泥田坊
「はあ…。また始まった。」
真夜中、私は溜息と同時に窓の外を見た。
墨汁を撒き散らしたような真っ黒な空。その隙間から沢山のLEDライトを散りばめたかのような無数の星たちがはっきりと見え、月と夜空の作る幻想的なコントラストに暫し美しいと感じた。
このまま美しいと感じていたいのに“あの声”がそんな私の想いを無視するかのように窓の外から聞こえてくる。
「田を返せえ。」
その声は耳を塞ぎたくなるような大音量でもなく、かといって言葉が聞き取れない程小さくもない。
程よく良い加減、例えるなら閑静な住宅街の中でひっそりと営んでいる知る人ぞ知るような隠れ家的な喫茶店。その店内から流れてくるBGMのように、聞いている分に関しては心地良さすらある。
しかし、今聞こえているのは喫茶店のBGMでもなければ小鳥たちの囀りでもない。
適度な音量の低いおっさんの声だ。
私はうんざりした。
何故ならこの声は今日初めて耳にする声ではないからだ。
声は二ヶ月程前から始まった。
毎日ではないが夜中急に聞こえてくるのだ。
どのぐらいの頻度かというと、メタルスライムに遭遇する確率ぐらい?何か違う。
おみくじで大吉が当たる確率ぐらい?なんか遠くなった気がする。
ジャンケンで勝つ確率ぐらい?うーん。微妙。
まあ三日に一回ぐらいとしておこう。
その三日に一回ぐらいの確率で夜中時間はばらばらだけどおっさんの声で起こされる。
私の起きている時間ならまだしも、深夜寝ている時に低い声で起こされる事もある。
これは流石にいい気がしない。実に不快だ。
どうせならいっそ私が起きる時間に発してほしい。目覚まし代わりになるし。
でもおっさんの声で朝目覚めるのは嫌だ。不快だ。きもい。
正確に言えばおっさんの声らしきものはおっさんではない。
だからといって良い気はしない。
“泥田坊”という妖怪だ。
初めてその存在を確かめた時は正直怖かった。
あれは二ヶ月前の深夜二時頃だったと思う。「田を返せえ。」という声に起こされた私は、声のする窓の方へ近づき外を見た。辺りは真っ暗ではっきりと見えない。
ただ、暫くして目が慣れてくると外の景色が薄っすらとだけど確認できた。
私の住んでいる所は比較的田舎だ。周りに何もない。外灯も家の前にあるだけで次の外灯までかなりの距離がある。民家が密集してるわけではなく所々にポツンポツンとある程度だ。
要するにかなり田舎なのである。比較的とか見栄張っちゃいました。なんかすいません。
近くにコンビニも自動販売機もありません。ガチガチの田舎でなんかすいません。
うちのお婆ちゃんは鶏を飼ってます。これもついでにすいません。
ただ星は凄く綺麗にはっきりと見えるのが唯一の自慢だ。
月も綺麗に見える。その月明かりに照らされ地面に蠢めく小さな黒い何かがいることに気付いた。その黒い何かは辺りの闇より深く、それが人の形をしていると解った瞬間ゾッとした。
地面から上半身だけを出し、両手を無造作に動かす様は水の中で溺れている人を連想させた。
「田を返せえ。」
怖くなった私は布団を被りぶるぶる震えながら早く朝になってくれることを願った。
翌日、昨日の出来事をお婆ちゃんに話してみた。
“わからないことや謎など、行き詰まったらとにかく老人に聞け。”映画やRPGでは常識だと思うのは私の固定観念か?
それでもいい。お婆ちゃんならなんでも知っていると思ったからだ。
「ふーん。そんなことがあったんかいね。それはひょっとすると泥田坊かもしれんの。」
「泥田坊?」
「そうだ。泥田坊は妖怪だ。でも心配せんでいい。悪さはせん。」
さすがはお婆ちゃん。よく知っている。私はこの時少し安心できた感じがして学校へ行った。
朝の話でわかったことだが、どうやら私にしか奴の存在に気付いていないようだ。
なんだか面倒な事に巻き込まれてる気がしてならない。
まあ考えても仕方ない。とりあえず寝るべし。
先生のチョークと黒板で奏でる一定のリズムが私を眠りに誘った。
学校から帰ると昨日の夜の出来事などすっかり忘れていた。
いつものように部屋でゴロゴロし、いつものように夕食を食べ、いつものようにお風呂に入って、いつものようにうまい棒を食べ、いつものように歯を磨き、いつものように電気を消して布団に入ろうとした時だった。
「…えせえ。」
「?!」
「田を返せえ。」
昨日と同じ声だ。たしか泥田坊だっけ?
私はスマホで泥田坊を検索した。
そこには一つ目で色黒の老人のような大男の画像がいくつも出てきた。
たしかお婆ちゃんは泥田坊は悪さはしないと言ってたけど画像を見た限りだとかなり怖いんですけど。
怖いんだけど一度見てみたい。そんな衝動に駆られた私は部屋の隅にある非常用に使うつもりで置いてあった懐中電灯を手にし、そっと窓際に近づいた。
外に確認に行く勇気はさすがに無かったので、二階のこの部屋から確認しようと思ったのだ。
向こうが何かしらのアクションを起こした時、大声を出せば家族皆が起きるだろうという私なりの考えがあっての行動である。
「田を返せえ。」
私は意を決して立ち上がり、声のする方へ懐中電灯を向けスイッチを入れた。
お婆ちゃんが飼ってる鶏がいる。
その側で上半身だけを出した“泥田坊”がいた。
「小さっ。」
ネットの情報では一つ目の色黒な老人風の大男。
しかしいま目前で懐中電灯に照らされたそれはお婆ちゃんが飼ってる鶏と同じぐらいのサイズで一つ目で色黒な小さいおっさんみたいな妖怪だ。
「田を返せえ。」
「いやいや。そこ畑ですけど。」
お婆ちゃんが毎日手入れしている家の裏の小さな畑に上半身だけを出したプチ泥田坊がいる。
私はプチ泥田坊に冷静にツッコミを入れた。
次の日の朝、私はお婆ちゃんに家の裏の畑のことを聞いてみた。
畑ができる前は何だったかが知りたかったのだ。ひょとしたら泥田坊が出るのだから昔は田んぼだったのかもしれない。
昨日Sサイズの泥田坊を見たことはまだ家族には内緒にしておこう。
私一人でなんとかできるかもしれない。昨日見た泥田坊が想像していたよりはるかに小さかったことが私に変な自信を与えていた。
まずはうちの長老から情報収集だ。
「畑ができる前かい?ここは山を切り拓いてできた土地だ。それから畑として使ってるからずっと畑だ。どうしてそんなこと聞くんだい?」
そう言いながらお婆ちゃんは畑で立派に実ったナスを切り、私に手渡した。
「ううん。なんでもない。ただなんとなく気になっただけ。」
「そうかえ。今日は学校休みなんだろ?丁度よかった。ナスの収穫手伝え。」
そう言うとお婆ちゃんはまたナスを切り始めた。
一時間ほどナスの収穫を手伝ったあと、私は泥田坊についていろいろ調べるために地元の図書館に向かった。
地元の図書館はどこか昭和の雰囲気を残す外観だが、入ってみると空調設備がしっかりしていて案外快適だ。私は本棚から妖怪関連の本を複数取り出し横長の机の上に広げた。
どうやらお婆ちゃんの言ってたとおり❝田を返せ❞と言うだけでとくに危害を加える妖怪ではなさそうだ。
そうだとわかれば尚更一人でなんとかしてみようと思うようになった。
次出てきた時は捕まえてビニール袋に入れてどこか遠くへ捨てに行こう。
もうあの声で夜中に起こされるのは嫌だ。
田を返せと現れたところを虫捕り網で捕獲。そしてビニール袋に入れ、しっかりと口を結ぶ。
その後とりあえずビニール袋を振り回して泥田坊を気絶させる。気絶させ大人しくしているうちに自転車に載せ、遠くへ捨てに行く。完璧だ。
私は泥田坊捕獲作戦の一部始終をイメージしながら一人不気味に微笑んでいた。
それを見ていた係の人が後ずさりしたのを気にすることなく私は軽い足取りで家路についた。
帰るとすぐに家の物置から虫捕り網を取り出し、手にした私はニヤリとした。
虫捕り網の柄に捕獲用のビニール袋を巻き付け、玄関横に立て掛けて置いた。
そして夜が来るのを待った。
時計の針が23時を少し過ぎた頃、あの不快な声が聞こえてきた。
私は寝る準備をしていたが、慌てながらもどこか冷静にパジャマからジャージに素早く着替え、玄関に向かった。
途中、懐中電灯を忘れたことに気付き部屋へ戻ったが気を取り直して今一度玄関へと足を運んだ。
そっと音をたてないよう玄関のドアノブを回す。
私が通れるギリギリの幅だけ開けるとサッと外に出る。
予め用意していた虫捕り網とビニール袋を手に忍び足で家の裏の畑へ向かった。
日中はまだ暑さが残っているが夜になると少し肌寒い。遠くで鈴虫の鳴き声が聞こえる。
季節が変わるのだなと思った。
いやいや。今はそんな風流な事を言ってられない。奴を捕獲するのだ。
今日であの不快な声とおさらばできると思っただけでも気分がいい。
私に安眠の日が訪れるのだ。そして見たい夢を見るのだ。
ちなみに今見たい夢は、私と同じ大きさのうまい棒にすっぽり入ってゴロゴロするというものだ。
できれば明太子味か、コーンポタージュ味が良い。
その状態で寝るならやはりコーンポタージュ味の方が良いだろうか?
チーズ味という手もあるなと思いながらも今は奴を捕まえることだけに集中しようと頭を切り替えた。
畑に近づくにつれ声が大きくはっきり聞こえてくる。やはり不快だ。
虫捕り網を持つ手に力が入る。
ターゲットまでの距離、およそ8m。物陰からそっと声の主を見る。
月明かりの下蠢く影を確認した。私はそっと電源オフの懐中電灯をターゲットに向ける。
一歩二歩と奴との距離を縮めていく。
ターゲットまでの距離、およそ5m。私は一度大きく深呼吸し、思い切って懐中電灯のスイッチを入れた。
懐中電灯の光の先に奴がいる。ジワジワ距離を詰める。
ターゲットまでの距離、3m。自然と力が入る。
ターゲットまでの距離、2m。うまい棒食べたい。
ターゲットまでの距離、1m。遂に私は奴と対峙した。
地面からどろどろの上半身だけ出し、大きな一つ目は不気味に黄色く濁っていて口からは涎か泥かわからないものをブクブクと垂らしながら「田を返せえ。」とお馴染みの文句をいう私の脛(すね)辺りまでしかない小さな奴が今目の前にいる。細くて小さな両腕をこちらに不器用に伸ばしている。
「…キモい。」
私は捕獲を諦め、スタスタと部屋へ戻るとジャージからパジャマに着替え、布団に入った。
なぜ諦めたかって?単純にキモいし触りたくないからだ。それ以外に理由はない。
ヘッドホンをし、お気に入りの曲を聴きながら寝た。
その夜はうまい棒をバットにソフトボールをしている夢を見た。
ジリリリリリッ。
目覚まし時計の音で目が覚める。目覚まし時計の鳴き声を止め、私の耳とヘッドホンがお別れをした。朝日の眩しさに一瞬目が眩みながらも渋々起き上がり手にしたヘッドホンを所定の場所に置き、大きく背伸びをした。
パジャマから制服に着替える。
スカートを穿き終えた後、脱ぎ捨てたパジャマを持って洗面所へ向かう。
途中にある洗濯籠の中にパジャマを一本背負いで投げ捨て、洗面所の鏡に向かってドヤ顔をしてみる。
一通りの朝の支度を終え玄関を出て自転車の籠に鞄を入れる。
その音で近くにいた鶏が逃げる。
私はサドルに跨り、ペダルを漕ぐ。
「学校かい?気をつけてなあ。」
裏の畑からお婆ちゃんが声をかけてきた。丁度いい。私は昨日の出来事を一部始終話して聞かせた。
実際に泥田坊を目にしたこと。それがあまりに気持ち悪かったから触れず捕獲できなかったこと。
そのことを踏まえて長老、あんたが何とかしろということをそれとなくにおわせる様な形に持って行った。
「そんなことがあったんかえ?うちの畑に泥田坊がのう…。あっ、ひょっとして。」
お婆ちゃんはそこまで言うと何かに気付いたかのように曲がった腰を少し伸ばした。
その様がどこかミーアキャットを連想させた。
「どうしたの?」
「いやなあ。二月(ふたつき)ほど前に、小塚さんとこで土を分けてもらったんだわ。あそこの田の土は牛のフンを肥料にしとるからよう肥えとるでなあ。それはうちの畑にもええ思うて一輪車に一杯だけ貰うてきたわ。それが原因かもしれんのお。」
それが原因だろ。私は思った。こうなったら長老に責任をとってもらおう。私は昨日泥田坊を見た場所まで長老を案内した。
「ここに居たんかえ?わかった。お婆ちゃんがなんとかするでお前は安心して学校に行っといで。」
お婆ちゃんは皺だらけの顔を更にクシャクシャにした満面の笑みを私に向けて言った。
その言葉を聞いて安心した。もっと早く言っておけばよかったとさえ思った。
ペダルを漕ぐ足が軽い。私は心の中で「ヒャッホー!」と叫びながら学校へ向かった。
学校から帰ってきて自転車を所定の場所に停め、鞄に手をかけた時、お婆ちゃんがこちらに近づいてきた。
「おかえり。今朝言うてた泥田坊な。きちんと捨ててきたわい。もう心配いらねえ。」
「ほんとに?!」
「ああ。あんたが言うてた所の土を取ってな。この先に公園あるじゃろ?あそこの花壇に混ぜてきたでな。もう心配いらねえよ。」
私は裏の畑へ足を運んでみた。
なるほど。確かに私が言ってた場所辺りが掘り返されている。
そこだけ地面より少し低くなっているのを確認しながら私は小さくガッツポーズをした。
私の家から少し歩いたところに小さな公園がある。
少しと言っても約800m程歩くが1km以内なので少しと言っておこう。
公園と言ってもブランコや滑り台といった遊具はなく、お年寄りが集まり、そこでゲートボールを楽しむような小さな場所だ。
平日の夕方はその公園に近くのお年寄りが集まるのだが、公園にはいつ誰が作ったのか隅の方に小さな花壇がある。パンジーやチューリップが咲いていたのをなんとなく記憶している。
ゲートボールを楽しむ傍ら誰かが花の手入れなどをしているのだろう。
その公園は通学路の途中にあるので、学校から帰ってくるとたまに公園で知ってるお年寄りが挨拶してくるので私も簡単な挨拶をしながらその場を通り過ぎる。
高校生となった今ではあまり用事がないから行かないけど、小さいころはこの小さな公園で鬼ごっこや缶蹴りなどして遊んだこともある。私の数少ない思い出の場所だ。
その思い出の地にうちの長老の手によって泥田坊が引っ越したのだ。
私は公園の方を見つめながら、これで平和になったとその場で再度小さくガッツポーズをしてから家へ入った。
そしていつものように部屋でゴロゴロし、いつものように夕食を食べ、いつものようにお風呂に入って、いつものようにうまい棒を食べ、いつものように歯を磨き、いつものように電気を消して布団に入って目を閉じた時だ。
「田を返せえ。」
外からお馴染みの台詞が聞こえてきた。不快だ。
懐中電灯を手に窓に近づく。
窓を開けると丁度良い涼しい風が入ってきた。
懐中電灯を点け、光の筋を確認しながら徐々に視線を下にする。
畑には奴がいた。
奴のすぐ隣には掘り返してできた窪みがある。
そうババアがミスったのだ。
サッカーのPKで例えるなら大事な場面でシュートがポストを直撃し、ゴールならずといったところか。
窓を閉め、懐中電灯を置いた私は、変わりにヘッドホンを手に布団の中へ入りお気に入りの曲を聴きながら眠りについた。
その夜は「うまい棒のポテンシャル」を議題としたうまい棒国際会議に参加し、熱弁を揮っている夢を見た。
朝になると私はお婆ちゃんに昨日も泥田坊が出ましたよ。どうしてくれるんですか的なオーラを醸し出しながら詰め寄った。
丁度お婆ちゃんは鶏に餌をあげてる最中で、鶏がコッコ、コッコ言いながら地面に撒かれた餌を食べている。
「あらまあ。そうかい。掘り起こす場所違ってたかい?」
「違ってたというか、惜しい。」
そうニアミスなのだ。
私はお婆ちゃんの手を引き、再度現場まで案内する。
昨日お婆ちゃんが作った窪みより右に30cmぐらい横を指し、奴が出たポイントを近くに落ちてた石を使い円を描いた。
「ここだよ。」
コッコ。コッコ。お婆ちゃんについてきた鶏が鳴く。
そこじゃねーよ。ここだよ。私は心の中で鶏にツッコミをいれた。
それから私はお婆ちゃんに円を描いた所を掘るよう指示したあと学校へ向かった。
学校から帰ると私は裏の畑に直行した。もちろんこの目で奴の土を取り除いているか確認するためだ。
現場には朝描いた円の代わりに小さな窪みができていた。どうやら長老はしっかり仕事をしたようだ。
よしよし。これで今夜からぐっすり寝られる。
あの不快なおっさんのような声を聞かずに済むのだ。
身体の奥底からこみあげてくる可笑しくもあり、安心感でもあるようなものがジワジワと私を包んだ。
スキップと徒歩の中間のような足取りと軽い鼻歌を交えながら部屋へ戻った。
それからいつものように部屋でゴロゴロし、いつものように夕食を食べ、いつものようにお風呂に入って、いつものようにうまい棒を食べ、いつものように歯を磨き、いつものように電気を消して布団に入った。
「田を返せえ。」
「まじか。」
窓を開け、いつもの場所を見た。
いない。
「田を返せえ。」
確かに声が聞こえる。私は辺りを細かく見廻したが奴の姿が見えない。
私はジャージに着替えなおすと、玄関へと向かった。
ドアを開ける前に深呼吸をする。
玄関のドアを開け、一歩踏み出し裏の畑を目指しかけた時気付いた。
玄関を出て右側へ回ると畑へ行けるのだが、途中母の趣味であるガーデニングのプランターが幾つかある。
ローズマリー、時期が終わり枯れかけた向日葵、それに小さなオレンジ色の薔薇が並ぶ。
その中の一つ、何も生えていないプランターに泥田坊がいた。
「田を返せえ。」どろどろの一つ目が訴える。
「キモい。」
どういうつもりなのだろうか?
まさか泥田坊を飼う気か?
一瞬考えたくもない想像が頭を過ったが、奴は家族の中で私にしか見えないのだからまずそれはないだろうと判断した。
じゃあどうして?とにかく明日の朝母に聞いてみようと思った。
私は部屋へ戻り、ヘッドホンを耳にし、眠りについた。
目覚まし時計が鳴り、それを止めるいつもの作業を終え起き上がる。
窓から差し込む光が温かく、私の意識をゆっくりと覚ましてくれた。
階段を下りると私の嗅覚は母の作る朝食のいい匂いを捉える。
自然とキッチンに足が運ぶ。
私は朝食をきっちり摂る派でその中でも和食派だが母にかけた言葉は朝食とは全く関係のないことであり、今の私の悩み、疑問の全てだ。
「お母さん、また新しい植物育ててるの?」
泥田坊の入ったプランターを昨夜確認済みだし、おそらくだがどこから取った土かは聞かなくても想像がつく。しかし、私は母に尋ねた。
「そうなの。コスモスの芽が順調に伸びててね。少し早いけど大きめのプランターに移したのよ。土?お婆ちゃんが運んでた土を少し分けてもらったけどそれがどうかしたの?」
ババアめ。この前からきちんと説明してるのになぜ分けた。
私は誰にもわからないぐらいの小さな舌打ちをし、しっかりと朝食を済ませた。
ちなみに本日の朝食は豆腐とねぎ、じゃがいもの入った味噌汁と卵焼きとご飯に納豆。
渋いチョイスだが私は好きだ。
自転車の籠に鞄を放り込み、その上に例のプランターを置く。
昨夜、なにも植えていないプランターだと思っていたのにそこには小さな芽が幾つか顔を出していた。泥田坊に気を取られていたので気付かなかった。
そしていつものように自転車に乗り、学校へ向かった。
ただいつもと違うのは少し早めに出発したことと自転車の籠の上に例のプランターがあることだ。
公園の前で自転車を停め、プランターを持って花壇へ向かう。
花壇には私の知らない小さな花が赤、白、青と咲いていて、朝顔も植えていたのだろうか。1mぐらいの柱が5本地面に刺さっていた。
その名前の知らない小さな花の隣に小さなコスモスの苗を土ごと移した。
正確に言えばコスモスと泥田坊を植えたのだ。
空になったプランターは花壇の隣に置いておいた。
学校帰りに取りに来ればよいとの考えからだ。
全てが終わったのだ。
これで奴ともおさらばだし、不快な声を聞かずに済む。
私の頭の中でアクション映画のエンディングが流れた。
手に付いた土を軽く落としてから、花壇を振り返ることなく学校を目指した。
あれから一ヶ月が経った。季節はすっかり秋らしくなっていた。
田んぼには黄金色に輝く稲穂の巨大な絨毯が幾つも広がり、その上には赤とんぼの集団が飛び交っている。
日が沈むのが早くなったため学校帰りの時間帯は夕日がかなり西へ傾き、全体を濃い橙に染め私の長袖を淡いオレンジに変えた。
私は秋が好きだ。
どこからか秋刀魚の焼く匂いがしてきたのでそれが理由の一つでもあるのだが。
公園まで来たとき自転車を停めた。
花壇にはコスモスが秋風に吹かれ小躍りしているかのように咲いている。
気のせいだろうか。コスモスの数が増えている気がするのだが、おそらく花壇の管理をしているお年寄り達が植え足したのだろうと一人納得する。
あれから不快な声を聞くことなくすっかり平和な毎日を過ごしている。
ただどこかで淋しいと感じているのは私の気のせいだろうか?
嬉しそうに咲き誇っているコスモスたちとお別れし、自転車に乗ろうとした時だった。
「田を返せえ。」
振り返るとコスモスの間に奴がいた。やはり不快だ。
ただ奴は少し楽しそうな感じがしたのは私の気のせいだろうか?
まあいい。私は鞄に着いたうまい棒のストラップを揺らしながらコスモスたちと同じように秋の風を身体全体で感じた。
家に着いた時には全てのことを忘れ、ゴロゴロし、夕食を摂ったあと風呂へ入り、風呂上がりのうまい棒を堪能した後歯を磨き、布団へ入った。
静かな秋の夜、虫達のささやかなオーケストラを子守歌に私の見た夢はうまい棒を貪る泥田坊であった。
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