第3話 監督

 高校に入学してから一週間過ぎ。

 既に本格的になり、面倒この上ない授業を今日も終え、放課後になった。

 先日新入生を対象とした部活動紹介を三時間使ってたっぷりと見せられ、それを参考にして部活を決めなくてはいけないのだが、その期限がそろそろ迫っていた。

 俺はと言えば、未だ決めかね、担任に紙を渡せずにいた。

 いっそのこと帰宅部という選択肢もあるが、それはなんか嫌だ。体は動かすに尽きる。昔から何かと言えば動かして来た為、じっとしているのには耐えられない質なのだ。

 ただ、そんな訳で文化部はお断りで、良い部活が本当に無い。

 あの紹介を思い出してみても、五分程度と時間制限があったとはいえ、あんなのこの学校の運動部のレベルの低さを思い知らされただけだし、おっ、と言う部活もたまにはあったが、弓道部など経験もなけりゃ、興味もないものばかりだった。

 だが一つ、俺の気を引く部活があった。だが、俺はそれをやる気はない……。

 うーん、考えていても仕方ないし、だけどそろそろ決めないといけないし、今日はちょっと運動部の練習風景でも見て参考にしてみようかな。あんなデモンストレーションとは全く違うまともな練習をやっているかもしれないし。

 っとそんなことを考えながら、鞄に教科書を詰めてさっさと教室を去る。

 そうして、グラウンドへ向かおうと早足で廊下を歩いていたところで、


「あーっ、あの人だー!」


 後ろからそんな声が聞こえてきた。

 誰だ、あの人って。周囲を見ると皆振り返っていたが、反応する者はいない。なので、俺も振り返ってみる。


「そこの君ー、ちょっと待ってー!」


 そこには、およそ高校生らしからぬ子供っぽい無邪気な笑顔をした背の低い女の子と、対称的にどこか大人っぽい冷静な雰囲気を纏った子がその子にしっかり着いてきながら、そしてこちらに向かっている姿があった。

 二人とも対称的だけど、どちらも人を魅了するような容姿をしていて、あれは結構絵になるな。そしてどちらも何故か学校指定の赤のジャージを着ている。

 ……って、えっ! そこの君って俺!?


「えっ、何!? 俺に何か用?」


 子供っぽい方が上だが、それでも二人共足が速く、すぐに俺の元に辿り着いた二人に問い掛ける。

 すると、子供っぽい方が元々無邪気な笑みをしていた顔を、ニヤリと怪しい笑みに変えて、驚きの一言を放ちやがった。


「君、監督やらない!」


「……はい?」


 聞いた瞬間は理解が出来なかった。

 ……監督? ホワイ? 何故、俺が? そもそも何の?

 疑問符が尽きない。


「ちょっと、友香、だからあんたは急過ぎだって!」


「何だよ佳苗ー! こういうのは結論から言った方が良いんだよー!」


「あんたの場合は結論までもが省き過ぎなのよ……」


 子供っぽい方は友香、大人っぽい方は佳苗というらしい。

 その佳苗が友香を叱責する姿は、正に二人共見た目通りだ。


「えっと、ごめんね。ちょっと確認したいんだけど、君は常田智史ときたさとし君ってことで良いんだよね?」


「えっ、うん……そうだけど」


 こちらに向き直った佳苗に問われたので思わず答える。

 急にそこの君と引き留められたかと思えば、今度は名前を確認してきた。

 俺のことを知ってるのか、知らないのかどっちなんだよ。


「あっ、やっぱり。私達は常田君と同じ中学だった、風木佳苗と「川相友香!」って言うの。まあ、お互い違うクラスで全然縁は無かったから、知らないと思うけど」


「へえっ、同じ中学! 風木に川相……」


 風木に川相……。どこかで聞いたことあるような――


「あっ、もしかして風木ってあの剣道部のエースだった!」


「あれっ、知っててくれたんだ。うん、そう。中学では剣道部に入ってたの」


 まあ、そんな驚くことではない。というか、知ってて当たり前だろう。

 個人戦の輝かしい功績もさることながら、団体戦では一年の時から大将を務め、全く無名だったうちの中学を全国大会まで導いた経歴とその綺麗な顔立ちから、あの学校にいた奴とここら辺で剣道をやっている奴で名前を知らない者はいないだろう。


「私は、私は!?」


 近くで騒ぐ川相。っていうか、近いな。近くから俺を除き込むように見上げている。

 初対面なのに遠慮とか全く無いな、この人。なんつうか、良いのか、悪いのか。

 ただ、俺はどうして良いのかよく分からず、目を逸らすしかない。


「ああ、まあ、知ってるよ」


「だってさ、私も有名人だった訳ですよ、佳苗さん!」


「はいはい、良かったね……」


 相方が相方だからな。よく一緒にいる川相も、その可愛らしいルックスも相まって、中々有名だった。

 正直部活にかまけて、女子とあまり関わって来なかった俺は、どちらも全然顔を把握していなかったけど。

 あっ、いや、あの時は何人かの女子に告白はされたかな。勿論断ってきたけど、今では少し後悔している。

 っと、少し思考が折れたな。


「それで、そんな風木と川相が俺に監督をやれって? 剣道のか。悪いけど、俺は剣道の経験は無いぜ」


 言いながら、予想は付いていた。

 わざわざ俺に頼みに来るなんて、多分間違いないだろう。


「違う、違う。私高校では剣道やる気は無いし、それなら常田君にわざわざ頼まないよ」


 分かってたよ。

 そうですね、あなた程の実力者が俺なんかに教えを請うなんて無いですよね。

 そもそも俺が教えることになったら、逆に教えられちゃうしな、絶対。


「ってことは、やっぱり――」


「うん、常田君には私達女子野球部の監督をやってもらいたいの」


 はあっ、……だよな。

 にしてもまさか、野球部の監督か。

 この高校に入ってから、野球部の人に何度か勧誘はされた。

 それは全て断ってきたが、まさか監督のスカウトが来るとは予想もしていなかった。


「どうして、俺にそんな要請を?」


「先生に、野球経験者でまだ部活決めてない人を聞いたら、常田君の名前が挙がったから、かな」


「その条件に当てはまる生徒なら、他にもいたと思うけど。まさか同じ中学だからってだけの理由とかか?」


「半分正解、かな。あのね、実は常田君にこんなお願いをするのには理由があって、私達はある試合に勝たなきゃいけないの。といってもまだ人数が揃ってないんだけど……」


「どういうことだ?」


 野球部なのに人数揃ってない? いや、そもそも人数揃ってないのに試合ってどういうことだ。


「私達、高校から野球始めようと思ったんだけどさ、この学校去年から女子野球部が無いんだよ! だから、本当に腹立つ、あの前側ハゲな校長先生と交渉したら、人数集めて強豪校との試合に勝てたら復活を考えるって言われたの!」


 急に憤慨して答える川相。

 おっ、おう、校長凄い言われようだな。


「補足すると廃部になった理由が、人数不足と成績を残していない女子野球部の予算を男子野球部に回す為だから、強豪に勝って実力を示せってことね。ただ、そういう理由だから、負けたら、はいもう一回にはならないと思う。多分この一回きりだけだから、負けは許されないの」


「なるほどな。で、人数揃ってないけど先に指導者から決めちゃおうってか。ていうか、チームに野球経験者は結構いるのか?」


「そんないない、かな。いたとしても、短い期間だけって子ばっかりなの。で、メンバーは後一人だけだし、そんな今すぐって訳でもないから、今いるメンバーだけでも先に野球慣れと実力付けをしておきたいかな、と。それには野球経験があって確かな腕を持つ実力者に教えてもらいたいってことで、それに最適な常田君に教えてもらおうと思ったの。まあ、といっても残りの一人は既にめぼしい子を見つけてるんだけどね」


 事情は大体分かった。

 言い方が悪いかもしれないが素人集団ばかり、それで強豪に勝たないと野球が出来ないから、勝つ為に良い指導者が欲しいと。

 ただ事情は分かったが、だからこそ間違っている。俺に頼むこと自体が間違いだ。


「それなら、俺は適任じゃ無い。俺は決して上手くなんかない。俺より上手い人なんかそこら辺にいるだろうから、その人達に当たった方が良いよ」


「それは、謙遜だね、常田君。私達は中学の時はまだ野球に全く興味無かったけど、それでも常田君の名前は知ってたよ。県内でも有数の力があると言われていた私達の中学の野球部に同学年で凄い上手い男の子がいるってね」


「しかも知ってるんだよ! 私と同じセンターでしかも魔術師マジシャンって異名を持っていたことも! 良いなー、凄いかっこいいじゃん!」


 目を輝かせながら言う川相。

 ああ、なんかそんな感じで呼ばれてたんだっけか。別にそんなの興味なかったけど。

 ていうか、川相はセンターをやるのか。プレーを見たことはないが、素人であの足ならちゃんとしたキャッチを覚えれば、守備範囲の広い優秀なセンターになりそうだ。

 って、何でそんなこと考えているんだ、俺は。そんなこと俺には関係ないのに。それより、ここははっきり断っておかないと。


「それは中学の話だよ。もう、ここ一年半は野球に関わってないし、実力なんか落ちたさ。それに、悪いけど俺はその誘いに乗れない。他を当たってくれ」


 この二人を見ていると、野球をやりたいという気持ちはちゃんと伝わってくる。それなのに勝たないと出来ない。いや、出来ないかもしれないんだ。それは素直に同情する。

 だけど、現実問題難しい。強豪には強豪と呼ばれるだけの実力がある。それをほぼ素人同然の奴らが倒そうなんて無茶を通り越して無謀だ。俺が教えたって、誰が教えたってそれは変わらない。

 その強豪校より多く、ただひらすらに練習してどんな的確なアドバイスをもらったとしても変わることはない事実だ。

 だから……いや、だからというのもあるが、それだけじゃない。そんなの自分で分かってる。

 今回は選手としてじゃない。監督としてだ。でも、それでも気が進まない。

 これは急に言われて戸惑っているというのもある。後は――。

 それは自分で気付いているし、はっきり認識している。

 ――俺はまだ、恐れている。野球という競技自体に触れることを恐れている。


「全く、咲といい、常田君といい、せっかく野球上手いのになんで二人とも野球やらないのよ」


 ポツリと、溜息と共に吐き捨てるように言う風木。


「常田君が野球を二年の夏の大会の後やめたことにも、それ以来野球をやっていないってことにも、それから高校でも野球をやらないことにも、全部に事情があるんでしょ。そう答えることは予想してたよ。だから、私達は強くは言えない。だけど――」


 急に向き合ってからニヤッと怪しい笑みを浮かべた二人。何だ、今の笑みは。嫌な予感しかしてこない。


「ともかくちょっと来てよ!」


「えっ、ちょっ、待っ――」


 川相がそう言うと、俺の予想は当たり、二人で俺の両手を脇に抱えて拘束したかと思うと無理矢理引っ張っり出した。ちょっと待て、川相はともかく風木は少し膨らんでるぞ、当たってるぞ! ダメだろ、これは。

 くそっ、どうする。俺が必死に抵抗すればいかに二人とはいえ、女子の拘束など楽に解除出来る。だけど、それもどうかとも思うし、それに何故だろう。離して欲しいという気持ちがあるのに必死にはなっていない自分がいる。もしかしてこの手への感触の所為か? ……って、良いのかこれで!

 そんな心の中での葛藤に勤しんでいる俺の「離して-!」という言葉を華麗にスルーした二人に結局目的地まで連れて行かれてしまったようで、急に二人がバッと腕から離れる。

 そこはテニス部やサッカー部他数種類の部活が一緒になって練習している、俺達が普段授業で使う才城第一グラウンドではなく、この学校の運動部で特に実績を残している野球部とラグビー部だけの専用練習グラウンド、才城第二グラウンドだった。

 このグラウンドは二つの部活しか練習しないのに、第一グラウンドと同等の広さを有し、ナイターも完備。明らかに第一グラウンドより優遇されている。

 今奥でラグビー部が暑苦しい声を大きく絞り出して練習しているそのグラウンドで、たった今までキャッチボールをやっていた何人かのジャージを着た女子生徒が、集まり並んでいく。


「これが、私達才城高校女子野球部(仮)だー!」


 川相がバッと手をその女子野球部の皆に向けて手を向け、高らかに宣言する。

 反応としては、照れてる者、疑問そうな顔をしている者、ヘッドホンをしながら目を瞑っている者など様々だが、ただ皆グローブをしているということだけが共通している。そのまだ新しいのもあり、使い古された感もある様々なグローブを見た時ドクンと鼓動が跳ねた。嫌な感じではない、安心するような跳ね方。

 って、なっ、ヘッドホンだと!? グローブとヘッドホンって何そのミスマッチ!?

 いや、それはまあ、今は良いや。気にしないことにしよう。それより。


「何だ、まだ部活動として認められていないくせにグラウンド使わせて貰ってるのか」


「違うよ! 普段は違う所で練習してるけど、今日は野球部が練習試合でいないらしいから、私達が使っても良いって許可が下りてるの!」


 元気に答えてくれる川相。

 なるほど、それで野球部の姿が見えない訳か。

 じゃあ、本題だ。


「で、何で俺連れて来られたんだ?」


「そりゃ、私達の練習を見てもらう為でしょ!」


「何で、その必要が?」


「何言ってるの! それじゃないと、アドバイスとか無理じゃん」


 笑いながら言う川相だが、あんたが何言ってるのだ。


「いや、俺監督はやる気は無いって言った筈だけど……」


「えっ、常田さんは監督をやってくれないんですか!」


「えっ、うん、まあ……さっき断ったところなんだけど」


 女子野球部(仮)のメンバーであろう一人、背がかなり低い、川相と違い雰囲気だけでなく物理的に高校生には見えない子が、少し弱い声で俺に言う。

そんな不安そうな目で見られると、元々ある罪悪感が更に助長されてしまうんだけど。


「まあまあ、とりあえず私達の練習見ていってよ。それから決めれば良いんじゃん」


「いや、決めればっていうか、そもそもやるという選択肢自体が無い……」


「まあ、良いから、良いから。私に任せといてって。さあ、始めよう!」


『おー!』


「って、おい、ちょっと待てよ! 私に任せといてって何を――」


 俺の反論など聞く気が無いようで、川相に指揮された女子野球部全員が散って、あらかじめ決められていたのか、迷うこと無く全員二人組になって少し離れて向かい合った。

 おいおい、そんな勝手な……。ハアッ、でも、まっ、ここまで来ちゃったし見るだけ見てみるかな。一体どれ程の腕で強豪に勝とうとしているのか、少し気にはなるし。


「行くよー!」


「良いよー!」


 俺の五メートル程離れたところで川相と風木のコンビが声を掛け合って、キャッチボールを始めた。それを皮切りに他の者達も相手のグラブ目掛けてボールを投げ出した。

 聞こえてくる、バシっと球体が皮に当たる鈍い音。何度も聞き慣れたこの音をテレビ以外で聞くのは随分久しぶりだ。その音は妙に耳に気持ち良く、ノスタルジックな気分になる。

 グローブとグローブを行き来する白球。昔は毎日のように触っていたのに今では懐かしい。あれを握っていた頃の感覚が蘇ってくる。無い筈の球の感触を手に感じ、今にも腕を動かして投げる動作をしてしまいそうになる。でも止める。それはあの日、俺が捨てた筈のものだから。


「どうでありますか、監督殿ー!」


 キャッチボールを続けている川相が目を輝かせながらこちらを見ている。

 だから、監督になった覚えないし、大体どうですかって。


「そうだな。とりあえず、俺は監督じゃ無いし、それから君らのほとんどに言えることだけど、キャッチボールなんだからまずは相手の胸目掛けて投げようか。これ、基本だぜ」


「知ってるよ-、そんなの」


「なら、やれよ!」


 何、反抗期なんですか、この人!

 さっきから見てると川相の投げた球はたまに相手の胸に行くこともあるが、ほとんどが相手の顔、肩、足元など点としてバラバラだ。

 それは川相だけでは無い。風木も含め、半数近くが力任せやただ相手に届けば良い、もしくは相手が捕れる範囲に投げれば良いと言う投げ方が目立つ。

 ただ、ちゃんと投げれる者もいるところから見るに、それが野球経験者とみて間違いないだろう。意外にもヘッドホンしてる人とか。


「いや、分かってるんだけど、何というか上手くいかないんだよね」


 なるほど、そこからか。

 まあ、初めて一週間だってんならそんなもんだろ。寧ろいきなり完璧だったら、逆に気持ち悪い。

 要因はリリースポイントや下半身が安定していないとか色々あるのだろうが、コツだけは教えておくか。


「とりあえず、上だけで投げようとしないで下半身を使うことを意識するのと、投げる相手の後ろに人がいると考えて、その人の胸目掛けて投げてみな。前者はともかく後者は今から意識すれば良いだけだから出来るだろ。これで、ある程度は改善されるんじゃないか」


「えっ、何そのやり方。そんなんで、本当に――って、行った! 本当に佳苗の胸目掛けて行った!」


「凄い。私が構えてた所にピッタリ来た!」


 驚く二人。問題点があるのは川相だけじゃないんだよな。ついでに言っておくか。


「後ついでに、風木。風木はただ力任せで投げてるだろ」


「えっ、あっ、言われてみれば確かにそうかもしれない」


「それじゃダメだ。キャッチボールは基本って言うけどな、それはただ言われてるだけじゃなくて、ちゃんと意味がある。色々目的があるんだよ。例えば、狙ったところに上手く球を投げれるようにするとか、送球動作を早めるとか、後は肩を温めるウォーミングアップでとかな。いきなり強く投げるっていうのは必要ないどころか、寧ろやってはいけないことだ。そこら辺を意識して最初は近くから、普通の力でコントロール重視でやっていき、やっていく内に距離を開けていけば良い」


「おっ、おお……。分かった、やってみる!」


 感心したように風木は言うと、川相とアイコンタクトして距離を縮める。

 すると、今のを聞いていた周りの者もおーと感嘆の声を挙げながら、真似してお互いに近付き始めた。

 初心者はついキャッチボールを軽視したり、ただのボールの投げ合いになる場合が多いが、キャッチボールこそ正に野球の基礎だ。立派な練習である為、ここをしっかりやらなければいけない。

 しかし、そう見るとこのチームはやっぱり素人ばかりだな、と実感する。正直これだけ見ると勝てるイメージが湧いてこない。


「あっ、そういえばいきなりキャッチボールから入ったけど、ランニングってしないのか?」


「ランニング? うーんと、そういえば、今まで適当にやってたな。やる気になったらやるみたいな」


 川相が顎に左手人差し指を付けて、思い出しながら言う。

 おいおい、何だそれ。


「おいおい、スポーツやる上においてランニングは、強靭な足腰、基礎体力作りを兼ねる基本のメニューだぞ。ランニング、ストレッチ、キャッチボール。これは必ず最初にやるべきだ」


「なっ、なるほど! 了解だぜ!」


 グッと右手を親指を立てて出してきた。

 見ていると、ただただ不安定だ。キャッチボールからして出来てないし、まだまだ全然未熟。投げ方もままならないし、基礎も出来ていない。でも、それでもすっげえ楽しそうだ。負けたらもう出来なくなるというのに、笑って野球をしている。

 ……何だろう、凄いモヤモヤする。


「……川相、お前、試合に勝てると思うか?」


 何故か口からその言葉が出ていた。自分の顔が少しばかり強張っているのを感じる。

 だが、対して。それを聞いた川相はアハハと笑い出した。


「真面目な顔して何言ってんの。当たり前じゃん。私達が負ける訳ないじゃん」


 そんな根拠の無い発言。だけど、川相はこれを本気で言っている。それはその自信に満ちた目を見れば分かる。まだ試合をしたことがないのだろう。故に、知らないが故に言える言葉だ。現実はそんなに甘くない。


「でも現実は、現実を直視すると勝てない可能性もある。いや寧ろ勝てる可能性の方が限りなく低いだろう。もし負けたらもう出来なくなるかもしれない。それなら最初からやらない方が良いのかもしれないぞ。それでも、お前らはやるのか」


 途中でやめることが、挫折することがどれほど辛いか。そんなもの、初めて一週間の奴らが分かる訳無いし、長くやっていたとしても実際に経験してみないと分からない。

 俺も野球をやっていた頃は、こうなる自分なんて全く予想していなかったのだから。


「まあ私は、始めた理由は友香に誘われたからだけど、もうやるって決めたし、やってみれば意外と面白いしね。そうなるとしても、勿論やるよ」


「何言ってるのさ、やるに決まってるじゃん。やりたいって気持ちがあるし、大体面白いんだから。それにだから、私達が負けるなんてありえないんだし。強豪なんてぶっ倒す! そっちの方が面白いし、断然燃えてくるね!」


「そうか……」


 無邪気な笑顔でそう言う川相の言葉に共感している自分がいるのに気付く。

 昔、自分もあんな風に野球を楽しんでいた。今俺は、川相にかつての自分を感じている。


「って、あー、やばい落とした!」


「何やってんのよ、あんたは!」


 でも、やはりその強気を現実化させるのは難しそうだ。さっきから見ているが川相は何度もボールを落としている。いや、川相だけじゃない。全員何かしら問題がある。

 ……ったく、見ていられない。


「川相、ボールをよく見ろ。あとボールを取るときは、腕だけじゃなくて体を動かせ」


「おっ、おっす!」


「風木は肘が低いからもう少し肩と平行にするように意識して。ただ投げるんじゃ無くて、一番投げやすいポイントを探したり、どうやればより早く送球出来るかとか試行錯誤しながらやった方が良い」


「はっ、はい!」


 近くにいる、川相と風木に指示を送ってから、他に特に気になる点がある者の近くに寄り声を掛ける。


「あと、そこの小さい子は……、もっと近付こうか。後そこのヘッドホンしてる子はヘッドホン外したらどうだ?」


「私はヘッドホンしてた方が集中出来るので、これで良いです」


「えっ、良いの! いやいや、危険だから外した方が良いだろ! えっと、後……何で男子が一人混ざってんだ? ここ女子野球部じゃないのか?」


「僕は女子だ!」


「えっ、女子! 嘘だろ……。それは悪かった。それから、えっと――えっ、何!?」


 ふと見ると、全員がこっちを見てニヤニヤしていた。何だこの感じ。やっ、やりづらい……。


「いやー、何だかんだ言って教えてくれるんだなって」


「流石、監督。結局は私達を見捨てられないんだね!」


「いや、教えるとかじゃなくて見ていられなくて、ついだよ……。あと俺は監督じゃない」


 特に近くから抑えきれずにニタニタしている風木と川相が気になってしょうがない。

 昔から野球に関しては、ああいう指摘するべき点を見つけると言いたくてしょうがなくなるんだよ、俺は。

 ったく、何なんだせっかく指摘してあげたのに、この敗北感は。


「まっ、まあそういう訳で……えっと俺はそろそろ帰って良いか?」


 我ながらそういう訳でって、どういう訳でか分からんが。


「ちょっ、ちょっと待って、常田君! 私達まだキャッチボールの指摘しかしてもらえてないよ!  もうちょっと見ていってよ」


「かっ、監督ー! 私達の監督になってくれる決意を決めたんじゃないの! まだ教えてよ」


「いや、だから俺は監督じゃないし、なる気も無い」


「そんなー!」


 風木も川相も必死に俺を止めてくる。


「監督は私達が勝てないと思ってるから、だから監督をやってくれないの?」


「いや、そういう訳じゃないよ。違うんだ。これは俺自身の問題なんだよ」


 川相は少し悔しそうな顔で言った。

 勝てないから指導しないとかそんな理由じゃない。俺はそんな嫌らしい勝利絶対主義者ではないし、寧ろさっき川相が言った通り、そんな状況から勝つ方が好きなタイプだ。

 ただ、まだ自分の中で整理が付いていないだけ。それだけだ。

 と言っても、ここまで来たし今日ぐらいは仕方無いか……。


「でも分かった。せめて、バッティング練習は見ていくよ」


「ありがとう、常田君!」


「流石、監督! 分かってるね!」


 それを会って間もない人に言われても……。流石とか言われても、あんた俺のこと全然知らないでしょ。


「じゃあ、とりあえず全員の守備能力も知っておきたいから、シートバッティングをしてもらえる?」


「シートバッティング?」


 疑問そうな顔でその単語を繰り返す川相。何だ、シートバッティングを知らないのか。ということは、未経験か。


「全員自分の守備位置に就く、より実戦向きのバッティング練習のことだよ。勿論投手も置く」


「おおっ、何それっ、面白そう!」


 新しいことを発見した子供のように、輝かしい笑顔を放つ川相。

 まあ、楽しんでくれそうで何よりだ。しかし、本当に子供っぽい人だな。


「あっ、でも、ボールとバットはあるのか?」


「うん、大丈夫。それは廃部する前の女子野球部が使ってた物を借りれることになってるから。でも……」


 んっ、何だ。急に風木が言い淀み始めた。シートバッティングするのに何か問題でもあるのか?


「どうした、風木?」


「――実は私達、まだピッチャー見つけてないんだ」


 ほう、なるほど。強豪との試合で勝つためには必死の練習が必要な訳で、特に試合で重要なウエイトを占めることになるピッチャーがまだ未定か。

 ……嘘だろ。


「えっ、ピッチャーいないの!」


「……そうなの。でも一人、小学生の時は野球をやっていた凄い球を投げる子を見つけたんだけど……その子、何か事情があって入りたくないみたいで」


 なるほど、その凄い球を投げる子がさっき言っていためぼしい子か。凄い球というのは気になるがこの場にいないならそれを見ることすら出来ない。

 おいおい、問題だらけじゃねえか。

 しかしそれもそうだが、もう一つ今の風木の発言で気になった部分があった。

 ――その子、何か事情があって入りたくないみたいで

 入れないではない。入りたくないだ。つまりその子は、その事情というのは、なんらかの障害で野球が出来ないということではなく、なんらかの理由で野球が出来るのにやらないということだ。

 そして今の言葉を聞けば、俺は自分で見たことはないが素人目で凄いと分かるということは、経験者から見ても良い球である可能性が高い。それを小学生でやめてそれ以降やっていない子が投げられる訳がない。つまり練習はしているんだ。野球はやめたのに練習はしている。野球は好きなのに、やりたくない。

 何か自分に通ずる、しかし何故か仲間意識というよりは羨望のような、自分でもよく分からないものを感じていた。


「その子、野球をやめたのも何か理由があるのか?」


「はっきりは言わなかったけど、そうみたいだったかな。あんなに野球のこと好きそうだったのに何があったんだろう。ただやめたけど、今でも母親とキャッチボールしたり、母親に向けてピッチング練習したりするって言ってたなあ。だから凄い球を投げれるみたい。それがどうかしたの?」


 やっぱりな。ただ、それを聞いてより、よく分からない羨望の気持ちが強くなった。俺は会ったこともないその子に何故こんな気持ちを感じているのか。それが分からない。

 相変わらずモヤモヤもする。だけど、分からないことを考えていても仕方がない。


「じゃあ、シートバッティングは良いや。他の練習を――」


「いや、やだ! そのシートバッティングをやりたい!」


 他の練習を提案しようとした俺の言葉を遮って川相が尚シートバッティングを推してきた。

 そう言われても……。


「いや、やりたいってピッチャーが……」


「ピッチャーならいるじゃん、ここに!」


「ここ……? どこだ」


「だから、監督だよ、監督!」


 川相が差した指は俺の方向を向いていた。

 俺の近くにいる監督? 監督って誰だよ。――って俺じゃねえか!


「俺がピッチャー? いや、ちょっとそれは……」


「そうね、友香。常田君にピッチャーをやってもらいましょう」


「いや、そうねじゃないだろ。やってもらいましょうって、そんな勝手な……」


 俺がピッチャーだと? そんなのやったことないし、何より俺はあれ以来ボールを触っていない。まだ俺は……。


「はいはい、文句言わないで。はいっ、監督、これボール。受け取ってね!」


「って、おいっ、ちょっ! マジかよ!」


「良いじゃん、良いじゃん。だって今日だけ何でしょ? なら、監督としてこれぐらいやってよ!」


 そう言うと川相はこっちの事など微塵も考えていない様子で、こちらにボールを投げてきたので反射的にボールを取ってしまった。


「ごめんね、常田君。でも私からもお願い。ちょっとピッチャーやってもらえない?」


「……はあっ、ったく。あー、もう、分かったよ! やれば良いんだろ、やれば!」


「ありがとう、常田君!」


「流石監督、分かってるー!」


 だからそれを、今日会ったばかりの人に言われても……。

 大体既に監督を断ったことで元々罪悪感があったのに、更にあそこまでお願いされたら、断りづらくてしょうがない。それに、ひょっとしたら俺は彼女達に感化されてしまったのかもしれない。


「でもその前に、ランニングだ。まだ走ってないんだろ」


「あっ、そうだった。皆、集合!」


 川相が呼び掛けると、それまでキャッチボールを楽しそうに取り組んでいたチームメイト達が一斉に手を止め、川相の元に集まりだした。


「皆、次はランニングやるぞー!」


『おおっ!』


 川相が指示を出すと皆迷うこと無く、一斉に二人ずつ四列に並び始めた。どうやらランニングの並びは元から決まっていたらしい。

 にしても、さっきから見ていれば、出来て間もないにしてはなかなか統率が取れているな。

 それは川相の人を惹き付けるその無邪気な明るさが大きいというのもあるのだろうが、皆勝ちたいという意志が統一されているというのが大きいだろう。


「さて、じゃあ俺も走るかな」


「おっ、監督も走るのか! ふっ、なら、ちゃんと着いてきな」


「おっ、おう、急に凄い上からだな。でも、大丈夫だ。しっかり後ろを付いていくから」


伊達に毎日走っている訳ではない。スポーツをつい最近始めたばかりの女子に付いていけない訳がない。


「よしっ、行くぞ-!」


『おー!』


 どことなく恥ずかしいから俺は小さい声で皆に合わせて声を出した後、皆走り出した為俺も付いていく。


「うおっしゃー!」


「って、おい!」


 どうした、あいつ。スタートだけ軽く走った川相が、急に加速して全力疾走で走り出した。後ろのポニーテールもぶるぶると凄い勢いで揺れている。

 他の皆は顔を向き合わせて、どうしたら良いのか分からないっといった困惑の顔をしている。


「あいつ、何でウォーミングアップのランニングで全力疾走してるんだよ」


「まあ、友香は昔からじっとしてられないところがあるからね。特に今日は興奮してるみたいだからゆっくりなんて走ってられないんじゃないかな」


「いや、 走りたいって言ったって……。あれじゃ意味ないだろ。大体あんなのすぐにバテる。――おーい、川相! そんな全力で走ってたらすぐバテるぞー! ペースゆっくりにして戻ってこい!」


「えー、ハアハア、マジですかー、ハアハア!?」


 言わんこっちゃない。既にバテてるじゃねえか。

 川相は不満そうに頬を膨らませてはいるものの、後ろで一つに纏めた髪を今度は先程よりもゆっくり揺らしながら、素直に戻ってくる。その息は荒い。

 ただいくら全力とはいえ、少し走っただけでもうかなり息が上がっている。少しの間しか見ていないが、既に課題は山積みだ。


「とりあえず、これはウォーミングアップだ。全力疾走は後で塁間ダッシュとかやれば良いから、今はゆっくり行った方が良い」


「ハアハア、了解。ということで、皆、ゆっくり走ろう!」


『おー!』


 川相が呼び掛けたことでチーム内に充満していた困惑の色が消えて、皆ランニングに集中しだした。

 それは良い。集中するのは良いことだ。しかし、ただ集中して掛け声がない。聞こえて来るのはハアハアという乱れた息の音だけだ。


「うーん、これはダメだな。皆、ただ黙ってランニングするんじゃなくて掛け声出しながら走った方が良いぞ。精神的にも科学的にも声を出した方がメリットがあるし、何よりチームに一体感が出る。こういうのが意外と試合に大きく影響したりするもんなんだぜ」


「ハアハア、そうだ! なんか物足りないと思ったらそれだ! 良いね、掛け声! なんか青春っぽい」


 その青春っぽいの基準がよく分からないが、本人が青春っぽいと言うのだから青春っぽいのだろう。うん、分からん。


「でも、掛け声って何にするの?」


「うーん、そうだな……ハアハア」


 風木に問われ、川相が首を傾げながら考案している。


「普通に『才城、ファイッオー』で良いんじゃないか」


「それじゃ普通過ぎてつまらないよ、ハアハア」


 お前は掛け声に何を求めてるんだよ……。


「あのっ、じゃあ、『勝利を目指せ、才城、ファイッオー』はどうかな?」


 先頭を行く川相より二列後ろを走る、ヘッドホンした女子の隣を走る女子が頭だけ前後に交互に動かしながら提案してきた。

 今までちらちら見えたがあらためて顔を見ると、口元の少し左下辺りに小さいほくろがあるのが見えた。


「おっ、良いねー! 『勝利を』って私が言ったら、他の皆で『目指せ』で、そこから全員で『才城、ファイッオー』ね!」


 誰からも反発の声は上がらず、皆コクコクと首を縦に動かしている。どうやらこれで決定らしい。


「よしっ、じゃあ早速――勝利を!」


『目指せ!』


『才城、ファイッ、オー!』


 言うや否や皆、楽しそうに笑い始めた。こういうのを一体感というのだろう。それを後ろから傍目に見ながら思った。

 だが、その笑顔も長くは続かなかった。

 十分後、グラウンド半分の十週を終えたメンバー達が息を荒げて倒れ込んでいる中、立っていられたのは俺と風木だけだった。

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