稲穂は黄昏に揺れて
稲穂は黄昏に揺れて
星天の明かりは弱く、頼りない。瞬きをした次の瞬間には秋穂さんの姿形も記憶も消失しているんじゃないか。そんな不安が頻りに襲ってくる。
許されないと解っていても、この手で繋ぎ止めていたいと思ってしまう。
「都徒くん」
無明の空下に鈴が鳴る。
「はいはい、なんです?」
「君の明るく前向きな所を、私は好ましく思う」
「告白っすか! 最後の最後に告白っすか!」
「もちろん、仲間としての感情だよ。それに、君が懸想しているのは杏樹くんなのだろう? だったら、どんな意味の告白であっても変わらない筈だ」
トトがふくちゃんと俺を交互に見てくる。俺は何も言ってないと首を横に振った。ふくちゃんも片手で否定のジェスチャーをする。
「この先、誰かが暗く沈むような出来事に対面した時、その明るさで照らして上げて欲しい」
「……はい。俺は難しい事とか考えられないし、こういう辛気臭いのは苦手っつーか嫌なんで、やりたいようにやるぜ」
「そうしてくれ。きっとそれが誰かの助けになる。そして、君自身の終末を彩ってくれるだろうと思う」
歩く。振り向きもせず。終わりに向けて。
「末吉くん」
「はいだな」
「マイペースのようで、その実、周囲をよく見ている君は、暴走しがちな他の二人のブレーキ役を上手く務めているな」
秋穂さんも、本当によく見てるよ。ふくちゃんは油断した体型をしてるけど、必要な時に、必要な言葉を掛けて手を貸してくれる。
「そんなつもりは、ないんだな」
「謙遜はいい。君のその巌のような強さと柔軟な優しさは、この先の終活部に必要不可欠だと思う。これからも、二人の面倒を宜しく頼む」
「今も昔も変わらないんだな。でも、姉御に貰った賄賂の分は任されたと言っておくんだな」
二人との決別が済む。残されたのは、一人。
「明智くん」
「ん」
口火が切られる。これが、秋穂さんと俺の最後の会話。始まらなければ良いと思った。でも、始まらなくても、終わるんだ。校庭の中心で歩みが止まる。
「君には言いたい事が沢山ありすぎて、何を言っていいか今に至っても悩んでいる」
このやり取りは、絶対に記憶に残らない。でも、何故だろう。俺も真剣に考えていた。俺に寄せられた最大限の信頼の証であるこの最後に、応えられる言葉は何か。
「君の――」
ここが終着点だと言うように、秋穂さんは身を翻した。金色の髪が月明かりを孕んで舞う。
「――本当の名前を教えてくれないか」
そう言えば、訂正する機会がなくて、俺はずっと明智光秀のままだったっけ。
「気付いてたんだな」
トトは俺の事をミッツマンと呼ぶし、ふくちゃんはミッツと呼ぶ。杏樹はミツヒデだから、誤魔化されたまま終わっても不思議じゃなかった。
「雨音さんは『ゆうしゃ』と呼んでいたが、あの礼儀の塊である月日くんが『とき』くんと呼んでいたからな。それに、今日は私の『ときに杏樹くん』という台詞に反応していただろう?」
「そっか。別に隠すような事でもないし、教えるよ」
「私の自己紹介からやり直そうか?」
時間の無駄だ。苦笑をして、本当の名前の形に口を動かす。
「土岐
「そうか。君の本当の名前は土岐光火くんと言うのか……さて、明智くん改め光火くん。なんだか変な感じがするが、まぁいい」
俺も変な感じがして、肩を竦める。秋穂さんは満面の笑みを浮かべて言った。
「私は生きた」
生きた。『生きていた』ではなくて、生きたんだと、秋穂さんは穏やかに目を瞑る。
生きていた。それは後に残るものだ。
生きた。それは、そこで終わるものだ。
俺は、残せるものが欲しかったのだろうか? いや、そうじゃない。そうじゃない筈だ。最初はそれを求めたけど、それじゃ、駄目なんだ。
永遠など、歓迎しない、肯定しない。永遠は感動を腐らせるものだから。飽きて、欲したものさえ疎ましくしてしまうものだから。
――受け入れるべき事を受け入れて前を向いたら、緩やかな一歩を踏み出す。
目の前のこの人みたいに笑って消えていけるなら、その一瞬にはきっと笑っていられるだけの意味がある。
何よりも誰よりも、自分が生きていなければ実感できない事だから。
その先で消えてしまうのだとしても、未来だけじゃなくて刻んだ過去すら無かった事になるのだとしても。
ここに存在している現在に反映された情景が幸福に溢れたものであるなら。この結末は単純に……幸せな最期なんじゃないだろうか。
秋穂さんの姿が霞んでいく。それが俺自身の弱さに依るものなのか、消失の手が迫っているからなのか曖昧だけど、どの道もう時間の猶予はない。
希望を見せてくれた『掛け替えの無い相手に』何か言わなければいけないと思った。
「秋穂さん、俺――!」
「君に、使い古された月並みな言葉を捧げようか」
俺が滅茶苦茶に口に出そうとした気持ちを遮って、秋穂さんが言う。
「ありがとう。君と出会えて、良かった。それが、私の人生の中で最大の幸運だ」
「っ」
無明の夜が訪れる。その直前に揺れた黄金色の光景を、俺は忘れない。
記憶が消えてしまうなら、心に焼き付けよう。そうして、俺は明日が始まるその時から、生きる事をやり直そう。
そして、夜が到来する度に、確かに存在した稲穂の輝きを思い出して、夜を越えていこう。
「さようなら、明智くん。うん、やはり此方の方がしっくり来るな」
明日が訪れる。その前に、俺も別離の言葉を口にする。
「さようなら、秋穂さん」
秋穂さんは胸に手を当てて、柔らかく息を吸い込んで。
「ああ……うん、良い人生だった」
最後に彼女らしい言葉と笑顔を残してこの世界から、また一人の誰かが消えた。あった筈の言葉も大気に溶けるように霧散する。
俺達はどうして、こんな場所に居るんだっけ。記憶を浚って思い出す。そして、それらを全部放り出して、思う。
「きっと誰かが此処に居た」
けど、それはきっと。幸福に彩られた別離だったんじゃないかって、思うんだ。
頬には多くの水気がある。なのに、俺、笑ってるみたいだし。終活部――その部長として、これほど嬉しい事はないだろう。
存在証明のアポトーシス1~稲穂は黄昏に揺れて~ 古縁なえ @hurue-nae
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