ディープブルー
ごく普通の眼球を魔力を込めた眼球にまるごと換えて、見えないものを見ようとするのは、一昔前のやり方だろう。
今はコンタクトレンズのように、普通の眼球の上に魔力で作ったフィルターの様なものを使うのが一般的だ。
とはいえ、メガネやコンタクトレンズみたいに、いちいち手で付け換えるのは人間のやりそうなことだ。俺の場合は、まぶたの裏にカーテンみたいに備え付け、まばたきと共に切り換えられるようにしている。
「ロイ、いつまで透明でいるつもりだ?」
わずかとはいえ、常時瞳に魔力を込めてロイを視認するのは面倒なので、透明化を止めないのか探りを入れた。
「私を探している人物がいるからね、クリエイティブな仕事をしていると、際限無く求められて大変だよ。人間の欲望は底無しだ」
まったくもって同意見だ。
食べなくても死なず、眠くもならない、働く意味合いも無ければ、子孫を残す必要も無い。
初めて地獄にやって来た人間が、自由に生きる為に肉体の具現化を覚え、ディストピアという箱庭の仕組みを知ると、誰もがこう言った。
「ここは天国か」と。
その考えが間違っていたと改めるのに、そう時間はかからない。生きる意味の無い人生は、終わりの無い苦痛だと思い知るのだ。
人間にとって目下の敵は退屈だった。
時間に限りの無い人生は、堕落を貪り娯楽を求めた。問題は娯楽を生み出す者の不在。
消費者ばかりが数を増やし、クリエイティブな人間はわずかだった。
ロイは弟と協力して巨大な娯楽施設を建造した。電力の代わりは当然魔力だ。たった2人で、良くやったと思う。
だが働く人間がいない事に気付くのが遅かった。メンテナンス、接客、清掃。たくさんの利用者がいても売上が伸びる訳じゃない。慈善事業みたいなもので、自己満足の世界でしか無い。
あっというまに運営は破綻。
ロイはその後もアニメーション映画を作ろうと画策したり、次なる娯楽を提供しようと頑張ったが、消費の速度に創作の速度は追い付かず、限界を感じて引退を宣言した。
それで済むと思うか?
娯楽を求める人間はロイの引退を許さなかった。
監禁、収容し、創作を強要した。娯楽に飢えた人間にとって頼みの綱だったのだ。
それを知った数少ないクリエイターは息を潜めて逃げ出した。娯楽を生み出すと自由を奪われる事になると気付いたから。
「ディストピアを離れて、魔界の暮らしはどうだ?」
「そうだな、快適じゃあないが、不自由はしないよ。少しでも多くの人々に娯楽を与えたいと思っていた頃が懐かしいね」
ロイは山岳地帯を抜けると、真っ赤な湖を潜っていく。ちなみに湖が赤いのは、別に血液でもなければマグマでもない。
原因はプランクトンの色素と藻のせいらしい。
俺が悪魔だから、言うことが信じられないか?
安心していい、これは人間の研究者が調査した結果だ。生前の地球にもあったらしいぞ、調べてみればハッキリする。
まあ俺は信じちゃいないがな、俺の主張はこう。
「ある画家が、紅に染まった湖を描きたいと思った。生前に恋人と一緒に、湖に沈む夕陽を見て感動したからだ。画家は記憶を再現する為に、魔力を注ぎ込んで湖の色を変えた。夕陽そのものを創造する魔力は無くても水の色変える事は可能だった。つまり人間は欲望を満たす為なら本来の自然な姿を壊す生き物だ。逃げるのが遅かったらロイは今ここにいなかったかもしれない」
「本当に、ティミーには感謝してるよ。ディストピア残っていたら自由は無かった。それから比べたら今は幸せだと言えるな」
「本当に、人間の欲望は底無しだな」
「ハハハ、ティミーには隠せないか。そうだよ、それでも人々を喜ばせたいと思うんだよ。性分なんだなきっと」
ロイは水中で声が出せない代わりに魔力で言葉を送ってくる。ミシカは前足で湖の水面を触って表情を曇らせると、俺を見て先を促す。濡れたくないのは俺も同じだ。
俺は濡れないように全身を魔力で包み込むと、意を決して飛び込んだ。
「先に行ってるわ」
テレパシーよろしくミシカの声が頭に響いたあと、電子機器の電源が落とされるような音が聞こえた。
どうしても濡れるのが嫌だったらしく、空間を歪めて移動する事にしたようだ。
それもそのはず、ロイは水深1000メートルを越えたあたりに隠れ家を持っていた。
つまり到着まで1時間以上かかるってこと。その間ずっと濡れないように魔力を維持するのは、俺にとっちゃ容易い事だが、はっきりいって疲れる。
水深30メートルを過ぎた辺りから浮力が弱まり、重力に引かれるように沈んでいくので、ロイは死体のように脱力して身を任せていた。事実死体ではあるな。
「どうだい、綺麗な眺めだろう」
ロイはクルクルと回りながら沈み、水分子が波長の長い光である赤色の光を吸収して深い青へと変貌していく景色を楽しみ始めた。
確かに美しい。無数の発光生物が宇宙の流星群のようにきらめき、静けさが体内の魔力音を響かせ、地獄の奏でる音楽を感じさせる。
「ああ、ロイ。これは素晴らしいな」
「だろう。とはいえ油断するなよ、狂暴な魚もいるからな」
言われてみれば鋭い牙をしたガラの悪そうな魚が白く濁った目で獲物を探しながら回遊しているのが見えた。
臭そうな口内には喰われた魚の残骸らしき肉片がひっかかっている。さすがに「お弁当付いてるぞ」なんて言いながら取ってやる気にはなれない。
しばらくの間、時を忘れて深海魚の気持ちを体感していたが、俺としたことが単純な間違いをしていたことに気付いた。
「おっと、猫の姿で潜る意味など無かった」
すぐに猫からカメに変身する。どうりで泳ぎにくいわけだ。俺は魔力の膜を破らないように注意しながら数秒で黒くて太い亀頭と立派な甲羅を作り上げた。
海底山岳の麓にポッカリと暗い穴が開いていて、俺が亀頭を中に入れて覗くと、そこにはドーム型の空洞と、ロイの隠れ家があった。
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