第20話 ラストチャンス
五回の表。最終回。
泣いても笑っても、このまま行けば最後の攻撃。ここで点を取れなければゲームセット、野球部創設の話は夢に消えてしまう。
先程から継続してチームで喜び合う暖かい雰囲気もあるが、それだけじゃない。シビアな重い雰囲気も漂っている。まあこの状況なのだから、もっと柔らかくという方が難しいのだろうが、今の固い表情はあまり良くない。……よしっ!
「皆、円陣組もうぜ」
言った瞬間、ほとんどの者が驚いた表情でこちらを見る。急に何だ、っと言いたげだ。
「最終回を前に皆の気持ちを一つにしておこうぜ!」
予想通り、良い反応を見せてくれた奴が一人いた。
「良いね、やろう! 面白そう!」
……面白そう? 微妙にずれた反応を見せる友香に釣られて、他の者も乗り気になっていく。
そして、ベンチ前で誰かの肩に両手を回して、それを繋げて輪を作る。俺も左手を咲に、右手を友香の肩に回して輪に入る。その輪を縮めて近付くと、皆の息遣いがはっきりと聞こえて来た。緊張しているのか、荒い息をしている者もいる。
「さて、友香、頼むぜ」
「よし、任せて!」
すーっと、大きく息を吸ってから、
「いよいよ最後の回、ここで点を取れなきゃ終わりだ……だから、終わらせない! 必ず裏の守備に就こう! 必ず点を入れて勝つ! 行くぞ、才城野球部――」
「ファイ、オー!」
輪は勢いよく解かれ、それと共に全員何か吹っ切れたような顔をしていた。
☆★☆★☆★☆★☆★☆
この回は八番、桐生から始まる。
その桐生に対して投げられた球は、一球目、二球目とスライダー。そのどちらも決まり、簡単にツーストライクに追い込まれる。
そして投げられた三球目。インコースへのストレート。だが、少し身を引いてボールになる。っとなると次は……。
予想通りの所に投げてきた。アウトコースのスライダー。しかし、桐生はそれにバットを出さず、判定は若干外れてボール。よく見切った。っと言いたいところだけど、今のは単純に手が出なかっただけのように見えなくもないような……。
そして投じられた五球目。真ん中の甘い球……が落ちた。だが、落差が小さい。桐生のバットはボールを捉えた。ライナー性のボールが二三塁間を突き抜けようと進む。だが、反応良く飛び込んだ相手のセカンドがミットにボールを収めた。
……くっ、当たりは良かったのに! 残念ながら、桐生はアウトになってしまった。周囲からもあーと落胆の声が漏れる。これで、ワンアウト。……あとアウト二つか。はっきり言って、この一点を一発で返すことが出来るのは佳苗しかいない。誰かが塁に出なきゃ始まんないぞ。だから、俺は期待していた。次の打席を。
――さあ、見せ付けてこい、野中。お前の実力を!
ネクストバッターズサークルから立ち上がった野中は、そのまま歩を進めてバッターボックスに入る。
恐れを完全に吹っ切ることは出来ていないだろう。誰だってそうだ。ここでアウトになればぐっと終わりに近付く。特に自分の実力に自信のないあいつはよりプレッシャーが凄いだろう。でも、それじゃダメなんだ。自分を信じてやれない奴が、どんなに練習したって上手くなる訳ないんだ。あいつに今必要なのは自分を信じること、自分を認めることだ。
だから俺はあいつにずっと言って来たし、さっきベンチへ向かう前にも言っておいた。ともかく自分を信じろと。お前が勝利の為に大事なワンパーツになると。
それはあいつを勇気づける為の嘘なんかでは無い。俺の本心だ。あいつがどう捉えるか分からないが、俺は本当にあいつを信じている。だから、打って貰わなきゃ困るんだよ。
構えを取り睨み据える野中を確認してから、投球モーションに入る相手ピッチャー。投げられたボールはストレート。それを野中は見送った。外に外れてボールになる。
二球目、三球目っと野中はどちらも見送るが、二球目は外のスライダーが外れてボール、しかし三球目はアウトコース低めへのストレートが決まってストライクになる。これで、ワンストライクツーボール。さて、次の一球でスリーボールになるか、それとも並行カウントになるか。第四球目を相手が投げる。
――外れた。インコースへのスライダーが外れて、ボールだ。これでワンスリー、野坂有利のカウントになる。
やはり相手は投げづらくしている。それはボール先行なことからも分かる。
……まあ、そうだろうな。
俺がこの打席で野中に期待している理由は単なるフィーリングだけではない。
疲れは緻密なコントロールを難しくする。元々平均より狭く決めづらい野中のストライクゾーンに、疲れの所為でより入れづらくなる。だからこそ、野中が一番塁に出る可能性が高いと思ったからだ。
まあ、野中は大方理想通りにことを運んでくれている。ってことで、更にやりやすくしてやるか。野中がこちらに視線をやったのを確認してから俺はサインを送る。
変化球のタイミングで待ってストレートにも対応してカット。それから球種は前の回で見送られ、更にスリーボールなことを踏まえるとフォークはない。しかもコントロールするのが難しいと考えると最早ストレートしか来ない可能性が高い。フォークは完全に捨て、一応スライダーを警戒しつつ、主にストレートに意識するように指示を送る。
次の球、やはりストレートが来た。コースは真ん中、打ちに行くがファールになる。これでフルカウント。そして六球目、相手が投げた球は外に行く。ボールかストライクか際どい所だが、ツーストライクな為くさい所は振っていかなければいけない。何とか食らいついてそれをカットする。
ふうっと大きく、安堵のような息を吐く野中。とても集中力を使う作業だ。想像以上に気が疲れてしまうだろう。でも踏ん張ってくれ。これは最早根気勝負だ。
七球目、真ん中のストレートをカットしてファール。八球目はインコースのストレート。何とかカットしてまたファール。
相手ピッチャーも野中も、両者息を荒げて熱い視線をぶつけあう。
そして、九球目。投げられたボールはインコースから中に入るスライダー。遂に変化球が来た。それをなんと野中はカットした。はあっと、今度は俺が大きな安堵の息を吐く。危なかった……。
どんな警戒していたって野中はまだ今日一球も変化球にバットを当てることすら出来ていなかった。にも関わらず、流石だ。よく当ててくれた。
はっきり言う。これでこの勝負、お前の勝ちだ。
――そして遂に十球目。ストレートが高めに浮いた。フォアボールで遂に野中が塁に出た。やったーと叫びながら野中は塁に向かう。心からの喜びを表面に表した、とても生き生きとした表情をしている。ベンチもより活気が戻っていく。
よくやった、野中。ただのフォアボールじゃない、勝敗を左右するかなり価値のある四球だ。
「さて、野中が塁に出たぞ。ってことで、続いてくれよ、キャプテン!」
「おうっ、任せとけっ!」
立ち上がった友香はバットの先をこちらに向けながら、にっと微笑む。そのままサークルを出て、バッターボックスに入った。
ワンアウトランナー、一塁か。リスクがかなり高いがこの場面、バントもあり得る作戦だ。だが俺は、端っからここでバントのサインを出す気はない。相手は二塁手と遊撃手がベース寄り、かつ少し前に出るゲッツー態勢を敷いているが、友香の足ならダブルプレーの可能性は低いしな。
四球の後の初球。さて、既に相手にこちらを舐めている様子は無いが、最終回もう四球を出したくない相手心理としてはストライクから入ってくる可能性が高い。初球甘い球来たら仕留めてこいという無言の指示を俺は友香に送る。嬉しそうに鍔を触り、了承の意志を見せた。
そう考えた矢先だった。だから驚いた。構えた友香に投げようと、ピッチャーがモーションに入り左足を上げた瞬間に友香が寝かせたバットをベース上に出した。投げられた球はストレート。それを友香は当て、三塁線際に上手く転がした。意表を突かれた三塁手は動き出すのがわずかに遅れ、ボールを掴んで一塁にスローイングしたがわずかに友香の足が勝った。間に合わずにセーフになる。
だが意表を突かれたのは相手だけではない。俺も予想していなかった。というか、出来る訳がない。現在俺は、我ながらおそらく驚愕に満ちた、さぞかしアホらしい顔が作られていることだろう。でも、その表情こそ正に俺の今の隠すすべの無い心情だ。
……マジかよ。友香がバントをしたのは昨日の練習時、一回のみだぞ。そんなものをこの場面でやる度胸も大したもんだが、そのたった一回でコツを掴んだというのにも驚きが隠せない。
――全くとんでもないな、こいつは。
「凄いよ、川相!」
「よくやったわ、友香!」
「いやー、それほどでも……あるかな」
皆に讃えられ、後頭部を右手で擦るなんて古典的な方法で喜びを表現しつつ、調子に乗る友香。
だが、全く否定出来ない。凄いのは本当だからな。
さて、野中が出て、友香のお陰でランナーをスコアリングポジションに置いただけでなく、逆転のランナーも出すことが出来た。本当によくやってくれたよ、二人とも。
……次は俺の番か。
この後取り得る作戦が二つある。そのどちらを使うか、俺は今から大きな決断をしなければならない。ただその前に、一つ確認しておかなければならないことがある。
「……なあ、咲。ちょっと聞いて良いか?」
「んっ、何。どうしたの、常田君?」
皆と一緒に今のプレーを喜びあった後、ネクストバッターズサークルへ向かおうとした咲は、俺に声を掛けられこちらを向く。
これから俺がする決断はチームの勝敗を大きく左右する。いや、どころかはっきり言って失敗したら即負けと言って間違いないだろう。
そのどれを取るか、咲の答え次第で決める。
「咲……次の打席で確実に打てるか?」
相手の解釈によっては大分失礼になる質問。
だが表情は真剣に、真っ直ぐ咲の瞳を見据えて問う。
「……打つよ、必ず」
その俺の雰囲気に何かを感じたのか、咲も不審な顔を見せずに真摯な表情で答えてくれた。
ただ、回答が質問の答えになっていない。俺が聞いたのは打てるかどうかであり、その答えは単なる意気込みでしかない。
でも、その瞳には迷いや不安のようなものは感じず、ただ淡々と事実を語っているように見えた。
――充分だ。
「そっか……。なら咲。俺が未熟な所為でまたお前に頼ることになる。任せることになる。守備だけじゃなく攻撃の方でも負担かけてごめんな。……でも勝ちたいんだ。だから、勝つ為に、またお前に頼らせてくれないか」
頼ってばかりで本当に申し訳ないと思う。でも勝ちたいから。
だが俺の言葉を聞いた咲は、呆れたようにはあっと溜息を吐いた。
「……私も前に言ったよ。常田君が背負い切れない分は私が受け持つって。だから逆に私から言わせてもらうよ。――私に頼って、常田君」
胸に右手を当て、強い意志の籠もった声で言う咲。
ああ、全く。……エースにそんなこと言われたら、どうしようも無いじゃねえか。もうとっくに迷いは消えた。選択肢は決まった。
「分かった。じゃあ、頼むんだぜ、咲」
「うん、任せて! ……それに前の回で私の所為で変な空気になったからその借りも返したいし……。あっ、そういえば、さっき常田君にも当たっちゃったよね。ごめんね」
「気にするなよ。というか寧ろ、それを気にしすぎてバッティングに支障を来すなよ」
「大丈夫だよ。……ありがとう。それじゃあ、行くね」
「ああ、かっ飛ばしてこい」
「うんっ!」
そうして再びネクストバッターズサークルへ向かおうとする咲。だが一歩進んだところで、またすぐ立ち止まり振り向いた。
「……っと、あとそれから一つ勘違いしてるみたいだから訂正しておくけど、誰が未熟だって? 私達は誰もそんなこと思ってないから。寧ろ、本当に凄いと思ってるんだよ。今日のこの試合、ここまで接戦に出来たのは他の誰でもない、あなたのお陰なんだから」
そうしてまた振り返り、今度こそ咲は歩み出した。
……俺のお陰って訳ではないだろ。俺は指示を出しただけで、ここまでやってこれたのはその指示をこなしてきた選手達のお陰だ。それでも、認められてるっていうのは素直に嬉しい。……俺の選んできた道は何一つ間違っていないと思えるよ。
さて、じゃあ逆転の一手に必要な前準備、その重大な任務をこなしてもらわなくてはいけない。
打席に向かった宮下がボックスに入る前にこちらにサイン確認の視線を送ってくる。それを視認してから、俺が決断した作戦のサインを出す。その指示に宮下は一瞬驚いた様子を見せたが、すぐに顔は真剣になり、鍔を一回触ってバッターボックスに入った。
両者見つめ合う中、まずは二塁に偽投を入れる相手ピッチャー。それから一拍置き、宮下に投げてきた。相手の球は真っ直ぐ進み、途中で綺麗に曲がった。スライダー。――それを宮下は横にして出したバットに軽く当てた。コキンと鈍い音が鳴り、ボールはその先、サード前に進んでいった。よし、ナイスバント! 初球から上手く決めてくれた。サードが慌てて取りに行くが二塁と三塁は間に合わない。一塁に投げて確実にアウトを取ってきた。これでツーアウト、ランナー二、三塁。
俺がさっき宮下に出したサインは送りバントのサイン。
この場面、ダブルスチール、ヒッティング、エンドラン、バントの四つの選択肢が取り得た。
だが、練習をまともにしていない上に足がそこまで速くない野中がセカンドランナーということを考えると成功率はほぼ無しに等しいため盗塁は無し。っとなるとエンドランも空振りを取られたらスチールと一緒になる為まず間違いなくランナーは刺される。リスクが高過ぎる為無し。あと残ったヒッティングとバントで正直かなり悩んだ。
ヒッティングとなると、成功すればアウトカウントを増やすことなくランナーを進塁、もしくは得点を挙げることが出来る可能性もあるが、失敗すればただアウトカウントが増えるだけで状況的にはかなり厳しくなる。どころかダブルプレーで終了もあり得た。そして宮下はこの試合では前打席で全くタイミングが合わず三振を喫していた。正直ヒットにするのは難しいと予想した。
一方バントは成功すればランナーを進塁させることが出来るが、ほぼ確実にツーアウトになる。次の咲がアウトになればその時点でゲームセット。勝利の可能性を広げる代わりに敗北もぐっと近付いてしまうリスクを伴う。しかもバント失敗となればこれも試合をほぼ決定付け、その上今はフォースアウトを取れる状況。かなりのし掛かる重圧の中上手くバントを決めることが出来る保証は無い。
どちらにしても利点はあるが、それ以上にリスクが高過ぎる。どちらが正解かなんて分からないし、そもそも正解があるかも分からない。でも、うちのチームに控え選手はいない上に皆のスタミナを考えれば、延長戦をやったらまず勝ち目はない。勝つとしたらこの回、今のチャンスで逆転するしかない。
――それに、エースが必ず打つと言ったんだ。それを信じてやれなきゃ監督失格だ。だから託すことにした。チームの勝利を一人の選手に。
「うおっしゃあぁぁー!」
ベース手前でアウトになった宮下が、思いっきりのガッツポーズと共に雄叫びを上げる。普段はあまり表情を出さない宮下が喜びを体全体で表現している。それがこの重大な任務を成功させることがどれ程難しいかを表している。
「ナイスバント、樺乃!」
「よく決めたね、宮下!」
ベンチに戻ってきた宮下がチームメイトに喝采を浴びている。そのまま俺の後ろのベンチに座ろうと、俺の横を通り過ぎようとした所で俺も声を掛ける。
「ナイスバント、宮下。お陰で逆転への準備は整ったよ」
「ははっ、それはどうも」
言葉を交わらせてから、お互いの右手を強く叩き合う。ぶつかり合ったその手の向こうには二っと勝ち誇ったような笑みをした宮下の顔が見えた。
それからベンチに置いていたヘッドホンをどけてから座り、更にそのヘッドホンを耳に装着して完全にリラックスモードに入りやがった。こんな場面なのに、よくやれるな。でも、宮下らしい。
さて、お膳立ては整った。あと俺に出来ることは何も無い。
――任せたぜ、咲!
サークル内で立ち上がった咲はそのままバッターボックスに向かって歩いて行く。そうしてボックスの手前に着くと、一度深呼吸を入れ、集中力を高めたのか数秒間を開けてから中に入った。
「咲、打ってー!」
「真田ー、頑張れー!」
「真田さん、お願いします!」
「咲ー、打ってくれー!」
ベンチから、フィールドから、様々な方面から咲への声援が聞こえてくる。その声で少しでも自分の力を咲に分け与えようと、勝利を近づけようとせんばかりに皆が声を張り、エースに力を送る。
でも耳に入ってきたのはそれだけじゃない。
「成原、頑張れー!」
「成原、さっさと抑えちゃって終わりにしよう!」
聞こえてくるのはエースに送られている敵チームの声援。
気付けば敵味方問わずフィールド、ベンチにいるプレイヤー全員が声を出している。
「成原、分かってるな! 絶対に負けるな! ……お前なら抑えられるだろ!」
さっきまで毅然とベンチに腰掛け選手に指示を出していた敵のおっさん監督も、立ち上がって必死にエースを激励している。
最早この空間には、強豪チームも素人チームもない。ただ自分達の勝利を信じ、願い、エースに全てを委ねた只の野球好きの集まりがそこにあるだけだった。
――誇れよ、お前ら。お前らの必死なプレーがこの試合は只の練習試合という意味しか持たない筈の相手の心を動かしたんだ。それはとっても凄いことなんだ。
最早ランナーに視線はやらない。相手エースはただ自分の敵であるバッターを、仕留めんとばかりの目で射るように睨み付ける。対する咲も全神経を相手エースの球を打つことに割くかの如く、強い視線で相手を睨み据える。
長い時のように感じたその数秒を経て、ようやく相手エースが動き出した。今までより力強く振りかぶって投げられた球は勢いよくキャッチャーミット目掛けて進んでいく。バッターの内角厳しいところを狙った豪快なストレート。それを咲は逆らわずに引っ張りに行った。だが当てて、飛んだボールはフェアゾーンへは行かず、フィールド外のフェンスに当たる。これでワンストライク、ノーボール。
更にその勢いを生かそうというのか、ピッチャーは間を置かずに外野から返されたボールを投げる態勢に入る。そのまま放たれた二球目。再びインコースを攻めてきた相手のボールを今度は咲は見送った。ボール。咲が見切り、ワンストライク、ワンボールになる。
良いぞ、良い集中力だ。そこからまた呼吸を整えて相手ピッチャーが三球目を投げる。またインコースを行ったその球は、しかし突如として鋭角に曲がった。スライダー。途中までバッターに向かっていたそのボールは途中で軌道を変え、ストライクゾーンに侵入してきた。仰け反った咲はバットを出すことが出来ずストライクになる。遂に追い込まれた。ツーストライク、ワンボール。
徹底的なインコース攻め。一打逆転の最終回のこの場面でそんな芸当が出来るとは、なかなか精神的にもタフじゃないか。敵ながら天晴れだ。でも、追い込み、仕込みを充分やった。そろそろ来るか。
そして投げられた四球目。……やはり来た。外の球。散々中を意識させた後のアウトコース。ここ一番でよくコントロールされた良い球だ。しかも球はスライドし、逃げていく。スライダーだ。普通のバッターならまず打つのは困難だろう。
――でも残念だったな。それ、待ってたみたいだぜ。
ボールに咲は向かっていった。体の近くを攻められ、仰け反らされて尚、咲は踏み込んだ。途中から曲がったその球に食らいつこうと必死に伸ばしたバットがボールを捉える。打ち返された球は低い弾道で、しかし鋭く右中間にぐんぐんと進んでいく。落下地点に向かって、センターより近い相手ライトが走り出していた。
「いけ、いけ……」
『いっけー!』
打った咲が、ベンチ前まで乗り出してしまった俺を筆頭にベンチの皆が叫ぶ。
走り、走り、そしてグラブを伸ばし、ライトは飛び込んだ。……落下する打球。一際強まる歓声。
――伸ばしたグラブの数センチ。前を抜けて、ボールは地面に着いた。
「よっしゃー!」
腹から声を出してガッツポーズを思いっきり上に掲げてしまった。周りの奴らに負けじと大声を出す。恥も外聞も何もかも今は知ったこっちゃない。どころか、そんなもの無い。皆、気持ちは同じなのだから。ひたすら声を出す。
悔しかったよな、チームに迷惑掛けて、それに何よりまだスライダー打ててなかったからな。だからこそ狙ったんだろ。でも、まだまともに打ててなかった球をよく打ち返したいよ。流石だ、咲。
「ヒットだ―!」
「いっけー!」
ベンチの声に押し出されるように三塁からホームに向かった野中が生還し、一点入る。まずは同点。
そしてその前に三塁に到達した友香が迷うことなくホーム目指して回った。
あいつ、動き出しが早すぎだ。咲が打つ直前に走り出したな。ツーアウトだからダブルプレーの可能性は考えなくて良いが、それにしても早い。……バッティングでも信じていたんだな、エースを。
バックアップの為にあえて後ろに回っていたセンターが捕球し送球したボールが勢いよく返ってくる。だが、もう遅いぜ。
ずざー、っという音と共にスライディングした友香がホームに還ってくる。勿論これは――
「セーフ!」
審判が両手を水平に広げてTの字を作り、高らかと宣言した。
『やったー、勝ち越しだー!』
同点時の喜びに上乗せした喜びで、ボルテージはマックスになる。ベンチ前で還ってきた野中、友香にハイタッチ、抱擁、それを他のチームメート同士でもやっている。全く、微笑ましい、良い光景だ。……でも、流石にあれには混ざれないな。それでも言わなきゃな。
そう思い皆の輪に交ざろうとした所で、向こうからやって来た。顔を嬉々とした野中が俺の前に立つ。
「ナイスフォアボール、野中」
「ありがとうございます! 私、本当にとっても嬉しいです!」
眩しいというありきたりな表現が合う、とても生き生きとした笑顔をしている野中。その野中が出した手に俺もぶつけ、ハイタッチをする。
「逆転の口火を切ったのは他の誰でも無い、お前だ。……ありがとな」
「……えっ、ありがとうなんてそんな……。いえ、本来その台詞は私が言うべきものです。……常田さん、本当にありがとうございました」
ペコリと頭を四十五度下げ、お辞儀をしてから顔を上げ野中が言葉を続ける。
「私、今まで何のスポーツをやっても全然ダメでした。背は低いし、足は遅いし、元々運動神経が悪いし。こんな私だからチームスポーツをやったら皆に迷惑かけてばかりで……昔からスポーツは嫌いでした。実は川相さんに野球を誘われた瞬間だって嫌だなって、やりたくないなって思って断ろうと思ったんです。でも、そんな私に川相さんは必要だって、私の力が必要だって言ってくれた。だから野球をやってみようって思えたんです。――そして、常田さんに会って、そんな私でも力になれるって言ってもらえて……嬉しかった……。私のお陰でチームが勝てるって……本当に今嬉しい……です……。野球をやって良かった……。川相さんに、常田さんに会えて良かった……」
顔はとても嬉しそうで、本当に幸せそうに、だが目からは涙が溢れている。
そう言ってもらえて俺も嬉しい。
「――だからこのチームを終わらせたくないです!」
強い意志を宿した瞳を向ける。
そうだよな。負けたくないよな。
「なら――」
「あー、監督今度は唯ちんを泣かせてるー! 何やってんだよー!」
先程までチームメイトと喜びを分かち合っていた友香が、いつの間にかこちらまでやって来ていた。
「あっ、いや、違うって。これも誤解で――」
「そうです、川相さん! これは私がチームに貢献出来たのが嬉しかったってだけで、常田さんに何かされた訳では無いです!」
「ほうほう……、まあそうだよね。唯ちんが出て、それで私も出てて咲が決めたもんね! でも、それ私も凄いよね! 見た私のバント! 華麗だったでしょ!」
来た理由は単に威張りたかっただけだな、こいつ。野中の話から自分のプレー自慢に発展させやがった。そして褒めてオーラが凄い。なんか本能的に褒める気が失せていくが、友香のバント成功が大きかったのは事実だからな。……仕方無い。
「ああ、昨日一回やっただけなのによくあの場面で成功させたな。得点に大きく貢献した重要なバントだったよ。ナイスプレーだ」
「いやー、どうもどうも」
満足して頂けたご様子ですっかり顔がにやついている。
「でも、確かにリードは取り返したが、まだ試合は終わった訳じゃない。気を引き締め直して、しっかり抑えてその時また喜ぼう。だから、野中まだ泣くのは早いぜ。勝った時にまた喜びの涙を流すんだ」
「……はい」
「そうだね。うん、任せてよ」
二人共、再び表情が引き締まる。喜ぶな、とは言わない。試合中ににやけるなとも言わない。嬉しい時は素直に喜べば良い。でも大事なのは、その喜びを力にすること。
「アウトー!」
一瞬、わーっとまた声が騒がしくなる。佳苗が打った打球はかなり伸びていった。たが、徐々に失速しフェンス手前で落下しセンターがキャッチした。これでスリーアウト、チェンジだ。
二塁ベースから戻ってきた咲と惜しくもアウトになった佳苗を迎え入れて、一層盛り上がるこちらベンチ。
「咲、流石だな。……信じて正解だったよ。ありがとう」
「ううん、こっちもありがとう」
お互いに笑顔を交換してからハイタッチをする。
それから俺は柏手を打って注目を集め、大きく声を出す。
「さあ皆、最後の守備だ! ここで抑えれば勝ち! 油断せずに……でも、さっさと勝ってこい!」
『はいっ!』
「最後も任せたぜ、咲」
「うん、了解!」
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