逃げているのは

 放課後を迎える前に、秋穂さんのクラスである三年の教室の出入口に待機する。


 開けっ放しのスライド扉の縁からこっそり内部を窺うと、特に授業などは行われておらず、机に腰を預けて、指先でその表面をなぞる秋穂さんの姿があった。


 名残を惜しんでいる、のか? 少し違う気がする。その横顔からは寂寥感のような心情は見受けられない。昨日からの秋穂さんの行動を思い返してみる。


「そうか」


 一つの答えが腑に落ちると同時に、呟いていた。静謐が支配する校舎は、そんな小さな声も良く通る。


「明智くん、か。わざわざ三年教室に何の……いや、聞くまでもないか。この場所には私以外の人間は居ないのだから」


 嬉しそうだ。緊張感とか、まるでないのな。


「私を迎えに来てくれたのだろう?」


「ご明察。日常へのご案内だ」


「君がエスコートしてくれる時点で、私の知ってる日常とは大きく食い違っているぞ」


「じゃあ今日は、ちょっぴり特別な日常なんだろ」



-*



 秋穂さんに扉を開けるように促す。ここまでお膳立てしたんだから、この先に何があるかはもう想像できているだろう。部屋の内と外を隔てる遮蔽物がなくなる。


「これは……」


 その中の光景を見た秋穂さんは言葉を失って立ち尽くした。


「おそいよ、あっきー」


 ちょっぴり特別な日常には、普段は不在の人も居たりするし。


「祁答院さん、お邪魔しています」


 部員以外の人が遊びに来ることもある。


 ゲストのレオが秋穂さんに飛びかかろうとしていたから、俺が前に出てシャットアウトする。


 いつもと違う顔ぶれだけど、終活部の部室はそのままだ。せいぜい、滅多にお目にかかれない嗜好品の数々が大盤振る舞いされるだけ。


「部活、始めるぞ」


 終活部の活動と言う名のあそ部を。振り向いて、秋穂さんの手を取る。


 それが、目下の部員サマの願望だそうだから、その手を引いて、自分たちの成果を笑顔で見守る部員一同の間を通って、いつもの偉そうな席に座らせた。そして、ようやく一言が出る。


「ここからこんな景色が見られる日が来るなんて、あの時は想像も付かなかった」


「秋穂さんの夢見た光景になってるか?」


「それなら、君が入部してくれた翌日には見えていたよ」


「慎ましい夢だ」


「君は……君達は、私を喜ばせる天才だな」


 ラジオの電源が入る。耳慣れた砂嵐をBGMに今日の部活動が始まった。


 月日さんからも嗜好品の差し入れがあった。この間の狂乱者脱走事件への協力に対する、自警団からのお礼だそうだ。


「そういえば、杏樹くんは居ないのだな。明智君の監視とやらはどうなったんだ?」


「飽きたらしい。秋穂さんが望むなら呼ぶけど……多分、険悪になるだけだと思うぞ」


「もしかして、私は彼女に嫌われているのだろうか」


「秋穂さんを、と言うよりも終活部を嫌ってるんだと思う」


 今朝のやり取りでも明らかになっていたように、杏樹は終活部の活動理念を蔑視している節がある。


 濁してしまった方が良いと思いつつも、秋穂さんに求められるままその顛末を話す。


 この場で隠し事はしたくなかった。それは紛うことなき本心だけど、この期に及んで、俺は秋穂さんに不安を拭って欲しかったのだろうか。


 あらましを聞き終えた秋穂さんは非常にあっさりとこう言った。


「杏樹くんと話がしたい」



 ◇   ◇   ◇



 出不精で生粋の横着者と化した杏樹は巣穴に閉じこもる性質がある。


 万が一の備えにトトに連絡係を任せて出てきたけど、その居場所には自信しか無かった。


 インターホンを鳴らす。返事はない。普段はノックをするなり声をかけるなりするんだけど、急いでいた俺は断りを入れずに合鍵を使って解錠した。


 がちゃり。どたばたー! 何やら騒がしい。


「ミツヒデ!? 今は駄目っ」


「全く、居るなら応対しろよ、な……?」


 半裸の杏樹が居た。制服から着替えてたのか、ふーん。


「あのさ、今部室で豪華にお菓子パーティーをやってるんだけど、杏樹も来ないか? お菓子好きだろ、お前」


「どうして、貴方は、この場面で、普通に会話に繋げようとしてるのっ、かしらっ!」


 制服の上着が飛んできて、視界を塞がれる。


「別に家族の肌を見た所で、なぁ? なんとも思わない。ヘタをすれば、嫌悪感を抱く光景だ」


「いいから出ていきなさい」


 低くドスの利いた声。意図せず朝の意趣返しは出来た事だし、決定的に機嫌を損ねる前に従っておこう。


 素早く外に出る。手には男性物とは造りが異なる制服の上着。どうして、持ってきた。


「……どうして、こんなに心臓がうるさいんだ」


 時間を置いて、部屋から出てきた杏樹は、何故かフォーマルな格好をしていて、俺から制服の上着をぶん取ると、速やかにそれを身に纏う。制服姿の完成だ。


 曰く、お菓子を食べに行くとのこと。昇降口で靴を履き替えて、杏樹を伴って廊下を歩く。


「このやかましい声は向かっている場所から出ているのかしら」


「こんな風に、複数人の声が放課後の校舎を満たしていると不思議な感覚がするよな」


「解っていたけれど、私まで毒するつもりなのね。帰りたくなってきたわ。例の物だけ頂戴したら、お暇させて貰っても良いかしら」


「却下。例の物はお前に献上する為に用意したんじゃないんだ」


 そんなふてぶてしい会話に付き合っている間に部室に到着する。


 和気藹々と言った雰囲気。終末感がまるでない空間。例え夜が訪れても、この場所が闇に染まる事はないのだろう。


「よく来てくれた、杏樹くん。心から歓迎する!」


「は……ぃ?」


 扉が開け放たれると同時に、金色の長い尾を引いて杏樹に飛びかかる影が一つ。レオかと思ったら秋穂さんだった。


 急な出来事に、杏樹は為す術もなく抱擁される。俺もちょっと状況が飲み込めない。


「秋穂さんは、どうしてこんなに興奮してるんだ」


 そんな俺の疑問も、パイプ椅子に座っている月日さんが苦笑を浮かべたまま答えてくれる。


「土岐くんが此処を離れてから、祁答院さんはずっと『明智くんはああ言ってくれていたが、本当は嫌われているんじゃないだろうか……身に覚えがないが』って不安がっていました。その反動だと思って下さい」


 そういうことか。納得する俺。反動なら仕方ない。月日さんの説明は杏樹にも聞こえていたのだろう。


「あら、良く解っているじゃない」


 状況を脱する為に攻勢に転じる。


「ここにはお菓子目当てで出向いただけで、私は貴方の事が大嫌いよ。嫌悪していると言ってもいいわ」


 お得意の底冷えするような表情で嘲笑をする杏樹。それを受けた秋穂さんは、杏樹を抱きしめる腕の力をあろうことかぎゅうっと強くして。


「構わない。私は君の事が好きだからな、これで相殺だろう」


 わけのわからないロジックを振りかざした。相手が離れていくなら、自分から近づいていく。相殺はされているけど、杏樹が一方的に損をしているだけのような気がする。


「君が居なければ明智くんの自己犠牲を阻むことは出来なかっただろう。杏樹くんには感謝しているんだ」


「感謝していると言うなら、鬱陶しい真似はやめて欲しいのだけれど。迷惑よ」


「そうか、迷惑か。ならば、やめよう」


 杏樹の腕に押されるまま、あっさりとホールドを解いて定位置に戻る秋穂さん。


「ときに杏樹くん」


 土岐に杏樹くん? いきなり真実の苗字(敬称略)を呼ばれた。


「なんだ?」


「んっ?」


「えっ?」


 お互いにすっとぼけた表情を交換しあう秋穂さんと俺。背後から嘆息が聞こえた。


「今の『ときに』は『ところで』って意味よ」


 紛らわしい事この上ない。合流組として一纏めにされたのかと思ったぞ。


「それで、話題転換をするみたいだけれど、何かしら?」


 杏樹が胸中で文句を垂れる俺の前に出て、自席に座る秋穂さんと対峙する。。


「嫌いな相手にも聞く耳は持ってくれているようで、有難いよ。なに、大した話じゃないんだ」


 そう前置きして、秋穂さんはお菓子だらけの机の上に両肘をついて組んだ手の上に顎を乗せる。


「先程、君の嫌いに対して私は好きをぶつけただろう? 君はそれを迷惑と断じたな」


「ええ。だって、煩わしかったんだもの」


 聴衆と化して各々の時間の楽しむ連中に混ざってポテチを摘む俺。うまい。杏樹が恨めしげに俺の事を睨んでいた。


「あの、もうちょっと優しい対応を望んでも良いだろうか。実は序盤の方から凄く傷ついている」


「あら、これでも最大限優しくしているつもりよ?」


「そ、そうなのか。それでは、私も最大限我慢しよう」


 月日さんが炭酸飲料を注いでくれたので、トトを経由して受け取って一口飲む。うまい。


「それでは話を戻すぞ」


「勝手に脱線したのは貴方だけれどね」


「う……手厳しい」


 秋穂さんが俺に助け舟を求める視線を飛ばしてきた。


 気づかないふりをして、世間話に興じる俺。話題はどうやら先日に雨音さんの口から出ていた西の区域を襲撃した外部の者の素性に迫っていた。催事の席で気が滅入る話をするのはどうなんだろう。


 人間まず死すべし。救いがあるとすれば、主が与える全てを受容したその先にしかない。


 そんな感じの思想を掲げ、はた迷惑にも押し付ける、宗教めいた集団に属する一人だったとか。ほんと、気が滅入る。


 ちらりと杏樹の様子を窺う。杏樹は嗜虐心を満たせているおかげか、何処か嬉々としている。俺は呆れていた。


「好きと嫌いは相容れない。相反するもので、どちらかが歩み寄れば相殺されるものではない」


 秋穂さんは気丈にもドSのもんじゅもんじゅから逃げることはしなかった。まぁ、話を振った方だし、引くに引けないんだろう。


「好きを押し付けられれば、もっと嫌いになるだけよ。これ以上、人を嫌いになることはあるのかしら。この段階でも既に未知の領域よ。もしかしたら、限界はないのかも知れないわね」


 隣のトト(ロはない)が「杏樹ちゃん容赦ねぇ……」と身震いする。返事をしながらおもむろに伸ばした手が空振った。いつのまにかポテチもねぇ。ふくちゃんが凄いペースで平らげていた。在庫、大丈夫かな。


 そんな風に部外者を気取っていられたのは、そこまでだった。


「そう本気で考えているのなら、君はどうして明智くんに『消滅を受け入れろ』と説き続けるのだろうか」


「っ……随分と飛躍した論法をするのね」


「どうやら奇襲には成功したようだな。多少溜飲が下がったよ」


「強引だと言っているの。勝ち誇るようなものじゃないわ。せっかく自制していたのに、貴方の方から切り出したのなら遠慮することはないわね」


 にやりと挑戦的な笑みを浮かべた秋穂さんに、杏樹は辺り一面を凍らせんばかりの冷笑を向ける。


「こんな部活、ただの現実逃避よ。予告によって消滅を突き付けられ、認識し、いずれ確実に訪れる終わりの瞬間が恐ろしいから、他の何かで誤魔化そうって浅ましい魂胆が見え見えなの」


「相反する概念、例えば生と死は何方かに転じることはあっても相容れない。杏樹くん、君は受け入れているのか? 消滅を」


「ええ。だから無駄な抵抗はしない。余計な事をして、どうにもならない現実に失望するのが目に見えているもの」


「そうか。では君は――」


 一拍を置いて、告げる。


「――既に死人だな」


 秋穂さんは杏樹の在り方を否定する。


「だから、死ぬ事を恐れない。逃げようとしない。生と死は相容れないんだろう? 故に、君は生きる事をやめた亡者だ」


 息を呑んだのは俺か、杏樹か。杏樹が口を噤む。反論が出てこないのか、その空白を埋めるように秋穂さんがトドメの一言を添えた。


「現実逃避をしているのは、生きているって現実から逃げている君の方だよ。杏樹くん」


「そんなの、ただの言葉遊びよ。どんなに懸命に逃げたって消滅ロストは追い付いてくる。命だけじゃなくて、何もかもを奪っていく。生まれたから死ぬ、それだけの人生だって受け入れてしまえば、気楽じゃない」


「気楽だろうか? それは、感情を殺そうとしているだけだと思うぞ、私は」


「こんな終わった世界に何かを期待して生きていたら、何かをする度に失望して、いずれにしても感情は殺されるわ。それが自殺か外的要因かの違いになるだけだと思うのだけれど?」


 消える。何をしても消滅が待っている。残された時間を楽しい時間で塗り固めたって、その果てで確実に鍍金は剥がされて、覚悟のない裸の自分で向き合う事になってしまう。


 認めなさい、と。杏樹は言っている。この世界に希望などはなく、そんなものを願い祈った分だけ裏切られるのだと。


「杏樹くん。君は根本的に勘違いしている」


 秋穂さんは怯まない。


「私は終わりを拒絶しない。終活部は、終わらせる為の部だ。消える為に生まれたのではないのだと、否定する組織だ」


「何が違うのかしら」


「永遠の命は求めていないし、消滅ロストの訪れから目を逸らしているわけでもない。それどころか、直視している。そして、己の胸に手を当てて考えるんだ――その人生の最後を飾る理想の結末を」


「だから、そんなもの思い描くだけ無駄だと言っているじゃない。どうせ叶わないし、どうせ無に帰すだけよ」


 その反論は、あまりにも軽率だった。


「残念ながら、その考えは間違っている」


 秋穂さんが楽しそうに笑う。


「この終わった世界とやらにも希望はあるんだ。なんせ、私の願いは叶ったのだからな」


「貴方は、運が良かっただけよ」


 そんな苦し紛れの言葉は一方に傾いた主導権に少しも作用しない。秋穂さんは、自分に運があった事を認めている。だから、受け入れるだけだ。


「杏樹くんがそこまで頑ななのは、もしかしたら今が幸せだからなのかも知れないな」


 そんな見当違いの見解で、二人の口論は幕を降ろした。


 多分、今の話は俺の為だけにしたんじゃないんだろう。


 秋穂さんが杏樹に感謝しているというのは真実だ。


 であるなら、それはきっと杏樹を想っての事だった。

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