14.傷〈3〉
次の日、音楽室で声を掛けられた。
合唱メンバーの滝宮若菜さんだった。
「世羅丈人くん…だよね?」
「はい」
「気付いてないかもしれないから、一応伝えておくけど、世羅くんのバイト先、私の家なの…」
「そうだったんですね。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく。歓迎するわ」
「色々とご迷惑をお掛けすると思いますが、精一杯頑張りますね」
「そう堅くならないでいいから。じゃあ、またバイトでね」
よく考えれば気付けたことだが、バイト先の店主の苗字が同じということに今更ながら気づいた。
優しそうな人でよかった。第一印象は冷たくて、怖い人のように見えていたが、話してみると意外といい人だ。
僕がバイトをすると知って、話しかけてくれる気遣いは嬉しかった。
部活が休みになったある日の放課後。
新たなバイトの申請書を出して、手続きが終わるまで廊下で外を見ながら時間を潰していた。
「あの……」
遠慮がちに声をかけてきたのは、なんと飯山鏡さんだった。
「飯山さん、どうしたんですか?」
「この間の話……覚えていますか?」
この間というと、丈衣音楽教室の件だ。
「その話ですか…」
あの時は話をしてみたいという気持ちがあったが、いざ、その話を切り出されると触れたくないという気持ちが強まる。
「丈人くんのお父さんは、ピアノレッスンの先生だったんですよね…」
「……」
「私、実は丈衣音楽教室のピアノ課程で丈人くんと一緒にレッスンを受けていたんです…」
思いがけない告白に情けない声が出る。
「え……」
集団のレッスンとはいえ、たかが5、6人程度。それなのに何一つ覚えていない。
人違いではないかと伝えたが、クイズのヒントを出すかのように、あれはこうだったとか当時のことを思い出しながら、人違いではないことを証明してくれる。
僕は覚えている範囲の記憶と照らし合わせてみた。
どうやら、彼女の言葉は確かなようだった。
「あの頃、家の事情もあって音楽教室なんて通える状態じゃなかったんだけど、あなたのお父さんが特別に入れてくださったんです」
「……」
そんな話しを聞いたことさえ無かった。子供が大人の事情など知る由もない。当たり前といえば当たり前だ。
「コンクールに出たいと思っても、出れなくて悔しくて泣きそうな私に〈泣くなよ〉って励ましてくれたのが……」
と僕を指した。少し潤んだ目で、真っ直ぐに僕を見つめていた。
「丈人くん……君だったんだ……それからも、良くしてくれた。でも、教室が閉鎖されて離れ離れになって、それぎりだったから……」
彼女はうつむく。
僕は憤りを覚える。そんなことまでしておいて、何故覚えていないのだろう。
思い返してみると、記憶の隅に誰かの面影はあるが、顔も名前もあやふや。その話を聞かされてもなお、その光景は思い出されない。
何も反応することが出来ず、沈黙が続いていた。彼女が顔を上げて話を始めるまで一分はあったと思う。
「…でも、これでよかったと思ってる。だって、あのまま続けていたら、丈人くんとはそれぎりだったかもしれないし…」
気になっていることを、恐る恐る尋ねてみた。
大田さんのように恨みとか、後悔とか、そういう感情を抱いていたなら、それ相応の対応はしないといけないと思ったからだ。
「飯山さんは…その後……どうしたの?」
少しの沈黙の後、語り始めた。
「その少し前に母が亡くなって、父はショックで私を養うどころではなくなって、親戚の塚くんの家に預けられたの。しばらくして、君のお父さんが亡くなっていたことを知って、完全に音楽を止めた…というより、避けた……」
「それまでは…やっていたってこと?」
「塚くんの家にピアノがあったから、またツトム先生に出会ったら、上達した腕を披露したかった……だから、続けていたんだけどね」
「避けたって、トラウマになったってこと?」
聞くのが怖かった。でも、明らかにしたいという気持ちが勝った。
「ピアノを弾けなくなっちゃった……というより、弾けなくなるように自分から暗示をかけた……続けたらろくなことないって思ったから……」
「ごめん、本当に……謝っても、何しても、自分のせいじゃないから、どうしようもないのは分かってるけど、ごめん……」
その言葉とともに僕は、ふっと体が浮くような感覚にとらわれ、次の瞬間、ドサッという音を立てて床に崩れ落ちた。
まただ。
過去のことになると精神が不安定になってしまう。
この症状を止める術は知っている。しかし、自分で制御できていない。
「だ、大丈夫?しっかりして!謝るのはこっちのほうだよ!責める気なんて、ちっともないんだから!」
声だけ聴こえた。涙声だった。顔に雫が落ちていることからして、僕の目の前に彼女の顔があるんだろうと推測した。
その声に、言葉に救われるように、少しずつ症状は和らいでいった。
茜色に染まる廊下。人気はなく、外の部活動の音しか聞こえてこない。夕日の色が鮮やかだが、今は色褪せて寂しい印象を受ける。
そんな世界の片隅で、僕は一年先輩の彼女に膝枕されている。
背丈は僕と同じくらいで、髪はつややかなセミロングで赤いカチューシャを付けている。華奢な腕と少しむっちりとした女の子らしい太ももの上に僕の頭がある。
僕をずっと見ている。何もせず、目もそらさず、ただ真っ直ぐに。彼女と目が合うと、僕の方から目を逸らす。それを目の当たりにした彼女の顔に優しい笑みがこぼれる。
「ピアノを弾けなくしたのはね、スクールが無くなったからだけじゃないんだ。私がピアノを習いたいって無茶を言ったのに、お母さんは必死に探して、丈衣に入れてくれたんだけど、満足に練習ができないことをずっと気にしてて、結局、最期までそれを気にしてたの…」
「お母さんに最後まで辛い思いをさせちゃったし、お父さんにもさせちゃったから…。それが一番の理由なの」
そうやってフォローして、改めて口を開く。
「あの時……本当に…ありがとう」
今まで幾度となく繰り返し聞いてきた「ありがとう」が、特別な言葉に聞こえた。
そこから起き上がることも、返事さえもできない。一切の言動が封じ込められている。
「先生……君のお父さんにも、そう伝えたかった……」
その言葉が一番印象的だった。この人は僕や僕の父を恨んでいない。むしろ、感謝されている。その事実が何より、僕の心をほぐした。
そんな鏡さんの前で自分が悪いんだと思い込み倒れたことを不甲斐なく思った。
自分を守るために、嫌なことから避けるために、都合よく自分を閉じ込める症状はずっと前からあった。最初は一人で抱え込んでしまっているんだと思っていた。
しかし、回を重ねるごとに、それが【逃避】であることに気づいた。
何度も舞衣や雄太の前で倒れてきた。今でも元気がなさそうに見えたり、何かに追われて混乱しそうなときに、二人は気にかけてくれる。
いつかは過去と向き合わないといけないと思っていた。しかし、きっかけをつかめず、今日まで来てしまった。
「だいじょうぶ……だから……」
ようやく動くようになった口を無理やりこじ開けて言葉を発した。
「しゃべらないでください。医務室に連れて行ってあげますから」
と肩を貸してもらい、医務室まで行った。
医務室には雪子先生がいた。
彼女は僕の症状も、その原因も知っている。小中学校も同じ学校で医務の先生をしてきた。
まさか、高校までは来ないだろうと油断していたら、入学式の日に話しかけてきた。ずっと僕のことをストーキングしている。
「久しぶりねぇ。腐れ縁ってやつかしら?」
惚けるように言う。
「意図的についてきてるんでしょ…」
「偶然よ。これでも飲みなさい」
出されたのは精神安定剤。いつもこれを飲まされているが、強烈な苦味がいつまでも口に残るくせに、効いているのかはよく分からない。
「いや、もう先生を見て落ち着きましたから……」
できれば、飲みたくない。
「あら、私の魅力に夢中なのね!それなら、こっちを飲みなさい。鏡さんって言ったかしらね。あなたもどうぞ」
出されたのは珈琲。砂糖もミルクもガムシロップも入っていない純粋な珈琲だ。
「ありがとうございます」
鏡さんと椅子に座り、珈琲を飲む。
「倒れた現場に居合わせたってことは、あなたも例の?」
先生は尋ねる。
「…はい…でも、私は丈人くんを責めるつもりはありません!」
さっきのことを気にしているのか、主張するように言う。
「分かってるわ。たとえ、責めたとしてもどうしようもないことよ」
「詳しいことは聞かないであげてください…」
僕は鏡さんをかばった。
「もちろん、暗い過去に興味はないわ。あなたの、その症状にしか興味はないから安心して」
「調べるなら、調べてくださいよ・・・」
「調べているわよ。でも、こういうのは気の持ち様なのよ。原因もはっきりしているし、それ以上明らかにできることはないわ」
精神的な問題であることくらい、僕も理解している。
「なら、なんで付きまとうんですか?」
「あなたが、いつ、どのように向き合うのか…それが知りたい。克服できるのか、支配されて抜け出せないままなのか。それが私の興味よ」
それはある意味、耳の痛い話だ。
「……」
僕と先生の会話が途切れた。
鏡さんは気まずそうに俯いた。
「…鏡さん、ありがとう……もう大丈夫だから、帰ってもいいよ」
必死のフォローをした。
そのフォローに応え、必死に明るさを保たせて言った。
「うん。分かった。またね」
そのまま、医務室から出て行った。
「……あの子と何があったのかは知らないけれど、あんまり責めさせないこと。あなたが、ちゃんと立ち直るか克服しなさい」
彼女が去った後、真剣な表情で言った。
「分かっています」
「まぁ、いいわ。そろそろ、下校した方がいいんじゃない?部活の野郎たちと一緒になりたくないならね」
「そうですね。人ごみはあんまり好きじゃないので、そろそろ失礼します。ありがとうございました」
「あと、何度その顔を見ることになるのやら…」
「分かってますよ…」
「気を付けて帰るのよ。じゃ、さよなら」
「はい、さよなら」
西の空に夕日が沈む。オレンジに染まった校舎はまだ、セピアのようだった。時刻は六時前だが、まだ明るい。
もうすぐ夏休み。期待と不安が入り交じり、どこか落ち着くことができなかった。
雪子先生のことは、舞衣も知っている。今日の言われたことを話すと大人っぽい顔になり、諭すように言ってきた。
「お兄ちゃんのそばにいつまでぇも、おる訳にはいかんのよ。そろそろ向き合うべき時が来たんじゃないん?」
また耳の痛い話だ。
「舞衣までそう言うか……」
「高校生にまでなって、みんなに世話焼かれようるってどんな兄なんよ?そんなお兄ちゃんになってほしくて、世話焼いとるんじゃないんよ!」
正論を言われると無性に恥ずかしくなる。
「分かってる。どうにかしないといけないことは分かってるんだけど……」
その続きの言葉が見つからなかった。どんな言葉も言い訳にしか聞こえない。
「…きっかけが掴めんのん?」
彼女は代弁する。
「まぁ、そんな感じ……」
「でも、当時の関係者にようけ会たんじゃろ?その人らが絶対、力になってくれるけぇ、絶対に関係を断っちゃいけんで!」
珍しく強い口調で話す。
彼女にも藤崎や大田さんのことを伝えてある。それを知った上でそう言ったのだろう。
「関係を切りたいとは思ってないよ」
「そう……それならよかった。けど、ちゃんと自分からアタックしていくんで!そうせんといつまで~も、進展はないけぇね!」
「あぁ…分かった…」
妹にまでこんなことを言われて、みっともない気持ちがないわけではない。自分なりに打開策を見つけてはいる。しかし、あと一歩がなかなか踏み出せないでいた。
「まぁ、簡単に抜け出せることなら、苦労はせんよね……」
変な気遣いをさせていることをずっと後悔していた。
鏡さんに出会って、憎んでいる人ばかりではないと知った。
話を聞くことで父の知らなかったことが明らかになってゆく。自分から知ろうとしなかったことを、今は後悔している。
「向き合ってみようと思えたんだ。だから…とりあえず、頑張ってみるよ」
「うん!そうじゃなきゃね!頑張りんさいよ!」
そう鼓舞された。
本当は僕が彼女を鼓舞しなければならないのだが……。
決意した手前、そんな思いが頭をよぎってモヤモヤしていた。
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