好きに買い与え、俺にはおやつはおにぎり、飲み物は水しかくれなかった。

 おかげで幼稚園に入るまでジュースという代物があることさえ知らなかったのだ。

 その水にもこだわりがあり、ペットボトルは不可。水道水は言うに及ばず。ほとんどが裏山の湧き水だったが、時には名水と呼ばれる水を地方にまで、幼い俺を連れ飲みに出かけた。

 そんなばあちゃんの甲斐あってか、小学校に上がる頃には、水の違いが分かる少年になっていた。大きくなったらいっぱいジュースを飲んでやると夢を抱いたものだ…。


「お祖母様はほとんど毎日の様に当行においでになり、戸波に『新太は跡継ぎだからね。宜しく頼む。』と新太様に買ってあげたかったお菓子やジュース代を貯金していかれたそうです。」

「そんな…。

 そんなつもり貯金より、彩綾と同じ様にお菓子やジュースをくれる優しいばあちゃんが欲しかった…。」

「お祖母様はお父様を下戸に育ててしまった事を、旦那様やご先祖様に申し訳なく思われていたらしく、新太様だけは絶対に酒の味がわかる跡継ぎにするのだと言われていたそうです。酒造りに大切なのは米と水、そして違いの分かる舌。だからこの子には心を鬼にして、味覚を狂わせるものは与えない。と幼い新太様を厳しく育てられたのです。」


 ばあちゃん…。

 小さい頃は毎日の様に裏山まで一緒に水を汲みに行った。


『新ちゃん、この水はうちの蔵の酒を造る大切な水だからね。手を合わせて心を込めていただきますと言って飲むんだよ。』


 そう言って手を合わせ竹筒に水を汲み持ち帰った。

 俺が学校で忙しくなると、一人でも毎日裏山に行って俺の為に水を汲んできてくれた。


「お祖母様はお亡くなりなる前、このお金は新太様が跡継ぎとなり、事業に必要な時に役立てて欲しい。新太様が造った酒を一緒に飲みたい。とおっしゃっていたそうです。」


 ばあちゃん…。

 ばあちゃんに最後に会ったのは、俺が東京に行く時だった。


『新ちゃん、どっか行くのかい?』

『ちょっと東京行ってくる。』

『じゃあそこまで一緒に行こう。ばあちゃん銀行に用があるんだよ。』


 ばあちゃんと久しぶりに二人並んで歩いた。

 ばあちゃんは銀行と駄菓子屋に寄り、俺に駄菓子の入った袋を電車の中でお食べ、と手渡してくれた。俺は東京までは直ぐに着くし、子供じゃないんだからと少し迷惑に思いながら受け取った。

 電車の中で袋の中を見ると、俺が子供の頃買って欲しかった駄菓子が入っていた。

 なんで今頃…。子供の時に買ってくれれば素直に喜べたのにと思った。

 そして袋の底に20万円入った銀行の紙袋を見つけた。


 ばあちゃんボケちまったのかなぁ?


 ばあちゃんに電話して伝えると、糸里の男は一度東京にでて暮らしてみないと気が済まないらしい。だからそれは餞別だよ。と笑って言った。



「だったら尚更その金を使えばいい。」

「そうは参りません。最初はお父様がお借り入れなさるお話だったのですが、戸波が新太様にお借り入れをと勧めたのです。ご両親も今日初めて新太様の全財産をお知りになったのです。

 事業に借金はつきもの資産のうちです。

 簡単に手に入れたお金より、何としても成功させ返していかねばならないお金がある方が、真剣味も増すというものです。

 お祖母様が新太様に遺されたお金を増やすも減らすも新太様次第。

 これが戸波がお祖母様より賜りましたご遺言でございます。」


 俺はもう何も言葉が出なかった。


「悪いけど一人にしてくれないか?」

「大丈夫?」


 俺は頷きだけ返した。

 岡野は黙って部屋を出ていった。

 俺の頭の中は0が沢山ついた数字が、パソコンの画面の様に浮かんだり、ばあちゃんとの思い出がいろいろ浮かんできたりして、これからどうするかという考えを遮っていた。



 その夜俺は、ばあちゃんの夢を見た。


「新ちゃんこのお金でいい酒を造っておくれ。出来たらばあちゃんに一番に飲ませておくれよ。」


 そう言うとばあちゃんは、いつも持ち歩いていたショッピングカートから巨大な岩の様な諭吉を取り出し、俺にドンッと背負わせた。


 そんなちっさいショッピングカートに、どうやってこんな巨大な諭吉を入れていたんだ…?


 俺は諭吉に押しつぶされそうになりながら、ばあちゃんばあちゃんと叫んだが、ばあちゃんはスタスタと白い靄の方に行ってしまった。


 数日後、戸波さんと岡野を呼び出し、蔵の事務所で話をした。


「あれからよく考えたんだけど…、やっぱり今回の借金は父さんがして下さい。」


 俺は立ち上がり頭を下げた。


「糸里くん?」


 岡野さんは、説得が無駄になったと落胆したふうだった。


「理由は?」


 子供の頃、母さんに叱られて泣いてる時や、落ち込んでる時に声をかけてくれたみたいに、父さんは聞いてきた。


「ばあちゃんが俺に残してくれたお金の実感がまだわかなくて、でもばあちゃんの気持ちは有難くて、有り難過ぎて、その期待に応えなきゃって思うんだ。」

「じゃあ、どうしてなんだ?」

「だから…、今じゃないんだよ。今の俺は酒造りの事もちゃんと分かってなくて、経営のことや常識も分かってなくて…、それに今回造る酒は俺の酒じゃない。たまたまアイデアが閃いただけっていうか…。」

「母さん嬉しかったのよ。迷っていた新酒を新太が完成させてくれて。」

「だから、それは母さんの酒なんだよ。もっと酒造りやいろんなこと勉強して、俺が本気で造りたいと思える酒が出来たら、そん時ばあちゃんの残してくれたお金を使わせて下さい。お願いします。」

「わかった。じゃあそうしろ。」

「いいの?」

「ああ、最初からお前に借り入れさせるつもりなかったしな。ばあちゃんもそれでOKだろ。」


 父さんはあっさりと承諾してくれて、ちょっとだけ拍子抜けしたが、いつもながらサクッとした性格だなぁと感心してしまう。

 おかげで罪悪感いっぱいの空気にならずにすんだ。


 父さんが借り入れ申込書を書き直し、戸波さんは先に銀行へ戻っていった。


「悪かったな。せっかく話に来てくれたのに、無駄足にさせて。」

「ううん、いいの。かっこ良かったよ。見直した。」

「あんな毒吐かれた後に、褒められてもなぁ…。」

「新くんが造ったお酒私にも飲ませてよね。」

「当たり前だろ?岡野さんは俺の資産運用管理担当なんだからさ。」

「糸里様、今後共宜しくお願い申し上げます。」


 岡野さんは深々と頭を下げ、ニタリとする。


「だっからぁ、その喋り方やめろって。」

「仕事ですから、公私混同は致しません!」


 そう言って、目を三日月にして肩をすくめクスクス笑う。


 やっぱ俺、岡野さん好きかも…。







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