梨太君のおうち
九月某日、晴天。
地元では指折りの進学校である私立霞ヶ丘高校は、二年生であってもこの秋にはすっかり大学受験を見据えた授業が行われていた。
梨太の通う二年六組は数学科。
といっても、数学の勉強を専門にする学科というわけではない。
すべての教科においてほかのクラスより偏差値が高い、特別進学級のことを差別化してそう名称を付けただけである。
お勉強がヒトより少し得意である、ただそれだけで、男子高校生の特性に大きな差異はなかった。
昼下がりの教室。教師が板書するチョークのリズムが眠気を誘うなか、右隣の少年がノートに落書きをしているのに梨太は気付いていた。授業には、しっかりリアルタイムで理解し自分なりにノートを作っていかないと点数が取れないものと、そうでないものがある。この教師の行う英語の授業は後者だ。ゼミでも聞ける内容をそのまま踏襲しているにすぎない。
多くの生徒たちと同じく、梨太はすっかり退屈して、生あくびを噛みしめる。
また追って連絡をよこす――そう鯨に言われ、あの路地裏を解散してから四日が経つ。体育祭代休をはさんでから登校三日目。いまだ、梨太のもとに彼らからの接触はなかった。
鮫島が通う三年生の教室は、校舎が違う。近くを通りがかる機会にはなんとなく目をやったが、鮫島の姿をみることはできなかった。もしかしたらあの日から一度も登校してきてないのかもしれない。
どうしてるかなあ、と、ぼんやり考える。
いよいよ眠気がこらえられず、大きなあくびが出てしまった。
と。ガラガラ、と教室の扉が開かれる音。軽い足音、人間の気配。そして、
「リタ」
呼びかけられて、梨太は涙のにじんだ視線をあげた。そこに鮫島の姿を認識しブッと息と吹き出す。
「さっ、鮫島くん!?」
どちらかというと梨太の声で、教室中がどよめいた。
クラスの全員が注目し、教師は余りに突然の闖入者に絶句。誰もが事態を理解していないなか、鮫島だけが無表情でそこにたたずんでいた。
「な、な、なにっ――いま思い切り授業中だけどっ」
「うん、だから放課後、この間の商店街の入り口で待ち合わせで。それを言いに来た」
「え? あ、はい――いや鮫島くんも授業」
「これから戻る。それじゃあ」
引いた顎に口元だけでほほえんで、鮫島は背を向けた。
さすがに教師は正気に返ったらしい、あわてて彼の方へ駆け寄って、
「おい! お前、三年の鮫島だな? 二年生の教室に何の用で来たのだ」
「別に教室に用はない。リタに、用はもう済んだ」
「なにぃ? ほ、放課後とか言ってたな。鮫島、この学校で生徒同士、暴力行為があったら、加害者は即座に退学だ。許されると思うなよ!」
「? 何の話だ。お前にはなにも関係がないのだから、あっちへ戻って授業を再開すればいい。俺はもう戻ると言っているんだ」
「きさま、ひとの授業の邪魔をしておいて!」
「俺が入る前から誰も聞いていなかっただろう」
あまりの言い切りに、教師は口をぱくぱくさせて硬直した。そのあいだにさっさと出ていってしまう鮫島。
クラス中が、その歩みを顔ごと追いかけて見送る。
鮫島が消えてから、ゆっくりとざわめきが広まっていく。我に返った教師がヒステリックに怒鳴り、それを機に、一応授業は再開された。
表面上は静かになったものの、もちろん生徒たちの記憶がなくなったわけではない。十五分後に訪れる休み時間の質問責めを想像し、梨太は頭を抱えた。
「鮫島くんは非常識です」
梨太の言葉に、三者は三様の反応をして見せた。
くじらくんのモニターに映る鯨女史は大笑。犬居は、むっとしつつも反論はしかねるようで視線を逸らす。鮫島は、眉一つ動かすことなくその場から微動だにしなかった。もちろん、この中で一番おかしいのは鮫島だ。
「演技力がないとかの問題じゃないよ」
放課後、呼び出された例の商店街入り口、その場所である。夕方四時の商店街は、寂れがちとはいえどもそれなりの通行人があった。そこで立ち話をする四人、正確には三人とくじらくん一機にちらちらと視線が集まっていた。主に視線を引くのは、やはり鮫島である。
服装としておかしな点はない。先日の学ランは体育祭の騎馬戦衣装で、いまは白い長袖カッターシャツと黒ズボンという、ごく普通の男子高校制服だ。梨太が半袖にネクタイをつけている以外は同じ制服を着ているだけなのだが、なにせ頭身が違いすぎる。いや――
「なんかオーラがあるんだから、目立つんだよなぁ」
「おーら?」
日本語の意味がわからないらしい、ラトキア星人全員がきょとんとした。
そのうちの一人、犬居もまた普通ではない。赤い髪と瞳が目立ちすぎるのを自覚しているあたり鮫島より賢明だが、隠すアイテムがでたらめもいいところで、全く別の意味で人目を引いている。
二人の男と一線を画すのが鯨。産湯の温度を測る道具のようなクジラ型の機械がぷかぷかと宙に浮き、あまつさえそこから女の声がする。異常である。
梨太は軽く頭を抱えた。
「どのみち、こんなところで立ち話もしてられないでしょ。移動しませんか」
「どこへ」
「じゃあ、僕ん家にどーぞ。ここから歩いても十分くらいだから」
「ほう、それはいいな。よしお邪魔するとしよう」
鯨がやけに楽しそうな声を出す。犬居、鮫島はともに無言でついてきた。文句を言いそうな犬居が黙っているということは、やはり目立っている自覚があったのだろう。
鮫島と比べて戦闘力が劣るぶん、そういったネイティブな感覚は犬居のほうが地球をよく知っているようだった。
歩きながら、梨太は不機嫌な声音を押さえずに話す。
「あれから僕がどれだけ質問責めにあったと思う?休憩時間に生徒指導室にまで呼ばれたんだから」
「素行が悪いのか、リタ」
とぼけまくったことを言う鮫島に、梨太はその場でずっこけそうになった。
「あ、あのね。……鮫島くん」
「なんだ」
素直な返事が返ってくる。梨太は振り返り、鮫島を見上げた。
精悍な面差しに、まっすぐな目。
(……頭わるそーには見えないんだよなあ)
梨太は唇をとがらせて、そのままなにも言わずに歩みを再開した。
鮫島は、戦場の状況分析には鋭かった。本人が話す言葉も理路整然としているし、まったくの愚鈍で軍人の長になれるとは思えない。
コケそうになるほどのズレは、鮫島個人の資質ではなく、ラトキアとの文化の違いではないだろうか。常識がないのではなく、違う常識で生きている人間。欧米人が靴を履いたまま座敷にあがってきたとして愚かとはいえない。事前に知識がなければわかるはずがないのだ。
思ってたより、僕の仕事は多いかもしれない。そんなことを考えながら道を行く。
栗林家は、学校の西にある商店街を突っ切って抜けたすぐ先にあった。大きな道路、広い歩道を挟むと、閑静な住宅地になっている。
比較的築の浅い、豪邸ではないがこぎれいな家屋が並んでいる。そのなかほど、明るい茶色の外壁に黄色い屋根を持つ、かわいらしい一軒家だ。
表札には「栗林正広、美由紀、梨太」とある。
ベルトにひっかけているキーリングで開錠し、梨太は三名を招いた。
「はいどうぞ。わかってると思いたいけど靴は脱いでね」
「おじゃましまーす」
犬居が見本でも見せるように率先してあがり、あとに鮫島が黙って続いた。
せまい玄関、細くてすぐに壁に突き当たる廊下の右側に、トイレや風呂の水回りが並んでいる。左側がLDKになっており、一階のすべてを貫いて広い空間になっていた。個人の部屋や生活は二階に集中させ、リビングに家族のくつろぎと、客をもてなす用意をそろえてある。
全面バリアフリーのフローリング、キッチンのほうに寄せた四人掛けのダイニングテーブル。対面には前庭がみえる掃きだし窓。そこから差し込む日差しが応接セットに注いでいる。温もりを感じる空間だが、テレビを見たいときはカーテンをしっかり閉じないとまぶしい仕様だ。
クリーム色のカーテンにモスグリーン色のラグマット、同色のソファ。全体的に柔らかな色合いの部屋は、きちんと片づいているようだった。大衆インテリアショップで揃えたのだろう、リビングボードには、家族誰かの趣味やみやげであろう統一感のない置物と、三人が並んだ写真があった。それ以外にはあまり物の無い家でもある。
「ほうほうこれが地球人の一般住宅か。初めて見たぞ。なるほどなるほど。とくに日本はウサギの小屋のようだと聞いたが、なかなかどうして、広々と居心地よさげではないか」
入って早々リビングを飛び回り、モニタリングしまくる鯨。梨太は冷蔵庫から飲み物を出しながら、
「星帝皇后さまが言う? 小さい家ですよ。上も二部屋だけだし。一階は部屋数減らしてそのぶん空間を取ってるってわけ」
「家族は留守か?」
「ふたりそろって長期出張。一人暮らしなんだ、僕」
「ほう。そのわりにはこぎれいにしてあるな」
「僕はきれい好きなの。つかそろそろ落ち着いてくださいよ鯨さん、うちのどこ覗いたって面白いものはないんだから。犬居さんちじゃあるまいし」
「お前が俺の部屋のなにを知ってるってんだよ!」
「いやあほら、男子の部屋につきものなものはどの辺に隠してるのかなーっと」
「閣下っ」
「それならテレビ台の横、スモークガラスの棚です」
「相手をするんじゃねえ!」
「お前も同罪だ犬居」
鮫島が言い捨てた。
そして、彼は勝手にダイニングテーブルに腰掛けた。そばにあったペンギン型の砂時計を見て取り、指先で触れてクスリと笑う。何かが気に入ったらしい。
本当は、リビングスペースのソファのほうへ通すつもりだったのだが……そういう彼の前に、梨太はアイスティーのグラスを置いた。
犬居も隣にすわり、空いた席にクジラくんがついた。ちょうど人の顔の位置あたりの高さでふよふよ浮遊する。
「おい、わたしの分の飲み物はどうした」
鯨の軽口は無視。
梨太も席についた。
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