楽園の追憶


 雨音さんの質問に秋穂さんが答える。取材は順調に進んでいた。返答に詰まったのは日頃の活動について聞かれた時だけだ。


「設定上は、終活部を立ち上げたのは私ということになっているが……実際は、どうなんだろうな」


 そんな終活部の生い立ちの話から、創部に至った経緯を質問されて、話題は秋穂さんの過去に迫る。


 それは誰にでもある、通り過ぎた過去。そんな昔語りは、かつて俺が入部を決める前に聞いた時と同じ一言から幕が開ける。


「今のように、ただ生きる事に困難のない生活は、今よりもずっと以前からずっと私の傍にあった」



 ◇   ◇   ◇



 俺達が混迷の時代と呼ぶ時代、祁答院秋穂は地下の密室に閉じこもって生きてきた。


 裕福な家だったのだろう。その家の者に先見の明があったのかは今となっては解らないけど、そのシェルターのような部屋には長期保存用に蓄えられた十全の食料があり、太陽光で発電した電気が引かれていた為に人工ではあるが光もあった。


 水は地下から引かれた分もあったから、一人が衛生面で多少の無駄遣いをしたところで何も問題はないくらいの備えがあったそうだ。


 時間を慰める為の本もあったそうだけど、数年も過ごせば読み尽くしてしまう。


 何もない部屋。ある限りの可能性を消費してしまったその空間を秋穂さんは「牢獄に似ているかも知れない」と言った。


「私は一人だった。途中までは家族が一緒に居たのかもしれないが……とにかく、そんな部屋で出来る事と言ったら、眠る事か考える事ぐらいだったな」


 食べて寝て考えて、その永遠の繰り返し。生きることに事欠かない世界。それはまさしく、俺がこの街に抱いた感想だ。


 祁答院秋穂という人物は、俺達よりも何倍も早くその環境に身を置いていた。


 一人で自分と向き合う日々。そこに余分なものはない。その狭い空間の内部において、祁答院秋穂だけが動的な存在だったから。


「いずれ訪れる終わり。共に居たかも知れない者と同じように、私にもそれがある。それを思う度いつも私は不安なのか焦燥なのか解らない感情に押し潰されそうになった」


 誰にも認識されず、誰にも見届けられず、生きていたことすらも疑わしい。『無駄』ですらない、それは『無』だ。


「無様に嘆いて、涙を流したりしてみたが、気分は一向に晴れなくてな。だから、私は外に出てみたんだ」


 二年を跨いで日の光を浴びたら、意味もなく涙が出たと秋穂さんは笑う。


 そして、祁答院秋穂は世界の崩壊を初めて肌で感じ取った。それは建物だけの話ではなくて。


 ただそれだけでも、当時の秋穂さんが再び密室に引きこもるには十分すぎる衝撃を受けた。


「自らの浅慮を恨んだよ。一人の空間に嫌気が差したからって、外には楽しい事が転がっていると無条件に思い込んでしまっていたんだ」


 実際転がっていたのは、ただの肉の塊で。見つけた側であった事、それが動かぬ骸であったのは幸運だったと思う。もし、見つけられた立場であったなら、どうだっただろうか。そういう意味でも、秋穂さんは恵まれていたのだろう。


 そうしてまた一人ぼっちの時間に戻る。


 可能性が費えた部屋で、消滅を待つだけの日々。この先を想像しても何もなくて、外の世界を想像しても絶望的な未来しか見えなくて。


「でも、無心にはなれないんだ。なんと言っても、やることがない。ほかに夢中になれる事がないから、嫌でも思考が押し寄せてくるんだ」


 時間があり、しかし使途は限られているから、秋穂さんはまたひたすらに考えた。


「そうして、また一年、二年と其処に居たら、やっぱり思ってしまったんだよ」


 この場には何もない。この先とか、それ以前に今もない。ここには居たくない、と。


 じわじわと心を侵食する寂しさ。世界から切り取られてしまった祁答院秋穂という存在。既に消失しているも同然のその現在。


 その無明の場所で、その胸には一つの欲が育った。


 外を自由に駆け回りたい。陽の光を一身に浴びたい。見た事のない面白い本を読みたい。ありとあらゆる娯楽を満喫したい。何度も妄想した、何でもない世界。やりたいことはあった。


 でもその中で、たった一つ。心の奥底から求めたのは。


「人の声が聞きたい」


 それが、孤独の中で蓄え続けてきた願望。


「誰かに、自分を見て欲しかった。そして、私も誰かの存在を認めたかった」


 そうして、確かな欲求を募らせていく。そうした日々が過ぎて、ただ音が欲しくて部屋の隅で砂嵐を鳴らしていたラジオのノイズのパターンに変化が生じたのを機会に、秋穂さんは再び外に出る。


 ラジオから聞こえてきたのは、とある広域放送。それこそが、箱舟ラジオ。その裏番組。その番組は、毎週決まった時間に日本都市の存在を日本中に発信していた。


「一週間に一度のその放送を聴きながら、私は未来に夢を馳せるようになったんだ」


 そして、祁答院秋穂は籠から飛び出したのだ。思い描いた未来の、そのうち何割かでも現実のものとする為に。そのうちのただ一つを叶える為に。


「想像の世界の沢山の楽しい日々を希望に、私は其処を出る勇気を振り絞って『ノア』を目指した」


 ぬるま湯に浸かっていた獣は脆く、自然の中では生き延びられない。


 しかし秋穂さんは生きて、こうしてこの街に居る。ここは薄氷の上に作られた街なのかも知れないけど、秋穂さんにとっては理想郷だったのかもしれない。


 そして、無事にノアに辿り着いた秋穂さんは、本懐を遂げる為にこの部を作った。


「私は運が良い。想像の中でしかなかった日々に、こうして身を置けているのだからな」


 天佑神助に恵まれている。その事は誰よりも秋穂さんが理解しているのだろう。でも。


「秋穂さんが行動したから、俺達はここに居る。運だとか、そんな不確かなものよりも、そっちの方が遥かに大きいと思うぞ」


「そうかも知れないな。私が目の前の障害に膝を折って、一時の安寧を選んであそこに留まっていたら、私は後悔と共に消滅を迎えていたのは間違いない」


 後ろを向いている内は、進めない。前を向くのが辛いから、とりあえずは平和な方向だけ見ている。それは必ずしも悪いことじゃない。


 外に出た結果、より悲惨な結末が待っていた可能性だって隣り合わせだったんだから。でも、結果はこれ。結果的に見れば大正解。


 希望はより深い絶望に落ちる材料になる。けど、その逆もまたあるんだよな。なかなかクサイ台詞だから、口には出さない。


「さて、これで私の昔語りはおしまいだ。やはり『ゆうしゃ』の武勇伝を知っていると、私のは盛り上がりに欠けて駄目だな」


「お、だったら部長! さっきの続きから話を再開しますかい?」


「おい俺の黒歴史を掘り返すのはやめろ。そもそもの主旨から外れるし」


 切実にお願いすると、秋穂さんはアルカイックな形に唇を象って。


「『ゆうしゃ』よ。深淵の暗闇を切り裂くような光を探すには、自分の心の奥底に広がる暗い部分と戦う勇気が必要だぞ」


 俺なら口を噤むような恥ずかしい台詞を平然と言ってのけた。


「私と一緒に、絶望を飲み込む程の希望を探そうじゃないか」


 もはや、指摘する気にもならない。この人は、こういう人なんだ。だから、俺はこうしてここにいるのだろう。


 でも一つだけ言わせてくれ。


「自分が楽しみたいだけだろ……」


 こればかりは断固阻止させて頂いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る