第一章 過去
1.出会い〈1〉
春の日差しが暑く感じられるほどの日和で迎えた卒業式。
期待と不安、それに寂しさが入り交じった不思議な感覚になる。
ひとつ大人に近づくという意識はなく、中学校の延長が始まるくらいに思っていた。
親しい友人たちは皆、それぞれの夢や目標を目指すため、春からは散り散りになる。遠く離れてしまい、もう二度と会わない人もいるだろう。
そんな中、自分はなんとなくで決めた進路を行く。特に不安はない。
この学び舎ともこれで最後かと想いを巡らせながら、校門へと歩き出したところ、背後から聞き慣れた声がした。
「春からはお互いに高校生活を頑張ろうぜ」
肩に手を乗せて鼓舞する。
彼の名前は、
この春から、市内の
「そうだな。で、部活はやっぱり、合唱なのか?」
僕は確認のために訊く。
「当たり前だろ!それ以外ねぇよ」
そんなこと訊くなと言わんばかりに答えた。
数年前から合唱に興味を持ち、それ以降は楽器をやめて一筋である。
内高を志望した理由も実績のある合唱部があるからだ。
「お前は心機一転、華々しい高校デビューを狙って音楽系か?」
逆に訊いてきた。
「いや、まだ決めてない…」
具体的なことは何ひとつ考えていない。
「なんだよ…つまんねぇな」
少し寂しそうに言った。
彼は僕の過去を知る、数少ない親友。同じ市内とはいえ、毎日顔を合わせられないと思うと寂しくもあり、心細くもなる。
「それより、買い物にいきたいんだけど、付き合ってくれないか?」
話題を変えようと思案したことではなく、元々言おうとしていたことだった。
「おう、行こうぜ。 来週の火曜なら空いてるから、そこでいいか?」
彼も乗り気だ。
「じゃあ、時間とかは明日にでもメールするなー。じゃあ、また」
普段と何も変わらない言葉を交わして別れた。
約束した火曜日。あいにくの雨。
電車に乗って隣町の商業施設へ買い物に出かけた。新学期に必要な品物を買い揃え、帰ってくる頃には十五時を過ぎていた。
暖かな春の雨とはいえ、まだ肌寒く感じられる。雨脚が強くなり、少しだけ雨宿りしていこうという話になった。
駅前から住宅街に繋がる通りに、レトロな風貌な喫茶店を見つけた。
『喫茶 メロディ』
物心ついた頃からあったような気がするが、入ったこともなければ、意識したこともない。
いかにも古そうな字体が並ぶ色褪せた看板が、老舗の雰囲気を醸し出している。
外にメニューも張り紙も一切無い。ドアのOPENの札が営業していることを示すのみである。
ギィーっと音を立てる重いドアを押して、店へ入る。カランカランと、ドアに取り付けられたベルが客の来店を知らせる。
曇天模様だからか、店内は少し薄暗い。外観同様、中もレトロな雰囲気。
奥にカウンターと席が並んでおり、表側の窓沿いには四人掛けのテーブル席が3つ。
ふと右手に目をやると片隅に追いやられるようにして、グランドピアノが置かれていた。
ピアノには誰もいないはずなのに、どこからか音色が聴こえてくる。BGMもピアノ曲ということは、店主の趣味なのだろうか。
「いらっしゃい。どこでも、好きな席に座っていいよ」
カウンターの奥から店主らしき人が出てきて、僕たちにそう言った。
適当な席に座ると、注文を聞きに来る。
「うちは珈琲しかないんだけど、いいかな?」
申し訳なさそうに断りを入れた。
「大丈夫です」と返した。
「じゃあ、今日のおすすめブレンド二杯でいいかな?」
四、五十代くらいのおじさんで見た目は少し怖そうだが、終始、優しげな表情で対応してくれた。
新生活のことについて、雄太と話をしていると、珈琲の匂いが漂ってきた。
カウンターでは、先ほどの店主がサイフォンを用いて珈琲を煎れている。
十分ほど経って、珈琲が運ばれてきた。クッキーもサービスで添えられている。
気を遣ってガムシロップを持ってきてくれたのだが、雄太は「いらない」と意地を張って飲む。僕は親切に甘えてガムシロップを使わせてもらった。
もう、縁はないと思っていたが、あのピアノのことが無性に気になった。
カウンターで作業する店主は忙しそうだった。といっても、自分たち以外の客は、テーブル席で談笑する中年のおばさん二人と、カウンター席でパソコンとにらめっこしながら、キーボードを叩くサラリーマンだけ。
ちょっとくらい良いかと店主に尋ねてみた。
「あの、すみません」
「はい、なにかな?」
「あそこのピアノって誰か弾いているんですか?」
「あぁ、あれかい?あれは、うちの親戚の子に貸してるんだよ」
少し僕の顔を見て、笑顔で教えてくれた。
「そうなんですか」
「水曜日以外なら、だいたい毎日夕方に弾きに来てるよ。興味があるなら、またおいで。五時過ぎれば来てると思うから」と、教えてくれた。
「はい。ありがとうございます」
どこか嬉しそうな顔をして、カウンターへ戻って行った。
その反応に少し疑問に思いながらも、珈琲を口にする。
「やっぱり、ピアノは忘れられねぇか?」
雄太は感慨深そうにそう聞いた。
「そういうんじゃないけど、使われてるのかなって…」
「
呆れたように彼が言う。
「あれは、妹が使ってくれてるよ」
「もともとは、お前のだろ?」
「僕のじゃないよ…妹と兼用してたから」
兼用しているなんていうのは、言い訳に過ぎない。彼もそれは分かっている。
最初のうちは兼用していたものの、取り合いをして喧嘩が絶えなかったため、すぐにもう一台買い足されたのだった。
「そうかい、そうかい…で、またここに来るつもりなのか?」
「……うん、そのつもり」
悩んだが、一度くらいは見てみようかと思った。
「その時は、俺も呼べよ」と何かを期待したように言う。
「まぁ、一人で行くのは気が引けるし」
そこは素直に受け入れた。
「だと思ったよ…」とまた、呆れ顔になった。
少し気になって訊いただけなのに、またあの店に行くことになってしまった。
どんな人なのか気になる気持ちもあるが、音楽に関わる人との出会いが怖くもある。
複雑な心境の中、次に来店する日を決めた。
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