正しさのペネトレイト
終活部の部則が脳裏をちらつく。あともう少しで、後にも引けない所まで行けたのに、このタイミングでよりにもよってこの人か。
「秋穂さん……どうして俺が此処に居ると解ったんだ」
こんな時間に、こんな場所に偶然立ち寄ったなんて奇異な事は無いだろう。
「改めてお礼を言おうと君の部屋に立ち寄ったら不在だったから、隣部屋の杏樹くんに聞いたんだ」
この事は杏樹にも伝えてなかったと思うんだけど、付き合いの長さは伊達じゃないな。止められないってとこまで悟って、止めもしなかったのもらしいと言えばらしい。
「君がこの場所で成そうとした事も教えてくれた。その上で、私は君のその決断を否定する」
言葉で否定されたって、俺が問答無用で行動に移せばこの件は俺の望む形で決着する。
そう解っているのに、切っ先は左右にブレるだけで、意志に反して進まない。
「どうしてだよ。俺がコイツの息の根を止める事が、全体の傷が最も浅く済む決着だろ」
「そんな決着、私は嫌だ。せっかく舞い込んできてくれた念願の次期部長候補を手放すのは、私の本懐に反する。故に却下だ」
そんな超個人的動機で俺の一大決心を邪魔するなよ。
「約束しただろう? 人を決して殺めない、と」
「脱走者を殺すなって約束なら、この場合は当てはまらない。コイツは自警団だ」
「君はなんというか、ずる賢いな。あの時から、そういう予防線を張っていたのか……」
俺は秋穂さんの小言を無視して刀を動かす。
「待て待て待て待て」
「俺がコイツを殺す以外に良い方法があるなら教えてください。もし何もないなら、秋穂さんと話す事はない」
「私たちは選択することが出来る」
「その話は、もう聞いた」
脱走者を殺めない約束をした時に、俺はその説得で折れた。
混迷の時代は終わり、俺達は誰かを殺さなくても生きていける環境を手に入れた。人の命を絶たない。それを選択できる所まで人の世界は持ち直したんだ、と。
「混迷の時代は終わってなかったんだよ。この場所は、この世界は、その地獄の延長にある」
「それでも、選べるんだ!」
選んで、どうするんだよ。選べば取れるとは限らない。取りこぼすくらいなら、取れる方を取るべきだ。
「俺が誰かを殺さないと誓ったとしても、壊れ狂った誰かが、きっと誰かを殺す」
俺が殺さなかった過去が、巡り巡って親しい者の時間が理不尽に奪われる未来に繋がったら、悔やんでも悔やみきれない。
人なんて簡単に死ぬ。階段で転んだなら不注意で納得するしかないけど、他人の不備が原因でそうなったら感情の落とし所がなくなってしまう。
「この話を幾ら続けても平行線だ。それに、俺は次善の策を聞いてる。これ以上、余計な話に時間を割くつもりはない」
心を凪にして、その中心に目的だけを据える。そうするだけで、心は驚くほど冷えきる。迷わずに済む。
終わってから俺は――空虚だなと、呟くのだろう。
すっと細めた瞳の先で、秋穂さんが真っ直ぐ俺を見ていた。空っぽの俺を見透かすように、その人は言う。
「この世に二人だけなら、君は正しく生きられるのだろうか」
俺の要求した次善の
「誰も害せず、誰もが幸せに生きられるのだろうか」
刀を標的に突き刺すだけ。
「そんな事はない。その状況でも、君は同じ台詞を吐くだろう」
なのに、動かない。
「自分一人が何を選択した所で、何も変わらない、と! 君の言う通り、混迷の時代はまだ続いているんだろう。だが、それは、君たちが其処を抜けだそうとしないからだ。君がそう能書きを垂れている内は、何も変わらないし、誰も変わらない。大多数がそうであるように、大多数に飲まれるまま君は葛藤し続ける!」
思い出すのは、林檎の木の話。たった三人の世界なのに、三人は壊れた。
「じゃあ、どうしろって言うんだよ……さっきから、ずっと聞いてるだろ、俺。そうする以外にスマートな方法があるのか、って。そんなものがあるなら、俺だって……」
だから、必要だった。だからこそ、俺がやらなきゃいけない。
「真実が詳らかになれば、この街の平穏が崩れてしまうかも知れない。かと言って、長引けば疑心は募り、爆発する事だって考えられる……それを阻止するには、真実に別のシナリオを上書きして公にするのが確実な方法だろ」
「それは、どういう意味ですか」
下方から声がして、月日さんの存在を思い出す。秋穂さんとのやり取りに夢中になり過ぎだ、バカヤロウ。
秋穂さんが微笑を浮かべた時、俺はある種の直感に突き動かされるまま、秋穂さんの口を塞ぎに掛かる。でもそれは、間に合わなかった。
「この事件の発端となった狂乱者は其処に転がっている彼なんだ」
端的に、けれど致命的なフレーズが月日さんに届けられてしまう。
「え……?」
要するに、手遅れになってしまった。
月日さん――自警団にだけは、知られるワケには行かなかったのに、秋穂さんはその意図を知っている筈なのに。
「なんで言っちまうんだよ、秋穂さんッッッ!!」
相手が第二種人類だという事すら忘れてしまう程の激昂に、俺は秋穂さんの両肩を強く掴む。
秋穂さんは俺の剣幕に一度は驚きはしたものの、拘束を振り払うでもなく、次の瞬間には優しい笑みを浮かべて俺の背中に腕を回してきた。
「大事な時こそ、一人で片付けようとしないでくれ。こうすれば、否が応でも、君が思い描いた結末にはならないだろう?」
抱きしめられてる。そう自覚するまでに時間が掛かった。
「君が誰かを失う事を悲しいと思うように、私も君を失うのは悲しく思う。難しい答えを求める前に、君はそういう簡単な問題を解けるようになった方が良い」
振りほどけない。気を抜けば爆発してしまいそうな何かを、秋穂さんが鎮めてくれているように感じる。
「俺一人の命で済むなら安いだろ」
それから薄っすらと滲み出てくる反論を俺は素直に口にしていた。封殺される事を期待して。
「不特定多数の者のソレよりも、私にとっては君の命の方が比重が大きい。君にも、そういうものがあるだろう?」
人の心は綺麗じゃない。いつだって、他人よりも自分が大切だ。
どうでもいい物もどうでもいい者も大差ない。でも、変えの利かない大切な者はある。
自分の命だって所有物の一つ。だから、時にその大切な者が自分の命よりも価値があると思う事もままある。
「俺は、それで済むなら安いと思ったんだ」
自らの命を捧げる事は、こんなにも簡単だ。その理由を見付けるのは難しいんだろうけど、その点、俺はやっぱり恵まれてる。
「私たち……私にとっては割に合わない勘定だよ」
誰かに報いたいと思ったのに、報われてる自分が居る。
「これからどう収拾を付けるんだ」
「それはこれから皆で一緒に考えよう」
台無しだと猛っていた俺はもう見る影もない。そして、落ち着いて来ると、意識が現実に追い付いてくる。
この場合、先の先を走っていた意識が減速して追いつかれたと表現した方が近いな。
不意に思ったね。もっと差し迫った脅威があるんじゃないかと。そう、例えば、何だか自分のものではないカホリが鼻腔を突いているこの感じ。
非常に危機感を煽ってくる。
後は、身体を包むこの温もり。人肌程度で心地良いけど、人肌と言うだけあり、これは人である可能性が高いんじゃないかと推察する。
相手が男だろうが第二種人類だろうが、鳥肌モノだ。いや、後者の場合は発狂ものだ。
視覚を閉ざすと、身体の柔らかさが俺の意識の間隙を縫って、自己主張をしてきた。
思い出さなくても良いのに、脳内では絶えず直前の記憶が逆再生されていて、その映像がついに決定的な場面を映し出す。
俺は思った。排除しなければ、と。あれ?
「秋穂さん……今更だけど、近い」
「おっと、これは失礼」
素早く両肩を押し出して距離を開く。心臓が破裂しそうなほどに鼓動して、警鐘を鳴らしているけど。あれ?
「…………」
やっぱり、おかしい。前ほどじゃない。少し前の俺なら、軽く発狂して狂乱乱舞していた筈。
「と言うか、あんな事して秋穂さんは恥ずかしくないのか」
「私にだって人並みかそれ以上の羞恥心がある。今になって顔が熱くなってきたぞ! あんまり蒸し返さないでくれ」
ひょっとすると、俺は長年悩まされてきた衝動から解放されたのだろうか。ショック療法的な何かで、改善されたのかも知れない。
とことことこーっと、この場にいるもう一人の第二種人類の元に小走りに近寄った。
その子は何が何だか解らないと言った様子で、へたり込んだ態勢のまま赤い瞳で俺を見上げてくる。おもむろに手を伸ばす。
「ひゃっ……」
撫でてみる。何事も、ない!!
「う……え……?」
「君は突然何をしているんだ。断りもなく頭を触るのは、失礼だと思うのだが」
「そんな事は瑣末な問題だ。俺はどうやら、女性への苦手意識を克服したらしい」
手の先からぴくりと反応が伝わってきた。なんだ?
「そ、そうなのか? 克服し過ぎではないだろうか。私には一時的にリミッターが外れて、おかしくなっているようにしか見えないぞ」
「あたしを玩具にしないで下さいッ。そもそも、そんな他愛無い話をしている場合じゃないわ!」
月日さんの怒号が炸裂する。爆発の衝撃で、かちりと何かが噛み合った感覚を得ました。
何と言うか、ハーネスを付けられた、みたいな。狂犬から、飼いならされた犬に戻った、みたいな。反対だな。
解き放たれちゃった俺、みたいな。
「う」
それは多分、秋穂さんの解釈にあった『リミッター』とやらをハメられたと言う事でしょう。
「うあああああああっ殺されるぅぅぅ!? あっちいけえええええええっ!!」
「ええ!? 近づいてきたのは土岐くんの方ですよ!?」
少し前までは世界の終わりでドラグナイ状態だった俺だけど、これで完璧に本調子に戻ったように思う。
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