時は金なり。では問題は金の価値だ。
部室に居ても時間を持て余すだけになりそうだったので、駄菓子屋に移動して諸事を片付けながら、落ち着いて考えを纏めてみようと思った。なのに。
「ミツヒデ。道端に転がっていたフンを踏んでしまったのだけれど、この靴で貴方を踏みつけても良いかしら?」
「いいわけあるか。どうして俺が踏まれなきゃなんないんだ」
俺は落ち着くとは程遠い状態に陥っていた。
「フンの後始末は飼い主の責務よ。その責務を疎かにした貴方には、相応の償いをする責任があると思うのだけれど」
「俺は飼い主じゃない。もう一度聞くけど、それがどうして踏む事に繋がるんだ」
「この不運を吐き出す捌け口を求めているのよ」
「要するに八つ当たりがしたいのな」
「正答な矛先に向ければ、それは真っ当な裁きになるわ」
屁理屈を捏ねている杏樹だが、その足に履いている靴の裏にフンが付着してるのだと思うと、杏樹には悪いが和むな。
「とりあえず、水はまだ通ってるから匂いが染み付く前に洗って来なさい」
「洗ってしまったら、貴方の顔を踏んでも意味がなくなってしまうじゃない。それと、その慈悲に満ちた瞳を見ていると、無性に即刻踏みたくなるのだけれど?」
顔を踏まれることになってるんだけど。
「そんなことをしたら、今宵のご馳走はナシだ。あるいは、こっそりと不純物を入れることで復讐をしてしまうかも知れない」
「っ……驚くほど狭量な男ね」
「だから、お前が言うなと。良いから、さっさと洗って来いって。寂しいなら付き添ってやろうか?」
「結構よ」
そう短く断って、杏樹は長い髪の毛を靡かせて、迷いのない足取りで水場の方に歩いて行った。
杏樹にとっても此処は勝手知ったる庭のようなものだ。何処に何があるのかぐらいは把握してる。
これで一人になれた……なんてことには当然ならない。なぜなら、現在この駄菓子屋には終活部に集結していた全員が訪れているのだから。だからー!
ぴったりと言う程ではないけど半径五メートル以内には必ず監視者が追随してくるし、男二人は二階で談笑してるし、秋穂さんはレオ達に囲まれて遊んでるし、気が散るなんてもんじゃない。
考え事、出来そうもないな。このまま漫然と日数を消費していって、消滅なんて展開にだけはなりたくないけど、今日はもう諦めて、今後の俺の為にここの雑務を片付けてしまうことにした。
さしあたり、先延ばしにしてきた無数の鳥籠の掃除から手を付けるとする。制服の上着を脱いで、荷物と一緒に和室に置いてくる。
駄菓子屋としての機能を果たしていれば、商品が陳列されていたであろう土間の棚には無数の鳥籠が並んでいる。
またこんどにしよう。そうだ、ここのところあいつらにもかまってやれなかったし、おれもあきほさんといっしょにどうぶつたちとたわむれようかな。
そんな雑念が鎌首をもたげてくるも、その甘えが今日まで掃除を先延ばしにしてきたことを自覚している俺は、怠惰を振りきって手前の鳥籠を掴んだ。
一度取り掛かってしまえば、気持ちは嫌でもそっちに向く。何事も最初の一歩が大切だ。
予備のケージにインコを移して、外の水道に向かうと、軒先のやや風化したベンチにどっかりと腰を下ろした杏樹を見つける。組まれた脚は、何故か両足共に裸足だった。
「あら。これから、掃除でもするの?」
水道近くの物干し場には靴が一組干されている。もしかして……いや、何も言わないであげるのが優しさだな。
「二週間くらい前にやって以来だったからな。そろそろ手を付けないと、不衛生が原因で病気になられたら困る」
「あの数を一人で片付けるつもり? 大変ね」
この間は杏樹にも手伝ってもらった記憶がある。確かあの時は……そう、料理で釣ったんだっけか。
「明日はフレンチのフルコースにするから、力を貸してくれ」
「労働力に見合わないわね」
即答だった。あれ、おかしいな。
「貴方の中で、いつのまにか私が食い意地の張った女になっているみたいだから訂正させて貰うけれど、私は本来は小食よ。何かに没頭したら、食事を疎かにする程度にはね」
二三人前を軽く平らげる所を目の当たりにしてきたから小食の部分には首を傾げざるをえないけど、食べる事が好きな人種ではなかったのは確かだ。生粋の芸術家肌って言うのだろうか。
そもそも、俺が食事の面倒を見ているのは、ある事に夢中になって、身体を壊す直前まで寝食を忘れるような杏樹を監督する為だったっけ。
ともあれ、今回は杏樹は助力をするつもりはなさそうだ。機嫌を損ねているからか?前回、どうして杏樹の協力を得られたのかは気になるけど、今は掃除を済ませる事が先決だな。
店内に戻って、水と食事、脱臭シートをセットしてケージメイキング
をしたら、予備のケージから住人のインコを移動させる。
「これで、まず一つ、か……」
先の事を想像するだけで疲労感が凄いな、これ。ここにはゆうに三十を超える鳥籠がある。当然、それは中身入りの数だ。
げんなりしていると、背後から人の気配が近づいて来る。
「とっ、土岐くん」
それは、監視者の一人である第二種人類の声だった。カニ歩きで若干の距離を取ってから、振り向く。
「何だ?」
震える声を悟られないように短く言葉を切る。ついでにあんまり視界に入らないように、瞼を薄く閉じた。こうすることで、俺はある程度までは独力で第二種人類との会話をこなせるようになるのである。
「ご、ごめんなさい。不快な思いをさせてしまっているのは承知しているのですが」
死角である月日さんの後頭部から突如出現した赤いポニーテールが斬撃の如く中空から振り下ろされた時は攻撃かと身構えたけど、ただ頭を下げただけみたいだった。
どうしてこんなに恐縮されてるんだ、俺。
「待て。その件に関しては既に了解した事ダ。改めて俺から言う文句はナイ。頭を上げてクレ」
ちょっとカタコトになってる気がするけど、詮無きこと!
「ですが、明らかに……」
月日さんの伏せられた瞳が僅かに俺の顔を見てくるから、俺は条件反射で薄目になった。
「気難しい顔をされています」
言われてみれば、今の俺って、さっきの杏樹みたいな顔になってるかも知れない。
それで、ぶっきらぼうな言葉遣いなんかしたら、ごきげんナナメだと受け取られても仕方ないなコレ。
「誤解だ。これには止むに止まれぬ深いワケがあるんだ。そんな事よりも、俺に用件があるんだよな?」
「それなら、良いのですが……あの、ですね。差し出がましいとは思いますが、不快な思いをさせてしまっているお詫びに、掃除の手伝いをさせて頂けませんか?」
その有り難い申し出を断る理由が無かった。いや、第二種人類ってだけで、断る理由になるんだけども、労働量を考えると、それが半分になるなら願ってもない提案だ。
◇ ◇ ◇
軒先のベンチで両足を放り投げて寛いでいる誰かさんと違って、月日さんは良く働いてくれるな。
俺が鳥籠のセッティングを済ませている間に、月日さんが次の籠を洗い、月日さんが戻ってくるまでに次の鳥籠を用意しておく。
そんな役割分担で、作業自体は倍以上に捗っていた。
「隅で不服そうに眺めている其処の男も協力するなり、何処かに行くなりしたら最高なんだけど」
皮肉を込めて、土間の隅の人物に一瞥をくれてやる。そいつは、月日さんが手伝いを申し出てくれる前からそうだったけど、腕を組み壁に背中を預ける姿勢で、ずっと俺の事を監視していた。
「俺の目的はお前を見張り続けることだ。月日のように監視対象に同情し、一時的にであれ目を離すなんて愚は犯さない」
だから俺は潔白だと訴えても無下にされるだけだから、そこに食って掛かるのはもうしない。
「じゃあ、ちょっと鳥達に構ってやってくれないか。目の届く範囲でなら手伝ってくれるんだろ?」
「何故、そんなことをしなければならないんだ」
「あんまり構ってやらないと、人の手を怖がるようになる。まるっきり言い訳なんだけど、俺にも都合があるから、この数を満遍なく定期的に触れ合ってやるなんて風には行かないんだよ」
この掃除中にも数羽が既に人の手を怖がり、手を近づけるだけで羽をバタつかせて暴れまわっていた。
指を噛む奴まで出る始末で、品種によってはそのまま噛みちぎられるなんて事もあるから結構洒落にならない問題だ。
「そっちの理由を聞いたんじゃない。何故、俺がお前を手伝わなければならないんだと問うたんだ」
「手伝わなきゃいけない理由はないけども。見るからに暇を持て余してる様子だから、だったら手伝ってくれないかなーと期待を込めて」
「断る」
「にべもないのな」
そんな会話を続けながらも休まずに手を動かす。整えたばかりのケージに、予備のケージから慎重に鳥を移すと、文鳥は数度羽をばたつかせた後、自分の家だと解ったのか、止まり木の上に落ち着いた。
籠の底に敷くシートの在庫が心もとなくない。この調子だと、次回の分まで残らないか。近いうちに、何処かで調達したい所だ。
こういうペット用品の類はセントラルでは生産されていないから、色々と面倒臭い。少しすると、綺麗なケージを抱えた月日さんが戻ってきた。
「土岐くん」
「はい」
呼ばれ、背筋を伸ばして姿勢よく返事する俺。こんな品行方正っぽい直立が出来る俺が狂乱者脱走扶助の容疑者なんて、自警団の連中の目は節穴に違いない。
俺が適正距離に用意しておいた汚れた籠の横に洗い終わった籠を置いて、月日さんは早々と汚れた籠を回収して水場まで向かう。
本当によく働いてくれる。掃除も全体の半分ぐらいは過ぎて、だれてきても可笑しくない頃合いなのに、仕事も丁寧だ。
この時分の女子なら嫌がりそうな作業を押し付けているのに、文句の一つも言わない。それに何より、俺への配慮も完璧だった。
おそらく。この男は、それがまた不愉快なんだろうな。
「小動物の世話を焼いて、大変だろう? いつまでもこんな鳥籠に閉じ込めていないで、逃がしてしまったらどうなんだ」
なんて、嫌味を飛ばしてくる。
「小動物の世話をする自分に酔っているのか?」
その言葉の裏には明らかな嘲りが混じっていた。噛み付いてやろうかと思ったけど、やめた。疲れるし。
「酔ってるのかもな」
本心だ。俺は、こいつらの飼い主じゃない。あくまで、元々の飼い主に後を託されたり、勝手に置いて行かれたり、居着いたりした動物達の面倒を見ているだけだ。
一昔前なら、フンの後始末やら、騒音やらで責任を追求される立場かも知れないけど、とにかく、飼い主ではない。
籠の鳥。それは不自由の象徴だ。そこから解き放ってやれば、こいつらは自由になる。でも、その羽で何処までも羽ばたいて行くなんて事は滅多に出来やしない。
獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす。それは、強く育たなければ弱肉強食の世を渡っていけないからだ。
ならば、その逆なら? ぬるま湯に浸からせておいて、いきなり極寒の地に放り出されたら?
「外の世界に出たら、こいつらは間違いなく近いうちに死ぬ。人の手で生きてきた奴は軟弱だから、自然の中では絶対に生きていけない」
だけど。閉じ込められてる奴等からすれば、きっと檻の外こそが理想の世界に見えるんだろう。そういうものだし。
長生きできない。ただそれだけで不幸なのか。それを判断することも出来ない俺は酔ってるんだろう。
「死ぬのが解っていて放り出すのは、何か違うだろ」
長生き出来る。それがこいつらの幸福だと思い込もうとしている俺は、やはり酔っているんだろう。
そんなことに意味は……解ってるんだけどな。
◇ ◇ ◇
ひと通りの鳥籠の掃除が落ち着く頃には、陽もすっかり落ちていた。月日さんに礼を告げて和室で休んでいると、入り口の方が慌ただしくなる。
何事? 土間の方に顔を出すと、秋穂さんと目が合う。すると、秋穂さん。あろうことか、猛然と俺の方に駆け寄ってきた。
「大変だ。明智くん!」
「それよりも秋穂さんは己の身を案じた方が良い。現在進行形で大変なのは秋穂さんの方だ」
第二種人類が俺の手の届く範囲に近づくって事は、攻撃される覚悟があるって事だ。
「明智くん。冗談を言っている場合ではないんだ」
「この手の事に関して、俺が冗談を言ったことがあったか? いつだって切実だった!」
と申しているのに、秋穂さんは躊躇せずに俺の腕を取って、引っ張ってくる。
「お小言なら後で聞く。今は私に着いて来てくれないかっ」
半ば泡を吹きながら、連行される俺。そろそろバブル光線になるかというところで、俺の腕の縛めが解かれた。
駄菓子屋裏の物置。建物の外には中にあった荷物が乱雑に放り出されている。俺がやったものだ。
「この子なんだが、ずっと咳が止まらず苦しそうなんだ」
秋穂さんは、ぐったりと身体を横たえる中型犬の背中を擦りながら、俺に対応を求めてくる。散策なんかするから、見つけてしまうんだ。
「老衰だよ。医者じゃないから詳しいことまでは解らないけど、症状から多分、心不全だと思う。俺にはどうしようもないです」
「楽にしてあげられるクスリ、は……無いのだな」
「はい」
唯一、楽になれる方法があるとすれば――それは言わない。
「そいつ、名前はかりんとうって言うんだ。ほら、見た目がそれっぽいだろ?」
代わりに、何でもない情報を開示する。
「寂しがり屋で人懐っこい奴なんで、そうして秋穂さんが背中を撫でてやってるだけでも喜んでると思います」
「そうか。だったら、しばらくはこうしていよう」
秋穂さんは言葉に違わず、そのまま一時間近く、痛々しい咳をし続けるかりんとうの背中を優しく撫で続けた。
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