19.共鳴〈3〉

病院の食堂は病棟から離れた場所にあり、院内を見て回ることができた。開放的な作りで、どこもかしこも明るい。


一般客も利用できるよう病棟とは別棟になっている。

中途半端な時間のため、客はまばらだった。


舞衣が置いていった生活用品の中に、お金が入っており、同封のメモには、《これで、腹いっぱい飯を食え! 私の金だから、今度なんかおごってね》と記されている。


何にしようかと、注文した定食を食べながら考えていた。

ふと、隣のテーブルで話をする中学生らしき女の子たちの会話が気になった。


「最近さ~翔也の歌、微妙だよね」

「そうそう、たぶん彼女ができたぐらいから、音楽活動もちょっと休みがちになってるし……」

「どういう繋がりで付き合ったのかな?その子」

「そういえば、噂で聞いたんだけど、その彼女は幼なじみらしいよ」

「え、そうなの?」

「噂だけどね。地元だからこういう話が一つ二つ出てくるのよ」

「幼なじみか~……めっちゃときめくじゃん。だって、昔から当然のように遊んでた異性が急に気になりだして、想い続けて勇気だして告ったってことじゃない!」

「そんな単純な話じゃなさそうだけどね。詳しくは知らないけど」


藤崎に関する話題だった。

そういえば、今まで藤崎の歌を聴いたことがなかった。最近微妙とはどういうことなのだろうかと疑問に思ったが、向こうは一応プロだし、「最近何かありました?」なんて訊けない。


昨夜から何も食べていなかったせいか、おなかは空いているものの、腹八分目あたりで苦しくなった。無理せず残して、特に用事もないため病室に帰る。


考えてみれば、病院にお世話になるなんてことはここ最近なかった。つい先日の倒れた件といい、体の不調を訴えることが多くなったような気がした。

医者からはちゃんとした休養を取って、生活習慣を見直すことが大事だと言っていた。身体の不調も、気分的な面もリフレッシュするだろうと付け加えた。



それから4日が過ぎ、退院してもいいことになった。すぐさま支度をして家へ帰った。

そして、急いで若菜さんのところへ向かう。

喫茶店へ着いた時には昼前だった。店の外から伺うと、若菜さんの姿はなかった。


どうしたのだろうかと喫茶店に入ると一番に静香さんが迎えてくれた。

「あら、いらっしゃい。退院したの?それとも、抜け出してきちゃった?」

「いえ、今日退院してもいいって言われてたので…」

「そうなんだ~。あ、若菜なら居ないわよ。合唱コンクールに向けた、三泊四日の合宿だから」

「そうだったんですか」

「それより、なんかあったの?」

やけに鋭い。

「えっ、何がですか?」

「君を見舞いに行った日、帰ってきた若菜の様子が変だったの。君の状態を聞いても、そっけなくて」と訳を語る。


「喧嘩でもしたの?それとも、何か気まずいことでもあった?」

母だけあって、色々と見透かしているようだ。

どうしようか迷ったが、合宿から帰ってきて様子が治っているとも限らない。うやむやにして変な心配をかけるより、正直に伝えておいた方がいいと思った。


「そう…秘密な話を聞いちゃって、それを悪く思ってるってことね。丈人くんは、本当に気にしてないのね?」

「はい。そう伝えはしたんですが、その後、すぐ帰っちゃって…」

「わかったわ。帰ってきたら、話をしておくわ。それより、退院したってことは働けるのよね?」

「えぇ。まぁ…シフト通りなら、明後日ですけど…」

「明後日休みで、明日はどうかしら?明日の夜に若菜が帰ってくるのよ…」

「そうなんですか。わかりました。明後日、お休みを頂いて、明日代わりに出勤します」

「何か、食べていくといいわ。給料から引いとくからタダでいいわよ」

「すみません…食べてきちゃったもので…それにちょっと用事があるので長居できないんですよ」

「あら、忙しいなら仕方ないわね。それじゃ、気を付けて帰るのよ」

「わかりました。ありがとうございました」

「また明日、よろしくね~」と見送られた。


大田さんと舞衣に呼ばれ、病院に向かうことになっている。


「遅くなってごめん…」

病室に着くと二人とも暇を持て余しているようだった。

「お兄ちゃん、遅い!」

「ごめん、ごめん、他にも行くところがあったから…」

「丈人くん、大丈夫だった?」

「はい。もう、何ともありませんよ」

「よかった…」と安堵の表情を浮かべた。


「それで、話ってなんですか?」

「高校に行ってみたのよ。その報告をね」

「結構、いい感じの学校じゃったよ~」

舞衣は明るく言った。

「それで入学のことなんだけど、現時点では特別入学制度の条件に当てはまっているみたいよ」

「リハビリの件については?」

「お医者さんに経過を訊いてみたけど、年明けまでには普通に弾けるようになるだろうという話だったわ。練習も平行して行えば、リハビリの助けにもなるだろうって」

とりあえず、リハビリが間に合う可能性があるというだけで救いだった。

「それと、学校でも学園長直々に対応してくださって、いろいろと提案をしてもらったわ」

「提案って?」と尋ねると舞衣が答える。


「一つは通常入試の筆記試験をまず受けて、来年三月までに実技試験を受けること。筆記試験に合格していれば、実技はギリギリまで待ってくれるらしいんよ」


「もう一つは、特別入学制度で入学して、そのカリキュラムとは別にピアノの授業を受けること。授業が増えるけぇ大変にはなるけど、それなら、リハビリが遅れても対応できるんよ。それと――」


大田さんが資料と思われる紙を取り出し眺めながら説明する。

「そして、最後の案が実技試験なしで補欠合格を得る選択肢よ。筆記試験に小論文が加わり、面接も特殊なものになるそうよ。実技が無い分、意欲や態度を見られるからハードルは上がるし、補欠合格だから確実ではないのが難点よ」


「万が一のことがあれば、音高にいけなくなるってことですよね…」

大田さんに尋ねたのだが、舞衣がふと口を開いた。

「私はそれでも良いと思っとるけど…」


何か割り切ったような口調に違和感を覚えたが、すぐにごまかした。

「べ、別に高校行けんくても、大学に入れればいいんじゃし!」


確かにその通りではあるが、なにか腑に落ちない。

「僕としては万全な状態で普通に入学してほしいと思ってる。どうせ入るんなら、高校からのほうが絶対いいし、間に合う可能性のほうが高いなら、そのほうがいいだろ」


「お兄ちゃんはそういうこと言うと思った…」とやっぱり何か様子が変だ。


「私もそのほうが良いと思うわ。何も諦めることはないんだし…」と何も知らない彼女は僕の意見に乗る。


「私だって、本当はそれが良いと思っとるけど…」と言いよどむ。


「けど…?」


「自信が無い…」

そういうことかと理解した。

一応、手は動かせるようになっていたが、まだ不器用な感じで日常の動作も感覚を取り戻せていない。


「まだ弾いてないんだもんな」

「うん…」


しかし、何かまだ様子が変に思えて、少し質問してみた。

「あのさ、舞衣は本当に音高行きたいんだよな?」

「行きたくないなら、こんな話してないじゃろ!」と半分キレながら答える。

「何で行きたいんだ?」との問いには冷静さを取り戻し、少し考えてから答えた。

「そりゃ…ピアノの腕を磨きたいって思ったけぇよ…」

「なら、チャレンジしてみるべきじゃないか。リハビリが間に合うって言われてるんだから」


「それは、そうじゃけど…」

まだ何か引っかかるものがあるようだ。


「大田さん、補欠合格のやつはいつまで受けられますか?」

「えっ?あ、ちょっと待ってね」と言いながら、メモを取ったと思われる書類に目を通す。

「普通入試の最終日程と同じ2月10日までね。特別入学制度は3月1日まで。通常入試で間に合わなくても、変更も可能よ」と舞衣に伝える。


少し何かを考えた後、話し始めた。

「私ね、本当はピアノが弾きたいけぇ、入りたいっていうわけじゃないんよ…」

その言葉は予想外のもので二人とも驚いた。でも、違和感の原因が見えた気がした。


「小さい頃から、それしかして来んかったけど、真剣にやってたわけじゃないけぇ、夢とか目標になんてならんかった…。友達はみんな色んなことに興味持って、それが夢とか目標になっとる。それが、なんか羨ましくて…。友達からピアノで食べていくんでしょ?って毎回言われて、否定もせず肯定もせず誤魔化してた――」

言葉を重ねる毎にその顔は下を向くが、顔を上げ、涙目になりながらも、経緯を語り続けた。

「そんな自分が嫌じゃった。じゃけど、何も目標を持てんくて…。私にはピアノしかなくて。それなら、ピアノで勝負しようって音高への進学を決めたんよ…」


「そうだったんだ…」

「そうなのか…」

その相づちはほぼ同時だった。


まだ話はあるようで、「それで…」と言葉を続ける。


「怪我する前はどうにかなるじゃろって思えとったんじゃけど、今は並みの練習じゃ試験が受けられもせんって状態で、正直、頑張ろうっていう気持ちより、受からなかったらどうしよっていう気持ちのほうが強かった」


「最終的にどうするかは、舞衣さん好きなようにすればいいわ。私たちはその答えを尊重する」と大田さんが腰を落とし、手を握りしめてそう伝える。


「はい…」


僕も、どちらを選んでも後悔のないようにしてほしいと伝えてやる。


「ありがと…」という言葉と同時に目に溜まった涙が零れ落ちる。


「どちらにせよ、やることは変わらないから、兄としてできるサポートはしたいと思ってる。それは大田さんだって、そうだと思う」と付け加える。

それに応えた大田さんは立ち上がり、「そうよ。後輩が困っていたら、助けてあげるのが先輩の役目だもん」と胸を張る。


その姿がおかしかったのか、舞衣の顔に笑みがこぼれた。


「補欠なら良い言い訳もできるし、自分としても気持ちが楽かなって、思っとったんじゃけど…。そんなこと言われたら、補欠なんかじゃ駄目じゃわ…」

そう言いながら、車椅子の向きを少しだけ変えて、僕と大田さんと向き合うようにした。


「可能性があるなら、私、頑張ってみようと思う…。でも、何も見えてないから、途中で挫折もすると思う…。それでも応援してくれますか?」

舞衣の姿勢は、許しを乞うものではなく、決意に溢れたしっかりとしたものだった。そんな姿を見て、いいえとは言えない。


「もちろん」

「でも、無理はしないで。無理に練習して悪化させてもいけないし、苦しかったり、辛かったりという思い出にはしてほしくないから」

「はい」


僕が願っていた形で話は進むことになったが、正直、これで良かったのかは分からない。

ただ、僕の意見に従ったわけではない。本人が決めた以上はそれを応援するしかない。


「その、二人ともありがと…」

「いいのよ。私が望んでやってるわけだし。お役に立てるか不安だけど、練習にも付き合うわ」


「お兄ちゃんもありがと…」

「合格してから言ってくれ」

「それも、そうじゃね…」と固かった表情を緩めた。

いつもの舞衣の表情に少し安心した。


その場の空気を和ませようと僕に話を振る。

「それより、バイトの方はどうなん?」

「なんとか、頑張ってるよ。今回は迷惑かけたけど…」

「そういえば、若菜さんに聞いたけど女の子ばっかりらしいね」

「うん。バイトの子が3人いるけど、みんな女子だしマスターも女性だから、最初は抵抗感あったけど慣れたかな」

「丈人くんの周りに女性が多いよね?」

「偶然ですよ。大田さんが知らないだけで、男の友達だってたくさんいますし」


「彼女もできたことじゃしね~」

「えっ!彼女?彼女ができたの~?」

「こらっ!言うなって!」

この人にだけは話すまいと肝に銘じてきたのに、妹にカミングアウトされてしまった。こんなことなら、口封じしておくべきだったと後悔した。

ニヤニヤしながら、大田さんが質問し始めた。

「へぇ~そうなんだ~」と興味津々な様子で根ほり葉ほり訊かれた。


まだ、曖昧な関係だと話すと、

「君に思い入れが無かったとしても、相手の好意はちゃんと受け取るべきだよ。その人との繋がりを大事にしなきゃ」と諭されてしまった。


その後、空気はいつも通りに戻り、他愛のない話が続いた。


日が傾き始めた頃、自宅へと戻る。

何日かぶりの自宅。


リビングのソファに座り、思い返す。


舞衣が選んだ道は決して簡単なものではない。リハビリが順調に行くとも思えない。

弾けるようになったとして、怪我をする前の演奏を取り戻せるかも分からない。


不安は尽きないが、一つ道は開けたような気がした。


見えないものを考えていても仕方がない。

その日はありあわせの食材で夕食を作り、母の帰りは待たず、眠りに就いた。

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