鮫島くんのおっぱい

鮫島くんの敗北

　噛みしめた歯がふるえて鳴る。梨太は、鮫島の背を凝視したまま、しばらく言葉を失った。

　声が出たのは、鮫島が、刺さったナイフをなんということはない動作で抜き始めてからである。

「さめっ……さめじまくっ。っん――」

「平気。浅い。急所は外した」

　そう言ってぽいとナイフを投げ捨てる。その刃先五センチが赤く染まっている。

「俺の心配はいらない。リタ、階段を上がれ」

「だっ、だって、血っ」

「いいから階段を上がれ」

　強い口調であった。

　梨太は階段を二つあがった。

　これで五段目。

　一段目にいる鮫島の背丈よりも高い位置に視界がきて、梨太はナイフを投げた男の姿を見た。

　――白鷺。その太い手首には、おもちゃのようにひん曲がった金属の手錠。両手指にびっしりと、投げナイフが挟まれていた。

　目が合う。地球人とはちがう色素をもつラトキア人の、猛禽類を思わせる金色の目が――梨太のほうに当てられている。軽いナイフは何のモーションもなく、鼻糞でも飛ばすみたいに投げられた。梨太の胸に刺さるよりも早く、鮫島がそれを空中で捕まえた。

「なぜ民間人をねらう、白鷺」

　鮫島の言葉につよい怒気がはらまれる。

　問われて、大男は目を細めた。顎のあたりがモゴモゴと動く。やたらとぎこちなく、その口を開けた瞬間、どぱっと大量の血がこぼれて床にぶちまけられた。血塗られた顎を、右手で支えるようにして、白鷺はようやっと言葉を紡いだ。

「あああ、顎が――割れてんだな？　おれは。話し、にくい、ぜ」

「……脳味噌を頭蓋骨の中でシェイクしたんだ。おとなしく寝ていろ」

「それで、か、しば、らくは、立てなかった」

　話しながら、ナイフを一本とばしてくる。また梨太の方へ。鮫島は虫を払うようにその刃をたたき落とした。ひひひっ。白鷺が笑い声をあげる。同時に血が首もとまで垂れていく。

「なぜ、民間人、を、と？　そりゃあ、おまえが庇うからだよ鮫」

「リタ、階段を上がれ！」

　鮫島の叫び。

　梨太は反射的にとびあがり、階段を見上げた。

　一歩踏み出す。高さが変わった、またその胸の位置ぴったりにナイフが飛んでくる。

　鮫島が腕を伸ばし、高度の違いに一瞬戸惑って、床を踏み切ってナイフを捕まえた。

　梨太が階段をあがれば、階下の鮫島と高度に差がひらき、全身の露出が増えてくる。ナイフの発射速度は、最初に食らった大振りのダガーとは比べものにならない。梨太はまったく反応できないでいた。

　鮫島が階段を上がる。梨太を背に庇い、細い一本道に立ちふさがった。

「……逃げろリタ。駆けのぼって、奥の扉から二階へ入り込め」

　梨太が一段あがると、鮫島も進む。　

　二段でも離れるとすぐにナイフが飛んでくる。　細く急な階段をあがっていく。

　頭上に、鉄の扉が見えてきた。一歩ずつ、二人が扉へと近づくたびに、同じだけ白鷺も詰めてくる。ナイフの飛ぶ速度は変わらない。

　あと二段で、ドアノブに梨太の手が掛かるところまで上って――

　飛んできたナイフを、鮫島が掴もうと手を伸ばし、その手のひらを貫かれた。血風。梨太は悲鳴を上げた。

「鮫島くん！？」

　梨太との距離は離れていない。それなのに彼はナイフの柄を掴み損ねた。どうしたの鮫島くん、という疑問は、彼の顔をみて一瞬で溶ける。

　蒼白になっていた。梨太は、彼の汗を初めて目にした。黒髪が垂れ顎から滴るほどの冷や汗に濡れて、鮫島は唇をかみしめていた。

　鉄の扉を振り返る。手を伸ばせばふれられそうなところ、すぐそばに、二階のフロアがある――

「電磁波か！　鮫島くん、階段を下りてっ！」

　梨太が叫んだと同時、ナイフが三本飛んできた。鮫島の体が一瞬揺れて、力なく腕を垂らした。無防備な肩に、三本すべてのナイフが突きたつ。

「っあ……！」

　鮫島の悲鳴が、静寂のフロアにか細くあがった。

　梨太は、理解した。

「……罠！　これが、最後の罠だったんだ……！」

　ずっと疑問だった。騎士団は今日に至るまで何度もこのアジトに潜入している。その間白鷺はどこにいたのだ？　毒が無効なら、この建物に潜んでいたと考えるのが妥当だろう。ではなぜ襲いかかってこなかった？

　罠。

　毒のフロア、電磁波のフロア。鮫島にしか入れない一階と騎士団の誰にも入れない二階。その対策手段は限られている。鮫島が一人で、民間人をつれて潜入してくる日を、彼らは待っていたのだ。

「僕が、烏の最終兵器だったんだ」

　我が身を、梨太は憎らしげに見下ろした。

　足が震え、すくんだ腿があがらない。

　鮫島が、膝からくずれていく。白鷺が悠々と歩み寄った。おびえる少年など見向きもしなかった。階下から腕を伸ばし、鮫島の足を掴まえて引きずりおろす。

　背中が階段をこすり、彼の体が空中に浮いた。鮫島の足首を掴んで逆さにぶら下げ、白鷺はにっこり笑った。菓子を眺める子供のようにして。

「やっと掴まえたぁ」

　逆さ吊りにされ、脱力していた鮫島が目を見開く。腹筋を使って一気に身を起こすと、白鷺の腕に全身でしがみついた。

　ごぎっ！　鈍い音をたて、白鷺の腕がねじ曲がった。続いて鮫島は、白鷺の首に足を巻き付けようとした。しかし巨漢は折れ曲がった腕を強引にぶん回し、鮫島の体を壁にたたきつける。

　壁に背中を打つ直前、鮫島は白鷺の腕から離れる。

「ちぃっ！　くそ。三十センチ、おろしただけで戦えるのか貴様は」

　壁にもたれたまま、鮫島は己に突きたったナイフを引き抜く。刃についた血の汚れを見てはかり、体を動かして確認した。

「よし」

　この騎士は、急所以外は贅肉だとでもいうのだろうか。再び格闘の構えをとった。

「……その位置も、多少は電磁波が届いてるはずだぜ？」

　こころなしか白鷺までがげんなりした表情を浮かべるのを、鮫島は睨んで言った。

「頑丈さをおまえにとやかく言われる筋合いはないな。骨折させたはずだぞ。悲鳴くらい上げたらどうだ」

「それこそそっくり、返すぜ。お前はちゃんと、痛いはずだ。俺と違って」

　ごぽっ、と血の泡があふれでる。それでも白鷺は意に介さず、鮫島との距離をとった。腰に巻いた、ダガーをぶら下げているベルト。その裏地から小さなナイフを十本ばかり抜き出す。そして梨太に向かって振りかぶった。鮫島が飛びついて掴まえる。

「やめて、鮫島くん！　庇わなくていいよ！」

　梨太は叫んだが、彼は同じ行動を繰り返した。背中で答える。

「急所以外に刺さって致命傷となる刃物ではない。が、お前は防護スーツを着込んで経皮毒のガスに包まれているのを忘れたか？」

「で、でもっ……！」

「お前に傷一つつけるわけにはいかない」

　梨太は、鮫島を恨みがましくにらみつけた。

　そして無言のまま、一気に階段をかけあがる。

　鮫島の逡巡は一瞬だった。白鷺が、梨太に狙いをつけるよりも早く、頭部を腕で庇い突進していった。

「おおっ！？」

　防御一辺倒からの反撃に、白鷺は身をのけぞらせる。

　ナイフを擲（う）つよりも早く、鮫島の蹴りが腹に刺さる。よろめいた巨体にもう一撃。白鷺は打たれながら腕をぶんまわし、目を血走らせ鮫島の足を掴まようとする。

　梨太はそれを振り返らず一気に階段をかけのぼった。つんのめりそうになりながら、それでもかけあがれば数秒もかからない。

　鉄の扉にしがみつき、ドアノブを握って引っ張る。

　がちん、と鋼鉄のぶつかる音がした。

　今度は体重を乗せて向こうへ押す。がちん、先ほどとは少し違う金属音。

　激しくノブを回しながら梨太は全体重をかけて揺さぶったが、鉄の扉は頑健な錠にぶつかって振動をするだけで、どちらに開くこともなく、侵入者を阻む。

　梨太は両拳をたたきつけた。振り返って絶叫する。

「鮫島くん、開かない！！」

　その視界に、刃物が――ナイフではなく、ダガーが――迫っていた。

　鮫島が、飛び上がり、ダガーを空中で捕まえる。その足を白鷺が掴んだ。

　巨漢はそのまま、鮫島を棒きれのように振りあげた。狭い空間で、鮫島は後頭部を両手で守った。肘を畳んで身をすくめる。

　構うことなく、白鷺は長身の騎士を土壁にむかって水平に振り抜いた。

　どんっ――背中から激突する。建物全体が揺れるほどの衝撃。

　身を堅くしたままの鮫島を、刀を返すようにまた持ち上げて、今度は床へ。

　強く背を打って、鮫島の体がのけぞる。

　ゆるんだ腕の防御をみてとって、白鷺は再度、床に向けて腕を振りおろした。

　振りかぶった巨漢の頭上、三メートルの高度からその膂力をもって、鮫島は後頭部を垂直に床へ打ちつけられた。

　ごっ――。

　堅く重いもの同士がぶつかる、胸の悪い音が梨太にまで聞こえた。

　花火のように散る血の飛沫。

　白鷺が手を放す。鮫島は床に横たわった。床面に広がる赤い湖に顔を埋め、そのままぴくりとも動かない。

　――鮫島くん。

　彼を呼ぶ声は果たして発声されたのだろうか。梨太は自分の声が聞こえなかった。

　鮫島の悲鳴も、うめきも、呼気すらも聞こえない。集音マイクが壊れている――その期待を、白鷺の哄笑が踏みにじる。

　ひひひっ、と、甲高い笑い声で、大男はひどく楽しそうに、鮫島を蹴り飛ばした。

　青年の肢体は簡単に宙を舞った。落下しても受け身もとらず、仰向けに倒れている。赤く濡れた、青白い顔の、漆黒の睫毛が閉ざされている。

　口元に髪が垂れていた。だがそれは、いつまでたっても、呼気で揺れることがなかった。