1-2-8 慟哭

「……マージ、……マージ。」


 朦朧とする意識の中、誰かがマージョリーを優しく呼ぶ。


「……誰? 誰なの? 」


 マージョリーが、自分を呼ぶ声がする方向に目を凝らすと、白い霧の中から懐かしい人物が姿を現した。


「よく頑張ったな、マージ。」

「お父さん……」


 思わず涙ぐむマージョリーに、父トニーは優しく微笑みながら、持っている椀の中から木匙で何かをすくい、食べさせた。


 それはとても甘く、マージョリーの衰弱しきったSAN値に再び力を与えた。


「お前はもっと強くなれる、信じて精進するのだぞ。」


 そう言い残して、トニーは遠ざかって行った。


「待って、お父さん、待って! 」


 取り残されたマージョリーは、必死に腕を伸ばしたが、優しい笑顔を残し、トニーは霧の中へ消えていった。


「……お父さん……」


 束の間の再開と、再びの別れに悲嘆するマージョリーの耳に、不意に遠くから男女の喧騒の声が入って来た。


 誰よ、こんな時に……


 そう思った瞬間、マージョリーは声のする方に落ちて行った。


 現実の世界に引き戻されたマージョリーは、自分がリュミエールのコクピットから出されて、どこかに寝かされている事に気がついた。

 夢うつつのマージョリーの耳に、先程の喧騒の声が、だんだんとはっきり聞こえてきた。


「あーっ、マスター、サードマリアばっかりズルいですわ。私も! 私も! 」

「ズルいって言っても、マージはSAN値が下がり過ぎて、危険な状態なんだから仕方ないだろ。」


 マージョリーは、何か甘い物が、優しく口の中に押し込まれた事に気がついた。

 それは父が口に入れてくれた物と、同じ味がした。飲み込むと魔力、気力、体力が戻り、SAN値が回復していくのを実感する。


 またすぐに、甘い物が口の中に入れられる、心地よい甘味が口中に広がり、心と身体に染み渡る。


「いーなー、いーなー。ねぇマスター、私にも一口、あ~ん。」

「私にもって、だいたい君には実体が無いだろう? マグダラ。」

「そんなの関係有りませんわ、マスター。ねー、マスター、マスターってばぁ~。」


 駄々をこねて粘るマグダラを宥めながら、キョウは人参果と花梨果を少しずつかじり、咀嚼しながら口の中で混ぜ、口移しでマージョリーに与えていた。

 人参果と花梨果は、どちらもSAN値回復の妙薬として、ここルルイエ世界で珍重される果実である。


 キョウは初めは別々に刻んだ物を与えていたが、余りにも苦い人参果を受け付けず、吐き出してしまうのと、それ以前にマージョリーには、咀嚼する力さえ残っていなかった。それで、このままでは危険と判断し、力を失ったマージョリーが、摂取しやすい様に咀嚼し、なおかつ甘い花梨果と混ぜ、味を調え確認してから口移しで与えていたのだった。


 キョウが何口目かを口移ししている途中、マージョリーは意識を回復し、目を開けた。

 それに気づいたキョウは、慌てて身を反らせて顔を離す。


「あ! 気がついたか! マージ! 良かった~。いっ、今のはな、君が自力で咀嚼出来ない程衰弱しててだな、早く回復させないとヤバい所までSAN値が下がってたから……、そう! 人工呼吸! 人工呼吸と同じだ! 不可抗力だ! 不可抗力……」


 しどろもどろで説明するキョウに、マージョリーは


 本当にこの人が、さっきの強くて怖い、そして厳しいネオンナイトと同一人物なのかしら?


 と、目の前で慌てふためく優男を、不思議そうに見つめた。


「へたくそ! 」


 不意に、女の声がマージョリーの耳朶を打つ。


「八年以上リュミエールに乗ってて、あの程度の腕前とはどういう事よ! 」


 声のする方に目を向けると、あの女が眉間に皺を寄せて睨んでいる。


「でもまぁ、私のマスターを相手に、あそこまで食らいつくなんて大したものだわ、素質は認めてあげる。これからも精進する事ね、いつでも胸を貸してあげる。」


 胸を反らし、「私のマスター」という言葉を、必要以上に強調して語るマグダラに、マージョリーがボソリと答える。


「そんなつるぺたな胸、どうやって借りれば良いのかしら? 」

「何ですってぇ~! キィ~ッ! 」


 逆襲に成功したマージョリーは寝返りをうって顔を隠し、会心の笑みを浮かべた。

 頭上からキョウの声が聞こえる。


「マージ、気分はどう? もう起きれるか? 」


 マージョリーは、自分が黒いソファーの上で、キョウの膝枕で横になっている事に気がついた。

 甘える様な目で見上げ、首を左右に振る。


「そうか、もっと食べるか? 」


 キョウが食べかけの人参果と花梨果を差し出した、その大きさにマージョリーは驚いた。


 以前、彼女は今日の様に、SAN値が危険なレベルまで落ち込んだ事がある。初めてA級賞金首の合同討伐に参加した時の事である、気負いと緊張で頑張りすぎたのが原因で、今日の様に倒れてしまった。

 その時、ディオの親爺が与えてくれた物は、これよりかなり小さな物であった。それでもとても高額な値段に驚いたが、これ程の物になると、一体どれ程の値段がつくのだろう?


 しかし、そんな疑問はすぐに頭の中から追い出した、今のマージョリーには、そんな事はどうでも良い事だった。

 差し出された人参果と花梨果を、キョウに突き返す。


「? 」


 驚くキョウに、マージョリーは口を開けてみせる。


「あーん。」


 夢うつつの中で、父トニーと再会したせいであろうか、マージョリーは無性にキョウに甘えたかった。


「口移し……」


 顔を赤らめながら、もじもじと要求するマージョリーに、マグダラが目を剥いた。


「何ですって! 自分で食べなさい! 」

「べぇ~だ! 」

「イィ~だ! 」


 張り合う二人を苦笑いしながら眺め、キョウは普通に手で食べさせた。


 しばらく無言で食べさせてもらっていたマージョリーだったが、さすがに照れくさくなり、とりとめもなく話を振った。


「ねぇ、ハスタァと親爺さんは? 」

「ハスタァならとっくに帰ったわよ。ディオの小僧なら、外でラヴ……、いえ、リュミエールの整備をしているわ! 」


 キョウとの会話の腰を折られたのと、あのディオの親爺さんを小僧呼ばわりした事に驚いたマージョリーは、目を剥いてマグダラを見つめた。


 この女、一体何者なの! ?


 マージョリーの内心の驚きを知ってか、マグダラは「ふん」と、妖しい笑みを浮かべた。


「ハスタァは君の闘いぶりを見て、どうも居ても立ってもいられなくなったみたいで、早々に引き上げたよ。今頃イタクァのコクピットで、シュミレーションでもしてるんじゃないかな。」


 キョウの言葉に、マージョリーは振り返り、仰ぎ見る。


「リュミエールは? 」

「バッカねぇ! 白騎士教団の刺客相手ならいざ知らず、あなたを相手にマスターがダメージを残す闘いなんかする訳無いでしょう! 小僧がやってるのは、汚れ落としみたいなものよ! 」


 またしても話の腰を折るマグダラ。


「見てみるかい? 」

「うん。」

「立てる? 」

「抱っこ。」


 キョウはムッとして睨むマグダラを笑顔で宥め、マージョリーをお姫様抱っこで抱き上げ、窓に向かって歩いた。


「あ~っ、いいなぁ~。ずる~い! 私も! マスター、私もお姫様抱っこ~! 」


 マグダラはぴょんぴょん飛び跳ねながら、お姫様抱っこをせがんで後ろからついて来る。

 その姿に優越感を抱いたマージョリーは、意地の悪い含み笑いをマグダラに向ける。


「う~! 悔しい~! マスター! マスター! 」


 悔しがるマグダラを背中に、キョウはマージョリーに、窓からリュミエールを見せる。


「ほら。」

「リュミエール……、良かった。」


 マグダラは二人の後ろで、「マスター、私も抱っこ。」と連呼してせがんでいる。


「私、負けちゃったんだ……、悔しいなぁ。」


 そう言って口をすぼめたマージョリーだったが、言葉とは裏腹に、その表情には悔しさの色は薄かった。

 むしろ憑き物が落ち、心の中で張り詰めていた、肩肘張った想いが霧消した、そんな表情だった。


 リュミエールを労う様に見つめたマージョリーは、その隣に駐機してある漆黒の機体に目を移す。

 本当に強かった、戦って初めて恐怖を感じた、とても厳しかったアザトース。

 この機体を、今自分を抱き上げる優男が操縦していたなんて、にわかには信じられないが、自分が厳しさの向こうに見たのが優しさならば納得がいく。


 キョウ


 ネオンナイトの称号を持つ、最強の機械魔導師にして精霊騎士。

 この世界を冒涜し、闇と混沌をもたらす存在として、白騎士教団が指定する最高金額の賞金首。

 この人は一体どこから来て、何を成そうとしているのだろう?

 いつしかマージョリーは、吸い込まれる様にキョウの横顔を見つめた。


 その視線に気づいたキョウは、「何? 」という視線を彼女に向けてきた。

 マージョリーは思わず顔を赤らめ、再び視線をを窓の外に向けた、するとアザトースの傍らに異様な木を発見した。それは一見すると普通の木だが、葉の間から覗く果実が異常だった。


「何? あの木……」


 たわわに実る果実、それは明らかに普通のサイズより一回り以上大きな実である、しかも異常なのは、それだけではなかった。

 一本の木であるにもかかわらず、数種類の果実が実っているのである。

 さっきキョウが食べさせてくれた人参果、花梨果は言うに及ばず、子供達が喜びそうな水蜜桃や火竜果、甜瓜に甘芭蕉……等々、無節操と言える程、ありとあらゆる果実を鈴なりに実らせていた。


「ああ、あれね。さっき僕が木剣に使った木だよ。」

「えっ!? 」

「あの木の精霊がね、手加減無用で君を打ち据えたお詫びに実らせたんだよ。君の役に立てて嬉しいって。」


 驚いて見つめるマージョリーに、木は微笑んで手を振る様に枝を揺らせた。


「だから、木の実は全部、子供達のお土産に持って帰るといい。なんなら、根っ子ごと引き抜いて持って行って構わないよ。その方が、あの木の精霊も喜ぶ。」


 その申し出に驚いたマージョリーは、目をぱちくりさせてキョウの顔を見た。

 優しく微笑むキョウの顔の後ろに、業を煮やしたあの女の顔があった。


「マースーター! わーたーしーもー、だーっーこー! 」


 駄々をこねてお姫様抱っこをせがむマグダラは、もう待ちきれないとキョウの背中によじ登っていた。


「ちょっとあんた! いくらキョウでも二人いっぺんなんて無理よ! 」


 制止するマージョリーを無視して、マグダラはキョウの肩の上に陣取り、満足そうな笑顔を浮かべた。


「ちょっと、聞いてるの! 」


 マグダラはマージョリーを無視し、キョウの肩の上で、肩車の体勢を整えている、足がマージョリーの身体に当たりそうになる。


「!? 」


 マージョリーは驚いた、当たると思ったマグダラの足は、霞の様に自分の身体をすり抜けて行った。


 驚愕の瞳で見上げるマージョリーに、マグダラは今更ながら、初めて自己紹介をした。


「私はマグダラ・ベタニア。あなた達が、闇の端女はしためと蔑む女よ。以後宜しくね、サードマリア。」


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 月を見上げて思い出す。

 今日は本当に驚きの連続であった。

 今まで自分の自信の拠り所だった精霊機甲戦、それが全くキョウには通用しなかった。

 想像を絶する彼の強さに、初めて戦いの恐怖を知った。


 これまでどんな敵も粉砕してきた必殺の一撃が、キョウにはまるで届かない。

 何度打ち込んでも、弾き返され、叩き伏せられた、彼の一撃は的確に自分の欠点を指摘していた。

 圧倒的な実力差と、情け容赦の無い厳しさに、何度も心が折れ、膝を屈するところだった。


 しかし、その度に、アザトースの目を通じて、キョウが語りかけてきた。


「どうした、マージ、もう終わりか? さぁ、早く立って打って来い。」


 厳しさの向こうに、キョウの優しさを感じ取った、だから何度も立ち上がり、気力を振り絞って打ち込んだ。


 敗北に不思議と悔しさはなかった。

 それよりも、自分がもっと強くなれる事実を知った事が喜びだった。


 力尽き、倒れた自分を優しく介抱してくれた事も嬉しかった。

 思えば孤児院を開いて以来、自分は誰にも甘えた事は無かった、そんな事は許されないと、自分に科して生きて来た。

 そんな頑なで、不相応な程肩肘張った自分の心を、キョウは敗北を与える事で解放してくれた。


 闇の端女、マグダラとの出会いも衝撃的だった。

 しかし、彼女が決してキョウの好きな女性では無い事を感じて安堵した。


 そして、彼女とキョウを巡る恋の鞘当て……


 楽しかった、こんな楽しい事がこの世に有ったなんて、今まで全く知らなかった。


 自分は何も知らない、それを思い知らされた。

 だから、お土産の高級果実の山に目を輝かせ、舌鼓を打った子供達の姿に、これまでとは違った喜びを感じた。

 だからこそ、マージョリーの頬を、大粒の涙が伝い、こぼれ落ちた。


「嫌だ……、嫌だよ……」


 月を見上げて問いかける。


「ねぇ、マリア、どうして女は二十歳までしか生きられないの? 」


 もっと強くなりたい。

 もっと恋をしていたい。

 もっと一緒にいたい。


 でも、自分に残された時間は後僅か、その現実がマージョリーを打ちのめす。


「嫌だ、嫌だよぉ……、後一年ちょっとだなんて、嫌だぁ……」


 月は何も答えず、優しくマージョリーを見下ろすだけだった。


 もっと生きたい! 生きていたい!

 みんなといつまでも一緒に、行き続けたい!


 新たに生まれた想いが、堰を切って止めどなく溢れ出す、マージョリーは地に伏して慟哭した。


 自分を見つめる、小さな瞳の存在に気づかすに……

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