21.共鳴〈5〉
気づけば、夏休みは中盤。
来週に迫っている二つ目のイベントに向けての準備はほとんど済んでいる。
したがって、今日はバイトだけだ。
あの日以来、若菜さんと顔を合わせていない。うまく静香さんが説明してくれているだろうかと心配しながら出勤した。
喫茶店に入ると若菜さんと静香さんが居た。営業前のため店内はしんとしている。すぐに自分の存在に気づき、気まずそうな顔をした。
そんな彼女の肩をポンと叩き、静香さんが何かを促す。
そして、意を決したように僕の前に来る。
「あの…この前はごめんなさい。いきなり帰っちゃって……」
ひそひそ話に近い声の大きさで彼女は謝る。
「いや、いいですよ。それより、こちらこそすみません。助けていただいたのにお礼をちゃんと言えてませんでした」
何を言われようとも、まずお礼を言おうと決めていた。
「えっ、あ、それなら全然いいよ。当たり前のことをしたまでだし。身体の方はもう平気なの?」
彼女は予想外の返答に戸惑いつつ、会話を続ける。
「はい。おかげさまで。今日もよろしくお願いします」
「う、うん……」
まだ何か言いたげだったので切り出すのを待っていると、彼女が話を続ける。
「…それでね、あの、もし良かったら、これ受け取って……。別に今回の件が無くても渡そうと思ってたんだけどね。とりあえず、もうこの話はおしまい。もう何も言わないし、聞かないから」
差し出されたのは包みだった。
「これは?」
「新しい制服。いつまでもバーのマスターでいるわけにはいかないしね。似合ってたけど……」
お世辞ではなかったようだ。少し、照れながらそう言う。そんなことを言われるとこちらまで恥ずかしくなってしまう。
「僕のためにこれを?」
「君が男子従業員一号だから、当然そうなるわね。この先、代々受け継がれていく制服だから、大事に使ってね」
静香さんが制服を新調した理由を言う。
「大事に使わせていただきます。さっそく着替えてきますね」と言って更衣室に入った。
嬉しさ半分、重圧や責任が一層増した気がして複雑だった。
新しい制服は白と濃い紺色のストライプが目を引くワイシャツと黒の綿パン。それにベージュ地にコーヒーカップが散りばめられたネクタイとシンプルなネクタイピンが付いていた。
デザインは大きく変わったが、制服としては問題ない。
何よりもサイズがちょうど良い。
着替えて表に出ると二人は作業をやめて、じっと僕を見た。
「どうですかね?」
「似合っているわよ。一応オーダーメイドだから、サイズはばっちりでしょ」
「お、オーダーメイドなんですか!?そんな、申し訳ないです……僕にサイズ合わせて良かったんですか?」
「オーダーメイドっていっても大体の体格を伝えて作ってもらっただけよ。丈人くんは大きくも、小さくもない標準体型だから誰にでも合うと思うし、違えばまた作ればいいのよ」
「そうですか」
「さぁ、そろそろ開店の準備をしようかしらね」
と静香さんが二人に指示を出した。
平日ということで客足は順調。昼時に近づくにつれて、次第に店内が混雑し始めた。
いつものように忙しくしていると、見覚えのある顔が来店した。
「おっ!どうだ仕事は?」
商店組合の向田さんだ。
「だいぶ慣れてきました」
「そうか。そういえば、制服変わったな。昇進か?」
冗談混じりに訊いてくる。
「いや、いつまでもあの服じゃなんだからって、新しくしていただいたんです」
「あれ、暑苦しいだろう?私も一時期、ここでバイトしていてね」
懐かしむように語り出す。
「えっ、そんな前からあるんですか?」
「俺が学生だった頃……つまり、30年くらい前に開店した老舗だよ。店の名前と雰囲気は何度か変わってるけど、ずっと滝宮家が経営しているよ」
「そうだったんですね。初めて知りました」
「そうそう、今の喫茶店スタイルは三年前から。夫の店から独立する形で始めたの」
静香さんが会話に加わる。
「ということは元々、静香さんの旦那さんがやってたんですね」
「そうよ。友晴さんは、君がお世話になっている《喫茶メロディ》のマスター、河本さんと学生時代からの知り合いなの。君をここで雇うことになったのも、友晴さんと河本さんのつながりがあったからなのよ」
友晴さんに出会ったことはないのだが、河本さんのように穏やかで優しい人なのだろうと勝手に推測した。
「友晴さんにも感謝しないといけませんね」
「あいつが、そういう手助けみたいなことをやるとはねぇ……」
「あら、そんなにひどい人じゃありませんよ~根はやさしいんですから」
世間話をしている間も、静香さんの手は止まっていなかった。
ふと若菜さんの様子を窺うと、一人でオーダーを取っていることに気づき、仕事に戻る。
喫茶店とはいえ、昼になると回転率が上がる。したがって、ひっきりなしに注文が来る。
「世羅くん、注文聞いたら珈琲淹れてくれる?」
仕事中ということで、気まずさを押し殺して指示を出す彼女。
「はい。分かりました!」
一日の中で一番来客の多い時間帯が過ぎた。
「お疲れ様…」
若菜さんがねぎらいの言葉を掛ける。まだ気まずそうな雰囲気ではある。
「お疲れ様です。一旦家に戻って、昼食摂ってきてもいいでしょうか?」
「いいけど…今日は賄いじゃないんだ…?」
「妹が退院したので……昼食を用意するように頼まれてるんです」
「そう。わかったわ。14時半までには帰ってきて…」
「はい。失礼します」
とりあえず、あの件は終わりということになった
簡単な掃除や着替えを済ませて、静香さんにいったん家に戻ると伝えて店を出た。
自宅で療養する舞衣のために、家に帰って食事を用意しなければいけないことを考慮してくれたのだろう。
事前にメールで伝えられた希望通りに食事を調達した。
「お兄ちゃん、おかえり!」
いつも通りで、ちょっと安心した。
「ただいま。買ってきたぞ」
「ありがとう」
リビングに買ってきたものを並べ、二人で向かい合って食べた。
リハビリのために箸を使って食事をする彼女。とはいえ、利き手がうまく扱えずに苦労していた。
彼女は拒否していたが、一方的に手助けをしながら食事をする。
他愛のない話で盛り上がった。部活の話やバイトの話など、尽きなかった。
ふと、進学についてどう思っているのだろうと思った。あれ以来、そういう会話はしていない。
「進学に関して、悩んでることとかあったら言えよ」
さりげなく話題にしてみる。
「……うん……」
歯切れの悪い返事が帰ってきた。様子がおかしい。
「どうした?」
「その……いや……」
「なんだよ。言いたいことがあるならはっきり言えよ」
「…なんでも、ないから…。それよりさ……」
彼女は、はぐらかそうとする。
「教えてくれ」
少し強めに言うと長い沈黙の末、意を決したように打ち明ける。
「うん……あの…さ…………私、音高諦めようかなって…」
あまりの戸惑いに箸を落とした。一瞬、彼女の言葉の意味が分からなかった。
「ど、どうして?音高行きたいんだろ? リハビリ、そんなに大変か…?」
「そうじゃなくてね…ふと考えたんよ…どうして、音高を受けたいんじゃろうって…」
「音楽の道に進むんじゃないのか?」
「こんなことになったし、ハードルも上がったじゃろ?そこまでしたいことか?って自分に問いかけてみたけど、答えが出んかった…。それで、何で私はあの高校に行きたいんかって、考えたんじゃけど…」
「プロの音楽家になれるぞって父さんが言ってくれて、それで舞衣も…」
「その言葉に乗せられて、ここまできたんじゃけど、高校選びは大事だって話を聞いて、それじゃダメじゃって思ったんよ…」
「ピアノ…というか音楽、好きだろ?たぶん、僕よりずっと」
「もちろん、好きよ…音楽もピアノも。でも…」
「それなら音高に行けばいいだろ。何もプロだけしか道は無いなんてことはないんだし、今はこういう状態だから、弱気になってるだけだと思うぞ」
「そもそも、ついて行ける自信ないし 、まだ想像もできん将来の選択肢を狭めてしまうんじゃ…って。大学からでも遅くないって思うし…」
「…お前の道だからお前が好きに決めればいいけど、いきなりすぎないか?」
「もちろん、まだやめるって決めたわけじゃないから…」
それから、沈黙の時間が続いた。何を話せばいいのか分からなかった。時計の秒針の音だけが響く。
重苦しい時間が数分間に渡って続いた後、彼女が口を開いた。
「…一番の理由はね…お兄ちゃんや大田さんたちを巻き込んでまで、その道を選びたくないって思ったからなの…。だから自分の中では…普通の高校を受験することが最善だと思ってる。そうすれば、リハビリに追われることも無くなるし、自分のペースでピアノと向き合えると思うし」
「…このことを、大田さんたちに伝えたのか?」
「うん…二人には伝えてある」
「二人はなんて?」
「藤崎さんは、『好きに決めればいいと思う。俺たちは一方的に手を貸してるだけだから、気に病む必要はない』って」
「大田さんは?」
「『自分一人の気持ちとしてきっぱり決断したなら私たちは何も言わないけど、罪悪感を理由にして諦めるというのはお兄ちゃんに失礼だよ』って」
二人の言葉をありのまま伝えた。
「…まぁ、音高に行く価値が自分にはないって思うなら、やめてもいいよ。だけど、僅かでもやってみたい、目指してみたいと思う気持ちがあるなら挑んでほしい。少なくとも周りの人間に申し訳ないなんて気持ちで諦めてほしくはない…」
そう言い残して、リビングから離れた。とても、あの場に居たくなかった。
もう一度、話をしようと家に戻ると舞衣は食卓から離れていなかった。
俯いたまま、考え込むように固まっていた。
「そういえば、仮に音高諦めて、どこにするんだ?」
「咎内……」
「部活はどうするんだよ」
「それは……音楽…部」
「咎内っていっても、いろんな科があるんだぞ。普通科だけじゃないんだぞ」
「普通科……」
「肝心の進路はどうするんだよ?」
「お兄ちゃんこそ…どうするん?」
「そりゃ……まぁ、これからだ」
痛いところを突かれる。答えが出せない。
「じゃあ、私もそれ……」
終始、ぼそっと答える。
「なんだよ、何にも決まってないのかよ…音高行った方がいいと思うぞ。俺より絶対、素質あるんだから。父さんにお墨付きをもらってたんだから」
その言葉を聞いて、彼女は表情を変えた。
「なんよそれ?まだ、そんなこと言っとん?本当に才能があるんなら、もっといい評価を貰えたし!あんなの機嫌取りに決まってるじゃん」
少し馬鹿にしたように言う。
「え……ま、舞衣?」
「正直言えば、ずるずるここまで続けてきたというんが本音。最初は素直に頑張ってた。でも、やればやるほど、お兄ちゃんとの差が明白になった。どんなにがんばっても、コンクール入賞できんかったし、他の楽器も試したけど、今でもギターはうまく弾けん!」
「俺よりずっと上手だよっ!コンクールはたまたまだし、そもそも、コンクールに出られたのだって、舞衣に追いつこうと思って頑張った結果でしかないんだよっ」
僕も強い口調で言う。
「そんなこと……」
彼女の言葉をかき消す。
「いつも、お前が一歩先を行ってた。先生だって口を揃えて、妹に置いて行かれるなよって言われてたんだ」
「い、いきなり、なによ……」
彼女が怯んだのを見計らって、言葉を続ける。
「すぐにスクールがつまらなくなった。でも、舞衣がコンクールの舞台に立った時、かっこいいと思ってから、練習をするようになった。僕もあれくらい弾きたいって思ったんだ」
「やめてよ……そんな謙遜」
彼女の言葉を無視して話を続ける。
「僕も舞台に立てるように、妹に負けないように上手くなりたいって思った。音楽との接点を舞衣はくれたんだ。そんなお前の口から才能無いなんて言葉聞きたくなかった…」
「今だってっ、怪我にもめげず頑張る姿に、僕も頑張ろうっていう気持ちにしてくれた。色んな勇気も貰えた。だから、突然やめるなんて言われて、正直ショックだ…」
「……」
正直な気持ちを伝えると、彼女は何も言わなくなった。
「何があったんだよ? 理由は何も僕らだけじゃないんだろ?」
そう問い詰めると、瞳にうっすら涙を浮かべながら話し始めた。
「…ゆびがおもうように……うごかせんように……なっちゃったんよ……思った以上に酷いけぇ、無駄な足掻きをするよりは、きっぱりやめたほうがいいかもって…」
思いもしない言葉に戸惑う。
「え…………リハビリで、どうにかなるんじゃ……ないのかよ……」
「練習が思うように進まんで、お医者さんに見てもろうたんじゃけど……思った以上に神経にダメージがあるかも……って言われて…」
泣きじゃくって、また話し始める。
「…治るには治るんじゃけど、ピアノを正確に弾くまでには相当な時間と努力が必要じゃって言われたんよ…。普通に字を書いたり、箸を使ったりはできるんじゃけど…」
と言いながら、箸を使って見せた。ぎこちないのは、まだリハビリ途中だからだと思っていた。
言葉を失った。当然、リハビリをすれば元通りになって、ピアノは変わりなくできるものだと思い込んでいた。
「舞衣は怪我のことを差し引いて、どうしたいんだ?」
正直なところ、どうしたいのか訊きたかった。
「私は…もうどっちでもいいって思ってた。でも、お兄ちゃんの言葉を聞いて、弱気になってた自分が恥ずかしく思えてきた…。まだ何も見えてないし、もしかしたらピアノの道も諦めんといけんかもしれん。けど、音楽は好きじゃけぇ…挑戦しようと思う」
そう言い切った。
「……何もやらずに諦めるより、やってみた方がいいと思う。大田さんや藤崎さんもそう言うに決まってる。母さんだって…父さんだって、そう言うと思う……」
自信を持って、その言葉を言う。
「どうなるかわからんけど、今後もよろしくお願いします」と改まって頭を下げてくる彼女。
「な、なんだよ!?いきなり…」
「色々迷惑を掛けると思うけぇ…」
「それを承知で応援してるんだ。そういうのはいいよ」
「うん…」
「あっ、そろそろ、行かなきゃ…」
足早に準備をして、家を出る。僕の背中を送り出す彼女をちらりと見る。
そこには晴れやかな顔があった。
僕としてはまだすっきりしなかったのだが、彼女のその表情に安堵した。
午後のバイトを終え、帰宅した。
昼間の話を大田さんや藤崎に知らせていなかったので、舞衣に電話を掛けさせた。
「今回の受験だけは、頑張ってみようと思います」
その後、藤崎からメールをもらった。
《とりあえず、安心した。しかし、急に考えを変えるとは、兄妹ってすごいな》
《諦めてほしくなかったので、引き止めました。これがよかったのかよく分かりませんが、最後は彼女が決めたので応援するしかないです。お二人にはご迷惑をお掛けするかもしれませんが、よろしくお願いします。》
《了解。何かあれば連絡してくれ》
とやりとりをして終わった。
次の日は一日、予定がなかった。
最近、部活やバイトで忙しい日々を送っているため、休日は家から出たくない。そうでなくても、今日は三十五度を超えており、外に出るのを躊躇してしまうような天気だ。
舞衣は何をしているのかとリビングを覗くと、リハビリを兼ねた訓練をしていた。字を書いたり、箸を使って何かをつかんでみたり、試行錯誤をしている。
ピアノにも触れてはいるが、曲を弾くには至っていない。感覚を取り戻すことに専念している。
宿題は順調に消化されつつあり、特にやることがない。舞衣の相手でもしてやろうかと思ったが、本人がそれを拒否した。
「お兄ちゃんはゆっくりしとっていいけぇ」
そんな言葉が返ってくれば、退くしかない。
パソコンで適当にネットサーフィンしてみたが、暇すぎて、暇つぶしにもならない。
仕方なく、ベッドで横になっていると、いつの間にか寝てしまっていたらしい。
窓からは夕日が差し込み、セミに代わりヒグラシが鳴いていた。
ふと、寝返りをうつと傍らに舞衣が居た。ベッドに寄りかかり眠っていた。何か用事があったんだろうが、一緒に眠ってしまったらしい。こういうことは昔からよくある。
まじまじと彼女を見ることはないため、こんなに成長していたのかと気付く点がいくつかある。背が伸び、顔立ちや身体のあちこちが女性らしくなった。
自分の中にある彼女のイメージは、おそらく4年前から止まったままなのだろう。
毎日会っていると知らず知らずのうちにイメージを作り上げ、変化に鈍感になってしまう。ふとしたきっかけで、変化に気づき成長を思い知る。
日々、微妙に変化していたにもかかわらず、気づいてやれなかったのはどうしてなのだろうか。
すぅ…すぅ…
可愛らしい寝息を立てながら眠っている。そんな彼女の頭を優しく撫でてやる。
父との別れから立ち直るのも、再び音楽をしようと思えたのも、彼女の存在なしには果たせなかった。
彼女に返さなければならない恩がある。
まだ進学の件は不透明で、すっきりはしないが、改めて、自分のやるべきことを再確認した。
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