意識の外

目の前に、母の恵美子がいた。倒れる前の元気な姿で、鼻歌混じりに食器を洗いながら、穏やかな笑みを携えている。


口ずさむ曲は、国光がセレクトして病院に持って行った最新のやつだ。


暗闇の中に、綺麗に片付けられたキッチンだけが淡い光を放って浮かび上がっている。


この場所は夢の中だろうか、それとも意識の奥底にある国光の願いが作りだしたマボロシだろうか。父の泰造が仕掛けた罠という可能性もある。


少なくとも、ここでじっとしているわけにはいかない。


恵美子

「どうしたの? 怖い顔しちゃって」


国光の視線に気付いて、懐かしい優しい声が響いた。


国光

「母さん……」


恵美子

「何泣いてるのよ、おかしな子ねえ」


笑う母親を見るのも、声を聞くのも、もう思い出せないほど遠い過去だった。


国光

「母さん、俺、やらなきゃならないことがあるんだ。もっとここにいたいけど行かなきゃ。あまり時間がない」


勝手にあふれ出す涙を無視して、国光は言った。強く意志を持たなければ、二度と起き上がれない気がした。


恵美子

「なによ、少しはゆっくりしたらいいのに。もうすぐ、お父さんも帰ってくるんだし」


国光

「頼むよ母さん、大事なことなんだ」


恵美子

「なんでそんな大事なことをアンタがやるのよ。そういうのは偉い人に任せておけばいいの。アタシ達みたいな普通の人はね、普通の幸せを大事にしたらいいのよ。アンタが思うよりもたくさんの幸せが、近くにあるんだから。遠くに行く必要なんて無いの」


それは母の恵美子が、よく言っていた事だった。小さな幸せを大切にして、毎日を笑顔で過ごす。それが母の教えだった。


母親の言葉というものは、子供にとって大きな影響を与える。まして、甘く優しい言葉ほど、身を委ねてしまいそうになる。


もういい 

じゅうぶんやった

すこしやすもう

いいじゃないか

ここにあるしあわせを

たいせつにまもっていけば


国光の頭の中に、そんな気持ちが溢れてくる。例え罠だとしても、例え俺の生み出した弱い心だとしても、受け入れてしまえばラクになる。


国光

「……わかったよ」


国光は目を閉じ、頷きながら言った。


国光

「これは毒だ。母さん、会えて良かった。でもダメだ。ここで寝てるようじゃ胸を張れない。行くよ!」


国光がそう断言すると、蜃気楼のように世界が揺らめき、暗闇が戻ってきた。


行くと言ってもどうすればいいのかと首を傾げていると、別の声が天から降ってきた。


ティミー

「おい、何を寝ているんだ。時間がない、さっさと起きて行くぞ」


暗闇に閉ざされた世界に、遙か上空から落ちてくるように、ティミーの声がした。


国光

「毒を盛られたんだよ、痺れて動けないんだ。意識もないし」


ティミー

「へぇー、意識がないって? じゃあいま俺と話してるのは何だよ、俺の妄想か?」


国光

「そんなこと言ったってしょうがないじゃないか」


ティミー

「別に俺はどっちだっていいけどよ、ここは地獄なんだぜ? 生きている人間の常識なんてクソの役にも立たない。毒で身体が動かないなんて、単なる思い込みだ。その気になりゃあ、呼吸や代謝だって必要ないんだ。想像力次第で何でも出来る世界なんからな。いいから起きろ! このシチュー全部食っちまうぞ」


思いや願いが強ければ何でも出来る。ティミーにそう言われると、本当にそんな気がしてくる。


言葉は魔法のようなものだ。どんな苦境に立たされても、大丈夫だと言ってくれる仲間がいることが、何よりも心強いものになることだってある。


国光は体重が軽くなるイメージをし、魔法で風を操ってティミーの声がする方へ飛びあがった。


暗闇が薄れ、目がくらむほどの光に包まれても進み続けた。自分側進んでいるのかどうか、感覚はない。でも意識は前へ、前へと進み続けた。


気付くと国光の意識は、はっきりとしていて、目の前にシチューを食べているティミーがいた。桐原の姿をしてはいたが、国光の目には正体が明らかだった。


ティミー

「よう。おかえり、ウマいシチューだな」


国光

「助けてくれたのか? ありがとう」


ティミー

「さあね、俺は何もしていないさ」


国光

「俺はずっと、落ちこぼれで、親父の期待に応えられなかった。自分じゃ何も出来ないと思っていた」


ティミー

「へーそう、人間なんて、みんな同じじゃないのか? 弱くて、悩んで、迷ってる。俺がどれだけ願い事を叶えてやっても、決して満足しない。次から次へと無理難題をふっかけてくる。俺は天地万能の神かっつーの! ……今の悪魔ジョークな、笑うとこ」


ティミーなりに元気づけようとしていることがわかって国光に笑顔が戻る。


国光

「っていうか、こんなとこで何してんだよ、天国の扉を守るよう頼んだろ?」


ティミー

「俺を誰だと思っているんだ? そんなもんとっくに終わってる。おまえの親父とか、誰か魔力のあるやつが見破るまでは大丈夫だろ」


国光

「じゃあ急いで親父をぶっ飛ばさなきゃな」


ティミー

「出来るのか? おまえに? 手伝ってやってもいいんだぞ?」


国光

「いいんだ。俺がやるんだ。やれるまでやる。この世界じゃ終わりなんて無いだろ? 親父が諦めるまで俺は諦めない」

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