12.傷〈1〉
部屋に入り、視界に飛び込んできたのは大きな窓のある壁。その向こうで舞衣は包帯を巻かれ、色々な機械をあちこちに取り付けられていた。
部屋の入り口には「集中治療室」の文字。
そんなに酷い怪我だったのだろうか?
詳しい症状を聞いていなかったが、予想外の光景に気が気でなかった。
「ご家族の方ですか?」
若い看護師が話しかける。
「はい!舞衣は大丈夫なんですか?」
僕は必死になって訊く。
「命に別状はない。しかし、腕にダメージがある。足も骨折していてね…。元の生活に戻るには、リハビリが必要だろう……」
背後から来た不愛想な医者がそう言った。
それを聞いて安心し、ふと訊き返していた。
「そうなんですか……なんで集中治療室にいるんですか?」
「事故のショックが残っているから念のためだ」
その言葉を聞いて、胸を撫で下ろした。
張りつめた状況から解き放たれて、力なく廊下の椅子に腰かけた。
「そばに居てあげてください。目覚めた時にご家族がいらっしゃれば安心するでしょうから」と看護師がここで待つように促した。
「分かりました」と返事をして、しばらくの間ぼーっとしていた。
ふと電話を掛けなければと思い立ち、通話可能な共有スペースへ行った。
「もしもし、先生ですか?」
「世羅くんか。妹さんは大丈夫だった?」
「大丈夫そうです。でも、そばに居てあげたいのでバンドメンバーに伝えておいて頂けませんか?」
「もちろん、もう話してあるよ。みんな、世羅くんの分まで頑張るって言っていたから、心配しなくて良い」
「そうですか。ありがとうございます」
電話を切り、また電話を掛ける。
「もしもし、母さん?」
「大丈夫だった?」
「命に別条はないって、念のため治療室に入ってるけど心配いらないって…」
「そう……よかったわ。今そっちに向かってるから、様子を見ててあげてね」
母はそれを聞き、安心したようだ。
それから数分後、母親が到着し、医師から説明を受けるため診察室へ連れられていった。
そのすぐ後、舞衣は目を覚ました。
目を覚まし、こっちを見て安心したように表情を柔らかくした。
「おにい……ちゃん……ごめんな」
「何がだよ。それより、痛いところとか、おかしいところとかないか?」
「そりゃ、あちこち、痛いよ…。でも、平気じゃけぇ…」
一言ずつ絞り出すように声に出した。
医師と共に帰ってきた母親は複雑な表情で舞衣を見つめていた。
検査があるからと一旦席を外すように言われ、入院患者や見舞いの人でにぎわう共有スペースの椅子に二人で腰かけた。
「丈人、良く聞いて」
「何?」その瞬間、取り乱したような声で話した。
「腕なんだけど、進学後までに治らないって…」
母の震える声で発せられた言葉は、当分ピアノが弾けないことを意味していた。
何を言っているのか分からなかった。というより、理解しがたい内容に目を背けたい気持ちでいっぱいになった。
「リハビリすれば、良くなるんじゃないの?」
「リハビリは時間がかかるから、普通の生活をできるようになるには、早くても進学後になるだろうって…ピアノがその後になるのは丈も分かるわよね…。リハビリか進学。どちらかを犠牲にするしかないって…」
「リハビリが終われば、元通り弾けるようになるんだよね?」
「そこまでは分からないって……だから、仮に志望校に進学できたとしても、その先が見通せない…」
「そんな…」
それ以上の言葉が出てこない。
本人が知ったらどう思うだろう。
少しして、麻衣のところへ行く。
一般の病室に移され、ベッドに寝ている。腕は包帯で巻かれて器具で固定されている。
「お兄ちゃん、ライブ出来んかったんよね…ごめんな」
申しわけなさそうに言う。
「いいんだよ。ライブより舞衣の方が大切だ」
「ありがとう…」
少し照れくさそうにお礼を言う。
「私、リハビリ必要なんじゃろ?…大体、わかるけぇ…」
暗いトーンで呟く。
「……」
なんと答えてやればいいのか分からなかった。
絞り出すように彼女が言葉を続けた。
「当分…ピアノ弾けんのんじゃろ?…音楽の学校……諦めたほうがいいんじゃろ?……」
矢継ぎ早に発せられる言葉に、無念さが滲み出る。
「そんなことない……諦める必要はない…」
言葉を選びながら諭すように言い聞かせる。
「ピアノは腕がなきゃ…弾けんの…分かっとるじゃろ……」
悔しさともどかしさが混じった声だった。
僕は何の言葉も返せない。
「…試験できたって、ピアノの腕をアピールできんのよ…。そんなん、受かるわけないじゃん…」
「何か方法があるはずだ!」
弱気になっている麻衣のことをどうにかしてやりたくて、強く言った。
「試験は9月になんよ…とても、そこに合わせることなんてできんし……」
ついに涙を流し始めた彼女に、何もしてやれない自分に憤りを覚えた。
「あんな道……通らにゃ良かった…」
泣きながら、そんなことを呟いていた。
とりあえず、彼女が落ち着くまで胸を貸した。彼女は僕の胸に頭を押し付けて、泣きじゃくっていた。それをただただ受け止めてやる。
その後は簡単な会話しか交わさず、僕は家へ帰った。
タクシーで家に着く頃には、西の空が薄く茜を残すのみだった。一直線に自室へ戻り、ベッドにうつ伏せで飛び込む。
ふと携帯を取り出すと、ツカからメールが来ていた。先生から報告はあっただろうが、一切連絡を取ってなかったので心配しているだろうと電話を掛ける。
「大丈夫だったか?先生から無事だってことは聞いてたけど、連絡が来なかったから、心配してたんだ」
「ごめんなさい…こっちは大丈夫です。やっと病院から帰ってきたところです。それより、ライブはどうだったんですか?」
「なんとか乗り切れた。成功とはいえないけど、不安要素の戸辺もミスなくやってくれたし、いい出来だったんじゃないかなと思う。一つ心残りはタケと最後までできなかったことかな。まぁ、来月もあるし、また練習頑張ろうぜ」
淡々と語る。
「はい…」
「電話までしてもらってすまんな。メールでよかったのに。とりあえず、タケの声が聞けてよかった。他のメンバーには俺から伝えとくから、もう休んでいいぞ」
いつものツカの雰囲気ではなかった。気を遣っているのだろう。
「すみません…お願いします」
「あぁ。お疲れ様」
「おやすみなさい」
電話が切れて、急に一人になった気分だった。事実、母は病院に残り様子を見ており、家には僕一人しかいない。
パソコンを起ち上げ、ブラウザを開いた。
調べてみると、片手でピアノを演奏する人が居ることを知った。とあるサイトに三木敏郎という人のことが掲載されていた。
腕がない状況の中、プロの音楽家として活動しているらしい。片手でも全ての鍵盤に届くようにピアノを特注し、専用の楽譜も考案したという。二十年前から世界を渡り歩いているという。
もう少し調べていくと、生まれつき両腕のない人が顔で鍵盤を叩くという斬新な演奏スタイルでピアニストとして地位を確立させた人も居るという。
そこまでいくと演奏家というよりは、一種のパフォーマーだが、どんな境遇であれ様々な手段で不可能を可能にする人は居るということを改めて知った。
腕が無くなったわけじゃない。ただ、自由に動かせないというだけ。
それに、治らないと決まったわけではない。
そう自分に言い聞かせた。
そんな時、家の固定電話が沈黙を破った。家じゅうに響く呼び出し音に急かされるように、階段を駆け下り受話器を取った。
「はい。世羅です」
「私!大田です!妹さんが怪我されたって聞いたんだけど大丈夫?」
矢継ぎ早に言葉を掛けられる。急いで電話をくれたようだ。
「大丈夫です」
少しホッとした。悪い知らせじゃなかったというのが大きい。また、大田さんの声を聞いて少し安心した。
「そう…。ごめんね、いきなり電話して」
「いや……ありがとうございます…」
なぜか涙ぐむ。
「大丈夫?丈人くん……」
「大丈夫…です…なぜだか、大田さんの声を聴いてたら涙が…」
「そんなに会いたかったなら…今から喫茶に来る?」
喫茶に居るようだった。
「僕は…大丈夫ですけど…いいんですか?」
むせび泣く僕は一生懸命、返事をする。
「君のお母さんからマスターに電話がかかってきたみたいで、丈人くんが家に戻ってると聞いたから電話したの」
「そうですか…」
「もし、良かったら晩ごはんを食べさせてあげてって頼まれてるのよ。マスターが奢ってくれるんだって」
「そうですか。それなら、今から行きますね」
「うん、分かった。待ってるよ。気を付けて来てね」
「はい」と返事をして電話を切った。
適当に服を着替えて、身なりを整えて出掛ける。
「待ってたよ。こっち来て」
とカウンターに座らされた。営業はしておらず、客はいない。
とりあえず、食欲がないので水を頼んだ。
「じゃあ、私が何か作ろう。」
マスターが気を利かせてくれた。
「ありがとうございます……」
マスターがキッチンに行き、大田さんと二人きりになった。
「できるまで、これでも食べてて…」と、怪しげな円形のチョコレートを食べさせられる。口に含んだ途端に中から液体が出てくる。
酒入りのチョコレートだ。なぜこんなものを?と疑問に思ったが、唐突に彼女から質問されたため訊けなかった。
「舞衣さんだっけ?大丈夫だったの?」
聞き方から察するに、詳しいことは知らないらしい。
「大丈夫だろうって、言ってました。とりあえず、会話もできたので安心しました」
「そう……それは一安心だね」
「はい。本当に……」
酒入りのチョコレートを次々と勧められる。断ると無理にでも口に入れられそうな勢いだったため、されるがままに食べていると徐々にいい気分になってきた。
「これ……お酒入ってますよね?」
「えっ、あまりのショックに味覚がおかしくなっちゃったの?」と惚ける。
「いや……大丈夫だと、思いますが」
ついに酔いが回ってきた。まさか、こんなもので酔っ払うとは思ってもいなかった。
自己判断能力が低下していく。
「あの…ピアノを片手で使えないと無理なんでしょうか……」
「そんなことはないよ。難しいとは思うけど、全然できないってことはないはずだよ。そういうハンデを負っていても、プロとして活動する人もいるくらいだから」
何も聞かずに答えてくれる。
「そうですか……あっ、気になったんですけど…彼氏さんとか…いるんですか?」
アルコールの力によって、あらぬ質問を彼女に投げかけてしまう。しかも、どんな質問にもちゃんと答えてくれるので、余計に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「付き合ってる人はいるよ。世羅くんも彼女いるの?」
「いや、俺は…モテないですから」
酔うと一人称が「俺」に代わるということを知った。性格に大きな変化がなくてよかったと心から思う。
「そうなの?かっこいいと思うけどなぁ」
「あの…お酒…」
「ん?なぁに?お酒?駄目よ~未成年なんだから」
会話の合間にどんどん口へ押し込まれる。
意図的にしていることは明らかだ。ボンボンとはいえ、未成年に平気で酒を盛る人だったとは、悪い意味で見直した。
よく見ると、子供には与えるなと注意書きがある。
一応言っておくが、いくらチョコレートであっても、未成年にアルコール分の高いものを勧めてはいけない。真似はしないようにしてほしい。
「そろそろ、チョコレートを口に押し込むのやめてください……」
「そうだよ。未成年にお酒与えちゃだめだよ。一個だけって言ったのに…」
自ら、犯人であることを認めつつも、大田さんの犯行であることをマスターがアピールする。
「なんかいい感じになっちゃったから、つい…ごめんね。大丈夫?」
「平気です。けど、弱いみたいです……」
「出来たよ。これでも食べて落ち着かせるといい」
マスターが料理を持ってきてくれた。大田さんの分と、もう一食分作られていた。誰のだろうと思った矢先、ドアが開いた。
そこには、大田さんと同い年くらいの青年がいた。
「おっ!来た来た!翔也こっち!」
「なんだよ。いきなり呼び寄せて…」
「紹介するわ。この人相の悪いぶっきらぼうなこいつが私の彼氏でもある藤崎翔也。知ってるでしょ?最近なにかと話題になってる…」
心の中でビンゴっと思いながらも、実際は開いた口が塞がらず、フリーズした。
まさか、あの藤崎と大田さんがそんな関係だったとは驚きだ。
「で、この子が世羅丈人くんよ」
「初めまして……世羅丈人と言います」
「藤崎翔也だ。よろしく」
実際に会ってみると、少し怖そうな見た目をしていた。写真で見るのとは趣が違う。
「この子の妹さんがね、事故に遭われて、ピアノが弾けない状態で音高受験をしなくちゃいけなくて…」
「音高っていっても、どこに照準合わせてるのか分かるのか?」
「このあたりでっていったら、此愛しか思い浮かばないよ。この辺りの家から通える音高自体ないから…それに…」
「それに…?」
「あんたのファンなの。その子」
少し、言いにくそうにする。
「へぇ、俺のファンねぇ…追っかけ目的ってことか?世羅?」
喧嘩腰で訊いてくる。
「ちょっとっ!」
大田さんは慌てて止める。
僕はその制止をよそに、彼の挑発のような言葉に乗せられていた。
「は?まさかそんなこと言う人だとは思ってなかったです……妹がこれ聞いたらショックで寝込むでしょうね…。今すぐにでもファンをやめさせたいくらいですよ!」
「…ちょっと人気が出たからって有名人面しないでもらえますか?あんたなんか眼中にもないですよ!本気で音楽をやりたいって……」
酔った勢いで余計なことを口走る。
「やめて。ちょっと言い方が悪かったにせよ、世羅くんも言いすぎよ!」
大田さんは僕を叱るが、そもそも酔ってしまった原因は彼女。
「ごめんなさい……とにかく、舞衣は本気です!別に藤崎さんを目当てにってわけではないと言っていました!」
とりあえず謝り、ちゃんと説明する。
「ほら、翔也謝って!」
「…俺の方こそ、すまん」
藤崎も素直に謝罪する。
「冷めちゃうよ。食事でもしながら話ししたらどうかな?」
マスターがぎくしゃくした空気に割って入った。
おいしそうなラーメンだった。喫茶店にはミスマッチだが、意外とおいしい。魚介のスープと細麺の相性が抜群だ。
「大田さんは何で、藤崎さんを呼んだんですか?」
なぜ彼を呼んだのかを質問した。
「さっきの話の続きになるけど、舞衣さんが行きたいと思っているであろう此愛音大附属高校はその名の通り、私と翔也が通っている此愛音大の付属校なの。その手のことには詳しいし、何かの役に立てばと思って呼んだの」
彼を呼んだ経緯を説明した。
「そうだったんですか…じゃあ、ひとつ訊いてもいいですか?」
「なんだ?」
「入試に演奏は必須ですか?」
「入試の科目に〈自由演奏〉っていうのがあって、それを受けなければ合格はまずできない。推薦枠の生徒でも実技試験だけは避けられない。ある程度の技術が無ければ入れないからね。」
ズバッと断言する。
「入試って9月ですよね。妹が言ってました」
「あぁ、一番早いのが九月の二十日。ピアノ専攻であれば、九月の二十五日に〈自由演奏〉科目がある-」
「ちょっと席外すね。マスター、お手洗い借ります」
大田さんが席を立った。
「いいよ。あ、ちょっと待って、ペーパー切れてるんだった!」
「どこにありますか?」
「こっちだよ」
二人が居なくなった途端、彼はひそひそ声で話し始めた。
「お前の父親って……」
その言葉を聞いただけで凍りついた。
「ツトム先生だよな……」
「はい……そうですけど……」
心臓がバクバクする。
「実は俺たちもお前のところの教室に通っていたんだ」
予想だにしない事実を知らされた。
「そ、そうなんですか!?」
思わず、大きめの声を上げる。
「シっ!麻彩には絶対言うなよ」
慌てて黙らせる。
「なんでですか?」
戸惑いながら、ひそひそ声になる。
「俺が音楽活動をしているのは、そこのおかげだ。本来なら麻彩もピアニストとして活動しているはずだったんだが、ちょっとしたすれ違いがあって叶わなかった…」
「えっ…」
「それを彼女は恨んでる。俺もだがな。もちろん、お前の父親には感謝もしている。だが、もう少しで叶いそうだった夢を絶たれたショックは今も残ってる…」
驚きの事実の連続に冷静ではいられない。
「す、すれ違いって…?それに、父が恨まれるのも理解できません…」
「知らねぇよ…とりあえず、ツトム先生を良くは思ってねぇってことだけは確かだ」
「本当は乗り気じゃないんだが、彼女に真実を伝えるわけにもいかない。だから、今回は協力してやる。だけど、口を滑らさないように気をつけろよ」
彼は怖い形相で忠告する。
「あ、ありがとうございます……気をつけます……」
それから時を待たずして、大田さんが帰ってきた。
「お待たせ~。それで、話の続きなんだけど……」
なにがなんだか分からない状態で、話が入ってこない。
気にもしなかった仕草が気になって仕方ない。
何かを悟られる前に、妹に相談してみると伝えて、その日は別れた。
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