第六章 人から出るもの



 人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。

(新約聖書・マルコの福音書七章より)



第六章 人から出るもの



 翌日になっても、「いずも」に出撃命令は下らなかった。

 一触即発の状況下において空母機動部隊の出撃は宣戦布告に等しく、政府としても慎重にならざるを得ない。

 一方の中国政府も、昨夜の苦し紛れの声明以降、表立った動きは見られず、こちらも現場の暴走で非常に苦り切っていることが窺えた。

 大恐慌の影が忍び寄る中、本音では両国ともに予算を戦費に割く余裕などなく、できることであれば偶発的な事故として済ませて事態を拡大させたくない、そんな思惑が見て取れた。

 だから防衛出動待機命令下であっても基地から出ることができない以外は「いずも」航空隊もいつもと変わらぬ日常を送っていた。

 戦闘訓練を終えて基地に帰投した夕陽はグランドクルーの誘導に従ってエプロンに愛機を駐めると、キャノピーを開けてヘルメットを脱いだ。

 汗をかいた素肌に晩秋の冷気が心地よい。

 周りを見回すと既に自分の機を含め、十機のライトニングが並んでいた。どうやら自分が最後だったようだ。空自の戦闘飛行隊Squadron(定数二十二機)と比べると半数弱の小所帯。海自独自のファイターパイロット育成が追いつかず、また、就役間近の「いずも」級二番艦「かが」の航空隊編成が急務かつ優先であることから、機体・パイロットともに予備などない。

「いずも」航空隊は夕陽の所属する戦闘飛行隊の他、SH60Kシーホークのヘリ八機から成る対潜哨戒飛行隊、V22Jオスプレイ二機を擁する輸送飛行隊の三個飛行隊で構成されている。米国の空母や強襲揚陸艦と較べれば見劣りするものの、あくまで空自と連携しての島嶼防衛を念頭に置いており、海外での単独作戦行動を想定していない日本においては充分な陣容と言えた。

「夕陽さん、お帰りなさい。機体の調子はどうでした?」

 ひょっこり顔を出したのは整備員の谷口美鈴たにぐちみすず海士長。夕陽の愛機の機付長で、まだ若いが腕もよく、同性の夕陽を何かと慕ってくれる妹分のような存在だ。

「いつもありがとう、美鈴ちゃん。バッチリだったよ」

「本当ですか? よかった~」

 美鈴はホッとした表情を浮かべると胸に手を当てた。

 小所帯の「いずも」航空隊では空自と異なり、機付長だけでなくパイロットも機体に固定されているので自然と仲良くなる。航海の時は艦内恋愛禁止のため、敏生といるよりも女性居住区画で美鈴とおしゃべりして過ごしている方が長かったりするくらいだ。

 そして、敏生と同じく前所属が小松基地の彼女は二人にとってのキューピッドでもあった。もっとも出会いたての頃に、単に敏生が美鈴を使って一方的に夕陽のことを根掘り葉掘り聞き出していただけなのだが。

「こんな時だからこそ何かあってはマズイんで。ちょっとした事でもいいんで遠慮なく言ってくださいね」

「了解」

 夕陽がウィンクすると、美鈴はニッコリ微笑んで、飛行後点検のためタラップを降りていった。敏生以外には無愛想がデフォルトの夕陽と異なり、天真爛漫で分け隔てのない彼女は「いずも」クルー達のアイドル的存在だ。

 こんなときぐらい、自分もあんな笑顔を振りまければ、と思う。

 そうすれば敏生だってもっと癒してあげることができるのに……。

 夕陽は溜め息をつくと、コクピットを跨ぎタラップを降りた。

「お疲れ」

「敏生……」

 未だショックから立ち直れていないはずの彼が、いつものように自分を待っていてくれたことに驚く。敏生がかざした右手に遠慮がちにハイタッチすると、並んで歩き出した。

 涙が枯れるまで隊舎の裏で二人抱き合っていたのは十時間ほど前のこと。お互いすぐに立ち直れるわけもなかったが、日はまた昇り、二人に容赦なく日常を強要する。

 こんな時だからこそ彼と手を繋ぎたい、キスをしたい、一日中素肌を重ねていたい。

 だが、待機命令下の基地内宿舎では望むべくもない。いや、家族を家に置いてきた隊員達に比べたら、少なくとも愛しい人の傍にはいられるのだ。聞けば、事態勃発の三時間後には横須賀と呉からそれぞれ数隻の潜水艦が尖閣諸島に向け極秘裏に出撃したという。家族に真相を告げることもできずに緊張の海に向かった彼らのことを思えば贅沢など言っていられないだろう。

「腹、減ったな」

「だね」

 二人とも昨日の夜から何も食べていない。さすがに夜と朝を抜いての訓練はお互い身体にこたえた。

「腹が減ってはいくさは……あ、ごめんなさい」

 口を滑らせ、慌ててヘルメットを持っていない右手で口を塞ぐ。

 そんなに戦争がしたいのか!? と、敏生に怒鳴られたのは昨夜のこと。己の迂闊さにシュンとなるも、すかさず彼の手が頭の上に乗った。

「そうだな。ディブリーフィングが終わったら速攻メシいくか」

 敏生が柔らかく微笑む。全てを振り切ろうとするその表情に、夕陽は素直に甘えることにした。

「うんっ、今日の定食は確か鯖の味噌煮と敏生の大好きな肉じゃがだよっ」

「マジで? うーん、俺的に鯖はちょっと……。肉じゃがは夕陽のお手製が一番だし」

「おっと? ここでおだてても何も出ませんよ? 先生」

「なら力づくで引き出すまでですよ、姫」

 笑いながらくしゃっと頭をかき回す敏生の手がとても温かい。

 あたし、敏生から色んなものもらってばかりだな……。

 夕陽はヘルメットを抱き締めて涙ぐみそうになるのをグッとこらえると、精一杯の笑顔を彼に返した。


           *


 ディブリーフィングが終わり、いつもより早めの時間に昼食に向かうと幹部食堂はごった返していて、二人は何とか空いている席を見つけると向かい合って腰を下ろした。

 お互い昨日の出来事には触れぬよう、意識的に他愛もない話題を交わしながら箸を進める。

 周りの隊員達もどことなく空々しさを感じるのは、やはり同じような気持ちからだろう。

 現実逃避ゆえの甘い会話を織り交ぜながら、二人とも努めて明るく振る舞う。やがて食事も終わり、お茶を飲みながらの会話にぎこちなさも消えかけた時だった。

 突然、敏生の視線が宙で止まり、その表情が凍りついた。彼の変化に気づいた夕陽が、その視線の方向を慌てて振り向くと、食堂備え付けのテレビ画面に見知った顔が大きく映し出されていた。

 そんな、まさか……。

「深山……」

 敏生が呆然と呟く。それは昨日から夜通し続いている民放の報道番組で、今回の犠牲者の一人である若葉にスポットを当てる内容だった。

 やがて画面が切り替わり、女性防衛大臣の会見の様子が映し出される。涙ながらに記者たちに若葉の最期の様子を語る防衛大臣。彼女の最期に立ち会った「てるづき」のクルーの報告書に感極まった様子で、その一部始終を克明に語っている。

 会見の場面が終わると、「哀しみのアダージョ」をBGMに、今度は再び若葉の写真や生前の動画が流され、どこで探ってきたのかその生い立ちから果ては和馬との馴れ初めまでが次々と白日の下に曝け出されていった。

 ダァンッ!!!

 突如、食堂に大きく響き渡る殴打音。夕陽がびっくりして振り返ると、敏生が立ち上がってテーブルに拳を突き立て、唇を噛み締めてテレビ画面を睨み付けていた。

「お前ら……お前らふざけんなよ……」

 温厚な敏生の、昨夜以上に怒りに満ちた鬼のような形相。そんな彼を夕陽はただ、息を呑んで見つめているしかなかった。


           *


 鎮静化を図ろうとする両国政府の思惑をよそに、事態の二日後には日中双方において世論が沸騰し始めた。

 中国では銀行の破綻に端を発した裕福層への反発デモがいつしか反日デモにすり替わり、日本の護衛艦を沈めたことに気をよくした民衆が、不満のはけ口を求めるように尖閣諸島奪還を叫んで日系の工場やデパートを襲い始めたのだ。

 そして、今回の事態について世界中の国々から寄せられた中国に対する非難声明が、尖閣を自分達の固有の領土と信じて疑わない民衆の怒りに油を注ぐ結果となり、さらにその反日の世論が激しさを増していく。

 一方の日本でも当初こそ戸惑いが見られたものの、護衛艦の乗組員達の悲劇的な最期や、中国で激化する反日暴動がマスコミの手でニュースショーとしてクローズアップされ始めると、その理不尽さから一気に反中感情が爆発し、中国討つべしの世論が湧き上がった。

 そんな中、反中の御旗みはたにされたのが若葉だった。迂闊な女性防衛大臣によって世間の目に曝されてしまった敏生の可愛い後輩。最後まで恋人の無事を気にかけ、息を引き取った女性士官の切ない物語をマスコミや大衆が放って置くはずがない。

 彼女の最期に立ち会った「てるづき」のクルー達は頑なに口を閉ざしたが、それが却って今回の悲劇の深さを想像させ、若葉の端正なルックスも相まって、一躍彼女は悲劇のヒロインに祭り上げられたのだ。

 敏生は荒れた。

 親友と後輩の二人が大切に温め育んできた恋が、マスコミによって面白おかしく興味本位に曝け出されていく。それもあろうことか憎しみを煽るスパイスとして。

「うおおおおおおおおおおおおおッ!!」

 もう限界だった。必死になって保ってきた自我が決壊する。怒りに任せてゴミ箱を蹴り上げ、机の上の書類をぶちまけて真っ赤な顔で喚き散らす。

「何してるのやめて敏生っ!! やめてよおおおおおっ!!」

 錯乱した敏生を止めようと夕陽がその胸にしがみつく。だが、もはやわけが分からなくなっている彼に強い力で引き剥がされると、突き飛ばされた。

「きゃああっ!!」

 悲鳴を上げて尻餅をつく夕陽。

「おいっ!? 何やってんだ門真止めろ!!」

 騒ぎを聞いて駆け付けた仲間のパイロット達が敏生を止めにかかった。数人がかりであっという間に羽交い締めにされ、床に押し付けられる。

「あああああああああああああああっ」

 拘束を振りほどこうと雄叫びを上げ、必死にもがく彼。ここまで取り乱した敏生を見たことがなかった夕陽は目の前で起こっていることが信じられなかった。

 どうしちゃったの敏生? どうしちゃったのよぉ……。

 夕陽はもう、どうやって彼を慰めてあげたらよいのかも分からなくなり、床に力なくへたり込んだまま黙って涙を流すしかなかった。


           *


 事態から三日後には、東京・元麻布にある中国大使館を取り囲んでの数万人規模の反中デモが行われた。これまでの日本ではあまり見られなかった光景。

 かつて韓国政府と結託して韓流ブームを先導した放送局が市民の反感を買って大規模デモのターゲットになり、それがきっかけで韓流ブームが急速に終焉したことがあったが、その時と違うのは、マスコミ各社が煽るようにこぞってこの反中デモを取り上げたことだ。

 これが契機となって、全国各地で大規模な反中運動が繰り広げられ始めた。誰もが自分達の主観に基づいて中国の理不尽さ、横暴さを糾弾し、顔を真っ赤にして許すまじと叫ぶ。

 そんな中、反中運動は意外なところにも飛び火する。

 防衛出動待機命令を出したきり、全く動こうとしない政府に業を煮やした市民達が横須賀基地や厚木基地を始めとする自衛隊の主要基地を取り囲み、〝尖閣を守れ!〟と部隊の出動を訴え始めたのだ。

 忍び寄る不況の影に怯え、不満のはけ口を求めていたのは何も中国の民衆だけではなかった。

 基地のフェンス越しに繰り広げられる憎悪の叫び。

 その様子を夕陽はただ、呆然と立ち尽くして眺めていた。荒れに荒れ、落ち込む敏生を見ているのがあまりにも辛くて、無意識だったとはいえ彼に突き飛ばされたことがあまりにもショックで、つい一人で逃げ出してしまった休憩時間。

 だからこれは彼を見捨てた罰なのかもしれない。

 もちろん、これまでにもフェンス越しのデモは千歳時代から何度も目にしたことがある。

 自衛隊は違憲だというものや、夜間離着陸訓練の差し止めといった、どちらかと言うとその手のデモを職業とする市民達による小規模なものばかりだった。

だが今回は違う。

 大勢の、どう見ても普通の市民達が基地を取り囲み〝中国を許すな!〟と真剣な表情で叫んでいる。

 これが……敏生の言う憎しみの連鎖なの……?

〝どこかで断ち切らないと、憎しみの連鎖は際限なく続き、それは破滅へと繋がる〟

 敏生が事態勃発の夜に夕陽をたしなめた言葉。あの時、敏生が引き戻してくれなかったら彼ら同様、間違いなく自分もこの醜いまでの憎悪の渦に巻き込まれていたはずだ。

 一部の反政府系マスコミでは国民達に冷静な態度を取るように呼びかけていたものの、日頃より売国的な捏造報道に終始し、反対のための反対しか唱えてこなかった彼らの言に耳を傾ける国民など、この状況下では今や誰一人としていなかった。

 許すなって……、あなた達は何がしたいの……? あたし達に何をさせたいの……?

 声高に叫ぶその誰もが自分達の正義を微塵も疑っていない様子で、夕陽は目眩を覚えた。

 心臓がドクンと跳ねる。

 彼らは分かっているのだろうか? その言葉の意味を。

 分かっているのだろうか? 自分達が何をさせようとしているのかを。何を求めているのかを。

〝世界で最も危険な動物〟

 それはライオンでもなくクマでもなく、ニューヨークのブロンクス動物園で見ることができる。

 檻の中の、鏡に映る醜い己の姿を!!

 ユルスナ、コロセ、コロセ、コロセ、コロセ、コロセ、ヤツラヲコロセ

 悪魔とは人間だったのか。

 弱い人間達の心を、ものすごい速さで蝕んでいく憎悪の炎。その悪魔達の叫び声が夕陽の脳を穿うがつ。

 いやだ……。やめて……、怖い……怖い……怖いよぉ……。

 震えが止まらない。凍った背筋。ガチガチと歯が鳴り、必死に両腕で自らの身体を抱きしめる。

「夕陽!!」

 大声と共にグイッと腕を引っ張られ、夕陽は我に返った。

「こんなところで何やってんだバカ!!!」

 敏生だった。

 怒った様子の彼に引きずられ、デモからの死角になる格納庫ハンガーの裏に連れ込まれると、痛いくらいに強く抱き締められた。そして、まるで憎しみの残り香を夕陽の身体から振り払うかのように、敏生が背中や頭に手を這わせる。

 あたし……あたしまた敏生に助けられた……。

 若葉がマスコミに祭り上げられて以降、塞ぎがちになり、無理に笑顔を作ることすらしなくなった敏生。そんな彼を見ているのが辛くて逃げ出した卑怯な自分を、それでも敏生は心配して助けにきてくれたのだ。

 夕陽はもう何もかも自分が情けなく、許せなかった。

「ごめんなさい! ごめんなさいごめんなさいぃ……」

 声を上げて泣きじゃくり、彼の胸にしがみついて赦しを乞う。

「もう大丈夫だ。俺の方こそすまなかった」

 そう言って敏生は夕陽をさらに強く抱き締めた。そして、悪魔達のうめき声のする方向を見据えて睨みつける。

 お前らはそんなに俺達を戦争に行かせたいか。

 お前らはそんなに俺達に人殺しをさせたいか。

 だが覚えておけ正義の面を被った悪魔ども。もし俺が戦うとしたら、それはこいつを守るためだ!! 仲間達を守るためだ!! 誰がお前らのためになんか血を流すものか!!

 今、腕の中に確かに存在する、自分の生きる意味。俺はもう何があってもこの腕の中の温もりだけは決して失いやしない。

 危うく手離すところだった大切な宝物を二度と離すまいと心に誓った。血が滲むほどに唇を噛み締めながら。


           *


 民衆達の憎しみの連鎖により、後戻りできないところまで追い込まれてしまった日中両国の政府。

 事態発生から五日後、先に動いたのは中国だった。

 日本の偵察衛星が青島チンダオを出港する空母「遼寧リャオニン」と護衛の駆逐艦およびフリゲート艦六隻を、また、寧波ニンボーを出港する駆逐艦五隻を捉えた。中国三大艦隊のうち、北海艦隊と東海艦隊の二つの艦隊から稼働可能な主力艦を繰り出してきたことになる。停泊していた数隻の潜水艦もいなくなっているので、恐らくこの中に紛れているはずだ。

 中でも日本の防衛関係者を驚かせたのが、中国が虎の子の空母「遼寧」を出撃させたことだった。建造中止となった旧ソ連の空母「ヴァリャーグ」を買い上げて膨大な費用を注ぎ込み、独自に完成させた「遼寧」は中国海軍のシンボル的な存在。

 これまでも常にデリケートな扱いを受けていて、今回も失うことを極度に怖れて温存してくると考えていただけに、内政面で土壇場にまで追い詰められた共産党指導部が人民の目を外患対処で逸らそうとしていることが容易に想像できた。

 ここまで来ればもう話し合いの余地など残されておらず、中国が動いた以上、日本政府も動かざるを得ない。

 その翌朝、ついに戦後初めての防衛出動命令が下されることとなった。

 そして防衛出動命令から二時間後、「いずも」を旗艦とする横須賀第一護衛隊群の尖閣諸島への出撃が決定した。

 初冬を迎えたばかりの、穏やかな小春日和の日のことだった。

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